9話
形許りの美愛の誕生日を済ませ、帰省するため新宿駅から夜行バスに乗車した。
俺の部屋で祝った初めての美愛誕生日会は俺と美愛とかえで三人だけの、ささやかな会になってしまった。本来なら共通の友人でもあるサークルメンバーも呼んで盛大にやりたかったが、一人残らず帰省し、東京に実家を持つ二人とたまたま帰省していなかった俺の三人しか集まることができなかった。ここ最近、東京の人口は減った印象を受ける。それでも、美愛の誕生日を当日に祝ってやれたことが、せめてもの救いと言える。
俺たちの学び舎は、もはや大学としての機能を果たしていなかった。教授をはじめ、事務職員、技術職員、助手、警備員までもが失業し、来年度の入試は中止。在学生は強制的に無期限の休校とされた。民間企業の失業者は業種問わず、山のように沸いた。それは日本国内に留まらず、世界中で同様に起こった。
遡ること八十一日前。十月三日、早朝。日本から発火し、最初におかしくなったのは東南アジアの発展途上国。それら発展途上国の機能停止を合図に、ぎりぎりのところで持ちこたえていた先進国もあっという間に崩れだした。
資源豊かな土地にいち早く目を付けた各国の富裕層は、利便極めた都心を捨て我先にと田舎の土地を買い漁った。しかし、田舎に資源などなかった。物資の届かない田舎では盗み・麻薬・疫病が蔓延し、既にスラムと化していた。そんなニュースが出回るやいなや、高騰しきっていた地価は急激な需要の落ち込みに、ついに下落を見せると、雪崩のように急落した。
この社会現象をきっかけに、世界の報道機関は一様に《第二次世界恐慌》というキーワードを使い始め、一般人の耳へも広まりだした。
満席の車内は不思議な静寂で、照らす月明かりはどこか知らない土地にでも運ばれていくような不安を突き付けた。いっそのこと知らない土地に一人放り込まれた方が、この世界で生き残る可能性があるのではないか。そんな思いとは裏腹に、夜行バスは確実に目的地との距離を縮めていった。
どうしてこんなことになったのか。日本中どこを探しても、二ヵ月前の事件を首尾よく解決してくれる政治家はいないだろう。政治家たちはメディアを通し、第二次世界恐慌という不気味なワードだけを残して消えていった。
俺が知ったのは全てが発表された後――今から八十一日前の十月三日木曜日午前九時。
ハイテク化した液晶の窓が、人類が経験した中で最も寒冷で澆薄な冬の訪れを知らせた。
十月三日。
前日早めに就寝した俺は、起床直後、一度遮断した外部情報を上手く呑み込めずにいた。
就寝前、確かに売りに出した三〇〇のエルジェップ株は一株も売れてはいなかった。午前九時二分という早い時間帯のせいもあるのだろうか。いや、これほど話題になっている注目株に注文が入らないわけがない。
前日、二万五三二三円で終わった株価はわずか一〇八円まで下がり、売買一時停止状態になっていた。見たこともない桁の売り注文に対し、板の買い注文にはゼロと、ただ表示されていた。
急激な心拍の増加に、意識が朦朧となった。そこからの記憶は所々途切れている。それでも謎の急落を調べたという事実は、ブラウザの検索履歴にしっかりと残っていた。
急落の事実が信じられず、食事もとらないまま半日以上PCを睨んでいた。ひと息ついたときには、西日が差し込んでいた。
ようやく冷静を取り戻し、半日の検索のログを辿ると、何度も同じページを行ったり来たりしていただけだった。そのうち二〇回はアクセスした動画投稿サイトによると、急落の原因はエルジェップ代表取締役社長である阿比留勇の突然の辞任だった。そのサイトには記者会見の一部始終の映像もあった。俺が前日布団に入った直後、十月二日午後一〇時、無音の会見場で淡々とした阿比留の声が響いていた。
動画は短いもので質疑応答は一切なかった。阿比留が辞任するということ、そして四〇万株の持ち株を手放したことのみを告げていた。理由は一切説明なし。どんな意図で社長を辞任し、会見まで開いたのか。俺には一切想像がつかなかった。それどころか、株価が高騰した直後に大量の売り注文。一気に注目されたことが怖くなって、代表の責任から逃れたのか。人生をかけてサークフスを開発した阿比留社長がそんなことをするとは、どうしても想像できなかった。
