第47話『反響』
地下古代闘技場――王女防護壁前。
ヒュッ。
ネラが黒鞭を振り上げた。
褐色の腕が弧を描き、細かく縮れた黒髪が肩先で揺れる。
柄に埋め込まれた魔石から紫色の光が走り、黒革の先まで駆け抜ける。
鞭先が地面を這い、転がっていた拳大の石へ巻きついた。
ネラが手首を返す。
鞭が指先のように石を締め、持ち上げる。
魔力を通した黒鞭は、彼女にとって長く伸びた腕も同然だった。
大きく振りかぶり、一気に振り抜く。
鞭が最大までしなったところで、石を掴んでいた先端がほどけた。
ヒュンッ!
放たれた石が、ふらつく拳闘士の顔面へ飛ぶ。
「地の渦道――《礎界》」
左腕の呪印が脈動する。
「第二階位・解放!」
ドクンッ。
呪印から灰色の光が全身へ走った。
石はもう目の前だった。
あと数センチ。
拳闘士を覆う灰色のオーラへ触れた途端――
キィン――ヴワァン!
「……!?」
石と顔の間に、空気の歪みが生じた。
水面に広がる波紋のような輪が幾重にも揺れ、石の勢いがそこで消える。
ゴトッ。
石は拳闘士へ届かず、その足元へ落ちた。
「……?」
ネラが目を細める。
波紋が掻き消えた。
ヴワァン。
間を置かず、ネラの正面に同じ輪が浮かんだ。
「ネラ!」
ライアンの顔色が変わる。
緑のマントが翻り、白髪の混じる黄金のたてがみが大きく揺れた。
駆け寄るなり、ネラの腕を掴んで横へ引き倒した。
「!?」
パァンッ!
空中で、見えない衝撃が弾けた。
ネラは地面へ手をついたまま、呆然とその空間を見た。
「今のは、いったい……」
コウにも何が起きたのか分かっていない。
ライアンだけが拳闘士を睨んでいた。
「波紋に気をつけろ」
「波紋?」
「ああ。俺はあれに吹き飛ばされた」
ライアンは胸元を押さえた。
あの時は何をされたのか分からなかった。
だが、今なら分かる。
「恐らく奴は、受けた衝撃を別の場所へ返せる。奴に何かが当たった直後、近くに波紋が出たらすぐ離れろ」
コウが拳闘士の足元へ落ちた石を見る。
青い瞳が僅かに細くなった。
「じゃあ今のは、ネラの投石を……」
「そう考えた方がいい」
「チッ。死にぞこないが……」
拳闘士が吐き捨てる。
左腕の呪印が、一度だけ不自然に明滅した。
「あまり、時間もかけられん……」
低く呟き、王女へ目を戻した。
フッ。
「!?」
王女を囲んでいた紫色の防護壁が、前触れもなく消えた。
全員の視線が一斉に王女へ向く。
拳闘士が動いた。
ドッ!
王女へ向かって駆ける。
「させるか!」
コウとライアンも走った。
白銀の軽鎧をまとったコウの細身の身体が、真っ先に拳闘士を追う。
ネラはその後ろから黒鞭を振るった。
触れれば、また身体が重くなる。
それでも、このまま王女の元へ行かせるわけにはいかない。
地面すれすれを走った鞭先が、拳闘士の右足首へ回り込んだ。
シュルッ!
二重に巻きつく。
ネラが両手で柄を引いた。
ザザッ!
靴底が砂を削る。
それでも拳闘士は止まらず、ネラごと引きずって進んでいく。
「ぐっ……!」
すらりとした身体を後ろへ傾け、ネラが踏ん張る。
「!?」
眉が僅かに寄った。
身体が重くならない。
鞭は足首へ巻きつき、強く締めつけている。
それでも、何も起きない。
拳闘士が振り返った。
「邪魔だっ!」
右拳を振り上げ、自分の胸を叩いた。
ドンッ!
