不思議な少女
授業が終わり、上加地は職員室で資料をまとめていた。いかに効率的に生徒たちが史実を詰め込めるか、細かい歴史の流れを覚えられるか。机に今までの資料や参考書を並べ、何やら書き込んでいく。
「――先生」
集中していると、いつの間にかそばに女生徒が立っていた。
「先生」
再度、女生徒が呼ぶ。上加地はようやく女生徒に気がつき、面を上げた。西日が眩しく差し込み、気づけば職員室には上加地しかいなかった。他の教師らはどこへ行ったのだろう。
「申し訳ない、集中していて……どうかしたか」
見たことのない女生徒だった。きれいな顔立ちをしていて、高等部の白いスカーフをしている。吸い込まれそうな瞳だ。
「先生、図書室の鍵を開けて頂けませんか?」
女生徒はにこりと笑って言った。そういえば、今日はまだ図書室を開けていない。資料を準備するついでだからと管理を引き継いだものの、どうして忘れていたのか。
「あ……すまない。すっかり忘れていた。すぐ開ける」
上加地は慌てて立ち上がり、学内の鍵が保管されている棚を開けて図書室の鍵を取り出した。
二人は連れ立って、三階の図書室へと向かう。いつもなら生徒たちがうるさいくらいに至る所で喋っているのに、不思議と今日は静かだ。誰ともすれ違うことなく、階段を登っていく。
女生徒はにこにこと笑っているだけで、別段上加地に話しかけなかった。上加地も女生徒と話す話題を持ち合わせてはいない。無言のまま図書室の前へ着き、鍵穴へと差し込む。
しかし何やら、室内から声が聞こえた気がした。笑い声のようだった。上加地は動きを止めて、声を上げた。
「誰かいるのか?」
おかしい。今日自分は鍵を開けていないし、もし誰かが気づいて開けたとしても、管理者の自分に何らかの声をかけるはずだ。放課後ずっと、職員室の自席にいたのだから。
上加地が声を上げてから、室内の声はぴたりと静まった。一旦鍵を抜いて、扉の取っ手に手をかける。すると扉はするりと開いた。鍵が、開いていた。
なぜだ――?
「誰かいるのか?!」
上加地が一気に扉を開けて繰り返し声を上げた時、図書室のもう一つの扉、逆側の扉が大きな音を立てて開いた。上加地がちょうど図書室へ足を踏み入れたと同時のことで、きれいにすれ違って逆側の扉から二つの影が飛び出した。
「シン、こっち!」
二つの影はそのまま、開いていた廊下の窓の外へと素早く飛び降りた。音に反応して上加地が振り返った時ちょうど、窓の下に消える影が見えた。
「まさか! 三階だぞ、ここは!」
焦りながら窓へかけより下を覗くが、そこには何の影も見えなかった。下校する生徒たちが、のんきにただ歩いているだけだ。
「そんな馬鹿な……! 君、君も見ただろう?!」
上加地は振り返って、鍵を開けてくれと言いに来た女生徒へ尋ねた。しかし、そこにその女生徒の姿は無かった。
「えっ……」
あたりを見回すが、どこにもその女生徒の影は見えなかった。ざわざわと生徒たちの声が広がり、扉の開閉音や部活動の音が聞こえ始める。
「あ、上加地先生いた!」
呆然とする上加地に、数人の生徒たちが近づいてきて声をかけた。
「図書室の鍵全然開けてくれてないんだもん、探してたんですよ。職員室にもいないし」
「どっか行くなら、他の先生に頼んでからにしてください」
「ほんと、忘れないでくださいね」
文句を言いながら、時間が惜しそうに生徒たちは開いている図書室へと入っていく。上加地は一人、その場に立ち尽くした。
「……?」
だがそこで、右の手中に冷たい感触がすることに気がついた。いつの間にか、何かを固く握りしめている。
――なんだ? 何も持ってなんかいなかったのに……。
不審に思いつつも汗ばむ手のひらを開くと、そこには青と蒼が混ざり合い、紫を散らしたような、一つの美しい玉があった。ビー玉より一回り大きく、滑らかな円である。それは上加地の瞳の中で、きらきらと眩く輝いた。
