23話
散りゆく花火を嘱目しても、地平線に沈みゆく陽を凝望しても、溶けゆく氷を静観しても、結末はどれも同じ。終わりがあり、消えてなくなっていく。覚めゆく夢と同じように。
しかし、仮想世界へのフルダイブは薄れゆく明晰夢とは違い、記憶として脳に書き込まれてしまう。本人の意志などお構いなしに。想起すれば脳が引き出し、明瞭な映像とともに蘇ってくる。
俺を包み込んでいく色鮮やかなフラクタル図形は夢などではなかった。永遠に繰り返される時間から抜け出すための道標となり、俺を暗闇から掬い上げてくれた希望の模様だ。
寸刻前、俺は目森の傍らに立ち、ユウの指示した階層からフラクタルの魔法ファイルを起動した。厳密に言えば、起動したかどうかなんて確認する余裕はなかった。間髪入れずに、目森と接触したからだ。俺の記憶があるのはそこまでで、頭に何か重たいものを乗せた感覚に襲われ意識を失った。あれが過負荷というものなのか。大容量のデータ群に圧迫を覚えたような感覚。
今こうして目が覚めたということは、目森に触れた直後、フラクタルの再帰プログラムが走り、システム異常を検知したサークフスの安全装置が働いて強制ログアウトに成功したということだろう。
俺は気力を絞り、目を開けた。
眼前には壁――いや、部屋の天井か。しかし、かなり大きな天井だ。面積の広い部屋にいることになる。柔らかいベッドの上で、横になっているようだ。
首の違和感に触れようと手を持ち上げた。果たして、腕一本動かすのがこんなに重かっただろうか。丸みを帯びた金属の物体にようやく手が届いた。これが俺とVVWを繋いでいたコントローラであるのはすぐにわかったが、俺が持っていた旧型のサークフスとは比べ物にならない重量感だ。
二十四時間休みなしでダイブし、稼働を続けていることになる。積んでいるCPU、メモリ、バッテリー、全てのスペックが旧型のそれとは大きく違うのだ。
首元にある手が頬に触れた瞬間、受け入れ難い情報が脳に飛び込んだ。もう一度頬を擦り、確認する。しかし、何度触れても頬の肉は削げ、それを擦る腕さえも自分のものではないかのようにやせ細っていた。
「これ……じゃあ……まるで病人じゃないか」
声を発したが、声帯すらもまともに言うことを聞かない。両腕の筋肉も落ち、骨と皮を残すのみとなっている。そこから伸びる点滴の管を引きちぎった。
二ヶ月ぶりに動かす身体は鉛のように重たかった。やっとの思いで上半身を起こすと、俺はさらに驚愕した。
体育館ほどの面積には数百のベッドが並び、そこには同じ数の人間が横たわっていた。等間隔に配置されたベッドの隙間は人一人が通れるほどしかない。皆一様に白の病衣を着せられ、白の布団に包まっていた。
ベッドにすがり立ち上がってみた。筋力の衰えは凄まじく、手を離すと途端によろめいた。何かに捕まっていないと立っていられなかった。
これほど肉体が衰弱するまで仮想世界に縛り付け、人類を延命させるエルジェップの行為に道徳はあるのだろうか。しかし、ユウは悪いことをしているつもりはないと言い切った。ログアウトできたのも、そのユウのお陰だ。今はユウのやらんとしていることを信じるしかない。目的は見えなくても、ユウは大きな仕事が終わったと言っていた。その言葉を信じるしかないのだ。
ベッドを手すりがわりに出口を目指した。ゆっくりと、しかし確実に歩を進める。四つ目のベッドに差し掛かると、見覚えのある顔が眠っていた。
小麦色だった肌は白くなり、華奢な顔つきは更にやせ細っていた。以前のかえでとも、VVWのスタラビとも別人のようだ。
