22話
β版VVWにデバッガーとして参加してから、ここに来るのは四回目になる。
この世界について右も左もわからなかったとき、助けてくれたのはユウだ。一度は全財産を失いはしたものの、ユウの占いのおかげで野球プレイヤーという職を見つけることができた。
漆喰塗りの隙間から煉瓦が顔を覗かせている。ヴァオ郊外にひっそりと佇む、ユウのプライベートホームである。
現実世界での阿比留社長の辞任会見からユウの占い屋は営業をしていないはずだったが、しかし扉に掛けられた木製の表札は営業中を告げていた。
恐る恐るドアノブに手をかけ捻る。扉は何の躊躇いもなく開いた。
「いらっしゃいませ」
続いて懐かしい声が飛んできた。ユウだ。
店内は用途不明の雑貨で溢れ返っていた。見上げると壁を一周する円形のキャンバスに、真っ黒の魚拓が泳いでいる。二ヶ月ほど前に来たときより、巨大さを増していた。
「あら……遅かったじゃない」
ホットパンツが隠れるくらいのロングTシャツを着たユウが出迎えた。何も変わっていない。
この世界を思う存分楽しんでいた頃のユウのままだ。
「あの……えっと……お、お疲れ様です」
阿比留社長として接すればいいのか、昔のユウとして接すればいいのかわからずにいる俺を、ユウのアバターに包まれた阿比留社長が笑った。
「ふふ……何改まってるのよ。この姿のときはユウなんだから。逆に社長だってことバラしたらクビにするわよ」
「あはは、それは勘弁してくれ」
想像すると背筋は凍り、乾いた笑いが漏れた。
「この店営業してたんだな。てっきりどこかに隠れているのかと思ったよ」
「大きな仕事が終わったからね。この姿なら案外自由よ。それに悪いことしてるわけじゃないんだから、隠れる必要なんかないじゃない」
世界恐慌の引き金になったのは何だと尋ねれば、世間は十中八九エルジェップの株価暴落だと答えるだろう。その中心にいたのは阿比留社長に他ならない。少なからず彼女を恨んでいる人間だっているはずである。なのに、ユウは「悪いことはしていない」と言い切った。
「無自覚でも世界は悪い方に進んでいるじゃないか」
「そんなことないわ。あなたにもそのうちわかる日が来るわよ。そして、私に感謝すると思うわ」
今日、外部観測部の主任が錯乱状態に陥った。直後、辞任したはずの阿比留社長が外部観測部に現れた。阿比留社長の指示により、主任はヴァオ中央病棟の精神科に運ばれたのだ。
「なあ、今日運ばれた主任の具合はどうだったんだ?」
「彼は強い精神的衝撃を受けたようね。PTSDと診断されたわ。しばらく復帰できそうにはないわね」
VVWでエルジェップの業務をするようになって、最も世話を焼いてくれた先輩だ。信頼もしている。その先輩が錯乱状態になりながらも、懸命にある言葉を伝えようとしていた。
「大丈夫よ。彼は強い社員だわ。だからあの部署に配属したの。それより、鍵は持ってきたんでしょうね」
「ああ、ほら。でも、鍵のオリジナルはユウが持ってるんだろ?」
マーズで入手した鍵をオブジェクト化してユウに手渡した。
「綿井のバカが処分しちゃったのよ。目森のことを黙っていたペナルティだとか言ってね。きっと、それは建前でこの部屋に誰も入れなくしたかったんでしょうけど。合鍵を作ろうにももう社長の権限もないじゃない? 困っていたところだったのよ」
ユウは小扉に近づき、鍵穴に差し込んだ。
「綿井さんは今どこに?」
「彼はVVWの外で仕事をしているわ」
綿井さんのアカウントであるエテミに連絡をしても返信がなかったのは、ログインさえしていなかったせいだ。
ユウが小扉を開け、俺も背の低い扉を潜った。
部屋の中は何も変わっていなかった。神秘的な光溢れる中央で、目森のアバターは右手を伸ばしたまま硬直していた。
ユウは久しぶりに会った目森に手を合わせていた。祈る対象は仏でも何でもないデジタルデータの集合体だが、俺も同時に手を合わせた。
「今まで毎日こうやっていたの。綿井のせいでできなくなったけど、これからまた彼に手を合わせられるわ。ありがとう」
やはりユウも昔のままだ。世間はエルジェップが変わってしまったせいだと言い、世界恐慌をユウのせいにした。それを企てた人間が、VVWの犠牲者に手を合わせ感謝し、涙を流して詫びるだろうか。変わってしまったのは、世間の方なのではないのか。
「この世界での最後の助言をあなたにするわ」
「ちょ……ちょっと待った。最後ってどういう意味だよ」
「何をすればいいのかわからず、一人で転移門巡りをしていた昔のあなたとは違うはずよ。私を頼らずとも、あなたには仲間ができた。それに父親とも再会できたんでしょ?」
クリスタルゴーレムを倒したときのことがフラッシュバックする。協力し目的を達成できる大事な仲間。同時に、腰に帯剣した仮想世界の父の姿も。父は俺を裏切り、母を見捨てた。母を現実に残し、自分は仮想世界にログインしていたではないか。この世界に広い屋敷まで所有し、自分だけいい暮らしを満喫していた父を許すことはできない。
「父は俺を見捨てたんだ。俺だけじゃない。母のことも」
「そうかしら。真実は自分の目で確かめてくることね」
ユウは沈痛な表情で目森を見つめていた。
「そのためにログアウトしたいんだ。ユウならできるだろ」
「できるわけないじゃない。社長を辞任したのよ? 私にそんな権限はないわ」
「ええ……!?」
「あなたに鍵を入手させたのは、何も手を合わせるためだけじゃなくてよ」
「それじゃあ何の為に……」
