バスタイム
冷たい空気の中、温かいバスタブに脚を入れる。胸元まで湯につかると、ようやく体温が戻ってきた。身体中に温もりを行き渡らせるように、紅緒は湯船の中で伸びをする。大きな白いバスタブは、紅緒が脚を伸ばしても十分な奥行きがあった。
外はようやく太陽が顔を出して、少しずつ温度が上がってきたところだ。紅緒は暴風雨であまり寝つけず、いつもより早くに目が覚めた。冷たい空気で身体が冷え切っていたため、朝風呂で身体を温めることにしたのだった。昨晩の嵐のせいで、今朝は一段と寒かった。
湯につかっていると、ほどなく身体の内側がほてってくる。まだ湯につかって間もないのに、白くきめ細やかな肌がじんわりと紅潮していく。手入れを怠ることのない肌は瑞々しく水を弾き、頬から四肢へと、ゆるやかに紅が広がっていった。
紅緒はバスルームの窓辺に飾られたバスオイルの小瓶の中から、桜色のものを手に取った。蓋を開けてオイルを数滴湯船に垂らすと、花の香りが広がる。身体もほぐれるような、柔らかな香りだ。
香水瓶のように洒落た小瓶は数種類あって、紅緒は日ごとに種類を変えて楽しんでいた。昨晩の嵐で桜は散ってしまっただろうから、今日は気分だけでも花やぎたかった。
腕で軽く湯船をかき混ぜると、香りは一層広がった。湯船の蒸気と相まって、芳しいミストを浴びている気持ちになる。肌はさらに引き締まり、透明感を増すようだった。
花の香りに包まれながら、紅緒は右の手のひらを広げて、薬指に巻かれた白いガーゼを見つめた。水を含んで、ぴたりと指に張りついている。
バスタブの中で紅緒は、音羽清光のことを考えて
いた。
不思議な、つかみどころのない人だ。音羽家、といえば、けっこうな名家であるらしい。実際に見たことはないが、入学したばかりのころに新しい友人たちから話を聞いた。とても大きな屋敷で、庭も大変広いらしい。
しかし清光本人はそれを鼻にかけることもなく、朴訥とした人柄で、難関校である早瀬学院の中でも常に成績は上位だそうだ。
清光の噂を聞いた後に、入学式の日に手を貸してくれた男子生徒が清光だと知った。そしてちょうどいいなと思いながら、興味本位で近づいたのだった。
家柄も成績もよく、顔だって悪くない。性格もよいというのなら、とりたてて欠点もなさそうだ。自分を取り立ててくれる一人として、近づいておいて損はないだろうと。
紅緒の頬を、汗が一すじ流れる。まとめ上げた髪がほつれて、額にへばりついた。紅緒はのぼせやすく、長時間湯につかっていられなかった。
バスタブから出ると、ほてった身体に外気が心地よくあたる。紅緒はバスルーム内の大きな鏡に身体を映した。
髪留めを外すと、髪は乱れて胸元まではらりと広がった。髪の間から、白い首筋と、鎖骨が見える。そして髪では隠せない程の豊かなふくらみは、今なお大きくなりつつあった。引き締まったウエストは、腰回りに向かってゆるやかになっていく。男なら誰でも欲情するであろう、女としての要素を兼ね備えていた。
紅緒自身、同年代と比べ自らの肢体は優れていると自負していた。道を歩けば振返られるし、街を歩けば声をかけられる。容姿に関しては、他者から褒められた記憶しかない。
「何がダメなんだろ……」
鏡を見ながらため息をついてシャワーを浴びると、バスルームのドアを開けた。髪をかきあげて、バスタオルに身を包む。花の香りがバスルームの外へも広がった。
軽く身体の水分を拭きとると、髪をタオルでまとめる。化粧台のラックにある化粧水を肌へ染み込ませて、ふっくらとした頬をつまんだ。昨晩の睡眠不足で、少し肌が荒れている気がする。
そして花の香りが消えないうちに、今度は腕や脚にクリームを塗った。肌に沿ってマッサージをして、身体の巡りをよくする。風呂上りの日課だった。ほてった肌は滑らかになり、さらに潤いを得る。
紅緒に近づく男はみな、その見目と色香に惑わされた。
それなのになぜ、彼はあんなに冷静なのだろう。
