雲の上の少女
カオルは鈍色の塊の背に乗って、暗雲の中を疾走していた。雲の中の雷が時折パリパリと音を立てて弾けたが、その音は不思議とカオルの心を躍らせた。
そして鈍色の塊が大層速く駆けるために生まれる強い向かい風は、ひたすら心地よかった。それはカオルの長い髪をたなびかせ、頬に流れる涙を霧散させる。
どれくらい時間が経ったのだろう。眼前に見えるものは、ただただ暗雲ばかりである。目を閉じれば、瞳にたまった涙が後ろへ流れていった。そして同時に、残してきてしまったサクラの泣き顔が浮かぶ。
カオルは、鈍色のたてがみをぎゅっと握って問いかけた。
「ねえ、どこまで行くの?」
塊は聞こえているのかいないのか、相変わらず雲の中を夢中で駆けている。子犬から獅子ほどの大きさになっていた塊は、更に一回り膨らんでいた。雲も雨も雷も、全てが鈍色の塊の支配下にあるようだ。
今もだんだんと大きくなっているようで、駆ける速さも増していく。塊を中心にして、一際大きな暗雲がとぐろを巻き始めた。速く駆ければ駆けるほど、強く激しい風が生まれた。駆けながらぶるりと身体を震わせれば、体毛から飛び散った雫が大きな雨粒となって、雲の下へと落ちていく。
その様子を見て、カオルの胸を不安がよぎる。塊が速度を緩める気配はない。一体どこまで行くのだろう。この悪天候が続けば、空の下の被害も少なくはないのではないか。
「ねえ、君ってば……!」
カオルは振り落とされないように必死でたてがみを握りながら、鈍色の塊に呼びかける。
しかし周囲の風雨の音が強まっているせいか、塊は一向にカオルの声に反応しない。はしゃいでいるかのように、とても楽しそうに雲の中を跳びまわり始めた。
「どうしよう……――怖いよ、サクラ――」
たてがみを握りながら、カオルは呟いた。これから自分がどうなってしまうのかわからなかった。
――あんな風に言うつもりはなかったのに。
サクラのことを思うと、胸が苦しくなった。けれどサクラが楽しそうにシンの話をしていたことを思い出すと、胸がざわめく。
――どうしてこんなことになっちゃたんだろう。サクラがいて、清光がいて、それだけでよかったのに……二人とも、いなくなっちゃった。
その時、カオルの側で大きな雷が生まれ、鋭い音を立てて地面へと落ちていった。
「きゃっ!」
空気を切り裂くかのような轟音に驚いて、カオルは咄嗟にたてがみから両手を放して耳をふさいだ。支えを失ったカオルの身体は風にあおられて、鈍色の塊の背から落ちて空へ浮き上がる。
――サクラは大丈夫かな。こんな大きな雷、きっと怖がってる。
ふわりと空へ跳ねながら、カオルはまたサクラのことを考えた。カオルの長い髪が雲の中の水蒸気を含んで、しっとりと広がる。空の下へ落ちていきながら、カオルは思った。
――違う。サクラにはシンがいるんだった。一人じゃないんだ。私だけが、一人。
――サクラなんて、大嫌い……。
そう思うと、またカオルの頬に涙が溢れた。落ちていくカオルから、涙がきらきらと流れ出て、雲の中へ散らばっていく。
その涙の輝きを見て、鈍色の塊はようやくカオルが背に乗っていないことに気がついた。慌てて跳ね回るのを止めて、落ちていくカオルを背で受け止める。重力のなすがままになっていたカオルは、ぽすりと鈍色の毛並みに収まった。
「君、ようやく気がついたの――」
カオルは涙を光らせながら起き上がった。塊は済まなく思っているのか、心なしか縮こまっている。
「よっぽど楽しかったの? いいよ、私も君に付き合うから」
カオルは柔らかい額をなでながら、優しく言った。
鈍色の塊はそれを聞いて、嬉しそうに尻尾を振る。そしてカオルが再びたてがみを握ったことを確認すると、鼻を鳴らしながら勢い良く駆けだした。
――サクラなんて、大嫌い。清光も、シンも、清光と喋っていたあの女の子も、今まで私を忘れていってしまったみんなも、みんなみんな大嫌い!
そう思えば思う程、何故だか心が軽くなった。先ほどよりも雲は更に黒く、厚くなった。もはや風雨の勢いはとどまることを知らない。後から後から雷が生まれていく。
――最初からこうすればよかったんだわ。
何を思い遣ることもなく、ただ鈍色の背に乗って暗雲の中を疾走する。
――気持ちいい。
風雨や雷と、一体化したかのようだった。
「もっともっと風を起こして、もっともっと雨を降らせて。それで、たくさんの雷を落とそう」
そうすればする程に、心の中にあった得体の知れない感情がなくなっていく気がした。
もはやカオルの瞳に涙はなく、その愛らしい唇に笑みを浮かべていた。




