第6話『見てはいけないものだらけ』
メリシアの屋敷を訪れたティプスタン。
庭園の中央では、噴水が陽の光を受けながら静かに水を弾いている。
その向こうに広がるのは、赤煉瓦造りの大きな建物だった。
左右に長く伸びた均整の取れた外観に、整然と並ぶ窓。
古い梁や石段には、時の痕跡が色濃く残っている。
そのすべてが、ここがただの屋敷ではなく、かつて学び舎として使われていた旧校舎であることを物語っていた。
「……広い」
思わず漏れた声に、
「広すぎるくらいですわ」
メリシアがくすりと上品に笑う。
三人の侍従が迎えるなか、屋敷に入った。
広間に案内されると、メリシアは一人の獣人を紹介した。
「こちら、主人のカプリオスですの」
がっしりとした体格の山羊系の獣人男性だった。
整えられた口ひげとあごひげが、厳つさよりも穏やかな紳士らしさを印象づけている。
派手さはないのに、そこにいるだけで場が引き締まるような威厳があった。
「はじめまして。カプリオスと申します」
低く、静かで、よく通る声だった。
「は、はじめまして……」
ティプスタンは思わず背筋を伸ばし、少しぎこちなく頭を下げる。
カプリオスはティプスタンだけでなく、ミミリル、ルベッカ、ガミの顔もひとりずつ見渡し、ふっと目を細めた。
「賑やかになりそうですな」
「ええ。本当に」
メリシアも嬉しそうに頷く。
「まるで、急に子供が増えたみたいで」
冗談めいた口調だったが、その言葉には確かな温もりが滲んでいた。
ティプスタンは、胸の奥が少しだけくすぐったくなるのを感じた。
☆
夕食は、思っていた以上に穏やかな時間だった。
長い食卓の上には、香りの良い料理が並び、温かな湯気が立ちのぼっている。
侍従たちが静かに給仕し、皿や銀器の触れ合う控えめな音が、部屋の落ち着いた空気に溶け込んでいた。
ミミリルは目を輝かせながら、次々と料理を口に運んでいる。
ガミは遠慮という言葉を知らないように何度もおかわりし、ルベッカは背筋を正したまま、いつも通り無駄のない所作で食事を進めていた。
メリシアはそんな三人を、どこか楽しそうに眺めている。
カプリオスもまた、静かに微笑みながらその様子を見守っていた。
その光景を前に、ティプスタンはふと手を止めた。
(……これが、家族?)
同じ場所で、同じ料理を食べて、同じ空気の中で時間を過ごす。
それだけのことが、こんなにも心を落ち着かせるものなのかと、少し驚く。
誰かの笑い声がして、それに誰かが答えて、また別の誰かが呆れたように小さく息をつく。
それだけで、胸の奥が静かに温かくなった。
「どうかしましたかな?」
カプリオスに声をかけられ、ティプスタンははっとする。
「いえ……その、なんか……」
言葉を探しながら、視線が少し泳ぐ。
「……いいなって、思って」
ようやく出てきたのは、それだけだった。
けれど、カプリオスはゆっくりと頷いた。
「それは、良かった」
たったそれだけの言葉だったのに、不思議と胸の奥がじんわり温かくなった。
☆
「お風呂の準備が整いました」
食後しばらくして、侍従の女性が静かに告げた。
その落ち着いた声音に、メリシアは優雅に頷いた。
「では、先に皆さん、どうぞ」
「やったゾ!」
ミミリルが勢いよく立ち上がる。
「おっ?風呂か」
ガミも立ち上がる。
ルベッカは「失礼します」と短く言って静かに席を離れた。
――その頃。
「うぅ……食べ過ぎたかも……」
ティプスタンはひとり、トイレにこもっていた。
美味しい食事に気を許しすぎた結果である。
(でもうまかったんだよなぁ……)
幸せの代償は、なかなか重かった。
☆
ティプスタンがようやく戻ってきた時には、すでに三人の姿はなかった。
(あれ?)
