桜の下の少女たち
――早瀬学院の入学式よりも、さらに前の日のことである。
天気のよい日が続いていたものの春の陽気にはまだ遠く、肌寒い日であった。その日も気持のよい快晴だったが、冷たい風が強く吹いていた。大きく吹いた風は、木々の枝を寒そうになでていく。
サクラは蔵の窓から、その様子を見ていた。一階にある洋風の椅子に座って、カオルを待ちぼうけていたのだ。窓ガラスが、風の衝撃でカタカタと鳴った。
その日、サクラは和装だった。振袖よりも袖の短い小振袖は、袴に合わせると動きやすくてよい。
臙脂色の矢絣の小振袖がサクラのお気に入りだった。紺色の袴と合わせると、明治時代の女学生のような出で立ちになる。短い髪の毛からのぞく白いうなじは、文明開化を表しているようだ。蔵の中には革のブーツもあったが、サクラは歩きにくくて苦手だったため、白い足袋に草履を合わせていた。
「カオル、何してるのかしら……」
いい加減に外を見ることにも飽きてしまって、サクラは階下からカオルに呼びかけた。
「ちょっとカオル、一体何してるの。相変わらず準備が遅いったらないんだから!」
「ねえだって、髪飾りが見つからないのよ! サクラも早くこっちへ来て手伝って!」
まるで自分が待たされているかのような物言いで、カオルはサクラを呼びつけた。
頬を膨らませながらサクラが二階へ行くと、カオルは鏡台についていた引き出しをひっくり返していて、畳の上にはたくさんの髪留めやかんざしが散らばっていた。
カオルはサクラと色違いで紫色の矢絣の着物に、揃いの紺袴を着ている。きれいに流れる黒髪は、紫紺とよく合っていた。
「どの髪飾りを探してるの?」
サクラはむくれながらも、カオルに問いかけた。
「この絣と同じような色合いの、大きなリボンよ。おかしいわ、ここにしまったと思ったのに……」
うーん、とカオルは考え込んだ。
散らばっているものたちは、どれも小ぶりのものばかりである。螺鈿の細かな髪留め、花や鳥のつまみ細工の髪飾り、ばち型の透かし彫りの入ったかんざしや、玉のついたかんざしもたくさんあった。べっこうのものや漆塗りのもの、つくりや素材もまちまちのものが、二十も三十も転がっている。
「カオルが最後につけてたの、いつだったかな」
サクラもカオルと同様に首をひねった。カオルはその様子を見て、ちょっと、とサクラを手招きした。
「ね、ここに座って」
「なあに? 思い出したの?」
カオルはサクラを鏡台の前に座らせると、取り出した櫛でサクラの髪を梳き始めた。
「サクラ、今日も梳いてないでしょう。すぐにわかる」
「嘘、そんなにぼさぼさでもなかったでしょ? どうしてわかったの?」
サクラは照れながらカオルに聞いた。サクラは髪を梳くのを面倒で、髪も短く目立たないだろうと、いつもさぼっていた。
「サクラのことなら、なんだってわかるわ」
カオルはそんなサクラにいつも気がつき、髪を梳いてやっていた。カオルが櫛を入れるたびに、サクラの髪はより艶めき、軽やかになった。
「ほら! こうしたほうが、ずっときれいよ」
カオルに言われると、たしかに髪を梳く前と後でだいぶ違うような気がした。鏡の中の自分を見て、サクラは満足そうに言った。
「さすがカオル! いつもきれいにしてくれる――……あ! わかった、思い出した!」
振り返ってカオルを見ながら、満面の笑みになった。
「きっとあの時よ。ほら、あの毬の柄の着物を着てた時……たしかあの時もカオルは、あのリボンを探してた」
「……あ! そうだ、たしかにあの日も見当たらなくって、棚をひっくり返して見つけたんだった!」
サクラに言われて、カオルもようやく思い出した。
「ふふ、あの日もこうやってカオルに梳いてもらったな。だから思い出せたの」
「変わらないね、私たちって」
カオルとサクラは、顔を見合せて笑った。
髪飾りは、サクラが思い出した通りの着物の間にはさまっていた。着物を脱いでしまった時に、ぽんと上にのせてしまったようだった。
髪飾りが見つかると、ようやく出かけられるとカオルは喜んだ。それはこっちのセリフだと、サクラも一緒になって喜ぶ。
カオルが髪を上半分だけまとめてリボンをつけると、こちらも女学生のようになった。
その女学生じみた出で立ちのせいだろうか。それとも、揃いの着物のせいだろうか。二人は異なる顔立ちであるのに、殊更よく似て見えた。
準備が整うと、少女たちは連れ立って蔵を出た。
