バス停の二人
清光と紅緒が帰る頃、雨は強さを増していた。
「ごめんね、音羽くん。帰りが遅くなっちゃって。こんなに土砂降りになるなんて……」
紅緒は清光に詫びる。勉強を見てもらっている間に、雨は本降りになってしまった。
「いや、大丈夫だよ。傘はある?」
黒い折りたたみの傘を出しながら紅緒を見ると、紅緒もちょうど鞄から傘を出していた。
「あ、うん! ありがとう。音羽くんも、持っててよかった」
ぱん、と音を立てて、薄桃色の傘を開く。
下駄箱を出ると、冷たい雨が勢いよく傘に当たった。さすがに校庭に生徒の影はなかったが、体育館からは部活動のかけ声が聞こえた。雨音に負けず、吹奏楽の音も聞こえる。
「運動部の子たちは大変だね。雨の日は、屋内で練習しているのかな?」
「さあ、どうなんだろう。この時間まで学校にいることがないから、考えたこともなかった」
「あっ、そうなんだね。音羽くん、忙しいんだ。今日は用事とか大丈夫だった?」
紅緒は傘をくるくる回しながら、清光のほうを見た。
「特にすることもないから、すぐ帰ってるだけだよ。用事があるわけじゃない。たまに尾々を待ちながら、図書室で時間を潰すことはあるけど」
「尾々くんて、美術部の子だよね」
紅緒はにこにこしながら、雨を楽しんでいるようだ。あっという間に革靴に雨が染み込んで靴下まで濡れてしまっているが、変わらず傘をくるくる回している。
「そう。知ってるんだ」
「うん、音羽くんと仲がいいよね。一緒にいるの、よく見かけるから。美術部にも見学しに行ってみようかなあ」
「尾々、喜ぶと思うよ」
そうかなあ、と紅緒は嬉しそうに言った。
「みんな、どんどん部活を決めていくから焦っちゃう。体験入部とかもしたいんだけど、なかなか指が治らないから行きづらくって」
傘を回しながら、右の薬指を動かした。今日も白いガーゼが巻かれている。
「傷、まだ良くならないの?」
「まだちょっとだけ血が出て……」
紅緒は、そっとガーゼの上をなでた。
そしてその時傘を持つ手が緩んだせいか、傘をかいくぐった横殴りの雨が、紅緒に向かって吹き込んだ。冷たい雫が、紅緒の頬や胸、そして手指にかかる。
「……っ」
その雨は、薬指の傷口にも染み込んだ。ガーゼを濡らすとともに、じわりと赤い血がにじんでくる。
「大丈夫?」
紅緒の様子に気がついて、清光はその指先に目を止めた。
「ごめんね。この雨のせいかな? また傷口が開いちゃったみたい」
じわじわと、ガーゼは赤く染まっていた。風雨の中清光は足をとめて、眉根を寄せた。
「替えのガーゼは持ってる?」
「あ、うん。鞄に入ってるけど……」
「そしたら、バス停で替えよう。そこまで送る。傘は持てる?」
いつになく気遣う清光を意外に思いながら、紅緒は指をかばう素振りを見せた。
「……ありがとう。片手だと持ちづらくって……傘に入れてくれたら助かるかな」
紅緒が左手で支えながら肩にかけた傘は、風雨の中頼りなくきしんでいた。
「わかった」
清光はすぐに自分の傘を畳み、鞄の中へ入れた。雨粒が清光の髪や肩にかかり、黒い染みを作っていく。
清光は紅緒の傘をさっと取って、紅緒にさしかけた。薄桃色の折りたたみ傘は小さく、紅緒一人を雨から隠すだけで精一杯である。
「行こう」
自らにかかる土砂降りの雨を気にせず、何事もなかったかのように進もうとする清光に対し、紅緒は焦って左手で傘をつかんだ。清光も傘に入るように、清光のほうへと傘を少し傾ける。
「待って待って、これじゃ音羽くんが濡れちゃう! 音羽くんの傘の方が大きいし、そっちで行こ?」
清光に傾いた分、紅緒の肩にも雨がかかった。
「平気だよ、もう傘しまっちゃったし。早く行こう」
戸惑う紅緒を無視して傘を握り直すと、清光は紅緒を促した。紅緒の使うバス停までは五分とかからないが、清光の帰り道とは道が違う。
「本当、ごめんね。音羽くん……」
紅緒は諦めて清光に歩を合わせたが、すでにずぶ濡れになっている清光を見ると済まなそうに言った。
「高寺さんは、よく謝るね」
「えっ?」
「それから、よく相手の名前を呼ぶ」
「そ、そうかな……? 自分では気がつかなかった」
紅緒は頬を染めながら、また謝りそうになるのを止めた。
バス停に着くころには、清光は全身が雨に濡れ、鞄もぐっしょりとしていた。それを見て紅緒は呟いた。
「鞄の中身、何ともないといいんだけど……」
紅緒自身も、髪や制服が少なからず濡れてしまっている。
「まあ、別に大したものが入ってるわけじゃないから。ガーゼは無事?」
「あっ、えっと……」
二人は屋根のついた待合所に入って、紅緒は椅子に座りながら鞄を置いて中身を確認した。
ひどい風雨のためか、下校時間がずれているためか、待合所には誰もいなかった。清光は傘を閉じると、次いで詰襟を脱いでばさばさと振り雨粒を飛ばした。
「うん、大丈夫! 私の方は鞄の中身も大丈夫そう」
「良かった。傷はどう?」
鞄と詰襟を小脇に抱えて、清光は紅緒の方へ問いかけた。清光の濡れた髪とワイシャツ姿を見て、紅緒はぱっと目を反らした。
「あ、うん。全然平気! 家に帰ってからでも平気なくらいなんだけど……」
そう言いながらガーゼを剥がすが、言ったそばから、ぽたりと血が垂れた。紅緒の白く細い薬指には、今もなお赤い線が入っていた。じわりと血が溢れて、また一粒アスファルトの地面へと落ちた。
「まだ血が出てる」
「なんでだろう。血を見たら、急に痛くなってきちゃった」
泣き笑いのような顔を浮かべて、紅緒は上目に清光を見た。
「ガーゼとティッシュ、貸して」
紅緒が黙って鞄の中からそれらを渡すと、清光は手際よく手当てをした。雨に濡れて冷たくなった清光の手指が触れ、それが紅緒には心地よく感じた。
時折清光の髪から雨粒がしたたり、アスファルトを濡らしていく。今しがた落ちた紅緒の血も、雨粒にかき消されて見えなくなってしまった。
手当てが終わってガーゼが巻かれると、今度は血が止まったように見える。
「すごい。痛みもなくなった気がする! 音羽くんは、手当も上手なんだね」
手を開いたり閉じたりしながら、紅緒は笑った。
「雨に濡らして、また傷口が開かないようにして。あとこれ、ありがとう」
清光の手には、きれいに畳まれた薄桃色の傘があった。
「じゃあ、これで」
紅緒が傘を受け取ると、清光はまだ乾ききっていない詰襟を羽織って、待合所から足を踏み出した。
いつの間に鞄から出したのか、ばさっと黒い折りたたみ傘を広げ、すたすたと去っていく。
「えっ、あ、待って音羽くん!」
あまりにもあっさり帰ろうとする清光に、慌てて紅緒は声をかけた。しかし、何を言ったらいいのか言葉が浮かばない。
さらにちょうどその時、雨をライトで照らしながらバスが停留所に到着した。
「あの、ありがとう!」
歩を止めない清光の後ろ姿に、紅緒はなんとか一言投げかけた。




