29話
このマシンを初めて手にしたのは今からちょうど一年前になる。
俺は現実の身体と意識が繋がるよりも前に、使い慣れたサークフスを取り外していたようだ。
ベッドを支えに立ち上がり、点滴バッグを取ると残量が増えていることに気がついた。美愛のお姉さんが交換してくれたのかもしれない。
リハビリを始めてから、同日に二度もログアウトするのは初めてで、数時間前の施設調査の疲れが身体に重くのしかかった。気力を振り絞り、出口に向かった。
移住者管理施設東アジアの扉前で黒い壁と向き合った。長い廊下の一部壁が黒く塗りつぶされ、その境目には赤いランプが灯っていた。
黒い壁には浅い溝があり、目で追うと天井まで延びている。溝は五メートルほどの間隔を空け、もう一本あった。
幅が大きすぎるため一見するとただの壁だが、もしこれが稼働すれば――。
一抹の期待を胸に、俺は赤いランプを押してみた。ランプは緑の点滅に変わり、壁の奥から低い機械音が聞こえた。音は徐々に大きく近づいてくる。
点滅していたランプが点灯に変わると、溝に囲まれた巨大な鉄板が上方に持ち上がった。三枚の鉄板が順々に開くと、壁だと思っていたところには広い空間が現れた。まるで巨大なエレベータのようだ。中は壁に沿って手すりが設けられ、操作部には三フロアの行き先ボタンが付いていた。「コントロールルーム」「管理施設1」「管理施設2」と書かれている。
移住者管理施設東アジアがあるこのフロアが管理施設のどちらかだろう。そして、コントロールルームと書かれているのが、エルジェップが運営に使うフロアになる可能性が高い。
コントロールルームを行き先に選ぶと、分厚い鉄扉が閉まった。エレベータが上に振動し、しばらくして停止した。しかし、扉が開く様子はなく、機械音はさらに五月蝿くなっていく。
直後、ふっと体重はなくなり、内臓が浮き上がる感覚に襲われた。しかし、不快感は一瞬でなくなると、足が床を離れ身体が宙に浮いていた。
混乱のままに俺は両手両足を振りまわしたが、一向に床には届かない。完全に自由を奪われた状態で、宙に漂っている。
さらにエレベータが唸ると、巨大な扉が上方に開き、眼前に広がる景色に混乱すらどこかへ忘れてしまった。
巨大フロアには作業着姿の人間が往来し、まるでオフィスのようだ。しかし、奇天烈なフロア環境に、まるで異世界にでも紛れ込んでしまったかのような錯覚を覚えた。
往来する人間は宙に浮き、歩いている人は一人もいない。部屋は透明な板で仕切られ、どの部屋も見渡せるよう視覚が少なく、部屋の上部には隙間が空いている。火事でもあれば簡単に火元を発見できるだろうが、一体何を想定しての設計なのだろうか。最も驚くべきは、外の景色である。円形のガラス外壁から広角に見渡せる景色は、一面が星空なのだ。そこには水平線も地平線も存在しなかった。
夜の空にこの建物が浮いているのではないか。
そこに広がっているのは、外部観測部で毎日見続けたモニタの中となんら変わらない世界だ。
エレベータの手すりに届く位置にくると、それを掴み、思い切ってその空間に身を投じてみた。どこまでも見渡せる透明の仕切り効果は抜群だ。作業着姿の中に突如現れた病衣姿は瞬く間に見付かってしまった。
俺を指差し叫んでいるのが見えたが、全てが日本語だった。
「今度はどうやって出てきたんだ」
俺が問題を起こすとどうしてもこの人が登場するらしい。背後から男性社員を連れ従えた綿井さんが現れた。何度も脱出してくる俺に呆れているのか、軽い笑みを浮かべている。
「ここは一体どこなんですか? 外の景色を見る限り、地上にいるとは思えません」
俺は不安定な身体を揺らした。
「この前のような衰弱が見られないな。秋風くんをA322に呼んでくれ」
綿井さんは傍らの社員に指示を出すと、男は宙を漂いどこかに消えた。
「ここでは人目に付きすぎる。志堂くん、付いてきてくれ」
よく見ると透明の仕切りには何個も凹凸が並び、綿井さんはそれを器用に掴んでは前進した。俺も見習い、後を追った。
