25話
歩く。立ち止まる。再び、歩く。
単純な動作だ。彼此、一時間ほど繰り返している。点滴スタンドに掴まりながらにも関わらず、これだけの動作に苦痛を感じたのは生まれて初めてである。
二〇二四年十二月二五日に仮想世界に移住してから、三ヶ月以上寝たきりだった俺の筋力は、予想以上に削ぎ落とされていた。傍から見れば、おそらくゾンビか何かだろう。関節が曲がらないのだから、仕方がない。歩行練習の前に、入念な柔軟運動をするだけで汗だくになる。それでも、関節の可動域は一向に広がる気配はない。何か月――いや、何年掛かるかわからない、終わりの見えないリハビリが俺を苦しめた。
しかし、デジタルタトゥーの誘いを断ってでも、一日でも早く体力を戻さなければならない。
足を一歩前に出す度に、母の死が脳裏に蘇る。
――母は俺の隣で、静かにその生涯を終えた。
硬直して動かなくなった母を、俺は暫し眺めていた。もう少し待っていれば「おはよう」と目を開けるかもしれない。しかし、幾ら待っても、瞼は接着されたように開こうとしなかった。
母の頭部の傍らに転がる押しボタンを押してみた。それでも、母は目覚めない。代わりに、部屋のドアが開く音がした。しかし、俺はドアを見ようとはせず、母から目を離せなかった。
「志堂くん! 何故君がここに」
誰かが俺の名を呼んだ。
「…………母さん……」
俺は母の名を呼んだ。
「誰か車椅子を用意してくれ」
俺の名を呼んだ人が慌ただしく叫んだ。
振り向くと、俺の名を呼んだのは綿井さんだった。綿井さんは軽々と俺を持ち上げ、車椅子に乗せた。
「綿井取締役、残念ですが……」
綿井さんと一緒に入ってきた医師らしき人が呟き、胸で十字を切った。
「志堂くん、お母様の身体は我々が責任を持って保管する。そうだな……あと、二ヶ月ほどかな」
俺の目の前で時間が早く流れていく。気づけば母のベッドは速やかに移動させられ、俺は綿井さんに車椅子を引かれていた。
「驚いただろう。僕も君がいることに驚いた」
俺が歩いて来た道を戻りながら、綿井さんが言った。白衣を着た女性が一人、俺たちの後を付いてきた。
俺が何も発せずにいると、間もなく移住者管理施設に到着した。
「君はだいぶ弱っている。話は中でしよう。ログイン直後、セントラルの宿屋からスタートする仕様は変わっていない。ロビーで落ち合おう」
綿井さんが消えると、白衣の女性が点滴を俺に射した。看護師のようだ。年齢は自分より上に見えた。
「よくログアウトできたわね。若いからって、あんまり無茶なことしちゃダメよ」
看護師は手際よく留置針に点滴ラインを繋ぐと、チューブを固定した。
「次出てきたときは、針を抜かないこと。特別に点滴スタンドも用意してあげるから。わかった?」
俺は黙って頷いた。まるで、また戻って来いと言っているようだ。
「ログインの仕方は、旧型と同じよ。それじゃあね、志堂くん」
「あ、すみません。名前を教えてください」
俺は看護師の女性に尋ねた。
「秋風楓よ。妹には言わないでおいてね」
楓さんは手を振り、行ってしまった。
秋風の姓を持ち、スタラビと同名。今の女性は美愛の姉で間違いない。美愛の家族が生きていた。楓さんは黙っておいてくれと言ったが、今すぐにでも美愛に報告してやりたい。逸る気持ちを抑え、VVWにログインした。
VVWにダイブすると、システムが宿屋の空き部屋を自動的に割り当て、アバターが生成される。これはβ版のころから変わらない。俺は宿屋二階の最奥の部屋にログインした。階段を下りてロビーに向かうが、現実とは打って変わり、身体は軽い。
「遅かったじゃないか」
綿井徹ことエテミのアバターが目に入った。
「看護師の方と長話しちゃって」
「秋風くんかい?」
「はい。彼女の妹が仮想世界にいると思うんですが」