俺はかえでの痩けた手を握った。浮き上がった血管から僅かに血液の流れを感じた。
「かえで……皆……」
「助けるからな」とは言えなかった。仮想世界に留まることと、現実世界に戻ることのどちらが正しい選択なのか、俺には判断できなかった。
かえでに別れを告げ、震える足を更に進めた。
巨大な部屋を出ると長い廊下が続いていた。廊下は緩く湾曲していて先に何があるのかわからない。白く長い廊下とは対照的に、部屋の前の壁だけ黒かった。これを目印に戻ってくれば、迷うことはないだろう。
出入り口には《移住者管理施設東アジア》と記されたプレートが掛けられていた。プレートの記載が正しければ、このフロアでフルダイブをしているのは皆アジア人。そして、他の地域の人間も同じように集められ、延命措置を施されているのだろうか。
エルジェップ社員でありながら、何も知らされていない己の力不足が歯痒い。
母のもとへ一刻も早く辿り着きたいが、身体がそれを許さなかった。VVWではパラメータ補正されたアバターで駆け回り、冒険していたが、現実の自分は壁に支えられなければ満足に歩くこともできない。しかし、生を実感するには十分な身体的待遇である。
――何分歩いただろうか。
距離にすれば大したことはないだろうが、一向に建物から外に出る扉が現れない。それどころか施設内に従業員の気配も全く感じられない。一息つこうと腰を下ろすと、あるプレートの文字が目に止まった。
《A101 志堂幸恵》。
掲げられたプレートに記載されていたのは、紛れもなく母の名だった。
母も俺と同じ施設に入れられ、仮想世界にフルダイブしているのだ。なら何故、会いに来ない? 父も母がVVWにいるなど言っていなかった。
俺は立ち上がり、母の名が書かれた部屋のドアを開錠した。
部屋は俺のいたところよりもずっと狭かった。八畳ほどの、何なら一人暮らしをしていた都内のマンションより狭いかもしれない。
ベッドが一台置かれ、それ以外ほとんど何もない部屋だ。そして、そこに腰掛ける一人の女性と目が合った。
一目では気付かなかったが、そこにいたのは母だった。母は一瞬驚き、そして笑った。
「少し……痩せたわね」
なんでここにいるんだ、母さん。何故、ダイブしないで目を覚ましているんだ。どうして笑い、「少し痩せたね」と俺の心配ができるんだ。
だって、母さんの方がずっと痩せこけてしまってるじゃないか。
緊張が緩み、思わず涙が頬を伝った。ゆっくり近づき、そっと母の手に触れた。
腕から一本。鼻にも一本。そして、服の下にも数本の管が伸びている。まるで病人のようだ。年末に帰省したときの力強さは、今の母から感じられなかった。
「母さん……どうしちゃったの?」
俺は長い間使われていなかった声帯を震わせた。
「ごめんね……お母さん頑張ったんだけどね。もう長くないみたい」
年末、実家に帰った際、痩せたと問う俺に母は「むしろ太った」と返し、そして笑った。眼前の母も謝りながら、そのときと同じように首を傾げ、目を細めている。その表情を見ていると更に大粒の涙が溢れ、嗚咽が漏れた。どうにかして、母を救いたい。
「お父さんとは会えた?」
不意に母が、父の名を出した。母の口から父の話が出るのは、中学を卒業して以来だ。
「あんなやつ……父親なんかじゃない……母さんがこんなになっても、日本に会いに来やしないじゃないか。海外のサーバから仮想世界にログインしてやがった」
「そう……会えたのね。本当によかった」
――よかった?