降りたエレベータを起点にぐるりと回り込み、最奥の広い部屋に入った。壁は白く、天井の隙間もない。全ての部屋が透明で見通せるわけではないようだ。
U字型の長机と、それに沿って簡素な丸椅子が床に固定されていた。会議等に使う部屋のようだ。
「ここなら社員の目も気にならないだろう。流石にその恰好でいられると、おのフロアでは目立つ」
「はあ……替えの服を貸していただけると助かるんですが……」
「それはできない」
駄目元で聞いたが、予想通りの答えが返ってきた。
「その椅子は微弱な重力を発生している。試しに腰を掛けてくれ。身体が安定するはずだ」
綿井さんはまず自分が椅子に腰を下ろし、俺にも着席を誘導した。背もたれのない丸椅子に腰を近づけると、吸い込まれるように着席した。浮き上がることはないが、座っているとも言えない不思議な感覚だ。
「さっきの続きだが。まずどうやってログアウトしたのか聞いておこう。目森の部屋の鍵は破棄し、パスワード式に変更した。パスワードはもちろん僕しか知らない。阿比留社長でも開錠は無理だ」
俺も綿井さんに聞きたいことがある。ここで嘘を付き、もし納得してもらえなければ綿井さんからの情報は何も得れなくなるだろう。俺は正直に答えることにした。
「亡くなった母の手には旧型のサークフスが握られていました」
「それは僕が渡したものだ。君のお母様から要望があった。しかし、旧型ではVVWにログインはできない」
「はい。自己再帰のループから強制ログアウトしたときに、新型のサークフスを見ました。見た目がかなり大きくなっていたので、想像ですがスペックにかなりの違いを感じました」
「積んでいるCPUの数とバッテリ容量は比較にならない。演算処理もそうだが、サーバとの通信速度は一〇〇倍以上の差が出てくる」
想像以上のスペックの違いに絶句した。
「そんなに驚くことはない。スペックの違いを感じていたんだろ?」
綿井さんは意地悪く笑った。
「綿井さん……意地悪言うタイプではないと思ってましたけど」
「ああ、悪かった。自分の作ったものを自慢したくなっただけだ。続きを聞かせてくれ」
「旧型のスペックでは動作しないと思ったので、新型と繋げてみたんです」
「繋げた……?」
「そうです。旧型と新型を高速シリアルバスで物理的に接続しました」
今度は綿井さんが絶句した。
「繋げた状態で新型からフルダイブすればログアウトできるというのか? いや、そんなはずはない。新しいバージョンが優先されるはずだ」
「逆です。旧型を装着してログインするんです。入口を旧型にすることで、ユーザーインターフェースにログアウトの項目を残せました。通信や演算、グラフィックの処理は全て新型サークフスがやってくれます」
「そんなことが……いや……現に君がここにいるということは、やって退けたということか。ということは、見た目上ログアウトの項目を消しているだけで、機能は残っているということだ。開発にはソースコードから削除を依頼しておこう。これでログアウトはできなくなるだろう」
綿井さんは感心しながら、何度も大きく頷いた。
「どうしてそこまでして、仮想世界に閉じ込めようとするんですか?」
綿井さんは俺の問いに言葉を選んでいるように見えた。
「ここまで知ってしまったのだから、変に広められても厄介だな。本当のことを説明しておくよ。志堂くんはここがどこに見える?」
「こんなふわふわした空間は初めてです。もしかして地球……ではないのですか……」
「そうだ。そして、地球はひと月前に消滅している」
「…………!? そ……そんな……あり得ません……」
笑みの消えた綿井さんの表情に見入り、俺は血の気が引いていくのを感じた。
「本当の話さ。君たち外部観測部には、それをずっと観測してもらい、ひと月前に消滅の報告ももらっている」
ひと月前。そして、消滅の報告。地球が消えたと混乱した主任が、中央病棟に運ばれていった時期と重なる。