恐る恐る玉に触れると、先ほども感じた氷のような冷たさが、指先に伝わってくる。
そして同時に――上加地の頭の中に、忘れていた遠い日の記憶がよみがえってきた。
「いったい、これは何なの?」
佳乃子の鞄から木箱を盗んでしまった日、悪事は母親にすぐ見つかった。厳格な母親だった。上加地が勉強を少しでも怠けたのならば、いつも目を吊り上げて怒鳴った。
「どこでどうしたの? 何でこんなものを持ってるの!」
帰宅後に自室の机の中に隠したものの、母親はそれをすぐに見つけ出し激怒した。あまりの剣幕に上加地は、同級生から盗んでしまったのだとはとても言い出せなかった。仕方がないので、同級生からもらったのだと、嘘をついた。
「返してきなさい。こんなもの、あなたには必要のないものでしょう」
上加地の言を、母親が信じたかどうかはわからない。とにかく返してこいときつく言われた。どこの誰にもらったのだと問い詰められたり、母親からお礼を言わなければと言い出されたり、そういったことをされなかったのは上加地にとっては幸いだった。
「それを返してくるまで、家に入れないから!」
母親に追い出された上加地は途方に暮れた。まさか、佳乃子に直接渡しに行くわけにはいかない。自らの罪を直接告白することになってしまう。ぶらぶらと近所を歩き回りながら、どうすべきか考えた。
佳乃子の住んでいる音羽家は、とても広い。しかし敷地の全てが塀で囲われているわけではなく、一部は垣根になっていた。同級生たちの中でも小柄な上加地の身体であれば、垣根の隙間から忍びこめるかもしれない。そしてそっと、敷地内に置いてくればよいのではないか。もし入り込めなかったとしても、玄関のあたりにこっそり置けば、佳乃子が落としたと思うだろう。小学生の稚拙な頭で、上加地はそう考えた。
母親に激怒されたこと自体は、上加地は特にこたえていなかった。いつものことだったからだ。しかしせっかく手に入れたこの箱を手放さねばならないということだけは、とても嫌だった。
母親の目から小箱を隠すことは難しいが、中身だけならどこかに隠せたりはしないだろうかと、佳乃子の家へ向かいながらそんな考えていた。
佳乃子の家は、何度か前を通ったことがあったため知っていた。音羽家といえば、この辺りでは誰もが知っている。
音羽と乃木の表札が、立派な門の横にかけられていた。上加地の住むマンションが丸ごと入ってしまうほどの敷地に、上加地はもはや嫉妬すら抱けない。表の門は堅牢でとても物々しく、忍び込める隙間はなさそうだ。
敷地のあたりをうろうろしていると、勝手口、というのだろうか、表の門の反対側に、小ぶりの木戸を見つけた。周りは塀で囲われていたが、その木戸は、なぜだがその時、少し開いていたのだ。まるで自分を誘っているようで、上加地は素早くそこから忍び込んだ。黄昏時、辺りに人影はなく、上加地を咎める人もなかった。
少年の上加地は、うまく入り込めたことで気が高ぶった。そしてはじめて足を踏み入れた広い敷地に興奮もしていた。その場に木箱を置いてしまえばよかったのに、上加地は少し探検をしてみたくなってしまったのだ。佳乃子の家は、あまりにも上加地が知っている「家」とかけ離れていた。
地には玉砂利や石畳が美しく敷かれ、竜のような松が植えられている。どこかの広い公園かのように、名も知らない植物がたくさんあった。別世界のようだった。写真や映像で見る庭とも違って、自然な植生も感じられた。
そして、大きな屋敷があった。家人に見つからないように、木の陰からこっそり母屋を見た。本当に、あれが一般の人の家なのだろうかと思った。長年続く旅館や、社寺のような趣と佇まいだった。敷地内にはその大きな母屋以外にも、別の建物がいくつかあった。離れであったり、車庫であったり、物置だったりした。
