8話
飾りけのない殺風景なカウンターで、株の利益全てを仮想通貨に交換した。交換した額は二〇〇万ビル。「有難う御座いました」と機械的なお辞儀をするNPCショップを後にし、カフェのオープンテラスに腰を下ろした。天気は快晴。強烈な仮想の陽射しがテラスに降り注ぐ。セントラル市街でありながら、普段はひと気の少ないお気に入り店だったが、どういうわけか今日に限って初期アバターのプレイヤーたちでごった返していた。
お決まりのアイスコーヒーを注文すると、付属のシロップとミルクも同時にオブジェクト化された。
シロップを多めに入れたコーヒーで一息つくと、早速ウィンドウをポップアップした。メニュー画面から、設定――パラメータ変更へと進み一枚のダイアログを表示する。
体力――三、筋力――七、器用――七、敏捷――二、運――一。
保有パラメータ欄に二〇と七セグ表示された数値を容赦なく振り分けた。
パラメータは体力、筋力、器用、敏捷、運の五種類ある。この世界での職業柄、俺は筋力と器用に重きを置いて振り分けていた。占い師という特殊な職業のユウは運ステータスをかなり上げていると聞いたことがある。運がどのように作用するのかいまいち理解していない俺の運ステータスは二だ。
今回の課金アイテム大量購入により、俺のトータルパラメータは三十五に到達した。全プレイヤーの中でも、上位数パーセントに食い込んだと考えて間違いないだろう。この世界で人と違うことをしようとすると、大金が必要になってくる。はじめはユウの受け売りだったが、パラメータ課金をしていくうちにその意味を嫌というほど実感していた。VVWのスポーツ界において、パラメータ上昇が及ぼす影響は非常に顕著だ。今ならまだ少額課金で優位に立てる時期だと判断し、ユウはこの職業を俺に薦めたのだろう。その予想は見事、正解を引き当てた。
外気との気温差で、アイスコーヒーのグラスは無数の水滴を帯びていた。細かい物理現象まで実に精巧に作り込まれている。
課金の恩恵を実感するべく、残りのアイスコーヒーを一気に飲み干した。
耳を劈くような声援を浴び、一段高く盛り上がった小丘に立つ。
プレートに軸足を掛けると捕手のサインを確認しながら、右手に握った白球の縫い目を擦った。この試合一番の声援が両チームに降りかかる。首を縦に振り、俺はセットポジションに入った。恐らく、この一球で終わる。一塁走者を気にしている余裕など俺にはなかった。
縦にかけた縫い目に意識を集中させ、中指と薬指の隙間から白球を放る。白球はストライクゾーンよりやや左――左打席に立つ大柄の男めがけて白いエフェクト光を突き刺す。
電光掲示板にボンズと紹介された大柄のバッターは、直後、大げさに屈んだ。迫る投球を死球と判断したのだろう。そのアクションを確認したことで、俺の口元はにやりと緩む。先刻のパラメータ大量買いにより球威とキレを増した白球は、俺の予測を超える弧を描いてミットに収まった――と思った。
元来、VVWには一つの野球リーグしか存在しない。エルジェップが公式で運営しているベースナショナルリーグ通称――BNL。十五チームが所属し、その名の通り、ベースボールの街を拠点としている。
BNLに対抗すべく作られたのが、コロッセオリバティリーグ――通称CLL。コロッセオの競技場をホームグラウンドとして、これまた十五チームが所属している。と言っても、VVWが運営している公式なリーグではない。言わば、多くの誓約を設けた大規模ギルドである。もちろん、加入には条件やトライアウトのような審査もある。審査通過者を十五チームに振り分け、一つのリーグに見立てているに過ぎない。
いずれ、リーグ優勝チームをBNLにぶつけるのではという噂もあり、競技人口はBNLに匹敵する程だ。
CLLの《アクアビット》というチームに在籍する俺は、同リーグ《コルン》所属の主砲ボンズを三振に仕留めた――はずだった。屈んだ姿勢ながら、ボンズは迫る白球を眼界から失っていなかった。
ボンズはCLLの中でも、本塁打ランキング上位十人に食い込む強打者だ。過去二回、俺も対戦したことがあるが、いずれも安打を許している。パラメータ課金の直後と言えど、一筋縄ではいかないようだ。