きょろきょろと辺りを見回したところで、メリシアが微笑みかけてくる。
「ティプスタンさん。お風呂の準備が整いましたから、どうぞ」
「は、はい」
少し戸惑いながら返事をする。
どうやらメリシアは、ティプスタンのことをまだ幼い子供のような感覚で見ているらしい。
特に男女の区別を気にしている様子もない。
ティプスタンは何も知らずに、浴場へ向かった。
☆
「……広っ!?」
中へ入った瞬間、思わず声が漏れた。
そこはもはや“風呂場”という言葉では片づけられない空間だった。
石造りの床は広々としており、天井も高い。
壁際には洗い場がいくつも並び、奥には大きな湯船が岩で縁取られるように据えられている。
湯気がふわりと立ちこめ、薄白く霞んだ空気の中に、ほのかな鉱物の香りが漂っていた。
「すご……」
聞けば、ここの風呂は地下から湧く温泉を引いているらしい。
旧校舎を改築する際、昔からあった湯脈を活かして造り直したのだと、食事の席でメリシアが話していたのを思い出す。
ティプスタンはそろそろと湯船の縁に手をかけ、慎重に足を沈めた。
「……あっつ」
最初だけ熱い。
だが、肩まで浸かってしまうと、その熱はじんわりと心地よい重みへ変わっていった。
疲れがほどけるように、体の芯からゆっくり緩んでいく。
岩に背を預ける。
肩に触れる石の感触はひんやりしていて、湯との温度差が妙に気持ちよかった。
「ふぅ〜……」
自然と、長い息が漏れる。
視界には白い湯気。
耳に入るのは、どこかで滴る湯の音と、微かに響く水の揺らぎだけ。
(……幸せだ)
今この瞬間だけは、何も考えなくていい気がした。
学院のことも、これからのことも、うまくやれるかどうかも。
全部、湯の中に沈めてしまえる気がする。
肩までしっかり浸かりながら、ティプスタンは目を細めた。
――そのとき。
ざぶり、と少し大きな水音が響く。
「……?」
ティプスタンが顔を上げる。
湯船の一角、岩影の向こうに人影が見えた。
白い湯気の向こうで揺れる輪郭が、ゆっくりとこちらを向く。
「え?」
「……」
ルベッカだった。
一瞬、思考が止まる。
「ええええええ!?」
「騒がしいですね」
返ってきた声は、いつも通り冷静そのものだった。
「す、すみません!!」
ティプスタンは反射的に謝る。
驚きすぎて心臓がうるさい。
どうしてここにいるのか、と考えたところで、頭がそこまで回らない。
ティプスタンは慌てて視線を逸らそうとした。
だが、その途中で、視線が引っかかった。
ルベッカの胸元。
そこに、大きな傷跡があった。
綺麗な肌を断ち切るように残る、痛々しい痕。
一目で、浅い怪我ではなかったとわかる。
ティプスタンは思わず言葉を失った。
ルベッカはそんな視線に気づいて、小さく眉を寄せる。
「……かまいませんが」
声音は静かだったが、わずかに硬い。
「ジロジロ見られるのは不快です」
「ご、ごめん!」
ティプスタンは慌てて視線をそらした。
耳まで熱くなる。
見てはいけないものを見てしまった気がして、胸の内がざわついた。
ルベッカはそれ以上責めることはせず、静かに湯に肩を沈め直す。
けれど、その沈黙がかえって気まずい。
(どうしよう……どうしようこれ……)
そんなふうに内心でぐるぐるしていた――その時だった。
「ここだゾ!」
「今度はあってんだろーな!?」
聞き覚えのある賑やかな声が、脱衣所の向こうから近づいてきた。
ミミリルとガミだ。
(ど、どうしよう!?)
ティプスタンの顔から血の気が引く。
このまま見つかったら終わる。
いや、終わるどころでは済まない気がする。
焦るティプスタンを見て、ルベッカは小さく、ほんのわずかに呆れたような息をついた。
「仕方ありませんね……」
そう言って、彼女はどこからともなく手鏡型の魔導具を取り出した。
銀の縁取りが施された、ルベッカ愛用の魔導具。
しかし、鏡面には鏡は無く、向こう側まで透けて見えるガラスがはめ込まれている。
ルベッカはそれをティプスタンへ向けた。
「リフレクト・アクティベート」
ガラス部分が淡く光を帯びる。
次の瞬間、ティプスタンは自分の腕の輪郭がぼやけていくのを見た。
「え……?」
「完全な透明化ではありません。認識を阻害するだけです」
ルベッカは淡々と説明する。
「温泉の湯気もありますから、よほど注意して見なければ気づかれません。今のうちに離れてください」
「す、すごい……」
「感心している場合ではありませんよ」
「は、はい!」
ティプスタンは小声で返事をし、その場から離れようとする。
だが、湯に長く浸かっていたせいか、足元がふらついた。
(やばい、ちょっとのぼせてる……)
その時。
ふにっ。
(!?)
