7話
後期授業がスタートしたばかりの、朝の地下鉄は空いていた。初日からいきなり教科書を開いての授業は少なく、履修科目を決めるための授業説明がほとんどだ。初日から時間通り出席しようなんて学生は、少ないのだろう。満員時と比べて車内が空いているときは、サラリーマンたちの表情にもゆとりが伺えられた。
朝一緒に目覚めたかえでは、何事もなかったかのような態度で、どんな授業を取ろうか通学中ずっと悩んでいた。といっても、卒業単位が足りている俺たちは、四年後期に履修しなければならない授業はほとんどなかった。
「おはよう、尚」
かえでが小さく手を振った。一限の教室に入った俺とかえでは、尚の隣に荷物を置いた。同じ学科の尚とは授業で会うことが多い。
かえでを介して美愛とも仲のいい尚は、美愛以上におっとりしていて、どこか不思議ちゃんな雰囲気も備えていた。そんな尚が難しい顔をしてかえでの全身を眺めた。その視線はかえでから俺へと移される。テンポの遅いゆったりした京言葉で尚は口を開いた。
「かえでちゃん、昨日と同じ服?」
尚はもう一度かえでに視線を戻す。俺は鼓動が高鳴った。
かえでがどう説明するのか、鞄からシラバスと電子ノートを取り出しながら耳を傾けた。
「昨日、内定式のあと研究室に泊まったのよ」
眉一つ動かさず答えるかえでの振る舞いに感嘆した。
「あのな。二人一緒に来はったから、もしかしたらと思ってな。二人とも同じ内定先やったろ?」
温順な割に、洞察力が鋭い子だ。完璧に言い当てている。しかも、昨日まで俺すら知らなかったかえでの内定先を尚は知っているようだ。
「二人は昨日、一緒にいたの?」
この話を掘り下げられる前に、自然を装い俺は話題を変えた。
「芹人はいなかったけど、後期の授業説明は昨日からだったの。あたしは他学科の講義に履修したいのがあったから出席したんだけど、偶然その教室に尚も居たのよ」
かえでもシラバスを取り出し机に置いた。
シラバスには大体の授業計画をはじめ、講義の目的や内容が書かれている。時間割を自分で作成する大学生が参考にする他、教員がお互いの授業内容がかぶらないよう調整するのにも使われていた。
予鈴が鳴ると同時に、担当教員が教室に入ってきた。後期はこの授業と、もうひと講義くらいになるだろう。
特に聞く必要もない授業説明を聞き流し、携帯端末を頭に装着した。かえでと起床したため、見逃していた株価チェックをするためだ。
現在保有しているのは、医療株のエルジェップだけだ。五月頃売り損ねた株だが、その後上がりも下がりもせず、ほぼ一定の値動きをしていた。入社してインサイダーを疑われる前に手放したいが、しばらく経過を見ることにしていた。
インターネットに接続し、証券会社のマイページへログインする。
「あっ!!」
見慣れない数字に授業中ということを忘れ俺は声を漏らした。
何事かと教室中の視線が突き刺さる。教員が咳払いをし、授業説明を再開した。
「どうしたの?」
隣のかえでが耳打ちした。
「……いや」
慌ててメガネ型端末へと目を戻す。
マイページのホーム画面には、保有資産の合計額が表示されている。しかし、二日前にチェックしたときと金額が大幅に合わない。二桁ほど多いのだ。
前回アクセスしたときの保有額は、たしか八〇万程度だった。しかし、そこには一〇〇〇万を超す数字の記載がなされていた。
淡々と説明をする教員の声などもはや耳に入ってはこない。手に大量の汗を握っていることを、思考の止まった脳が冷静に認識した。鼓動は強く胸を打ち続けた。
証券サイトのバグか、もしくはIDを打ち間違えたか――一旦ログアウトし、再度IDとパスワードを入力した。間違いなく俺のアカウントだ。続いて、保有株の情報を開く。
エルジェップ株が見たこともない値上がりをしていた。五ヶ月程前に売り損い、その後増減一パーセント以内をウロウロしていた株だ。
一二〇一円で四〇〇株購入した株価は、一晩で二万五二〇四円まで値上がりを見せていた。しかし、それ以上に奇怪なのは出来高だった。二万五二〇四円の表示値は毎秒上昇を繰り返しているにも関わらず、出来高の数値はいっこうに増える気配はない。見入る出来高の数値には、見覚えがあった。32ビット整数型変数の持てる最大値で停止していたのだ。おそらく、取引は今も継続されているが、数値表現の最大値に引っかかりカウントされていないのだ。