「なんだか、緊張する」
「大丈夫だよ、清光が待っててくれてるんだもん」
この日、二人ははじめて音羽家から外へと、一歩踏み出した。
少女たちは長い時間を過ごしていたが、外の世界を知らなかった。音羽家の中で全てが事足り、満ち足りていたからだ。
音羽家の外――はじめて感じる外の空気はどこかうら寂しく、風はひどく冷たそうだった。
「――こんな時期に、本当に桜が咲いてるのかしら」
寒々しく吹く風を見て、カオルは不思議に思った。
「でも、清光がそう言ってたし……あの山の桜が満開で、とってもきれいだって」
「そうよね……まあたしかに、早咲きの桜だってたくさん種類があるもんね」
カンヒザクラ、カンザクラ、カワツザクラ……と、カオルは呪文のように言った。
「今まで清光が外でのお花見に誘ってくれたことなんてなかったし、きっと今年はよっぽどきれいなのよ。ああ、楽しみ!」
見知らぬ景色が広がる心細さを吹き飛ばすように、サクラも言った。
「本当に、サクラは桜が好きなんだから」
「だって、私の名前はサクラなんだもん――ねえ、でもなんで、清光は先に行っちゃったのかな? 一緒に行きたかったのに」
「ね、待っててくれてもよかったのに。桜の下で待ってる、なんて」
「なんだかいつもと、雰囲気が違ったし」
「きっとサクラが準備に時間がかかるから、待ちきれなかったのよ。いっつもそうだから」
「失礼ね、準備が遅いのはカオルでしょ!」
からころと軽口を交わしながら、二人は低山へと向かった。近くの河原にかかった橋を渡り、道なりにまっすぐ歩いていく。その山自体は音羽家からも見えたが、歩いてみると思っていたよりも距離があった。
「――桜は、どのあたりにあるんだろう」
「きっと、登ってすぐのところよ! だって私、もうたくさん歩けない」
普段ほとんど動かないサクラは、山に着いたところですでに疲れてしまっていた。
「サクラったら、だらしない。私は山頂だって大丈夫! わざわざ今日は履き慣れた草履にしたんだもん」
カオルは得意そうに脚を上げた。カオルは袴を着る時はブーツを合わせることが多かったが、今日はいつもより歩くだろうとこなれた草履を履いていた。
「カオルったら、元気すぎ。もう、早く桜を探そ……」
先ほどまでの元気はどこへやら、サクラは少し不機嫌になりながら言った。
「大丈夫よ、きっとすぐに見つかるわ」
サクラの様子をみて、カオルは元気づけるようなことを言った。実際は、桜がどこにあるのだか見当もつかない。
山へ入ると、太陽が茂る木々に遮られ、あたりはぼんやり暗くなった。まだ昼前であるのに、日の入り前のような暗さである。山道を歩く人影はなかった。しかし登山用の道はきれいに整備されていたため、二人は迷うことなくまっすぐ道を進むことができた。
「地図があれば、あとどれくらいかわかるのに!」
「まだ歩き始めたばっかりじゃない、全然傾斜だってないし」
サクラはしばらく歩くと、ぶつぶつと文句を言った。
「桜のためよ、サクラ……――あ、見て! もう少ししたら道が開けてる!」
ほどなくすると、カオルの言うように道が開けているのが見えた。その辺りだけ木々もなく、光が当たって明るくもあった。
「本当、ここだけ道が広くて分かれ道になってる。どっちだろう……」
「うーん……こっち……?」
そこで、道は二通りに分かれていた。道なりに行くのであれば、同じように整備された道が上へと続いていた。
しかし二人の左手にも、細い道があったのである。人が整備したものではなく、人が一人通れるほどの幅しかない、自然に踏み固められた道だった。
二つの道は蛇行していて、どちらも先が見えない。ここまでの道のりには地図がなかったため、どちらを行けば桜があるのかがわからない。
「あっ、見て!」
サクラは、細い道のほうを指差した。見ると地面に、小さな桜の花びらが数枚落ちている。細い道の先から、風に乗ってやってきたのだろう。
「あっちの道が正しいみたい」
風がさらさらと吹いて、また桜の花びらが舞った。目的地はもう間もなくのようである。
「早く行こ、カオル!」
二人は道幅が狭いため、縦になってその道を進んだ。少し歩くと道沿いに木々が少なくなって、荒々しい岩肌が露わになってきた。砕いたような、大きな巌も散見される。平坦な山のようで、登山道ができる前は岩場ばかりだったのかもしれない。
