雨の下の少女たち
菜種梅雨の名の通り、菜の花の上を分厚い雨雲が覆っていた。あたり一面は薄暗く、嫌な湿気が充満している。菜の花たちはこのところの長雨で散ってしまったものが多いが、それでもまだ川沿いには黄色が目立っていた。
「また今日も雨なのね」
空を見上げて、カオルは呟いた。今日も膝の上には、鈍色の塊が乗っている。カオルはそれを優しくなでながら、胸元まで抱き上げた。
「雨は好きだけど、困るわ。早く本を読まないといけないのに」
塊を抱きしめて、カオルはサクラを思った。シンから受け取った本を読む気がないわけではなかったが、遅々として進んではいない。サクラと約束した手前、天気が良くなれば読まざるを得なくなる。だからこの長雨はじれったいような、有難いような、複雑な気持ちにさせた。
塊はされるがままになっていたが、カオルの髪の毛が鼻先をくすぐったようで、もぞもぞと腕の中で動いた。
「ごめんね、苦しかった?」
カオルは腕を緩めて抱きかかえると、空の方へ高く持ちあげた。塊は両手足を動かして、空を泳いでいるような恰好になった。
「君は、空とおんなじ色をしてるね。いつも空から来るのかしら?」
その鈍色の毛色は、よどんだ空の色とよく似ていた。鼻先に混じる黒い毛も、暗雲の濃淡に合わせたようだ。褒められたと思ったのか、鈍色の塊は嬉しそうに尾を振った。
「可愛い」
カオルは目を細めて塊を下ろすと、また膝の上へ乗せた。風が吹き始め、カオルの髪を揺らし始める。ひどく湿度が高いというのに、艶々と風になびいている。
「……カオル」
その時ふと、後ろから声がした。
「サクラ?」
カオルは振り向こうとしたが、サクラはカオルの背中にもたれかかってきた。二人は背中合わせになる。
「……――――」
サクラはもたれかかったまま、何も言わない。サクラの柔らかい髪が、ふわりと風に揺れる。カオルのしっとりとした艶髪と異なり、サクラの髪はふわふわと軽やかだ。
「今日も天気が悪くて、読めなかったの」
「……うん」
サクラの返事は小さい。
「近頃、ちっとも晴れてくれないわね」
「……うん」
言葉少ななサクラの様子から、カオルはサクラが何を考えているのかを察し取った。
「――ねえサクラ、もういいじゃない」
カオルの言葉は、どこか冷たい含みがあった。
「……どういう意味?」
「出かけなくったっていいじゃない。図書室へも、もう行くべきじゃないわ。もう、会うべきじゃない」
「――シンのことを言ってるの?」
「そうよ」
いつものカオルの言い方とは違っていて、サクラは少し困惑した。
「急に、何を言い出すのカオル」
「よく考えてよ! おかしなことばっかりじゃない。あの子が、私たちと関わりを持てるのなんておかしいわ」
カオルは感情的な、大きな声を出した。ぎゅっと、膝の上の鈍色の塊を抱きしめる。暗雲の濃さが増した。
「別に、おかしくなんかないっ……清光だって、中等部の時はそうだったもん」
サクラは膝を抱えながら反論した。
「同じじゃないわ。わかるでしょ? 清光はあの子とは違う……それに……――」
カオルは声を落として、胸元からあの本を取り出した。貸出ラベルを指でなぞる。
「あの子、この本借りてなかったわ」
サクラはぴくりと身体を震わせた。
「だって、そのまま私に手渡したんだもの。図書室の本は、借りたり、返却したり、そういうのは手続きがいるものでしょ? 清光が言っていたじゃない。他の子たちもそうしてた。あの子は違った。あの子はなんだか嫌な感じがするし、おかしなことばかりよ」
とうとう雨が降り出した。ぽつぽつと、水面に雨が落ちていく。
「……それは、私たちも同じだもん」
サクラの声は、ますます小さくなった。
「じゃああの子は、私たちと同じなの?」
カオルはサクラに問いかけた。
「…………」
サクラは答えられない。自らの膝を抱え、顔を埋めた。シンが、サクラやカオルと同じであるとは思えなかった。シンは普通の人間だろう。
サクラが黙ってしまったので、カオルも問いかけるのを止めた。二人を見ることができるのも不思議だが、そもそも授業時間内にあんなに図書室にいることもよく考えればおかしいのだ。
カオルは膝に乗っていた鈍色の塊を下ろして、立ち上がった。塊は少しずつ強くなる雨粒を受けて、嬉しそうに身体を震わせる。
カオルは本を再び胸元へ戻すと、膝を抱えて小さくなっているサクラに向かった。
「ねえ、サクラもわかるでしょ? あの子は得体が知れない。一緒にいたらいけない」
「じゃあ、一体シンは何者だって言うの……?」
「知らないわよ。わからないから、一緒にいるべきじゃないって言ってるの」
サクラは顔を上げずに、身体を震わせている。
「――どうして……」
少しして、サクラはようやく小さな声を上げた。雨音にかき消えてしまいそうなか細い声だ。カオルは、震えるサクラの肩に手を添える。
けれどサクラは、その手を振り払った。顔を上げて、今度は大きな声で言い返す。
「どうして、そんな酷いことばっかり言うの! シンは、シンは一緒に本を読んでくれて、色んなことを教えてくれて、一緒にいて楽しいのに、どうして……、どうして一緒にいたらいけないのよ!」
「サクラ、どうして……」
振り払われた手を戻して、今度はカオルが呟く。サクラは泣いていた。雨が隠していたけれど、カオルにはすぐにわかった。
「どうして……どうして、わからないのよ! サクラなんて……サクラなんて大嫌い!」
カオルの頬にも、涙が流れた。
「私だって、カオルなんて大嫌いっ!」
サクラもカオルに言い返した。今まで二人は数え切れないほどの諍いをしてきたが、互いに大嫌いだと言うのははじめてのことだった。
雨はどんどん強くなり、二人を濡らした。その二人の傍らで、鈍色の塊がもぞもぞと動いた。鼻先で、カオルの脚をつつく。いつの間にか、塊は獅子ほどの大きさまでふくらんで、尾が二股にわかれている。
サクラはそれにはじめて気がつき、涙に潤む目で見つめた。
「その子は……?」
大雨の中、塊はどんどん元気になっていくように見える。
「……君、どうしたのよ」
もうとてもカオルの膝上には乗ることができない大きさだ。それは嬉しそうに尾を振りながら、カオルを見ている。まるで、今度は自分がカオルを乗せると言っているかのようだ。
その塊の瞳につられて、カオルはさっとその背にまたがった。雨に濡れそぼった首筋の、たてがみのあたりの毛をぎゅっと握る。
「……サクラなんて、もう知らないから……!」
カオルは鼻をすすりながら、サクラのほうを見ずに言った。塊は一度ぶるりと震え雨粒を落として空へ跳び上がると、カオルを乗せてそのままどこかへ飛んでいく。
サクラはそれを無言で見送ると、雨を気にせず後ろに倒れ込んだ。地面はぬかるんでいて、雨は容赦なく降りそそぐ。カオルのことも、シンのことも、カオルを乗せていってしまった塊のことも、何も考えたくなかった。
「なんだか冷たい……――これが、寒いということなのかな」
手のひらを空にかざして、強い雨粒を受ける。空は相変わらず暗く、その上雷の光が見えた。
「寒いよ、カオル」
サクラは、背中合わせになった時のカオルの温もりを思い出した。