母は今「よかった」と言った。自分を捨て、安全圏に逃げた父のことを。
「お父さんはね。お母さんを助けようと頑張ってくれたのよ」
「嘘だ……父さんは仮想世界で『母さんはもう駄目だ。諦めろ』って言ったんだ。母さんのことも放ったらかしじゃないか」
「あなたに真実を伝えようとしたのね。お母さんがずっと隠そうとしてたから。それに、お父さんのお陰で、私は今ここで治療を受けていられるの」
父を擁護するなんて、母はどうかしてしまったんだ。母の言うことを思考が拒絶している。それに、立ちっぱなしだったせいで、頭がくらくらした。
「お母さんも最後に会いたかったな。でも、お父さん、ずっと遠くにいるから……無理ね」
「俺が連れてくるよ。やっと現実世界に戻ってこれたんだ。海外で株の仕事なんて、もうできるわけないし、何日かかるかわからないけど、必ず連れてきて会わせてあげるから」
「株……? お父さんの仕事は株なんか関係ないわよ?」
母が首を傾げた。
「え!? 昔、母さんが教えてくれたじゃないか。父さんは海外で株投資に忙しいって……」
「きっと、苦し紛れの言いわけね。本当になれると思ってなかったんですもの。趣味でやってた投資を、本業だと言っちゃったのよ」
「なれるって何に?」
「父さんは宇宙飛行士よ」
「…………!?」
「あはは、言ってなかったっけ?」
母さんは俺の反応を見て、肩を震わせた。
「聞いてない。今どこにいるの?」
「去年の始めに、ジョバイロ船長のチームが火星に到着したのは知ってる?」
「ああ、人類で初めて火星に降りたってニュースで。たしか、燃料を現地調達するはずだったけど、見つからず片道旅行になってしまったって……」
「父さんもそのチームの一員なの」
「え……でも、名前が発表されたら気付くだろ。日本人宇宙飛行士は誰々に決まりました、みたいな……あっ、でも……」
当時の報道を思い出すと、不自然に感じたことがあった。
「ジョバイロ船長のマーズ計画は極秘で進められていたの」
「そうだ。火星に到着してからニュースで見るようになった。普通なら宇宙船の打ち上げ前に話題になるだろうし、仮に極秘だとしたら、何で後になって発表したんだと疑問に思ったんだ」
火星探索計画。通称、マーズ計画。
火星に行く技術はあったが、問題があった。火星までの往復分の燃料を積むと、宇宙船は重すぎて飛び立てない。打開策として、往路の燃料のみ積んで火星に飛び立ち、復路の燃料は現地で調達するという案がマーズ計画で採用された。火星には活火山があり、手つかずの資源が豊富にあると言われていたからだ。しかし、資源はなかった。世間はそれを事後報告されたのだ。
「そうしないと、とてもじゃないけど宇宙船を打ち上げられないもの。『燃料は片道しかありませんが、現地でどうにかするので、打ち上げます』なんて世間は納得しない」
世間と言ったが、納得していなかったのは母なのではないか。
長い時間話し続けたせいで、足がふらつき膝を突いた。
「疲れたのね。お母さんも久しぶりに芹人と話せて楽しかったわ。今日は泊まっていきなさい。久しぶりに一緒に寝ましょう」
母はベッドの端に寄ると、布団を捲った。
俺は何も言わず、それに従った。布団は温かかった。もっと母とゆっくり話したかった。いつから身体を壊し、何の病気なのか。世界恐慌の間は家でどうやって過ごしていたのか。移住が始まってから、ここに入院するまでのいきさつも。そして、ここは何処なのか。それに、父のことも。話題はいくらでも湧いてきたが、睡魔がそれを許さなかった。それらは明日ゆっくり聞けばいいことなのだ。
――何時間寝たのだろうか。この部屋には時計がない。
母と再開できたことが夢のように感じたが、隣に眠る母を確認し、夢ではなかったことに安堵した。まるで幸せな顔で眠っている。
「母さん」
俺は母を呼んでみた。母からの返事はない。きっと、幸せな夢を見ているに違いない。しかし、俺はどうしてもその夢を妨げてやりたかった。
「母さん」
俺はもう一度呼び、身体を揺すってみた。それでも、母は目覚めない。
俺は自分を責めた。俺は一体何のためにここまで来たのだ。ユウに協力を仰ぎ、自身を危険に晒してまでも現実世界に戻ってきたのだ。母を助けるためログアウトを要求した俺に、ユウは何も言わず協力してくれた。もしかすると、父と交流のあったユウは、母の状態を知った上で力を貸してくれたのかもしれない。
「母さん……母さん、母さん。ねえ、起きてくれよ」
力を込めてみたが、それに反発するかのように身体は固くなっていた。
死んでいるとは思えないほど安らかだ。
右手には使い込まれた円形の首枷が握られていた。旧型のサークフスだ。目印にと俺は猫のキーホルダーを付けていた。母からもらった、母とお揃いのキーホルダー。
母も大切に持っていてくれたのだ。母との繋がりを味わい、滲んだ視界で暫しそれを眺めた。
金属質なマシンから垂れ下がる二匹の猫を。