体勢の立て直しは間に合わないと判断したボンズは、前のめりのまま右脇を大きく開き、右足をホームベースぎりぎりまで踏み込んだ。その間、わずかコンマ八秒。
ボンズの右脇を抉るように外角低目に流れる白球を、リーク屈指の弾道を誇るバットが捉えた。直後、静まり返る歓声の中、太陽と重なった白い影を見失った。
「上だ!!」
傾いた陽を背にした右翼手が叫んだ。
何を捉えるでもない空を泳ぐ視線とは裏腹に、伸ばしたグローブがずしりと重みを得た。
途端、試合終了を告げるNPC審判のアクションと共に、爆発音にも似た歓声が沸いた。続いて、昔懐かしいゲーム機を思わせるファンファーレ音が、ゲーム終了を知らせた。
試合が終わり転移門へと向かうべく、競技場の正面玄関からコロッセオの街に出た。数万人の観客を出し切ったようで、出待ちのファンに囲まれずに済んだことに胸をなでおろした。
先ほど熱い一戦を演じた舞台からは、新しい歓声が聞こえはじめた。もう他のチームの試合か、はたまた全く別のスポーツが熱闘を繰り広げているようだ。
「リーグ最多勝利投手おめでとう!!」
「ん、なっ……!!」
背後から不意の祝賀と、頸部を急激に冷却する固いオブジェクトに思わず飛退いた。
「リーグの誇る投手とは思えない悲鳴ね」
対コルン戦に完投勝利した俺は、それまで同率首位に並んでいた投手に頭一つ差をつけ、最多勝利投手となった。
試合直後、運営ギルドが用意していたのか、バックスクリーンにコングラッチュレーションズの華やかな演出があった。VVW内動画サイトを運営するギルドからヒーローインタビューまでされたのは、現実の野球中継さながらだ。
振り向くと、藍色にシルバーのラインが入ったアクアビットのユニホーム――正確にはレプリカだが――を着たスタラビが試合後の俺を出迎えた。背中には律儀にSERITOの刺繍入りだ。
太股まで丈のあるユニホームに袖を通し、只でさえ目立つ容姿が、一層周囲の注目を自分のものにしていた。
「どう? セリト、全財産はたいて買っちゃった」
ファンに取り囲まれないよう帰宅時間を調節したにも関わらず、ずっと待ってくれていたのだろう。スタラビの求める言葉はわかるが、素直に答えるのも面白くない。代わりの返答を考える。
「どうって言われてもだな……自分でも似合ってると自覚があるんだろ」
言葉に詰まりながら放った俺の言葉は、どうやらハズレの答えを引いてしまったようだ。
「ごめ……」
スタラビは一瞬、狂気じみた顔を見せた――が、俺が謝罪の弁を言い終わらないうちに、手にしたジュース瓶を俺に突き出した。
「ユニホーム買ったらお金無くなっちゃって……お祝いこれしか買えなかったの」
瓶を受け取った俺は感嘆した。
高価な代物ではないが、スタラビが差し出したそれはVVWでも数少ない炭酸風飲料だ。どういうわけか全てのプレイヤーに「風」と呼ばれている。流し込むと複数の弱い刺激を喉に与えてくるが、それは痛みというより爽快感に近い。
「お店の人に教えてもらったの……お祝い事ならこれにしなさいって」
高くはないが、どこにでも売っているアイテムではない。物好きなアイテムを取り揃えたプレイヤーショップか、何故かユウの占い屋にも置いてある。NPCショップにはまず売っていない商品だ。
スタラビに礼を告げると、手早くウィンドウを表示させ、アイテム欄から栓抜きなるアイテムをオブジェクト化した。この世界にはこのようなレトロなアイテムが複数存在する。開発者の遊び心か、現実世界を忠実に再現した結果なのかは謎だが、俺はこの仕様を酷く気に入っていた。
金属質なフタに栓抜きの輪を宛がう。てこの原理で手首を持ち上げると、空気の抜ける涼しげな音と同時に炭酸風飲料が噴き出した。溢すまいと慌てて口で覆った。甘ったるい味でいて、喉を刺激する飲料水が仮想の胃へと流れ込んでいく。
「おいしい?」
横に目をやると、物欲しそうな顔のスタラビが見ていた。
「飲んだことないの?」
「だって、残金でそれ一本しか買えなかったんだもん」
スタラビはバツが悪そうに目を伏せた。
「ほれ」
くいっと顎をしゃくると、乱暴に飲みかけの瓶を差し出した。途端、スタラビの表情が無邪気に晴れる。
「あっ……」
スタラビが炭酸風飲料をまさに飲もうとした寸前、俺はあることに思い至り、顔が熱くなる。