今まで出会った人は男女問わずみな、紅緒のことを可愛いと言った。きれいだと言う人もいた。それだけではない。性格も、学業も、運動も、人並み以上の評価を得てきた。そしてその評価に見合うだけの努力を、紅緒はしてきたつもりだ。
より美しくなれるように、日々の手入れは怠らない。美容によさそうなことは、ひと通り試したといっても過言ではない。
体形が崩れないように食事制限やマッサージを欠かさず、かといって瘦せすぎないように適度にカロリーも摂取している。ひと月に一度は美容院へ行き、服装や持ち物にも常に気を遣う。
そして見た目だけの人間にならないように、人よりも勉強した。容姿がよくても成績が悪ければ、見下されると思ったからだ。人の悪口も口には出さなかった。自分の評価が下がると思ったからだ。他者が言われたら喜ぶであろうことを常に考え、計算して口に出した。
いつも誰かに褒められていた。褒められて悪い気がしなかったから、褒められるための努力は苦ではなかった。
クリームを塗り終えた紅緒は、濃紺のレース地の、真新しい下着を身に着けていく。お気に入りのバックレースのショーツに、すらりとした脚を通す。そしてリボンのついたブラジャーに、豊満な乳房をきれいに収めて、きれいに谷間のラインを整えた。ほてりの抜けた白い柔肌と濃紺のレースが、大人びた色っぽさを作り出した。
下着を着け終えたら、髪に巻いたタオルをとって濡れ髪をドライヤーで乾かす。毛先が軽くウェーブになるように、丁寧にブローをしていく。紅緒は柔らかな栗毛を乾かしながら、あの日、雨に濡れていた清光の猫っ毛を思い出した。
早瀬学院へ入学してから日も浅いが、清光との距離はずいぶん縮められたはずである。もともと女生徒との交流の少ない清光であるから、学院の中では紅緒が一番近しい女生徒になったことは間違いない。しかし、音羽清光は一向に響いている様子がない。
そもそも、入学式の日に紅緒が倒れているのを助けたことを、次に会った時には忘れていた。それどころか書道の時間に同じ机に座ったというのに、紅緒を気にする素振りが一切なかった。話しかければ返答するが、紅緒に対して何の感情も持っていないかのような、冷たい反応だった。
一般の女生徒にとっては、清光の対応はごく自然のものに映ったかもしれない。しかし誰からももてはやされる日常だった紅緒にとって、清光の対応は屈辱的だった。
「このままじゃ絶対に嫌……――!」
きれいに髪を乾かし終えると、紅緒はきゅっと唇を結んだ。我ながら完璧なのに、と鏡の中の自分を見ながら思う。昨日の清光を思い出し、紅緒はまた落ち込んだ。理由をつけて勉強を教えてもらうようこぎつけ、隣の席に座って袖に触れもしたけれど、清光からは好ましい反応を得られなかった。
そして何より、清光はごく自然に、紅緒の傷の手当てをした。なんの下心もなく、好意や悪意すらもなく。
紅緒は右手の薬指に巻かれた、白いガーゼを再び見つめる。本当は、傷はもうほとんど治っていたのだ。周囲の気を惹きたいがために、大げさに手当てをしていただけだった。しかし嵐に呼応するかのように、昨日はひどく傷んだ。
常であれば、自身の身体に傷がつくなど紅緒は耐えられなかった。痛みがぶり返したならば、昨日中に病院へ行っていただろう。たとえ小さなものであっても、傷痕が残るなどということはあってはならない。
しかし今は、もう少し傷が治らなければよいと、ちらりと思う。血が滲み、初めて清光から反応らしい反応を得られた時、痛みは嬉しさに消えていった。ガーゼは濡れて肌に張り付き、気持ちが悪い。しかし、そのガーゼを外すことが紅緒にはできなかった。
鏡の中には、いつもと変わらぬ紅緒が移っている。手入れの行き届いた髪に、白い肌。大きな瞳に、潤った唇。しなやかで美しい手足に、豊満な乳房。
ほんの気まぐれであったのに、清光のことばかり考えている自分が嫌になる。清光が思い通りにならないことに苛立ち、苛立ちを覚える自分に更に苛立った。それをかき消すように、両手で頬をぱちんと叩く。
「もうっ、こんなに可愛いのにっ!」