夜行バスの揺れは、日頃の睡眠不足を餌に、俺の意識を容赦なく奪っていった。再び目を開けた時には朝日が昇り、窓ガラスの水滴を金色に染めていた。
俺の実家は新潟駅から北上し、萬代橋を渡った先にある。目的地である新潟港万代島ターミナルへの到着直前に橋の対岸から、遠目にではあるがバスから実家を見通せた。
日が昇ったばかりの早い時間のため、まだ母は寝ているだろう。そう思いながらも、自然といつもの癖で実家に目が向いた。
見間違いだろうか。黒塗りの車が一台、石塀の脇に停車している。母に何かあったのだろうか。言いようもない不安が心臓を締め付けた。うちとは無関係であってくれと願うほど、気持ちを焦らせた。
最後の信号が青に変わると、ようやくバスはターミナルに到着し、ドアエンジンの電動音とともに自動ドアが開いた。
萬代橋を渡り、右の脇道へと走り込んだ。必死に走ったが、しかし、どれほど腕を振ろうとも、仮想世界で走るほどの速度は出せなかった。息も上がっている。激しく振動する鼓動を抑え、息を整えながら黒塗りの車を覗いたが、車内に人の姿はなかった。
冬の外気に晒されたボンネットは氷のように冷たかった。石塀に囲まれた背の高い門を潜った。引き戸を開けると、二人の男と話す母が出迎えた。
「あら、おかえり。そろそろじゃないかと思って、待っていたのよ」
夏休みはVVWに没頭していたため、母と会うのは一年ぶりになる。
「母さん少し痩せた?」
「何言ってるのよ。食べ過ぎて、むしろ少し太ったくらいよ」
母が笑った。
俺は傍らの男を順番に見た。どちらもスーツの上にチェスターコートを羽織り、家には上がらず玄関に立っていた。
入口にすぐ近い男は一八〇センチほどの長身で西洋系ハーフのような顔立ちをしている。体格も良く、プロのスポーツ選手だと言われても疑わないだろう。そして、もう一人の男に視線を向けると、嬉しさと懐かしさが込み上げた。
「綿井さん!」
「また会えて嬉しいよ。芹人くん」
懐かしい声を返した男は、内定式で唯一会話を交わしたエルジェップ社員の綿井だった。以前、仮想世界内で会う約束を交わしたが、世界中の企業が倒産する中、エルジェップ社も例外ではなかった。VVWは無期限のサービス停止となり、結局会えずじまいになってしまっていた。
「待っていたのは私たちだよ。芹人くん」
西洋風の男が名刺を差し出した。そこにはエルジェップ株式会社特殊営業部 神童・モルス・焉 と記載してあった。
第二次世界恐慌以降、エルジェップ社は営業停になり、俺の内定も取り消されているはずだ。直接内定取り消しの連絡がきたわけではないが、友人たちは一人残らず取り消しのメールなりハガキを受け取っているし、企業と音信不通になった者も大勢いる。俺に連絡が来ないのもその類だと認識していた。大小問わずほとんどの企業が潰れ、今更何をしに来たのか、俺は二人の言葉を待った。
「世界がこんな状況の中、疑ってかかるのはわかるが、そんな怖い顔をしないでもらえないかな。四月から君とは同じ会社の社員なのだからね」
俺は言葉の意味を理解できずにいた。
「四月から……?」
四月から一体何が始まるのか。世界中の経済は機能していない。物価は上昇して、紙幣は紙切れとなった。ライフラインとなるエネルギー関連企業は国が全て買収。先進国の一部でかろうじて動いているものは、国の運営する公共放送・エネルギー関係、そしてそれに付随する請負業者くらいである。それも供給が全く追い付かない環境での運営である。
その中でエルジェップ社にまともな経営ができるとは到底思えない。VVWで楽しく交流なんて以ての他だ。
「これから君を連れて行くことになっている。理由は聞くかい? お母さんにはもう説明してあるけど」
俺の困惑を察した綿井が訊いた。世界恐慌から二ヶ月以上待って、やっと実家に帰れたのだ。もちろん納得せずここを離れることはできない――。
「いえ、このまますぐに出発してください」
俺の返答を遮ったのは母だった。少し強引さを含んでいた。その言葉に特別な意味が込められているのか俺にはわからないが、明らかにその言葉を機に二人の男の顔つきが変わった。
俺がここに到着する前、三人は何か話をした。そして、母はそれを受け入れた。母の毅然な表情から、それはある種の覚悟を要する受け入れだったのだろう。今の母の発言で俺が理由を聞く機会は失われた。そこまで理解し、母の意を組むべく、俺は言葉を呑み込んだ。
