美しい玉
上加地は八畳間と奥に三畳の物置とがある、アパートの一室を借りていた。そう広くない部屋には、大量の本と資料が散乱している。授業で使用する教材もあったが、そのほとんどは民俗学に関係するものだった。
――あの日のことは、夢なんかじゃない。
上加地は、図書室で起きた不可思議なことを思い出していた。確かに、三階の窓から何かが飛び降りたのだ。この不思議な玉がここにあることが、何よりの証拠である。
あの日いつの間にか手にしていた不思議な玉――青と蒼とが混ざり合い、紫や金が散らされた、小さな宇宙のような美しい玉である。それは暗澹とした部屋の中で、きらきらと輝いている。
玉に触れると、氷のような冷たさが指先に伝わってくるが、得も言われぬ美しさに触れる悦びが身体の中を這ってやまない。そして同時に、上加地の脳裏に、一人の少女の姿が浮かぶ。
――どうして今の今まで、忘れていたのだろう。
佳乃子の転校後、上加地は恥をしのんで同級生たちにあの少女について尋ねまわった。だが名前も年齢も、佳乃子との関係性すらも、誰も何も知らなかったのだ。
佳乃子の家で一緒に遊んだことがあると言うが、どんな子だったのかは思い出せない。喋った記憶はあるが、何を喋ったのかは思い出せない。みな一様に、そう言うのだ。
しびれをきらし、佳乃子の同級生だったという立場を使って、少女に会いに音羽家を訪れたこともあった。しかし対応してくれた家人に、親戚には佳乃子以外に幼い女児はいないと言われたのだ。そもそも蔵は、しばらく鍵を開けていないという。
きっぱりと否定されてしまい、上加地は呆然とした。少女のことを隠しているのかもしれないと考えたが、同級生は一緒に遊んだことがあると言っていたし、自分にだけ隠す理由もないだろうと思った。
その後、直接蔵を見せてもらえばよかったのだと思い当たったが、上加地が再び音羽家を訪れることはなかった。
上加地は少女のことばかりを考えていたために、ひどく成績が下がってしまっていた。そのため休日はもちろん放課後も、母親の監視の目が厳しくなってしまったのだ。
――あの少女は、座敷童子だったのではないか。
少女に会うことができず、そして誰からも情報を得られなかった末に、上加地はそう思うようになった。
子供にしか見えず、大人には見えない。何かの本で読んだことがある。彼女の雰囲気、不可思議な出来事。そう考えれば、全てのつじつまが合うのではないか。
しかしその結論に至る頃には、上加地の記憶もずいぶん曖昧になっていた。上加地は忘れつつある少女の記憶を繋ぎとめるかのように、母親の目を盗み座敷童子について調べ続けた。
そしてそうこうしているうちにも記憶は薄れ続け、あれほど衝撃的な出来事だったというのに、上加地もまた多くの大人と同じように、少女の存在を忘れていった。
だが理由を忘れてしまっても、上加地は座敷童子について調べることを止めず、そのまま民俗学を専攻するまでになったのだ。
――そうだ、あの少女に会いたくて、ずっと研究してきたんじゃないか。自分でも不思議なくらい音羽家に執着していたのは、記憶の片隅にあの日の出来事が残っていたからに違いない。
――何としても、あの少女にもう一度会いたい。絶対に、たどり着いてみせる。
なるべく鏡を見ないようにして顔を洗い、文机に向かう。昨晩遅くまで見ていた名簿が、置きっぱなしになっていた。それは早瀬学院に通う、全校生徒のものだった。
「シン、こっち!」
あの時聞こえた少女の声と、窓の下へと消えた影を思い出す。一瞬だったが、影は学院の制服をまとった男女のようだった。
シンという名前は、苗字か、名前か、もしくはあだ名か。候補は何人もいるが、それでもいないよりはよい。
シンという生徒が存在するならば、あの不可思議な出来事を経験しているはずなのだ。あの時、一体何が起こったのだろう。名簿につけた印を確認しながら、上加地は繰り返し考える。
しかし何より、音羽清光――。
上加地は、名簿の下に置かれた、昨年の中等部の卒業アルバムを開いた。笑っているのでも、悲しんでいるのでもない、無表情な顔をした、清光の写真をなぞる。
頭の中で考えていたことは、実際に清光に対峙すると半分も言えなかった。どこか佳乃子に似ている顔立ちや、まっすぐな視線に、上加地は恐怖してしまったのだ。元来人付き合いが苦手な上、話下手である。
しかし目的の為には、もっと音羽清光と近しくなる必要がある。
じれったく思いながら上加地はぼんやりと立ち上がって、窓辺に置かれた本棚へ向かった。簡素なもので、扉もついていない、どちらかというと飾り棚のようなものだった。とにかく収納できれば良かったので、適当に見繕った安物だ。本や雑誌以外にも、大学時代のレポートや資料を適当に入れていた。
その本棚の一番上に並べられた、分厚い辞典を引き抜く。すると後ろの空間には、小さな木箱が隠されていた。大人の掌ほどで、少しくすんでいる。
上加地は引き抜いた辞典を適当に打ちやって、奥に隠してあった木箱を取り出した。
そしてそっと蓋を開けると、あの不思議な玉をうやうやしく箱に収めた。
――ああ、なんて美しいのだろう。