「ち……地球を観測していたということは、消滅することがわかっていたということですか」
「事象の地平面という言葉を知っているかい?」
「……いえ、聞いたことありませんが」
「宇宙には光の到達できない空間が存在する……と、言っても伝わらないと思うから、もう少し具体的な表現をしよう」
綿井さんは首を傾げる俺に言った。
「事象とは、客観的に見れる事柄。つまり、観測できるもの全てを指す。地平面とは、空と海の境目のような境界線と思ってもらっていい。その境界線を面にしたものだ。それらを総合すると――」
「事象の地平面とは、目で見て観測できる境界のこと」
「呑み込みが早いな」
綿井は頷いた。
「それが地球の消滅とどう関係が?」
「言葉の説明はしたが、事象の地平面がどういうものかを知れば、その疑問も解決するだろう。目で見て観測できる境界があるということは、その境界を超えてしまうと目では観測できない空間になるとも言える」
「それが光の到達できない空間ということですか……」
「ああ。厳密に言うと、光は入っていくが出てこれない一方的な空間だ。重力が大きすぎてな。それが地球の衛星軌道からすぐ近くに見つかった」
「待ってください。消滅した理由とは繋がりません。それに、目では見えないんですよね。見つけようがないと思いますが」
宇宙空間の観測を続ける最中、偶然発見した虚無を思い出した。
「目では見えない。が、さっきも言ったように重力が大きいという特性を持っている。周囲の物質を観測することで、間接的にではあるが認識することはできた。重力が大きなところでは物質はどう運動すると思う?」
「重力が大きいから、引き寄せられる……ですかね」
「ただ引き寄せられるだけではない。重力が大きなものの周りでは、時間が遅く流れる」
俺は綿井さんの言うことを理解しなければと必死に思考した。
「全てを理解する必要はない。この手の話は僕も専門家じゃないんだ。最初聞いたときは今の志堂くんのように、理解に苦しんだ。地球に現れた事象の地平面は阿比留社長が見つけたんだ。ほら、これで汗を拭いなさい」
「阿比留社長が……?」
綿井さんから受け取ったハンカチで汗を拭いた。
「阿比留社長は元々、宇宙研究の出身だ。たしか、大学時代は君のお父さんと同じ研究室だったと聞いているが」
エスポワール湖で会った父は阿比留社長と知り合いだと言っていた。そして、生前母から聞いた父の職業は宇宙飛行士。綿井さんの話が真実味を帯びてきた。
「話を戻そうか。時間は固定だと思っていた僕は、この話を聞いたとき信じなかった。事象の地平面の周りだけ浮遊物が凍りついたように動かなくなったなんてね。しかし、一般相対性理論に全て説明されていたよ。試しに近くの人工衛星を地平面に接近させてみると、徐々に速度を落とし、制御ができなくなった。完全に停止したわけではない。おそらく、時間の流れる速度が違うんだろう。地平面付近の一時間は地球上の数週間に値する」
「人工衛星はどうなったんですか?」
「地平面は重力場が極端に大きい。境界側とそうでないとで重力の影響も違ってくる。より重力の影響が強い境界側の衛星部品から損傷し、本体から剥がれるように分離していった。最終的には二ヶ月かけて全て呑み込まれたよ」
「……まるでブラックホール」
「その表現は正しい。ブラックホールと宇宙空間の境界面を事象の地平面と呼ぶんだ」
地球の傍らにブラックホールがあると考えただけで、恐怖がこみ上げた。
「人工衛星と同じように、地球も呑まれたと言うことですか」
「それは少し違う。僕たちがブラックホールを思っていたものは、ある日性質が反転した」
俺はますます理解が難しくなってきた。
「ブラックホールと逆の性質を持ったホワイトホールということになる」
「そんなもの……存在するんですか」
ブラックホールですら空想上の天体だと思っていた。なのに、性質が反転したなどと言われても、到底信じることはできない。