「わかりました」
二人は母の決意を察したように、俺を車に誘導した。しかし、それが何の決意なのか俺にはわからない。
黒塗りの車内は思いの外広々としており、車の知識の乏しい俺でも高級車だということが一目でわかった。
「マイバッハという車だよ」
ゆったりとした後部座席に座ると反対側のドアから綿井が乗り込んできた。神童は運転席に座っている。
「少し時間が遅れています。飛ばしますよ。綿井さん」
神童はカチャリとシートベルトを差し込んだ。
「安全運転で頼むよ、モルス」
綿井は苦笑いしながら、鞄からタブレット端末を取り出した。どう見ても神童の方が年上ではあるが、神童は綿井を敬称で呼び、綿井は神童を呼び捨てで呼んでいる。内定式にもらった名刺の役職は偽りではなかったようだ。
「この車はね、実は社有車じゃないんだ。僕の愛用車でね。内装も格好良いだろ? ほとんどの部品が職人の手作りなんだ。僕はね、VVWの世界にもいつか物を作るシステムを構築したいと思っている」
「物を作る……ですか」
たしかに今のVVWは料理でさえ、初回に一度作るのみ。作るといっても、作業はかなり簡略化されている。その上、工程はアプリケーションが記憶し、二回目以降はワンクリックでできてしまう。
そのほかの建造物はエルジェップが用意した開発キットでモデリングし、表面の材質を決定すればオブジェクトとして登録されてしまう。現実世界にあるような「ものづくり」という概念は、仮想世界には存在しない。
プレイヤー自身が足を動かし、指を使って物が作れるようになれば、仮想世界は一気に現実へと接近するに違いない。しかし現実的に考えて、避けては通れない問題がひとつ存在する。
「無理ですよ、もう。世界中の企業は潰れて、まともな営業ができているところなんかありません。エルジェップだって例外ではないはずです。そもそも、VVWを再開しても呑気にゲームをしてくれるユーザーなんかいませんよ」
あたかもVVWのサービスが続いている口調の綿井を俺は揶揄した。綿井はその言葉を待っていたかのようににやりと目を細めた――ように見えた。
「芹人くんは今の経済状況をどこまで理解している?」
「約三ヶ月前、日本の株式市場は二日で日経平均を五倍にしました。直後、期待に満ち快調だったエルジェップの急落を機にそこから五〇分の一にまで落ち込みました。エルジェップ阿比留社長の辞任がきっかけです。大企業の設備投資がなくなり、まずダメージを受けたのが中小企業です。このころから、学生の内定取り消しのニュースが増えました。日本経済が実質破綻したのが十一月の始め。それが世界に飛び火し、発展途上国、先進国の順に崩れました。それが十二月中旬頃の話ですかね。自分がまだ生きているのが不思議なくらいですよ」
ほとんどのテレビ放送がなくなったのでネットで得た知識ですが、と前置きして俺は知っている知識を全て話した。
「うん。大体合っている」
綿井が暗い顔でぽつりと呟いた。
「中小企業は限りなく一〇〇パーセントに近い数の会社が倒産した。しかし、中小企業よりも早く潰れた大手企業が一つだけある」
「日本で最初に潰れた企業……エルジェップですか?」
「いや、エルジェップは潰れていない。鉄道会社さ。正確には、政府の命令で自主的な営業停止とでもいうべきか」
綿井が教えてくれたマイバッハという車は、驚くほど静かなエンジン音で出発すると、ほどなくして亀田インターに吸い込まれていった。公共交通機関も機能を停止している今、高速道路は車一つ走っていない。
「……何か不祥事でも起こしたんですか?」
「エルジェップの株価急落を重く見た日本政府は、大勢の個人投資家が人身事故を起こすのではないかと予想したんだ。起きると判っているなら営業停止にしてしまえとね」
「所謂、身投げですね」
「そう。初めのうちは、自殺者数を押さえられて効果があったんだけどね。結局は時間の問題だった。経費削減で首の皮を繋げていた大手も、大企業としての規模を維持できなくなってきたんだ。金の動きを止めたのは銀行さ。見通しがつかない企業で溢れた市場への融資を貸し渋り始めた。挙句には黒字倒産する企業まで現れた。異変を肌で感じ始めた市民は、個人預金を一斉に引き出し、金融機関の資本が尽きるのは案外早かった。負の連鎖はあっという間だ。リストラは止まらず、最後役員しか残らない企業は数え切れない。それから程無くして、日本はアジアで一番最初に国としての機能を失った。ってのが、十一月の話」