「どうしたの? なんか顔が赤いけど大丈夫?」
「あ、いや……何でもない。続けてくれ」
と、意味のわからない台詞を返した。スタラビは豪快な効果音とともに半分以上残っていた瓶の中身を一瞬にして消しさった。
デジタル世界とは言え、俺は羞恥の感情で一杯だった。唇が触れていたわけではないにしろ、間接――厳密にはサーバーを介しているので、間接の間接くらいだろうが容姿端麗な彼女はどう思っているのだろうか。スタラビの反応を確かめるべく、ちらりと隣を見やる。
一滴残らず飲み干した空き瓶を両手で胸に抱き、放心していた。役目を終えた空の瓶が、鮮やかなポリゴンの欠片となって離散する。傍目から見れば、スタラビから光が飛び散っているようにも見て取れる。端麗なスタラビの容姿と幻想的な光景が実に絵になり、不覚にも数秒間目を奪われてしまった。いつもより多いプレイヤー群の視線も、このときばかりは忘れていた。
「おい、大丈夫かよ」
あまりにも虚ろな目をしているスタラビに、俺は思わず危惧の弁を投げた。はっと我に返ったスタラビが口を開く。
「なんて刺激的な味なの!? 現実世界のどこを探してもこんなものないわ!!」
「すっかりハマったようだな」
強炭酸ながら胸を締め付けるような不快が全くない飲み物に、俺と同じくスタラビも虜になってしまったようだ。
「職業聞いたときから気になってたんだけど……」
余韻に浸るスタラビが思い出したように呟き、言いづらそうにその後を続けた。
「この世界では野球選手のギャラってどれくらいなの?」
「うーん……他のスポーツにも共通していることなんだけど、即時出来高制っていう方法を採用しているんだ」
「つまり活躍に応じて収入も変わるってこと?」
「そういうこと。俺の所属するコロッセオリバティリーグはプレイヤーが運営する一般ギルドだ。ギルドを十五に区分けすることで、あたかも十五チーム集まってできた巨大リーグに見せかけている。売上の内訳は観客のチケット代+ショップ売上の数パーセント。そこから、まず差っ引かれるのが競技場代。その次に、ギルドの運営費用だ。まあ、この二つは固定費みたいなもんだな。で、残りのお金を勝ったチームが分配する」
「え! じゃあ試合に負けたら……」
「負けたら報酬なし。しかも、勝っても均等に割るんじゃなく、選手の活躍に応じて割合が変わってくる。まあ、大体多めに貰えるのはピッチャーになってくるかな」
と言っても、誰もが希望のポジションに付けるわけではない。投手は華やかなポジションだが、最も起用条件の厳しいポジションでもある。
ギルドに参加し、職業を野球選手登録すると、全プレイヤーの持つ五大パラメータとは別に、球速・制球・走塁・守備・弾道・ミートからなる正六角形のパラメータが与えられる。更に、六つのパラメータを一定値以上上げることでその分野に応じた細かな野球スキルを取得していけるのだ。
しかし、ここで一つの問題にぶち当たる。五大パラメータと違い、六つの野球パラメータは購入できない仕様になっている。パラメータの上昇は練習、又は試合で経験値を積む他なく、途方もない年月を費やしてようやく手に入る上に、一度転職してしまうと今までの経験はリセットされ初期値に戻ってしまう。
そこで、キーアイテムとなってくるのが、野球パラメータの初期値。スタートは皆平等で初期値は一――ではないのだ。本来プレイヤーのベースとなる五大パラメータ、この数値の割合から六つの野球パラメータ値が弾き出される――と、ユウが言っていた。つまり、五大パラメータの補正が野球パラメータにも加わるということになる。
全財産はたいたユウの助言の甲斐あって、俺は転職前に五大パラメータを上げ、ベータ版体験中に誰よりも早いスタートダッシュを切れたというわけだ。
「引き分けだとどうなるの?」
今度は逆方向に首を傾げた。
「引き分けは報酬ゼロ。運営ギルドの丸儲けだ」
「シビアというか……阿漕というか……」
納得のいかない様子でスタラビはかぶりを振った。
「昔な、そういうトラブルがあったんだ。両監督と派遣審判が口裏合わせて、引き分けに終わらせる。確実に報酬を受け取ろうとしたんだな……。何とも言えない異質な空気が流れる試合だったらしい。スポーツマンシップにも反するし。運営ギルドの取った苦肉の策ってやつだな」