ヴワァン。
ネラの正面に波紋が開く。
「っ!」
ネラが横へ跳んだ。
パァンッ!
直前まで立っていた場所で衝撃が弾ける。
着地する寸前。
拳闘士がもう一度、胸を叩いていた。
ドンッ!
ヴワァン。
「……!?」
ネラの目の前。
逃げた先に波紋が浮かんでいた。
「ネラ!」
ライアンが横から飛び込む。
ネラの肩を突き飛ばし、その前へ身体を滑り込ませた。
パァンッ!!
「ぐあっ!」
胸元へ衝撃が直撃した。
ライアンの身体が宙へ浮く。
ドサッ!
砂の上へ背中から叩きつけられた。
「ライアンさん!」
ネラが振り向く。
ライアンは倒れたまま動かない。
コウの視線も倒れたライアンへ向いた。
拳闘士がその隙を逃さない。
右拳を胸へ叩き込んだ。
ドンッ!
「コウ!」
「っ!?」
ヴワァン。
振り向いたコウの正面に波紋が開く。
パァンッ!
「ぐっ!」
銀鋼鎧が鈍く鳴り、コウの身体が横へ弾かれた。
砂色の髪が乱れる。
たたらを踏み、脇腹を押さえた。
「くそっ……!」
拳闘士は王女へ向かって進む。
ネラの視線が、右足首へ巻きついたままの黒鞭へ落ちた。
触れている。
擦れている。
締めつけている。
それでも、ネラの身体は一向に重くならない。
先ほどの攻防が脳裏をよぎった。
自分は鞭で脇腹を叩いた直後に重くなった。
コウはサーベルを手甲へ当てた直後に重くなった。
――触れたら重くなるわけではないのか?
「直接、衝撃を与えた時だけ……」
ネラが小さく呟いた。
柄を握ったまま、自分から拳闘士へ駆ける。
「……?」
拳闘士が横目を向けた。
ネラは止まらない。
距離を縮める。
拳闘士との間が近くなるほど、その分だけ黒鞭に余裕が生まれる。
ネラが手首を返した。
「締め上げろ、黒蛇――《ナイト・コイル》!」
柄の魔石が強く輝いた。
魔力が黒鞭へ流れ込み、鞭先まで一気に駆け抜ける。
シュルルルッ!
右足首を縛る二重の輪はそのまま。
ネラが詰めた距離ぶん、柄から足首までの黒鞭が大きくたわむ。
たるんだ黒革が持ち上がり、黒蛇のように脚を這い上がった。
腰。
背中。
右腕。
黒鞭が右手首へ絡みつき、その腕を背中側へ引いた。
「なっ――」
さらに蛇行する。
左手首へ巻きつく。
ギチッ!
両腕が背中で引き寄せられた。
「ぐっ!」
拳闘士が力任せに腕を開こうとする。
ギチギチと鞭が軋んだ。
だが、魔力を巡らせた黒鞭は外れない。
ネラは柄を両手で握り、締めつけを維持する。
「このっ……!」
拳闘士が右腕を捻る。
自分の脇腹へ拳を打ちつけようとする。
だが、背中へ引かれた拳は届かない。
肘を振ろうとしても、鞭が食い込むだけだった。
「ぐっ……!」
ネラも引きずられた。
それでも手を離さない。
命座までは、もう僅か。
拳闘士が足元へ目を落とした。
歩みに紛れ、左足のつま先を砂に半ば埋もれた石の下へ滑り込ませる。
ガッ。
石が斜め上へ跳ね上がった。
ネラは背後で両腕の拘束に集中していて気づかない。
石は二人の頭上へ消えた。
ヒュッ――ゴッ!
落ちてきた石が、拳闘士の右肩を覆う灰色のオーラに当たった。
キィン――ヴワァン!
「……!?」
ネラの顎のすぐ脇に、波紋が開いた。
距離が近すぎる。
避けられない。
パァンッ!