「大学も先月の半ばから、無期限の休校に入りました。あれだけ人がいた東京でも、今では出歩いている人を見つける方が難しい」
「日本の人口の話をする前に、世界の情勢も教えておこう。君にはそれを知る権利がある。日経平均が五倍まで跳ね上がった十月二日、ニューヨークをはじめ、ロンドン、上海、フランス、サンパウロ、オーストリア、世界中の証券会社は見たこともない好況を迎えた。中には日本を上回る伸びを見せた国もあったほどだ。実態を持たない期待だけで膨れ上がった株価だ。世界中の企業からVVW内への広告依頼は殺到した。広告費だけで前年度売上の七〇倍の受注が決まっていた。阿比留社長の辞任発表までは・・・・・・」
綿井は言葉に詰まり、悲壮な顔を見せた。
「期待とはあっけないものだ。手を付け始めていた仕事の受注も消えた。株価急落の根本の原因は社長の辞任ではない。それはあくまで、きっかけであるに過ぎない。根本の理由は、当初予想利益の大幅な下方修正。株主とは実に気分屋だ。予想通りの結果を残すだけでは株価は上がらない。今後に期待のある結果で初めて上がる。そして、予想通りでないと容赦なく下がる。それも、悲痛なまでにね・・・・・・」
そこまで言うと、涌井は目を伏せた。
「・・・・・・」
容赦ない急落を俺は身をもって経験していた。損失はなかったにしろ、一つの判断を誤り、多額の利益を逃している。
「話を戻そう。日本の人口だったね。正確な統計は取れてないけど、国に報告されている死亡者数を引くと、現在の総人口は約二五〇〇万人。行方不明者を含めるともう少し減るだろう。およそ八割の日本人は亡くなったということになる」
「・・・・・・!!」
予想を超える人口の少なさに俺は驚愕した。
「驚くのも無理はないよ。この数字は公表されていないからね。日本は早い段階で自殺者数を数えるのを止めたんだ。鉄道会社の営業停止で人身事故の件数はゼロになった。でもね、自殺者数の抑制には到底至らなかった。命を絶やす方法なんかいくらでもあったんだ」
「そんな……死ぬほどの理由なんて……」
呼吸は胸の奥で詰まり、それ以上の言葉を発することができなかった。
「歯車のずれた負のサイクルは、再び負の事象を呼ぶ。そうやって、災難は途切れることなく続いていくんだ。君が二ヶ月間生きていれたのも、悪いが運が良かったと言わざるを得ない」
少し間を空けてから、綿井は小さく「申し訳ない」と呟いた。
「いえ、いいんです。そこまで日本の経済が深刻だとは思ってませんでした。母とも最近まで連絡取れていたし……でも、最近になって通信会社が潰れて、今まで当たり前にできていた生活が難しくなってきました……何かおかしいと思い始めたのは、このときからです」
俺は溜め込んだ空気を吐き出すように息をついた。
「それで、これからどうしようというのですか。会社もなくなったのに、営業活動みたいなことをして……」
俺は神童にもらった名刺をもう一度眺めた。
「さっきも言ったろ。エルジェップは潰れていない。それに、君の内定は取り消されていない。これから君をある施設に連れていく」
綿井の言っている意味がわからず、バックミラー越しに神童を伺った。俺と一瞬目を合わせた神童は、すぐに視線を前方に戻した。
「……一体その施設でエルジェップの人は何をしようとしているんですか?」
俺は孟秋行われた内定式を思い出していた。豪壮な武道館で行われた赫々(かくかく)たるセレモニーは、近い将来を期待で溢れさせた。それが今や、知っているほとんどの企業は潰れ、友達も消えた。それも、現状を引き起こすトリガーとなったのは、他でもないエルジェップである。さらに、エルジェップのみ倒産を免れ、念願の社員になれると言われても、俺は戸惑いの色を隠せなかった。
「ところで芹人くんは、技術職で採用されたんだったね」
綿井は黒のビジネス鞄から取り出していたタブレットの電源を入れた。
「そうですが、それが?」
暗い車内でタブレットの光が綿井の顔をほんのり照らす。
「採用試験の成績は悪くない。プログラミングの知識もある。人事担当者の評価も良いようだね」
採用試験の評価表を見ているのだろうか。綿井は何度か画面をタッチして言葉を続けた。