まだ納得していないのか、スタラビは不服な顔をしてみせた。
「にしても、今日はダイブしてるプレイヤーが多いな。まだ平日の昼間だぜ?」
公式のイベントでもあったのかなと思い、メニューウィンドウの運営情報を打鍵した。
「何寝ぼけたこと言ってるのよ。VⅤWは全世界一斉公開したじゃない!」
スタラビの呆れ口調と運営情報がポップするのは、ほぼ同時だった。大き目のサブウィンドウには、黒背景に銀のゴシック体で《祝・世界一般公開》の文字が悠然と輝いていた。公開されたのは前日午後三時。いくらなんでも入手が早すぎるのではないだろうか。
「競技場のバックスクリーンにもでかでかとあったじゃない。見てないの?」
バックスクリーンは中堅手後方にあり、投手の俺は試合中常に背を向けていることになる。
「あっ…………!!」
全世界一斉公開というキーワードに絶叫を上げた。
運営情報のポップアップを閉じると、メインウィンドウ――アプリケーションへと指を走らせた。数十もあるアプリケーションの中からブラウザを選び起動する。
VVWはエルジェップの独自回線からインターネット回線へも接続しているため、仮想現実にいながら外部のウェブブラウザを閲覧できる。メールのやり取りや、ブログの更新も現実世界となんら変わらず行えるため、フルダイブ中に仕事を処理したり、ゲーム内に会社――正確にはギルドだが――を設立する人も少なからず存在し、その数も増加方向にあった。
ブックマーク登録しているURLを開くと、空中に表示されたホロキーボードでユーザIDとパスワードを入力した。まだ使い慣れないホロキーボードで二度のタイプミスにイラっとしながら、証券会社のマイページに辿り着いた。
予想とは裏腹に、前日十九倍の高騰を見せたエルジェップ株は、微妙な上昇を見せ二十倍のラインを行ったり来たりしていた。もしかしたら更に高騰しているかもしれないという期待は叶わず、ウェブブラウザをとじようとメインページへと進んだ。
本当にこのままログアウトしてしまっていいのだろうか。俺は一瞬躊躇った。途端、思考は止まり極度の緊張が俺を襲った。サークフスから発生される多重電界パルスは脳をインターフェイスに、プレイヤーへデジタル映像を提供する。緊張のあまり思考を失った俺の脳は、VVWのグラフィックに一瞬のノイズを与え、視覚野が滲んだ。
気づいたときには、スタラビを一人残し転移門を目指して地面を蹴っていた。
ビギナープレーヤーでごった返したアカウント群が、何事かと視線を向けている。競技場から建物を隔てた転移門広場に出ると、更に高密度のプレイヤーたちが現れた。上昇させたばかりの敏捷パラメータの限り転移門へ駆け込み、転移先を叫ぶ。
「転移! ヴァオ!」
後ろから誰かに服を引っぱられた気もしたが、お構いなしに転移門へ飛び込んだ。
光に包まれ景色が晴れると、空と地面が逆転していることに気づいた。原因は飛び込んだせいだろう。重力補正により頭から豪快に落下した。瞬間的な不快感を受けると同時に、視界が白色光に包まれた。
この世界で強い衝撃を受けると如何なる外傷も負わない代わりに、多少の不快感がプレイヤーを襲う。しかし、それも一時的なもので数秒待てば必ず治まる。この世界で万が一にもプレイヤーが傷を負うことはなく、ましてゲームシステムが原因で死ぬということはあり得ない。
数秒で白色光は消え、起き上がろうとした瞬間――天上から二度目の衝撃に見舞われた。再び迎える不快感。そして、白色光。俺の身体にのしかかる巨大な柔塊を右手で除けると、訳が分からず上半身を起こした。
二度目の白色光が消えると、その状態を呑み込めず放心した。
顔を覆うほど乱れた栗色の髪。外国の映画女優さながらの容姿と、それに似つかわしくない平凡な初期アバター。俺に馬乗りになっている女性プレイヤーの衝撃タイムラグが解除されたのか、ぼさぼさの髪の隙間から目が合った。俺の右手は女性プレイヤーの盛り上がった胸部を鷲掴みにしていた。
「あ…………ありがとう」
他にいくらでもあった言葉の中から、この言葉を選択したのは俺のミスだ。
平凡な初期アバターの女性は、握りしめた右拳を頭の高さまで勢いよく振りかざし停止した。思考の末、時間をかけて右拳を下ろすと、口を開いた。
