庭園
カオルが目を開けると、全く知らない景色が広がっていた。一面、美しい庭である。霞がかかり、どれだけ広いのだかわからない。
目前ではしだれ柳が一本、風もないのにゆらゆらと揺れていた。
そしてその先に見えるのはいくつかの雪柳の株のようで、白い小花をたくさんつけている。こんもりと丸く刈られたツツジや、美しく整えられた松も随所に植えられているのが見えた。
地面は一面芝生で覆われていて、雑草一本生えていない。調和がとれていながらも、どこか無機質な完成度の庭だ。
カオルはまだ覚めやらぬ頭でぼんやりそれらを眺めていたが、少ししてから頭上からひらひらと花びらが舞うことに気がついた。見上げると、そこには大きなしだれ桜があった。カオルが目を開けた場所は、そのしだれ桜の根本だったのだ。
カオルの何倍も大きなその木は、たわわに花を垂らしていた。花の重みで崩れてしまいそうなほどのその木を、何本かの添え木がようやく支えている。あまりにも大きく、あまりにも美しい。
カオルは幹にもたれたまま、しばらくぼうっとその桜に見惚れた。空一面が桜色だ。
「きれい……――サクラがこれを見たら、何て言うかな」
カオルは見上げてその美しさに圧倒されていたが、少しして自らの背を包む何かがあることに気がついた。
「そっか。そうだったわ……」
それに気がついてようやく、カオルは昨晩の記憶を思い出した。サクラと喧嘩別れをして空へ飛び立った後、鈍色の塊とともに嵐を起したのだった。
嵐の中を駆け抜けているうちに、鈍色の獣はどんどん速くなっていった。いくらかカオルを気遣っていたのはわかったが、愉しさを抑えられなかったのだろう。一向に加速は止まず、その速さに耐え切れなくなったカオルは、たてがみを握りしめたまま気を失ってしまったのだ。
鈍色の塊は少し小さくなって、カオルを抱いて寝ていた。ちょうどカオルと同じくらいの大きさだ。毛を寝かせて、気持ちよさそうに丸まって寝ている。カオルが気を失っている間、この木の下でカオルを温め包んでくれていたのだろう。
カオルは寝ている塊の鼻先を、そっとなでた。触れた先から、鈍色の塊の体温が伝わってくるようだ。上等な羽毛布団よりも、優しくカオルを包んでくれている。
鈍色の塊を撫でるうち、ぼんやりとした頭がはっきりとしてきた。カオルは塊が起きてしまわないように、静かにその中から抜け出した。一体ここはどこなのだろう。
立ち上がって、あたりの景色を見回す。
木々や下草の緑と桜の色を白い霞がかき混ぜて、美しい色合いになっていた。耳をすませば、どこかで水の流れる音がする。ぽちゃりと、魚が跳ねるような音も聞こえた。どこかに池があるのかもしれない。
これほどまでに広大で整った庭を、カオルは知らなかった。音羽家の庭もとても広かったが、ここまで広大ではない。そしてこれほどまで細部に至って手入れをしていたわけではなかった。雑草もたくさん生えていたし、枯れ枝や蔦も見受けられた。
しかしこの庭園は、これだけの花木があるのに、枯れた花弁や葉が一輪一葉も落ちていない。先ほどカオルの頭上を舞ったように、美しい花びらが舞っているだけである。
どこを見渡しても同じで、萎れた花弁すら見られない。全ての草花が、今が盛りであるようだ。枯れる、という概念が、この庭にはないかのように。
また、この庭園には少しも生き物がいなかった。アリも、アブラムシも、蝶や蜂も、一匹もいない。これだけたくさんの植物があるのだから、そんなわけはないはずである。
しかし、この庭からは生き物の生気というものが感じられなかった。踏みしめている芝生の青さが、どこか不気味に感じた。
カオルはひとまず、池を探そうと思った。先ほど何やら音がしたため、鯉や亀がいるのだろうと考えたのだ。自分たち以外の生き物に出会って、どこか安心したかった。
「どっちに行けばいいんだろ……こんなに広くちゃ、わからないわ」
小さく呟いても、その声はすぐどこかに消えてしまう。あたりはしんとしていて、風も吹かない。立ち止まって耳をすませてみたが、今度は何も聞こえなかった。霞が立ち籠めているため、周囲に建物があるのかどうかもわからなかった。
カオルはしばらく庭園の中を歩き回ってはみたが、どこにも池は見当たらなかった。
とにかく美しい景色が広がるばかりで、桜や李、木蓮や水木、数えきれないほどの春の草木が植えられていた。どこにあるのか、沈丁花や花桃の香りも漂ってくる。酔ってしまいそうなほど、芳しく強い香りだ。
その強い香りにあてられたカオルは、この庭は延々と続くのではないかと感じた。どれほど歩き回っても、ひたすら春の景色が広がるばかりなのだ。
そしてカオルはとうとう諦めて、風に流れる桜の花びらを頼りに、しだれ桜のところへ戻ってきた。かなりの距離を歩いたつもりだったが、しだれ桜まではすぐにたどり着いた。まっすぐ歩いていたと思ったが、庭園を一周してしまったのだろうか。
しかしカオルが驚いたのは、そのことではなかった。先ほどは全く気がつかなかったが、しだれ桜のほど近くに、立派な御殿が建っていたのだ。寝殿造の荘厳な様式で、鉄でできているように黒々としている。カオルが見たことのある、どんな建物とも異なっていた。
「さっき、こんな建物はなかったのに……」
ここは一体何なのだろう。
カオルは訝しみながらも、しだれ桜の下で眠る塊を見て、笑みがこぼれた。塊に駆け寄って、その毛並みに顔を埋める。自分以外の生に触れて、カオルはようやく安堵した。
「ここは一体どこなのよ?」
昨晩とは違い乾いた柔らかな毛並みを、きつく抱きしめる。鈍色の塊はカオルが抱き着いたことで、ようやく目を覚ました。寝ぼけながらも、目を薄く開けてカオルを見る。
しかし、カオルが安堵したのも束の間だった。
何か、嫌な臭いが漂ってきたのだ。錆びたような、湿ったような、饐えたような、不快な臭いだった。先ほどまであたりを満たしていた花々の香りが、一瞬にしてかき消されてしまうほどの悪臭だ。
それは、どこからか現れた御殿から漂ってくる。
カオルは眉根を寄せて、御殿を振り返った。同時に鈍色の塊もその臭いに気がついて、一気に飛び起きる。毛並みが総毛だっている。
嫌な臭いが強くなるほどに、いつの間にか霞の濃さも増していた。御殿の中は真っ暗で、中がどうなっているのか一向にわからない。
カオルは不安になって、鈍色の塊にしがみついた。しかしその塊も怖気づいてぶるぶると震え、みるみるうちにまた子犬ほどの大きさへと戻ってしまった。そして逆に、カオルの胸へとしがみつく。
そのうちに臭いがあたりに充満して、御殿の中から簾が擦れる音がした。あれほど探しても見つからなかったのに、ぽちゃりぽちゃりと水の滴る音もする。鈍色の塊はそれを聞いて、びくりと身体を震わせた。
そして一瞬の静寂が庭園を包んだ時、暗闇の中から低く重厚な男の声がした。
「よく来たねー―……」