「いいだろう。君にはVVWの運営チームに配属してもらう」
「……運営!? たしか、VVWは今、サービス停止中じゃ……」
「停止なんかしちゃいない。厳密に言うと、一般ユーザーがログインするサーバーはロックしてある。しかし、特定のIPアドレスを持った端末からログインすると、そのロックを素通りしてアクセスできるんだ。今から君をそこへ連れていく」
綿井は端末操作をやめ、それを俺に差し出した。画面の表題に契約書と記載があるそれは、以下に難しい文章を何行にも連ねていた。
「君がVVW内で労働するために必要な書面だ。目を通したら最後に署名してくれ」
綿井はジャケットの胸ポケットから電子ペンを取り、俺に手渡した。心のどこかにひっかかりを感じながら、俺は電子ペンを受け取った。
ややこしく書かれた難解な文体を必死に目で追っていると、違和感のある内容に目の動きが止まった。そこには、こう書かれていた。
《如何なる場合に於いて、貴方が仮想現実世界との接続を解除する場合、責任者の指示を仰ぐこととする。責任者とは、全役員のことを言う。これを破る場合、アカウントの全ての情報は弊社に帰還する》
「言い換えると、簡単にはログアウトできないよってこと。そこはそんなに気にする必要はないよ――」
俺の視線を追って、綿井が言った。
「綿井さん!」
咳払いをしながら運転席の神童が言った。続きを言いかけた綿井は、そこで言葉を切った。
――まただ。同じ日本語なのに、俺の知らない言語で話しているような。実家で感じたものと同じ 二人の空気を、肌で感じた。
マイバッハの車窓から見える高架下の景色は、伽藍堂の廃墟が並び、人の生活は微塵も感じられない。東空の遥か先には、かつて栄華を極めた大企業のビル群が見える。これも高架下の廃墟同様、人に使われなくなったコンクリートの塊に過ぎない。
「現実世界は人間が住める環境ではなくなった。これは個人的な見解ではなく、日本政府が下した最終結論だ。一般人への公表はしていない。いくつか問題が生じるからな」
口を閉ざしたままの綿井に代わり神童が言った。アクセルを一層深く踏み込むと、神童は続けた。マイバッハの静かなエンジン音が、気持ちばかりの唸りをあげる。
「文明を起こすのは民間人であり、保護するのが政府だ。その政府がこの世界を捨て、新たな移住先としてVVWを選定したのだ。サインをするんだ。そろそろ着くぞ」
バックミラーで俺の顔を見て、神童は確言した。俺はバックミラー越しの神童から荒んだ景色へ、そしてタブレット端末へと視線を移し、ペンを握りしめた。震える手を強く抑えつけ、志から始まり人で終わる全四文字の署名を終えた――と、同時にずっと感じていたひっかかりが、ある疑問へと変わった。そして、疑問に付随した大きな不安を、俺は一刻も早く取り除きたかった。
「ところで、綿井さん。母を実家に残して来たんですけど、VVWの中で会えるんですよね? 現住所が違うからログインする場所も違うとか、そういうことですよね?」
綿井は少しの間俯き、やがて口を開いた。
「申し訳ないが、君のお母さんは実家に残ってもらう」
俺の不安は最悪な形で的中した。
「そんな……現実世界は人間の住める環境じゃないって言ったじゃないですか……そうだ! ハードが足りないんでしょ? 俺の部屋にサークフスが一台あります。それを使ってください」
神童と綿井の言っていることが全て正しいなら、実家に残るということは国に見捨てられたも等しい。完全な自給自足が可能であれば生き残る希望もあるが、うちの家業は農家ではない。
「世界中の人を対象にした移住計画だ。世界中の人が移住するには人を選定しないと、君の言った通りハードが足りない。そして、一台でも多くのサークフスが必要なのも事実。しかし、君の持っているサークフスでは、例え既存のアカウントを削除して新規にプレイヤーを作っても、最新のVVWのバージョンには対応していないんだ」
「そんな……でも、何か方法があるはずです」
俺はあらゆる可能性を考えた。
「……綿井さん」
綿井の名を呼ぶ神童の口には何か咥えられていた。呼びかけに応えるように、綿井もジャケットのポケットから神童と同じものを取り出した。リップクリームサイズの筒状の何かを、綿井も口に咥える。途端、俺の意識は遠退き、心地のいいエンジン音に吸い込まれていった。