「この空間は特別なの。自己再帰ってご存知かしら?」
「プログラミングなんかで使う、関数の中から自身の関数を呼び出す手法のことだろ?」
「ええ。例えば、f(x)という関数があったとき、xの部分をf(x)と仮定したら、f(f(x))となり、さらにその呼び先はf(f(f(x))と続く。その式は再帰性を持つことになるわね。しかし、再帰を終わらせる条件をどこかに設けてやらないと、関数は無限に自身を呼び続けることになる。やがて、ソフトの処理に追いつけなくなったハードは発熱し、過負荷によりショートしてしまう。目森のようにね。彼はサークフスが与える膨大な命令を処理しきれず、脳というハードが焼けてしまったの」
俺は息を呑み、ユウの言葉に聞き入った。
「サークフスが命令を送り続けたのは、VVWの欠陥よ。再帰処理を終わらせる条件文がなかった。それは今も同じ」
「それじゃあ……!?」
「触れたら再帰プログラムが走るわ。自力じゃ抜け出せない」
初めてここに来たとき、目森さんとの接触をユウに呼び止められたことを思い出した。あのときタイミングよく呼び止められなければ、俺も今頃硬直したアバターをこの世界に妬きつけていたのだろうか。
「そんな危ないものどうして残しておくんだ。バグの原因がわかっているなら修正すればいいじゃないか」
「この世界は私の理想の世界だけど、それにしては安全に作りすぎたの。何でもシステムに守られて、自殺もできない。もし、私が間違った方向に進み、取り返しのつかないことをしてしまったとき、自分に罰を与えられるように敢えて残してもらったのよ。こういうのを戒めと言うのかしら」
綿井がペナルティとして鍵を隠した理由がわかった。自ら命を絶つ手段をユウから取り上げたのだ。間違いを犯したなら生きて償えと。そして、その方がユウにとって残酷なペナルティとなるのかもしれない。
「そして私は、この自己再帰を応用して、あなたの望むログアウトもできるんじゃないかと思っているの」
「実績は?」
「今から作るのよ。あなたがね」
ユウは双眸を細め、笑みさえ浮かべている。
俺は直ぐにでもこの場を離れたい衝動に駆られた。
「まあ、理屈は簡単よ。その名も『自己再帰に自己再帰をぶつける作戦』。どうかしら?」
「り……理屈を聞こうじゃないか」
俺は怖くなり、一歩後ずさった。
「まず、目森に触れる」
「お、おう……ええ!?」
「そんなに驚くことはないわ。それに、この作戦では目森に触れることはマストよ。そしたら、自己再帰のプログラムが走るわ。そこですかさず、同じアカウントで別の自己再帰プログラムを実行するの。そしたら、どうなると思う?」
ユウが腰に手を当て熱弁した。
「CPUが重くなってグラフィックが固まる?」
「違うわよ! システムが異常だと認識するでしょ。知ってると思うけど、サークフスの安全装置が働いて、コマンドを無視した強制ログアウトが実行されるの」
エルジェップ社員ながら、サークフスにそんな安全装置が設けてあるなど知らなかった。
「おかしくないか? 安全装置があるなら目森さんは助かってたんじゃ……」
「安全装置が働くのは、システムが異常だと認識したときだけ。目森のときは自己再帰が無限に続くことが正常なプログラムの動作だった。だって、そうプログラムがされていて、その通りに動いたんですもの。安全装置は働かなくて当たり前よ」
「目森さんに触れた瞬間、プレイヤーはどうなるんだ?」
「フリーズするでしょうね。脳には超高速周期でサークフスから命令が飛んでくるから、フリーズしたらすぐに別の再帰プログラムを起動する必要があるわ。さらに言うと、例外処理がされていない自己再帰から先に走らせる必要があるから、フリーズするのは必須ね」
――フリーズ中にプログラムを起動?
「矛盾してないか? フリーズしてるんだ。プログラムを起動なんて」
「方法がないこともないのよね。あなたのお父さんから聞いたんだけど、マーズのクリスタルゴーレムを倒したそうね」
「ああ……なんだ。父さんとはちょくちょく会っているのか」
「クリスタルゴーレムの報酬であるフラクタルの魔法。あれ、自己再帰プログラムよ」
「それは知っているよ。フラクタル図形を代表するマンデルブロ集合だろ? プログラミングの授業を大学で履修したから。俺が自己再帰を知ったのもそのときだし。でもマーズの魔法をVVWで詠唱したところで――」
「詠唱は無理でも、実行はできるわよ」
「…………!?」
「そんな驚くことじゃないでしょ。同じサーバで動いてるんだから。互換性抜群よ」
ユウが軽く言い放った。
「詠唱するにはマーズのエリアにいることがインターロックとして条件化されているわ。ただし、魔法も所詮この世界ではただのファイル。マーズのUIを介さなくても、直接操作してやればいいのよ。ファイルの階層は教えてあげる」
「何でもありだな……」
「知識は武器よ。ただし問題があって、フラクタルのファイルを実行してから自己再帰に入るまで、時間にしてコンマ二秒のタイムラグがある。その僅かな間に目森に触れなくてはならない。ここはあなたの腕次第になるわ」
かなり危険な荒業だ。とてもじゃないが正攻法とは言い難い。
それでも、可能性がないわけじゃない。外の世界に出て、母を助けるためにはやらなくてはならない。
「やってみる?」
ユウが強い意志を持った瞳で尋ねた。
「もちろんやるさ」
やる――いや、やるしかないのだ。ユウが見届けてくれるなら、こんな心強いことはない。俺は覚悟を決め、ユウに一歩歩み寄った。