「…………ごめん」
予想外の物言いに唖然とする。
「いや、俺の方こそ……ごめん」
一瞬の沈黙ののち、スタラビははっとした顔を見せると、自らが馬乗りになっている俺の上から飛退いた。
「い、いきなりどっか行っちゃうんだもん…………行先くらい言ってくれないと心配するでしょ」
スタラビは早口に吐き出した。
「少し気になることがあって。それでユウに会いに来たんだ」
「わたしも行く!」
ユウの名前を出した瞬間、眉をピクリと動かしたように見えたが、気のせいだろうか。スタラビは言葉を強めた。
欧風の小さな田舎町に似せて創られたヴァオは、緩やかな斜面に煉瓦造りの家が点在し、家と家を隔てるように穏やかな水路が設けられている。町の水路が行きつく湖畔には形ばかりの水車が、デジタル世界には似つかわしくない悠々たるときの流れを振りまいていた。
水路を渡る橋が多いため、ちょっとした段差がいたるところにあった。馬を使った荷物の運搬は難しいだろうな、と農家にでもなった妄想をしていると、六つ目の水路を渡ったところで一軒家に突き当たった。
他の家同様、煉瓦造りではあるが表面に漆喰塗が施され、綻んだところから中の赤煉瓦が顔を出している。
漆喰塗りのユウ宅は二階建ての一階部分を、占い業を営むために使っていた。木製の扉の前で俺は息を整える――と、言ってもゲームシステムに息切れという状態ステータスはない。アールドアを引き、室内に踏み入った。重力設定により自然に閉まる扉と共に、営業中を伝える木製の表札が扉とぶつかり乾いた音を鳴らした。
薄暗い室内に視覚野の明暗調節が合うと、「ひゃっ」というスタラビの悲鳴が背中を押した。
「――釣りが趣味なのよ」
大小怪しげなインテリアの奥から、俺たちを待ち構えていたようにユウが現れた。インテリア群の中でも一際巨大なそれに、スタラビは目を見開き驚愕していた。壁に掛けられた一枚絵は入口から始まりぐるりと部屋を一周すると、再び入口へと帰還していた。円形に作られた部屋の壁一面を覆っているのだ。
そして、驚愕の種である黒い物体――尾ヒレをくねらせ一枚絵の隅から隅まで泳ぐ魚は、壁のキャンパスからこぼれ落ちそうな程デカイ。
釣りのメッカ《フィシュル》からさらに上流の湖でユウが釣り上げたらしい。そして、写真じゃ物寂しいと知り合いのプログラマーに頼み、墨塗りにした魚を、壁一面のキャンパスに印字、そしてモーションAIを与えたそうだ。世にも珍しい動く魚拓だ。
気のせいだろうか、五ヶ月前、俺が来たときよりデカクなっているようにも思える。
「エルジェップの製品にツフトっていう飼育ゲームがあってね。その技術を応用して作ってもらったの」
「なっ!」
ツフトは俺もお気に入りの飼育型ゲーム機だ。玄関先で熱帯魚を育てている。
全面タッチパネルの箱型のハードだが、エルジェップ製だったとは知らなかった。しかも、ツフトの技術応用となると、魚拓アプリ製作者はエルジェップ社員である可能性がかなり高い。開発者との繋がりも有するとは、ユウは一体何者なのか。彼女の交友関係に対する謎が一層深まる。
「ツフトは本来、リアルじゃ飼えない生物の飼育体験を楽しむ目的で作られたもの。空想上の生物だったり、伝説の怪獣だったりね。空想上の生物が有り得るなら魚拓だって飼えるのよ。そんなに見とれちゃって。今度釣りに連れて行こうか?」
ユウは口をあんぐり開けているスタラビに言った。
「い……いえ、結構でございます」
驚愕していたスタラビは首をぶんぶん横に振った。
「たまに、小さな魚を釣ってくるでしょ。それもキャンパスに魚拓を取るんだけど、いつの間にか居なくなっているのよ」
「どうりでデカくなっているわけだ」
小魚は餌となり、ゲーム本来の目的である飼育を見事に成しているではないか。
「ところで用があって来たんでしょ? まさかデートじゃ立ち寄らないし」
ユウはちらっとスタラビに視線を送ると、俺に向き直った。
「ああ、その……どうしたらいいかと思って」
言いよどんでいるとユウが代わりに口を開いた。
「言わなくていいわ。どうせわかるし。こっちに座って」
そう言うと部屋の中央に俺を誘導した。
向かい合わせに置かれた椅子の中央には、液晶が埋め込まれた丸いテーブルがある。忘れもしない――ダイブ初日に全ビルを失ったのはまさにここである。
