影
尾々が誰かに呼ばれた気がして振り返ると、後ろに見慣れない女生徒が立っていた。制服の上からでもわかるスタイルの良さに、ぱっちりした瞳。入学式の日に清光が支えた女生徒だ、と気付いた。
「すみません。このクラスの音羽くん、呼んでもらえますか?」
小首をかしげながら頼む紅緒に、尾々は従うほかなかった。ちょうど購買へ行くところだったが、踵を返して教室へ戻り清光に声をかける。
「音羽、いつの間にあの子と仲良くなったんだよ」
尾々がむすっとして問うと、清光は首をひねった。
「誰? あの子って」
尾々は無言で、教室の扉の前に立っている紅緒に目をやった。
「音羽くん呼んでもらえますか、だってよ」
「ああ……何だろう」
清光は面倒くさそうに、読んでいた本を閉じて立ち上がった。紅緒は清光に気が付くと、嬉しそうに笑みを浮かべる。
そのまま二人は少し会話をしたが、すぐに清光は席に戻ってきた。
「何の話だった?」
すかさず尾々は清光に問う。
「特に大したこと話してないよ。日本史の資料を忘れたから、貸してくれないかってさ」
「日本史の資料? 初回で配られたやつのこと?」
「さあ。世界史専攻だから持ってない、って言った」
「俺日本史専攻だから持ってたのに!」
「でも日本史だったら、別に資料なくても大丈夫でしょ」
すでに清光は本を開き、関心がなさそうだった。
「馬鹿。今年度は境先生が産休だから、講師の新しい人が来たんだよ。その人がすごい資料使うんだ」
尾々は前回の授業を思い出して、顔をしかめた。
「しかもものすごい細かくてさ、あれは試験も厳しそうだったよ。資料ないとか言ったら、減点されそうな勢い」
「境先生産休なの? 知らなかった。尾々、資料貸してあげたら?」
事もなげに言う清光に、尾々はわざとらしいため息をついた。
「初対面の俺が、突然貸せるかよ。さっき言ってくれたら、喜んで貸したのに! というか本当に、どこで仲良くなったんだよ」
「書道が一緒だった。そんな仲良いほど喋ってないけど、外部だからまだ知り合い少ないんじゃないかな」
「外部進学の子だもんなあ、不憫だ……――無事に借りられてたらいいけど、大人しそうだったし、あんまり自分から言い出せないんじゃないか」
「そんな感じもなかったけど」
やきもきと紅緒の心配をする尾々を横に、清光はどこ吹く風だ。
「それよりも尾々、購買行くんじゃないの? パン売り切れるよ」
「そうだった! 音羽は弁当だけで足りるの?」
「足りる足りる、動いてないからね」
清光は笑いながら、開いた本を持ちあげた。清光はジャンクフードや甘いものをほとんど食べず、運動もしいない。空腹になることが少ないようで、普段から女生徒と同じくらいの量しか食べなかった。そんな清光を見ると、あまりにも小食すぎるのではないかと少し心配になる。
「食べなさすぎるのは、逆に不健康だ。たまには音羽も購買で何か買おうぜ」
有無を言わさず、尾々は清光の腕をつかんだ。清光は突然のことに驚いた顔をしたが、席を立つ気配はない。
「え、いいよ別に。そんなに食べられないし」
「うちの購買、意外とおいしいんだって。口に合わなかったら俺が食べるしさ」
それなら一石二鳥だろ、と尾々は一人で頷いている。
「お前はもう少しカロリーを取るべきだ。家でもちゃんと食べてるのか心配だよ」
茶化しつつも長々と続きそうな尾々の言葉をさえぎって、諦めた顔で清光が立ち上がった。
「はいはい、わかったってば。今日はしっかり弁当食べるよ。購買でも何か買う。でも食べきれなかったら、尾々食べてね」
それはもちろん、と尾々は笑った。二人は教室を出て、一階の購買へと向かう。
「春限定のさ、桜あんぱんがすごい当たりだったんだよ。餡たっぷりで、腹持ちもいい。今まで春は蓬だけだったんだけどね、今年は毎日迷うんだ。あとは、くるみパンも美味しくって」
尾々はあれこれと、清光に購買のパンの説明をする。尾々は清光とは対照的に持参の弁当だけでは足らず、ほとんど毎日購買でパンを買っていた。
尾々も美術部であり積極的な運動はしていないのに、食欲だけはたしかだ。加えて甘党ときているので健康面と体重を気にしてはいるが、食欲には勝てていない。
「いつの間にそんなに食べてたの? そんなによく食べられるね」
「だからおいしいんだって。逆によく甘いものを食べないで、あんなに勉強とか読書に集中できるよな。早弁とおやつがないと、俺には無理だ」
他の男子生徒もほとんどみな弁当では足りず、弁当の他に購買で何かを買っている。女生徒だって、休み時間には甘いおやつをつまんでいる。
「糖質はちゃんと摂ってるよ、米とかイモ類とか……」
尾々は、またわざとらしくため息をついた。
「糖質制限中の女子くらいは摂ってるな。あ、これだよ。さっき言っていた桜あんぱん。人気なんだけど、今日は残ってて運がいい」
残り少なくなっている桜あんぱんを取って、清光に渡す。自分も一個とって、更に蓬とクルミのパンも選んだ。
「いつもはこの時間売り切れてるんだよ。珍しく二つとも残ってるから、買っておかないと」
ひとり言とも言い訳ともつかないことを言いながら、尾々は嬉しそうにパンを抱えている。
「早く帰って食べよう。次は教室移動があるし――あれ、あの子さっきの……」
尾々の視線の先には、紅緒がいた。購買に併設している喫茶のテーブルで、何人かの女生徒と喋っている。購買で買ったパンを食べながら、楽しそうな様子だ。
「よかった、友達できてる」
その様子を見て、尾々は安心した笑みを清光に向けた。
「無事に資料も借りられてるといいけどな」
「大丈夫でしょ、彼女なら。尾々の方が忘れてないか心配だよ」
軽口をたたきながら、二人は教室へと戻る。
その後ろ姿を男が一人、影からじっと見ていた。