「ブラックホールは間違いなく実在する。ホワイトホールは存在の証明こそされていないが、数学的には在り得る天体だそうだ」
「観測中……俺は何も存在していない空間を見つけました。太陽が背に来ると、その空間だけ視認できないというか、光を通さないというか……太陽が欠如しているように見えるんです。事象の地平面の話から、それがブラックホールだというのなら納得できます。でも、ホワイトホールと言われても、そもそも白には見えませんでした」
「ホワイトホールが白いという先入観は捨てるんだ。ブラックホール解を時間反転したものにすぎない。ブラックホールが黒ではないのと同じように、我々の目ではそれを認識できない。光を通さないのだから」
観測していた虚無。そして、そこから排出された灰色の何かが脳裏に過ぎった。
「では、ここは宇宙船か何かの中……」
窓の外に広がっていた空間は夜空でも何でもない。本物の宇宙空間だったのだ。
「ここは有人宇宙機の船内だ。地球を脱し、火星への移住を計画している。これから話す計画の内容は、君らに対する強制であり理解は求めない。納得する必要はないが、知る権利がないとも言えない。エルジェップ社は人権を何よりも重んじる」
「勝手に話すから聞き流せということですか」
「そうしてもらえると有り難い。地球に近い座標に出現した事象の地平面、つまり小さなブラックホールは阿比留社長が大学の研究中に発見した。しかし、それを信じる者はいなかった。何しろ目に見えないからな。宇宙に違和感があるというくらいだ。阿比留社長本人でさえ信じていなかったが、大学卒業後も片手間に研究は続けていた。証明できたのは随分経ってからだ。ちなみに、太陽と直線上にあるときその部分だけ認識できず、欠けて見えるそうだ。僕は見たことはないが。そして、そのブラックホールが先日膨張し、地球を呑み込んだ。君の部署による報告だ」
綿井さんは腰のウエストポーチからピースパックを取り出し俺に渡した。運動時によく飲んでいたゼリー飲料のようだが、受け取ると生温く感じた。
「消化しやすい成分になっているから、内臓機能が弱っている君でも問題ないと思うよ」
開封し口に含むと、弱い酸味が口に広がった。現実で何かを食すのは四ヶ月ぶりだった。大量の汗を流している俺を気遣ってくれたのだろう。
「火星にはあと二ヶ月ほどで到着予定だ」
「火星に着いて……火星に着いたとして、人間は住めるのですか? 二〇二四年一月に火星へ行ったジョバイロ船長は火星に資源はないと言いました」
「火星には住める。資源もある」
「それなら何故、嘘の発表を……」
「マーズ計画の第一陣はジョバイロ船長のチームだ。資源があると発表すればそれを活用し地球に帰還する、もしくは帰還するための計画を練らなければならない。そんなことをしている時間は僕たちにはなかった。さらに、帰還しないことを理由に、追加物資を送る宇宙船を打ち上げるための許可を貰うこともできた。その追加物資を載せた宇宙船というのがこの宇宙船だ。ご覧の通り、物資ではなく人を乗せているがな」
「大量の人間がいるのを見ました。皆、首にサークフスを着け、ベッドに横たわっていました」
「物資まで載せると重すぎて火星に辿り着けないからな。大量の人を乗せるには、寝かせて並ばせるのが一番現実的だと判断した」
「そんな……ベッドに寝かされた友達は……かえでは衰弱し、やせ細っていました。仮想世界に閉じ込めなくても、この船で働かせるなり方法はあったはずです」
「さっきも言ったが、物資を載せる余裕はなかった。人が増えれば食糧が必要になる。半年分の食糧だ。寝ているだけなら、それが点滴で済むようになる。船の燃料も、人の燃料もぎりぎりのところでこの計画は動いている」
「じゃあ、ログアウトした俺もまた仮想世界に戻らないといけないということですか……」
「同様だ。君の食事は用意できない」
混乱する頭では、半年分の食糧がどれほどの量になるのか、想像するのは難しかった。突如、誰かがドアをノックした。
「どうぞ」