システムの予想を遥かに超える値動きを見せ、エルジェップ株は秒速で年初来高値を更新し続けている。
二〇二〇年――米国市場に習い、日本の証券取引所はストップ高、ストップ安といった値幅制限を完全廃止とした。
廃止理由は、株式市場の活性化。二〇一二年、内閣による経済政策により日本経済は回復を見せたが、その盛り上がりも五年ともたずに一時的なもので終わった。その結果、短期間の投機熱により、中途半端な技術を身につけた多くの個人投資家が、経済施策の爪跡として残された。
億万長者の夢が難しくなった日本の株式市場とは異なり、香港、ニューヨークといった値幅制限を持たない証券取引所は、依然として、市場規模を拡大していった。そこで、考えられたのが、値幅制限の完全廃止である。際限なく増減する株価に夢を抱き、個人投資家は増え、市場は活気を取り戻した。
この新制度により、日経平均株価の値動きも激しさを増した。沢山の億万長者が誕生した。ワイドショーは成功者を追い、投資ビギナーを更に増加させた。一方で、失敗する人も数多くいた。自己破産、人身事故、自殺者数の増加は連日のニュースとなり、富を得た一部の人間を支える犠牲者が目立つようになっていった。
この社会現象の打開策として、リスクを分散した投資型の推奨を政府が打ち出した。一つの株に集中する投資を危険とし、数銘柄に分散した投資方法を世の中に発信した。利益に夢中二なる余り、盲目になっていた世間も影響を受け、今ではスタンダードな投資方法として認知されている。
エルジェップの株価が二万五三〇〇円のラインを超えたところで、俺は保有している四分の一にあたる一〇〇株を売りに出した。
元金を差し引いても、二〇〇万の利確になる。残りの三〇〇株が暴落して紙切れとなっても、元は取れたので言うことはない。
儲けをだしたことで、張りつめていた気も幾分緩んだ。びっしょり掻いた汗は冷房で冷やされ、半袖のシャツが冷たく身体を包んでいた。
メガネ型端末を外そうと手を伸ばすと、メールの着信を知らせるアイコンが左上にポップした。美愛からだ。
大学院試験が終わったことを知らせる内容だった。そこには、こうも書かれていた。
《卒業制作、長い間待たせちゃってごめんなさい。これから、うんと時間取れるから、芹人との卒業制作が楽しみだよ。今日のお昼に部室で少し進めませんか?》
滞っていた作業を再開できる見通しが立ち、肩の荷が一つ下りた。自分の考えたシーケンスフロー図に、美愛がどんな反応を見せるかも楽しみだ。
「――悪い、お待たせ」
息を切らして俺は部室に駆け込んだ。かえでと尚からのランチの誘いを断るのに手子摺り、部室を訪れた頃には二限の講義終了から二〇分が経過していた。
「待ってないよ。あたしこそ急に呼び出してごめんね」
美愛はコンビニで購入したレタスサンドを食べているところだった。
「ほい、これ!」
いつでも美愛に渡せるように鞄に忍ばせていたフローチャート図を、レタスサンドの横に置いた。
「もう資料作ってくれたんだ!」
美愛はひと目で何の資料なのか察しがついたようだ。最後の一口を詰め込むと、ぱらぱらと資料を捲った。
「へえ、株取引って案外単純な作業なのね」
「もしかして、もう内容理解したの?」
「正動作の矢印を追っただけよ」
たしかに、株の本質は単純だ。安いときに買って高いときに売るか、もしくは、高いときに売って安いときに買うだけである。フロー図から瞬時にそれを読み取った美愛に感心した。
「開発環境は研究室のPCで十分だと思う」
「そうね、あと問題なのがリアルタイムに変化する株価をどこから調達するか」
デザートのプリンを開封すると美愛は容赦なくスプーンを突き刺した。
「その辺はご安心を。すでに証券会社から格安で購入済みだよ」
証券会社の持つ株情報は契約すれば、一般人でも購入することができる。有料情報の種類は細かく分類され、料金も数万~数十万と各社まちまちだ。探せば格安で販売しているところもあり、卒業制作のために俺は株価と出来高の二つの情報を五万円で契約していた。
「五万円!?」
契約額を伝えると美愛は驚愕した。
