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春のまにまに童のまにまに  作者:


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鈍色の塊


 サクラは嬉しそうに、昨日のことを語っていた。


「それでね、私たち一気に飛び降りたの! すごいでしょ?」


 カオルは頬杖をつきながら、気のない返事をする。


「へえ。それで?」

「もう、ちゃんと聞いてる? シンはびっくりしてたけど、そのまま校門のところまで駆け抜けたの。気持ちよかったなあ。それで、サクラは汗もかかずにすごいねって。シンってば体力がなくて、ぜえぜえ言ってたのよ」

「……それだけ?」


 カオルはようやく頬杖をといて、サクラの方へ顔を向けた。


「それだっけって何よ! あ、でもまた今日も図書室で会う約束をしてるんだ。今日は放課後に集合だけどね」


 また怒られちゃうかもしれないから、とサクラは舌を出しながら笑う。


「放課後の約束なのにこんな早い時間から図書室で待っているなんて、よっぽど楽しみなのね」


 待ちきれない顔をしているサクラを見ながら、カオルはほほえんだ。陽はまだ高く、生徒たちは授業にいそしんでいる時間だ。


「だって、暇なんだもん。私たちだけなら見つかることもないでしょ? 今日は何の本を読もう」


 座っていた席から立ち上がって、本棚のほうへと向かう。カオルは相変わらず座ったまま、サクラのほうを見ていた。


「そういえばカオル、あの本は読んでくれた?」

「……ううん、まだ」


 シンから受け取った本は、結局まだ開いてもいなかった。


「読んだら、感想聞かせてね」


 本棚の影から顔を出して、サクラが笑った。


「もちろん。じゃあ、私は外で読んでこようかな」

「えっ……カオル行っちゃうの?」


 驚いてサクラはまた顔を出したが、その時にはもうカオルの姿はなかった。図書室の窓が開いていて、風がカーテンを揺らしている。




 窓から飛び出したカオルは、いつもの川辺へと来ていた。しばらく雨が降っていないため、地面は固く乾燥している。

それを見たカオルが流れる水面に手をかざすと、水しぶきが生まれた。孤を描いて散らばる水の粒は、きらきらと光りながら地表を潤わせる。ゆっくりとしたカオルの手の動きに合わせて、そして静かに散っていく。


 そうしてしばらく歩いていたが、途中で飽きたように立ち止まって、ぱたりと横に寝転がった。目の前には、水の粒を載せた菜の花たちが群れていた。


「菜の花の香り……」


 しばらく目を閉じて、菜花の香りを楽しむ。中には既に花が散ってしまっているものもあり、種子がふくらんできていた。そうして転がっていたカオルは、ふと指先に触れる何かを感じた。見ると、黄緑色をした小さな芋虫だった。


 カオルは起き上がって、指先をつたう芋虫を見やった。芋虫はうごめきながらカオルの指をつたって、二の腕を這う。


「可愛い、まだ小さい」


 小さな手脚を動かしながら登ってくる芋虫をつまんで、カオルは手のひらへとのせた。芋虫は戸惑ったように、カオルの手のひらで動きを止めた。


「どうしてサクラは――……」


 話しかけるように、呟くように、カオルは悲しそうに言った。


「びっくりさせてしまってごめんね。立派なモンシロチョウになるのよ」


 小さな声で言うと、カオルは芋虫をそっと菜の花の葉へと乗せた。そして立ち上がって、再び歩きながらカオルは水しぶきを生む。そしてしばらくすると、また歩を止めて寝転がる。


 幾度かそれを繰り返したところで、カオルはようやくシンから受け取った本を取り出した。受け取ってから携えてはいたものの、どうしても開く気になれなかったのだ。

 川辺に座りながら、本の輪郭を指でなぞる。薄い文庫本で、カバーを外して装丁してある。カオルはその表題も、作者も、聞いたことがなかった。


 ため息をつきながら表紙を開いて、少しずつ読み始めようと思った。小さな文字を目で追っていく。

 昼下がりの川辺に人影はなく、聞こえるものは風とせせらぎの音だけだった。緩い風が吹いて、カオルの長い髪を揺らしていく。カオルはそっと髪を耳にかけて、頁をめくった。


 しかし数頁読み進めたところで、一際大きな風が吹いた。たまらず目を閉じてやり過ごすが、風は本の頁をさらい、菜の花の花弁を散らした。


 空を見上げると、いつの間にか暗雲が生まれている。つい先刻まで太陽が輝いていたのに、厚い雲がそれを隠そうとしていた。このままでは、間もなく雨が降り始めそうだ。


「あーあ、読む気なくなっちゃった」


 またため息をついて、カオルは寝転がった。数頁しか読んでいなかった本を開いたまま、顔の上に乗せて空を隠す。菜花の香りも雨雲の匂いも消えて、今度は本の香気に包まれた。


「もう帰ろう。雨が降り始めたら、本が濡れちゃう」


 カオルはすっかり読む気を無くして、本を閉じて起き上がった。しかし、その近くで何かがうごめく気配を感じた。

 いつの間にか、そばに何かがいる。

 それは犬や狐狸とも少し異なっていて、見たことのない風貌をしている。


「……あら? こっちへおいで」


 カオルは少し驚いて、それに話しかけた。鈍色をしていて、温かそうな体毛に覆われている。カオルを警戒するように見ていたが、カオルがそっと右手を出すと、嬉しそうに近づいてきた。


「君、はじめて見たわ。どこの子なの?」


 鈍色の塊は、カオルの手のひらを少しなめると、くう、と声を上げてカオルの膝の上に乗った。カオルがそれの額やのどを優しくなでると、その度に嬉しそうな声を上げる。


「君は柔らかいね……でも、こんなところに居てはダメよ」


 ふさふさと尾を揺らしながら目を細めていたそれは、カオルの言葉に首をかしげる。

 カオルはまた、優しくそれをなでた。空はもう雨雲に覆われていて、雲間はなくなっていた。ぽつり、と一粒落ちると、あっという間に土砂降りになってしまった。


 カオルは本が濡れてしまわないように、そっと胸元へ入れる。しかし自分が濡れてしまうことは、一向に構わないようだ。

 鈍色の塊も雨粒など気にならないように変わらずなでられていて、むしろ喜んでいるようにも見えた。雨に濡れて毛がしおれてしまうこともなく、かえって艶々と美しくなった。


「サクラは大丈夫かな……雷が苦手だから――」

 

 空に雷光を認めると、カオルは眉根を寄せた。しかし同時にシンの顔が浮かび、複雑な表情になる。

 それを見て鈍色の塊は、黒い鎌のような前脚の爪を少し出して、カオルの着ていた制服に脚をかけた。そのまま顔を寄せて、カオルの頬にすり寄ってくる。


「慰めてくれてるの? ありがとう……優しいね、君は。そうだよね、サクラなら大丈夫……シンがいるもんね――」


 大きな低音が響き、雷が落ちたことを知らせる。雨が止む気配はない。カオルは雨の中、それを抱きしめた。


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