綿井さんは声を投げた。
ドアを開け入ってきたのは、美愛の姉の秋風楓さんだった。
「お呼びでしょうか」
秋風さんは俺の姿を見て目を丸くした。
「ご覧の通りだ。また出てきてしまった。現状の話を説明したが、発汗が激しかったのでカロリーを与えた。問題はあったかい?」
「いえ、問題ありません」
秋風さんは俺の持つピースパックを確認して言った。
「無重力にはもう慣れた?」
秋風さんが部屋に入ると、ドアが自動で閉った。綿井さんもそうだが、俺が部屋を飛び出したことについて、驚き呆れはするが、怒ったり叱ったりということはしなかった。少なくとも、そのことが俺の緊張を和らげているのは事実だ。
「全く慣れません。絶叫マシンに乗ったときのような、内臓が浮き上がる感覚が襲ってきて……でもそれは最初だけですぐに治まりましたけど、違和感はまだ残っています。俺が寝ていたフロアには重力がありました。このフロアには何故ないのですか?」
「重力装置のことね。あなたたちには点滴をしているでしょ。重力がないと点滴が落ちないの。ただ、連続して重力を維持するにはそれなりのエネルギーが必要になってくるわ。このフロアまで賄えるようなエネルギーはないの。それに慣れれば便利よ。ふわふわ浮いて」
秋風さんはくるりと一回転してみせた。
「この船の一階と二階は仮想世界にダイブしている人が主に寝ている。その一部は君のお母様のように特別な理由でフルダイブできない人たちだ。部屋は国ごとに分けてあり、志堂くんを含む日本人は一階の東アジア棟になる」
「世界中の人がこの船に乗っているんですか?」
「いや、この船はアジア地域の人間だけだ。この船と同じように移住者を乗せた宇宙船は、世界で六機地球を脱出した。それに加え、火星移住後の食糧や機材、言わば人以外だな。それが三機火星に向かっている。この三機は僕たちより早くジョバイロ船長の元に届くはずだ」
「今でも地球が消滅したなんて信じられません。VVWは以前と何も変わらずに稼働しているし」
「地球の消滅よりも早く、VVWは火星のサーバに切り替えてある」
「火星にサーバがあるんですか」
「建前は火星探査だが、事前にジョバイロ船長を火星に送った理由はそのためだ。計画の一つにVVWバックアップサーバの建設も含まれていたんだ。火星移住の準備は着々と進んでいる。外部観測部に観測してもらっているのは、既に火星の衛星映像に切り替えられているよ」
綿井さんは腕時計を確認した。
「そろそろ僕は戻らなくてはならない。秋風くん、後は頼むよ」
「ちょっと待ってください! 綿井さんにお願いがあってログアウトしてきたんです」
「目的を持ってここまで来たと?」
俺は頷いた。
「内容にもよるが、話は聞いてみよう」
綿井さんは向き直った
「VVWでは今コレクションハウスというアプリが流行っています。オブジェクトの収集を楽しむ目的に作られたアプリです」
「ああ、あの盗作アプリだろ。知っているよ」
「盗作!?」
「僕の作ったメニューアプリのソースを盗んで、見た目だけちょこっと変えたみたいだが、機能が伴っていない。メニューアプリはプレイヤーに五感情報を与えためのソースの一部に、ライブラリ化したものを使っているのだが、コレクションハウスにはそこが丸々欠如している。せっかくコレクションしても、動きも匂いもしないんじゃ意味がない。犯人は盗むのは得意かもしれないが、きっとプログラミングのスキルは低いのかもしれない」
β版以前から備わっているメニューアプリと非常に特徴が似ていると思っていたが、その開発者が綿井さんなら話が早い。
「じゃあ、そいつを捕まえてください」
一瞬天を仰ぎ、綿井さんは口を開いた。
「頭には来るが、捕まえる必要性はないと思っている。そんなことに時間を費やす余裕はない」
犯人を批判していた綿井さんからは予想外の答えが返ってきた。
「な……何故ですか?」