「そ……そんな大金、どうやって用意するの? 株の利益から補填するの?」
「俺も最初は、株の利益から回そうと思っていたけど、臨時収入があったから気にしないでくれ」
美愛は目をしばたかせた。
「臨時収入? 怪しいわね。教えなさいよ。隠し事はなしって言ったでしょ?」
美愛の口調がかえでに似てきたのは気のせいだろうか。と、思いを口にするのは止め、口を噤んだ。
「……うーん。ま、いいわ。今回は随分待たせた代わりに聞かないであげる。それと、別に聞きたいことがあったし」
「ふうん、やけに素直だな」
あっさり引き下がる態度に不審を覚え、俺は真意を探ろうと言葉を投げた。眉は平静を保ち、口角も上がっていない。表情から読み解くのは難しそうだ。
美愛は食べ終えたサンドイッチの包装とプリンの容器をコンビニ袋に入れた。
「で、聞きたいことって?」
「あのさ、サークフスって知ってる? 仮想現実を体験できるSNSらしいんだけど」
美愛からサークフスの話が出るとは思わなかった。
「ああ、知ってるも何も、俺も今ハマってるよ」
「ほんと? 昨日出たばかりなのよ?」
美愛は驚いた表情を見せた。
「かえでもやってるぞ」
「かえでも!? 聞いてない!」
美愛は前のめりになって顔を近づけた。デジタル世界でどこか見覚えのあるような、そんな端正な目を見開いている。
かえでは内定の事実を俺にも内緒にしていた。尚は知っていたようだが、他の誰にも言っていない可能性は非常に高い。例えそれが美愛であったとしても。
「今朝のニュースからすごい話題よ。未来型ゲーム機だとか、安価に仮想の宇宙旅行ができる日も近いとか。一体どんな設計がされているのか、いち技術者として非常に興味があるわ」
美愛の興味はプレイよりも開発側に向いているようだ。
「それにしても、昨日発表されたゲームをどうやって手に入れたの? それとも、それも秘密?」
「いや、もう発売されたし言うよ。実は俺の内定先が開発元のエルジェップなんだ。内定者はハードとソフトを提供される代わりに、無償でデバッグ作業を頼まれていてね」
「かえでも?」
「そういうこと。かえでも内定してるって知ったの、実は昨日の内定式でなんだ」
「秘密にして驚かそうとしたってわけね。まあ、かえでらしいっちゃ、らしいけど」
納得したのか、美愛はようやく近づけていた顔を離した。
「ニュースで見た限りだと、物凄いスペックよ。一体どんな人が作ったのかしら」
サークフスと同封されていた広告を俺は思い出した。
「仮想世界は現実の地球をモデルに、球体に設計されているらしい。街と街の転移機能はあるけど、使わずに歩いても次の街へ移動可能になっている。基本的に道の行き止まりはなし。プレイしてみても侵入禁止エリアはほとんどなかった」
「番組の3D映像もすごく綺麗だったわ。メインサーバーの容量は皆目見当もつかないけど、3Dグラフィックも含めた一人あたりのアカウント情報量が数テラあるとすると……えーっと……単純計算でかけるアカウント数――」
自分で作るつもりなのか美愛は独り言の様につぶやき始めた。俺はまたかと思いつつも、頭の中の電卓を一緒になって叩いた。
「それに建造物やNPCといった仮想環境の3Dマッピングを含めると、テラでは収まらないな。数百ペタ、もしくはエクサバイトというとてつもない単位になるんじゃないか?」
俺は美愛の暗算に助け舟を出した。
「うーん……難しいか。開発環境だけでも整えて、あたしだけの小さな仮想世界作りたかったんだけどな」
どうやら、美愛は俺の求めるさらに上の、開発側の立場に立っていたようだ。
「あたしだけの仮想世界もいいけど、卒業制作のプログラミングもよろしくな!」
「わかってるわよ。一週間もあれば作って見せるわ」
美愛はぐっと親指を立てた。
進捗報告を来週やろうと約束を交わし、午後も授業だと言う美愛を残して、部室を出た。
一秒でも早く帰宅し、VVWにダイブすることで俺の頭は一杯だ。数値が全てのデジタル世界でやることはもう決まっている。俺はすっかりVVWの虜になっていた。生活の一部と言っても過言ではない。ダイブの楽しみから、自然と足が速まる。
所々ひび割れ、歴史を感じさせる大理石の階段を、二段飛ばしで駆け降りた。