早いとこ何かしらの指針が欲しい俺は粗雑に腰を下ろした。
ユウも向かいに腰を下ろすと、中央の液晶を軽く打鍵する。続けてタイピングにも似た動作でリズミカルに液晶を叩いた。しかし、液晶は電源が入るわけでもなく、依然として沈黙を守っている。それでもユウは画面を叩き続けた。まるで何か見えているかのように。スタラビもその奇妙な光景を食い入るように見つめていた。
恐らく、ユウのアカウント権限を持っていないと、液晶に映る文字もしくは映像を見ることはできないのだろう。これは俺の勝手な想像だが、アプリケーションはシステムウィンドウ上で動作するもの、というVVWの常識を無視して作られたプレイヤーメイドのアプリケーションだ。それも腕利きのプログラマーがVVWの動作環境で動くライブラリを自作し、それを参照することによってアプリケーションをオブジェクトに埋め込むという特異な占いアプリを作ったと予想する。予想するは簡単だが、開発キットで組めるプログラムスキルを遥かに超越していた。サークフス上で動作しているOSすら公表されていないのに、恐ろしく優秀なプログラマーが作ったのは間違いない。
そして、ユウはその人物を知っている。
「そうね……この問題に限って助言できることは何もないわ」
タイピングによる何らかの入力作業を終えたユウが呟いた。
「そんな……困っているんだ。今の状況じゃ論理的に判断できない。助けると思って、長い付き合いじゃないか」
前日あれほど動いたエルジェップ株の動きが止まった。奇妙さを感じる異質な動きに、俺の経験値では追いきれない。この環境下、どう振る舞えば正解なのか。俺はその指針をユウに求めたのだ。
俺はテーブルを強く叩いて詰め寄った。ユウは少し驚いた表情を見せたが、やがて静かに口を開いた。
「今の自分を論理的でないと評価できるあなたは冷静です。十分判断を下せる精神状態よ。でもこれだけは覚えておいて……頭と尻尾はくれてやれ。大事な言葉よ」
頭と尻尾はくれてやれ――投資の有名な格言だ。ユウに相談内容は言っていない。だが、今回も見事に言い当てているようだ。にも関わらず、強く売りを進めないのはどうしてだろうか。ユウの考えを理解できずにいた。
スタラビと別れフルダイブを終えた後も、ユウの言葉が何度も頭の中を巡った。
エルジェップ株は前日の伸びを少し抑え収束を見せたが、二十倍というあり得ない高騰の影響により、日経平均株価が五倍にまで膨れ上がっていた。
理由は単純だ。上場企業は仮想現実というビジネスモデルをこぞって取り上げ、そこに参入するようなネット広告を打ちまくっていたのだ。公開二日目にして、迅速。何の実績もない新技術が、構想上で出来上がり多くの経済ニュースとして取り上げられていた。期待の膨れ上がった市場に投資家は熱気を帯び、上昇を繰り返す株式を資本の限り買い漁った。
もう少しで億万長者に手が届くという期待も、俺の判断を鈍らせる大きな材料となった。二〇代前半で、しかも大学生成功者というステータスまで付いてくる。
結局、俺は売り注文を出せずに今日の後場を終えた。終わり五分前には恐怖から板を見ることもせず、保有することに決めた選択が正しかったのだと、自分に幾度も言い聞かせた。そうすることでしか、気持ちを落ち着ける手段が思い浮かばなかった。しかし、それに確証を与えてくれる材料は何一つなかった。正直、今すぐにでも手放してしまいたい。
頭と尻尾はくれてやれ――悶々とする俺に決断のきっかけを与えたのはこの言葉だった。俺はこの言葉を知っている。投資家なら当然一番の高値で利確したい。しかし、天井値の見極めなど所詮無理な話。利益のあるうちに、一秒でも早く確定させてしまいなさいという、ユウからの遠まわしなアドバイスだった。
明日も株価はきっと上がる。前場の開始と共に手放そうと心に決め、今日の営業を終えた取引所に成り行き注文を出した。これで翌朝九時になれば、そのときの値で自動的に売られているはずだ。
四囲が暗い夜はどうしても思考が良くない方へ流れてしまう。眠気はなかったが早めに布団に潜り、俺は外部の情報を遮断した。
結果、翌朝になってもエルジェップ株が俺の手から離れることはなかった。