中でも上加地が惹かれたのは、白い蔵だった。蔵というものを間近で見たのもはじめてだった。他の建物とは違うその建築様式や、モルタルの白さが美しかった。
こそこそと近づくと重そうな観音開きの扉があったが、掛け金は掛かっていなかった。ここでも上加地はその幸運に感謝し、少しだけ入ってみようと思った。
音がしないように静かに扉を開けて、するりと入り込む。蔵の中は暗かったが、外から夕陽が差し込んで、ぼんやりとあたりの様子が見えた。
蔵の中は天井が高く色々な物が積まれていたが、上加地には何が何だかわからなかった。思っていたより面白味がなく拍子抜けして、もう木箱を置いて帰ろうと取り出したその時だった。
「――あなた、誰?」
鈴を転がすような、少女の声がした。
上加地の心臓はひっくり返るかと思った。一気に脂汗がでて、逃げ出そうにも身体が硬直して動けなかった。蔵の出口はすぐそこであるのに、脚が言うことを聞かない。
声は上のほうから聞こえた。目線をやると蔵は二階建てになっていて、声の主は二階にいるようだった。うすぼんやりとした蔵の中、二階へ続く梯子階段に気配があった。
「ねえ、あなたは誰?」
そこには赤い着物に身を包んだ、一人の美しい少女がいた。背丈は上加地とさほど変わらないであろうに、大人びた雰囲気に物言いだった。
佳乃子ともまた違う、一種の異様な艶やかさ。吸い込まれてしまいそうな大きな瞳。黒々とした髪の毛。一点の穢れもなく、暗闇ですら光を放つ白い肌。上加地は少女から、目が離せなくなった。
少女は、小さな足に白い足袋を履いていた。その足が少し動いたかと思うと、信じられないことに、ふわりと宙に浮いた。そしてそのまま梯子階段を飛び越えると、ゆったりと上加地の前に舞い降りてきた。赤い着物の袖が、蝶が優しく羽ばたくように見えた。
「はじめまして。そこで何してるの? 何か用事?」
少女は大きな瞳を向けて、屈託なく上加地に話しかけてきた。上加地は一言も口をきけなかった。
「それはなあに? 何を持ってるの?」
無言の上加地に、少女はそう言った。
少女は、上加地が持っている小箱を指さしている。そして、少女はその小箱に触ろうとした。白く小さな手を近づけて、人差し指が軽く触れた時――ようやく上加地の身体は自由を取り戻した。
その瞬間、何かを考える余裕もなく、上加地は小箱を握りしめたまま、一目散に蔵を飛び出した。人目を気にしたり、静かに玉砂利を踏みしめたりする余裕もなかった。
上加地は小箱を握りしめたまま走って佳乃子の家から抜け出すと、街へ出てもまた、とにかく走った。身体に巡る衝動を、少しでも外に発散させるように。
走りながら考えた。あの美しい少女は一体誰なのだろう。佳乃子の親戚だろうか。自分のことを、家の誰かに言いつけるだろうか。それでもいい、それでもいいが、もう一度会いたい。木箱を盗ってしまったことをきちんと謝罪して、そして佳乃子にあの少女のことを聞こうと思った。人の物を盗み、人の家に忍び込んだ自分が、ようやく恥ずかしくなった。
上加地は、少女の美しさの虜になっていた。
木箱は結局自らのマンション裏の、植木の下に埋めた。これならば、母親は気づくことはないだろう。とにかく明日この木箱を持って、佳乃子に話かけようと思った。
しかし、上加地のその決意は実行されることはなかった。
次の日から上加地は酷い熱に浮され、しばらく学校へ行くことができなかったのだ。
ようやく熱が下がり登校してみると、そこに佳乃子はいなかった。少し前から、転校することが決まっていたらしい。上加地以外の同級生は、みんなそのことを知っていたそうだ。
いつだったか上加地が休んだ時に周知されたらしいが、親しい友人のいなかった上加地は、誰からもその情報を得られなかった。上加地以外の級友たちによる寄せ書きや贈り物を持って、佳乃子は転校していった後だった。