「秋風美愛さんだね。エルジェップの契約社員で働いてもらっている。たしか、君と同じ大学だったと思うが」
「俺の友達です」
「そうだったか。君の交友関係までは詳しくないのでね。一つ忠告しておくが、美愛さんには姉のことは黙っておくんだ」
綿井さんも楓さんと同じことを言った。
「何故ですか? 教えてあげれば安心すると思うんです。精神的な負担も減るし、教えてあげた方が……」
「君ならそれを聞いてどうする?」
「……会いたいと思うかもしれません」
近くに家族がいれば、会いたいと思うのが普通だ。事実、俺は危険を冒してまでも母に会いに行った。
「それがまずい」
「何故ですか? 外にいたのは短い時間でしたが、危険なものがあるようには感じませんでした」
「食糧がない」
「食糧……?」
何故急に食糧の話になるのか、意図がつかめなかった。
「君たちが置かれている状況は、君が思っているよりも深刻なんだ」
「その状況を教えてくれるつもりは?」
「今のところ予定していない。お母様のことは残念だった。ただ、わかって欲しい。親の死に目に会えなかった人が、もっと大勢いるということを。僕を含めだ」
移住計画の選別基準はどこにも明記されていない。エルジェップ役員である綿井さんの家族ですら、選ばれていない。俺の母は移住したわけではないが、どういうわけか俺がダイブしている施設で療養していた。母はそれを父のおかげだと言っていた。
綿井さんが死に目に会えなかった表現したということは、既に亡くなっているということ。そして、選ばれていれば死ななかったとも取れる。
「いまいち納得できないのですが、一時的に会うこともできないのですか?」
「特例を作るつもりはない。そもそも、君は契約違反を犯したんだ。誓約書に署名しただろ。役員の許可なしにログアウトはできない」
「阿比留社長の協力を得ました」
綿井さんの眉が一瞬、釣り上った。
「社長か……阿比留社長はもう社長じゃない」
阿比留社長は五ヶ月も前に辞任している。俺は黙って頷くしかできなかった。
「ログアウトの方法は? システムコマンドからはできないはずだが」
「社長のプライベートホームにある目森さんのオブジェクトからです」
「あれに触れたのか?」
綿井さんが驚愕した。
「触れました」
「しかし、あれがログアウトの要因になるとは考えられないが……」
綿井さんは顎鬚を擦り、方法を思案しているようだ。
「目森さんに触れ、再帰処理に入ったところに別の再帰プログラムを並列処理させることで、ハード異常を誘発しました。サークフスの安全装置が働いて強制ログアウトされます」
「……そんな危険な……下手したら、目森と同じことになっていたかもしれないんだ。僕の部下には、二度とあんな死に方してもらいたくない」
綿井さんがあの部屋を封印していた理由が、今わかった気がした。部下を守るため、阿比留社長に反抗してでも、鍵を隠したのだ。
「鍵は隠したつもりだったが、甘かったか。パスワード式に変更しておこう。社長にはきつく言っておく。ログアウトももうしないように」
それでも、部屋を完全に消してしまわないのは、阿比留社長の意を汲んでのことだろう。その証拠に、社長ではないと言いきっておきながら、無意識に社長と呼んでいる。
「もう危ないことは止めてくれ」と言い残し、綿井さんは仕事に戻っていった。
――体力の限界を迎えた俺は、点滴スタンドに背を預け、座り込んだ。
ここが何処で、現実に何が起きているのか。何故、仮想世界に幽閉されているのか。その鍵は仮想世界ではなく、現実世界に隠されているはずだ。現実世界で行動するには、どうしても体力を戻さなくてはならない。
立ち上がりベッドに戻ると、旧型のサークフスを装着した。布団を深めに被り、仮想世界に帰還した。




