風
校庭の楠木の半ばまで登ると、ちょうど高等部の教室がよく見える。
「あそこが、清光の教室?」
「そうみたい」
少女たちは太い楠木の枝に横並びに座って、清光の教室を見ていた。茂る葉が二人を覆い隠し、眩しい光から守っている。
「……ねえサクラ、あの子は誰?」
「そんなの、こっちが聞きたい」
二人の目線の先には、清光と仲良さそうに話している紅緒の姿があった。清光の席の隣に立ち、楽しそうに笑っている。普段無口な清光も、紅緒に対してあれこれと返答しているようだ。
窓から遠い廊下側の列でありながら、一番後方に座る清光の姿はよく見えた。
「清光、いつからあの子と仲良くなったんだろ」
カオルが言うと、サクラも複雑そうな顔をした。
「見たことない子」
その時、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴る。紅緒は慌てた様子で清光に手を振って、二人の視界から見えなくなった。
すらっとした手脚、柔らかそうな躰、きれいに整えられた髪。そして何より、清光に向けられた屈託のない笑顔。それら一つ一つが、二人の瞳に焼きついた。
得体の知れない気持ちが胸の中に生まれていることに気づき、二人は気味悪く思った。何かが、二人の胸を射す。
二人は無言のまま、授業が始まる様子をぼんやりと見た。
「なんだか、何もする気がなくなっちゃった」
先にカオルが立ち上がって、細い枝先へと歩き出した。相変わらず両手を広げて、風に支えられるようにして枝の先端を目指している。
「カオルは下手なんだから」
危うい歩みのカオルを見かねて、サクラは言いながら立ち上がった。そしてふわっと枝先へと歩いて、振り向いたカオルの手を握る。そのまま振り子のように右足を軸にして、カオルの身体を幹の方へと回転させた。カオルは一瞬宙に浮いてから、先ほど座っていた辺りに静かに降り立たされた。
あっ、とカオルが呟く間に、サクラはカオルが目指していた細い枝の先にちょこんと立った。
「私の勝ち」
くるりと振り向いて、カオルに勝ち誇る。
風に揺れる細枝にすっくと立つその姿は、重力の縛りを感じさせない。カオルは悔しそうに言う。
「練習してたのに……――でも、さすがサクラ」
ほほえみながら楠木の葉に息をかけて、風と共にサクラに向かわせる。枝先にいたサクラの周りを取り囲むと、一斉に散らばってはらはらと散った。
サクラは笑いながらカオルの手を取って、楠木の上へ上へと昇って行った。枝葉を足場にふわふわ浮かんでいく二人を、風が取り囲んで軽やかに持ちあげる。二人の笑い声で、楠木の葉が鈴のように揺れた。
少女たちは楠木のいただきにたどり着くと、一際けたけた笑った。楠木のいただき、一番高いところにある一葉に足を乗せながら、手を握り合う少女たち。
サクラの力を受けて、カオルも器用に重力に逆らっている。楠木の頂上からは広い校庭が一望出来て、澄んだ空気も気持ちがよい。
見晴らしのよい頂上で、青い空の下で、少女たちはふわりと浮かぶ。風と同化して、どこかへ飛んで行ってしまいそうだ。校庭や校舎に反響して、少女たちの笑い声が散らばる。
風に乗った笑い声は校庭のあちらこちらに飛んでから、強い風へと変化していった。そしてごうっと音を立てて、とある教室の、空いていた窓へ吹き込んだ。
突然吹き込んできた強風に、教室内は騒然となる。開かれていた教科書やノートが風に飛ばされ、筆箱の中身が散らばった。
「なに、どうしたの?」
「いきなりびっくりした……」
「大丈夫? これ誰の?」
窓際にいた生徒たちの被害はことさら大きく、机上の物がみごとに風にさらわれていた。教師も一旦チョークを置いて、授業を中断する。
「突然すごい風でしたね。なかなか春風駘蕩というわけにもいかず……ま、桜が満開になる前でよかったですね。たくさん散ってしまうところでしたから」
国語の教師らしいことを言って、被害を収束させるよう指示した。教室内には春風と一緒に、楠木の葉も大量に吹き込んでいる。葉は机の上や生徒の頭上、床に落ちたノートの間にまで散らばっている。
箒とちりとりでそれらを集める生徒たちに、国語教師はのんびり説明し始めた。
「皆さんご存知ですか。楠木からは、樟脳と呼ばれる防虫剤が作られるんですよ。お家の箪笥やなんかに入ってるやつですね。この独特の香りを虫が嫌がるんです」
教卓の上に広がる一葉をつまんで、もてあそびながら言う。
「それから楠木は、よく御神木として祀られていますね。神社などで目にするしめ縄がまかれた大木は、この木が多いんです。樹齢が長く、百年や千年生きている樹がたくさんあります。校庭の楠木も樹齢五百年といわれているので、大変立派です」
この国語教師は、授業の合間に雑学を多々織り交ぜる。飽きずに授業を聞くことができ、またためになる話も多いため生徒たちから人気だった。
「あ、そうそう。楠木の葉にはダニがいることがあるので気をつけてくださいね。この葉の裏側の、葉脈のところにですね――」
しかし教師の一言で、生徒たちはざわめいた。
樟脳の説明を受けて楠木の独特の芳香を嗅いでいた女生徒や、散らばる葉を投げて遊んでいた男子生徒は、小さな悲鳴を上げた。
「ええっ、最悪! もしかしてこれダニ?」
きゃあきゃあ言いながら、生徒たちはてきぱきと動き始める。
「ほんとに早く言って欲しいよね、御池先生ってば。大丈夫だった?」
女生徒が、後ろを振り向いて紅緒に問いかけた。
「ありがとう、こっちはあんまり落ちてないから大丈夫だと思う。でも、吹き込んできた時に指を切っちゃって……」
紅緒は、きゅっと右手の指にちり紙を当てていた。
「えっ、大丈夫? 風で? 葉っぱで?」
それを見た女生徒が慌てながら聞くと、
「バカ。風で切れるかよ、葉っぱだろ。大丈夫かよ?」
周りにいた男子生徒が、茶化しながら心配した。
「どっちだろう? びっくりした、こんなことってあるんだね」
困り眉をして言う紅緒に、周囲が心配そうな声を上げる。
「絆創膏持ってるよ」
「御池先生に言って、保健室行った方が良いんじゃない?」
「確かに、ダニって菌とかありそう」
様々なことを言う同級生たちに、紅緒はほほ笑みながら礼を言った。