「さっきまでと、全然違う山みたい」
「そうね、草履が脱げないようにしなくちゃ」
整備されていない道は歩きづらかったが、先人たちの轍はまっすぐ続いていて、迷うことはなかった。
岩場を抜けると、辺りは再びうっそうとした森になった。足元には桜色がちらほらと見え、自然と二人の歩幅も早くなる。
しばらく歩くと、道がはじめて左に折れた。そしてそれに沿って曲がったところで、突然、二人の視界は一気に開けた。
「……――!」
細かった道幅は広くなっていて、あたりは開けていた。立派な桜が、道沿いに数え切れぬほど植えられている。美事な桜並木である。
これまでうっそうと茂っていた緑の木々はどこへ行ってしまったのか、一面桜色である。木々に遮られていたとはいえ、これほどの桜並木が、どうして今まで見えなかったのだろうか。突然現れたその美しい光景に、少女たちは息をのんだ。
桜はどれも満開で、木々は重そうに枝を広げている。樹齢はどれほどであろうか。どれも大ぶりで、立派なものである。
間隔が狭く植えられているのに、一本一本がどれも主役であるような、すばらしい咲きぶりだ。薄暗かった山中を照らすように、桜の花は冴えた色をしていた。
果てしなく続くかとも思われる桜並木の先には、社が建っていた。その社を守るように、両辺にもまた桜が植えられている。
遠く小さく見える社殿は桜たちによって妖しく光りを当てられ、ひどく威厳があるように見えた。この道は参道で、ここは神社の境内のようだ。社を中心に何本もの立派な桜木がひしめき合うさまは、たとえようのない美しさだった。
「すごく……すごくきれい」
「こんなところがあったなんて……――」
二人はあまりに美しい景色に、うまく言葉が出てこなかった。
ゆるやかな風が吹くと、薄く光を放っているような桜の花びらたちがさらさらと舞う。この場所だけ時が止まってしまっているような、神々しささえ感じさせる景色だった。
少女たちは無言のまま、桜に彩られた参道をゆっくりと歩いた。酔ってしまいそうなほど、吸い込まれてしまいそうなほどに、どれもこれも美しい。
「……清光、いないね」
「まだ着いてないのかな……」
桜並木に言葉を失っていた二人だったが、そこでようやくあたりに清光の姿が見当たらないことに気がついた。
「どうしよう……」
「とりあえず……進んでみよっか」
少女たちは時間をかけて桜を堪能しながら、社にたどり着いた。
社殿は木造でだいぶ褪せ、ずいぶん古くからあるようだった。しめ縄もかけられはいるが、おそらくあったであろう幣はもはや見当たらず、さらに年季を感じさせた。
「何を祀っているんだろう」
「だいぶ昔からあるみたい。清光なら知ってるんだろうけど……お参りして、待ってようか」
「何をお願いしよう? 何もお供えするものがないけど……」
「きっと許してくれるよ、神さまだもん!」
少女たちは並んで、一緒に手を合わせた。
「サクラは、何てお願いしたの?」
「カオルは何てお願いしたのよ?」
二人は目を合わせて、いたずらっぽく笑った。
「「清光と、これからも一緒にいられますように――」」
「……やっぱり、一緒だったね」
サクラは眉尻を下げて、少し悲しそうに笑った。二人とも、思うところは一緒である。
「ね……――でもサクラ、私のことはお願いしてくれなかったの? 清光のことだけ?」
暗くなってしまいそうな雰囲気をごまかそうと、カオルは茶化していった。
「カオルのことなんか、願ったりしない。だって……――だって願うまでもなく、私たちはこれからもずっと一緒だもん」
そうだよね? と、サクラはいたずらっぽい目でカオルを見る。サクラの潤んだ瞳が、カオルはとても愛しくなった。
「私も、サクラのことは願わなかったの。サクラは、ずっと一緒にいてくれるでしょ?」
カオルがにこりとほほえむと、サクラもまたほほえんだ。
「あはは、サクラったら、髪の毛に花びらがついてる」
カオルは笑いながら、サクラの髪についた桜の花びらをとった。
「やっぱりサクラは桜に好かれるのかな?」
「私だって、サクラに好かれてる」
カオルは花びらを風に飛ばしながら、笑って言った。
「ちょっとカオル、どっちの意味で言っているのかわからない」
二人は桜の中で笑い合い、社殿の下から桜を眺めて清光を待った。
しかし――いくら待っても、清光は現れなかった。
この日以降、二人は清光と会っていない。