手の甲に、なにやら柔らかい感触が……
ティプスタンは凍りつく。
おそるおそる視線を向けると、すぐそばにルベッカの体があった。
ティプスタンは慌てて手を引っ込めた。
(あ、あたった……!?)
ルベッカは気づいていないのか、あるいは気づいても今はそれどころではないのか、表情一つ変えなかった。
その直後、浴場の入口のほうから声がした。
「おおー!すごい広いゾ!」
ミミリルが元気いっぱいの声とともに入ってきた。
いつも頭につけているウサギ耳のヘアバンド型魔導具は外している。
そのせいで、髪がいつもより少しだけ軽く揺れて見えた。
後ろからガミもやってくる。
「やっと着いた……広すぎんだよ、この屋敷」
「途中で二回曲がるとこ間違えたゾ!ガミ」
「お前がそっちだゾつったんだろが」
そんなやり取りをしながら、二人は進んでくる。
ミミリルはルベッカの姿を見つけるなり、ぱっと顔を明るくした。
「ルベッカー!」
そのまま駆け寄ろうとするミミリル。
「走ると危ないですよ」
ルベッカが即座に釘を刺した。
その横で、ティプスタンは必死に息を殺していた。
(早く、早く出ないと……!)
ゆっくり、できるだけ慎重に移動する。
だが湯気と緊張で視界も感覚も曖昧だ。
ミミリルがルベッカのほうへさらに近づいてきた――その瞬間。
つるっ。
「うわっ」
どちらが先に滑ったのか、自分でもわからなかった。
次の瞬間、
どんっ。
「いててて……あれ?」
ミミリルが何かにぶつかって倒れ込む。
その下には、認識されにくくなっているティプスタン。
ミミリルの華奢な体が、思いきり覆いかぶさってきた。
ミミリルの柔らかい肌が密着し、ティプスタンの頭は一気に真っ白になる。
(終わった……!)
心臓が止まりそうになる。
「ん? あんま痛くないゾ?」
不思議そうなミミリルの声。
認識阻害がまだ効いているおかげで、彼女は何か柔らかいものに当たった程度にしか感じていないらしい。
「だから言ったでしょう。風呂場では走らないように」
ルベッカの呆れたような声が飛ぶ。
「うぅ……」
ミミリルはしぶしぶ起き上がった。
重みが離れた瞬間、ティプスタンは心の底から安堵する。
(今だ!!)
この機を逃すわけにはいかない。
ティプスタンはできる限り息を殺し、ソロリソロリと脱衣所へ向かった。
床に滴る湯の音さえ、今はやけに大きく感じる。
脱衣所まではほんの少しの距離なのに、やたらと長く思えた。
☆
「はぁ……はぁ……」
脱衣所に入った途端、全身から力が抜けた。
助かった。
まだ完全ではないが、ひとまず命の危機は去った気がする。
急いで自分の服を探し、手を伸ばす。
そのときだった。
「……ん?」
自分の服の上に、見慣れない布が重なっている。
細く、小さく、どう見ても自分のものではない。
ティプスタンはそれをつまみ上げた。
(……これ、まさか)
(下着!?)
理解した瞬間、嫌な予感が背筋を走った。
なぜこんなものが自分の服の上にあるのか。
考えたくないが、考えなくてもまずいことだけはわかる。
そこへ――
「ヤベェ、ヤベェ、タオル忘れた」
ガミの声が近づいてきた。
(最悪だ!?)
振り返る。
逃げ場はない。
しかも、ちょうどその瞬間――
ふっ、とティプスタンの輪郭を曇らせていた魔法が解けた。
裸のティプスタン。
手には女性用の下着。
真正面には、脱衣所へ戻ってきたガミ。
沈黙が落ちる。
「……」
「……」
数秒が、永遠みたいに長かった。
やがてガミのこめかみに、ぴくりと青筋が浮いた。
「お前、いい度胸してんじゃねーか」
「ち、違――」
言い訳が最後まで形になる前に、
ドゴッ。
「ぐはっ!?」
見事に拳がめり込んだ。
☆
その夜。
ベッドへ倒れ込んだティプスタンは、じんじん痛む頬を押さえながら天井を見上げていた。
「……なんだったんだ今日は」
頬も痛い。 頭も痛い。
けれど。
ふっと、笑みがこぼれた。
(でも……楽しかったかも)
遠くの部屋から、誰かの笑い声が聞こえる。
それは騒がしくて、落ち着かなくて、でも不思議と嫌ではなかった。
この場所は――悪くない。
そんなふうに思いながら、ティプスタンはゆっくりと目を閉じた。
☆7話へ続く☆