「元々、優秀な人間だけを集めた移住計画だ。それくらいのことをやってのける人間は沢山いる。マーズ計画を成功させることに比べたら、盗作なんて取るに足りない些細な問題だということだ。どこの誰が盗んだのかさえ把握していない。それにアプリは流行っているんだろ? 志堂くんに実害はないじゃないか」
たしかに、ダッテンがどれほど稼いで人気者になろうが、俺には何の被害もない。しかし、追い出されマーズで生活をするようになったおっさんの気持ちを考えると、何もしないではいられなかった。
「俺はいいんです、俺は……でも、家を奪われたおっさんを見ていると、どうしても不憫で」
「家を奪うのはシステム的に無理だ。全てのオブジェクトは所有権限が設定されている。君に作った猫のキーホルダーでさえ、君の権限が設定されている」
「でも……西田のおっさんが嘘をついているようには……」
「西田?」
「はい。被害を受けたプレイヤーです」
「僕の把握している限り本名でログインしている日本人は一〇〇〇人。その中で西田と付くアカウント名は一人しか知らない。西田何という方だい?」
「西田英世です」
綿井さんは腕を組み、黙り込んだ。暫く考えた後、重い口を開いた。
「株主か。奪われた家というのは?」
「セントラルの尚の隣の家です」
「尚というのは社長の娘か。どうやら本当の話のようだな。あそこは株主たちに用意した住宅街だ……わかった。調査は請け負おう」
「ありがとうございます!」
「だが、捕まえるのは無理だ」
「え!? 何故ですか?」
「さっきも言ったが、この宇宙船には人数分の食糧しかない。ダッテンという人物が黒だとしても仮想世界にいてもらうことになる」
もし、ダッテンが犯行を認めないなら現実世界に強制ログアウトさせて、監禁させておけばいいと思っていた。しかし、食糧がなく餓死されたらそれは人殺しも同様だ。かと言って、仮想世界に監獄があるなど聞いたこともない。
「……わかりました。西田のおっさんが家を取り戻せるなら、それで構いません」
マーズ計画の終了までダッテンとおっさんが同じ世界にいなくてはならないことに反感を抱いたが、渋々了承した。
「では、僕はこれで。調査が終わったら報告する。後は頼んだよ、秋風くん」
今度こそ綿井さんは仕事に戻った。
「さあ、あなたもベッドに戻るわよ」
俺の体調を気遣った秋風さんが、手を差し伸べてきた。
「一ヶ月リハビリしたんで大丈夫です。見逃していてくれてありがとうございます。バレてたんでしょう? ログアウトしていたこと」
「まあね」
俺は一ヶ月間、旧型サークフスを首に付け、ログアウトをしてはリハビリを繰り返していた。仮想世界移住者たちの健康管理をする秋風さんが気付いていないわけがない。
「その代わり交換条件よ。前にも言ったけど、美愛にはあたしが宇宙船にいること黙っておいてね。火星で再開して驚かしてやるんだ」
家族と会えないこの状況で秋風さんは力強く笑った。両親を地球に残してきた彼女も辛い思いをしているだろうに。俺もそれに応えるように頷いた。
ふわふわと漂い二人でエレベータに乗った。
「このエレベータはね、移住者管理施設と結ぶ唯一の経路なの。階に到着したら重力が切り替わるから、そこの手摺りに捕まって」
コントロールフロアに着いたとき、身体が浮き上がり自由が利かず、四苦八苦したのを思い出した。一階に着くと、扉が開く前に身体が重くなった。
秋風さんの後に従い、ベッドに横たわる。リハビリをしていると強がりはしたが、サークフスを装着せずとも、急に睡魔が押し寄せた。
「最近、点滴の減りがやけに早いのよね」
そんな秋風さんの言葉を耳に残し、俺は仮想世界に落ちていった。
ウィンドウ上部の7セグ数値は、深夜〇時を示している。その左隣にはメールアイコンが受信を通知していた。
差出人は、エテミ。綿井さんの仕事の速さには感服する。そこを阿比留社長に評価され、今の地位にいるのだろう。
――ダッテンは黒だ。ソースの照合と参考写真を添付する。
先に開いた写真を見て、俺は笑いを堪えることができなかった。