「……っ!」
小さな衝撃が顎を横から打った。
ガクンッ。
頭を揺さぶられ、ネラの身体から力が抜けた。
柄を握っていた指が開く。
そのまま意識を失い、後ろへ崩れ落ちた。
ドサッ。
黒鞭から張力が失われる。
拳闘士が両腕を強引に開いた。
シュルッ。
手首を縛っていた黒革がほどけ、右足首の二重の輪も外れた。
自由になった両腕を前へ戻した、その時――
ドクンッ!
「ぐっ……!」
左腕の呪印が激しく脈動した。
手甲の隙間から覗く指先が、灰色へ変わっている。
パキッ。
硬くなった皮膚へ細い亀裂が走った。
拳闘士の顔から余裕が消える。
視線が王女へ飛ぶ。
――まだ間に合う。
ドッ!
地面を蹴った。
王女へ向かって走る。
ドクンッ!
「ぐっ……!」
呪印が再び脈動する。
石化が左手から前腕へ。
さらに肘へと這い上がる。
パキ、パキッ。
それでも速度を緩めない。
コウが顔を上げた。
青い瞳が、迫る巨体の動きを追う。
脇腹から手を離し、サーベルを握り直した。
「統べよ森羅、集え万象――《オムニヴァス・コンボイ》!」
鎧の胸元とサーベルの柄――二つの魔石が輝いた。
紫色の光がコウの防具全体へ走り、身体能力を押し上げる。
もう一方の光は柄から刀身へ。
切っ先まで駆け抜け、細身の刃に魔力を宿した。
拳闘士が命座へ踏み込む。
ドクンッ!
「ぐっ……!」
灰色が左腕から脇腹へ一気に広がった。
さらに腰。
脚へ。
拳闘士の足取りが大きく鈍る。
それでも止まらない。
石化の進む脚を引きずり、もう一歩踏み込んだ。
「くそ……が……!」
首筋から頬へ、灰色の亀裂が伸びる。
上体を前へ倒し、まだ石化していない右腕を王女へ伸ばした。
「くっ……ふぐっ」
指先が王女へ迫る。
「……ん……」
王女の瞼が動いた。
ゆっくりと目が開く。
「…………?」
ぼやけた視線が、目の前の大きな影を捉えた。
半身を石に侵され、灰色の亀裂を頬に走らせた大男。
荒い息を吐きながら、自分へ手を伸ばしている。
王女の瞳が大きく開いた。
「きゃあああああっ!!」
悲鳴が古代闘技場へ響く。
拳闘士が右腕をさらに伸ばす。
「風付与魔法――《エアロ・ラン》!」
ブワッ!
コウの両脚へ風が巻きつく。
地面を蹴った。
ギュンッ!
鎧に宿る魔力と風が重なり、コウの身体が一気に加速する。
王女までの距離が、一瞬で消える。
拳闘士が伸ばした右腕。
その下へ、コウが斜めから滑り込み、サーベルを低く構えた。
「ラズファルト流剣法――《アッパーレイズ》!」
ピュインッ!
魔力を宿した刃を、下から振り上げる。
刀身が分厚い手甲を避け、肘寄りの前腕へ走る。
ザシュッ!!
拳闘士の腕が斬り飛ばされた。
手甲ごとの右腕が王女の目の前へ落ちる。
ゴトッ。
「……っ!」
同時に、コウの身体へ凄まじい重さがのしかかった。
片膝が地面に落ちる。
その背後で――
ドクンッ!
拳闘士の左腕の呪印が大きく脈打った。
パキパキパキッ――!
灰色が全身を覆う。
「ぐっ……あがっ!」
前へ傾いていた巨体が、その姿勢のまま固まった。
拳闘士の身体が完全に石と化し、全身を覆っていた灰色のオーラが消える。
コウの身体から重さが消えた。
「ご無事ですか? 姫様!」
王女の視線が、自分を庇うコウへ移る。
青い瞳。
乱れた砂色の髪。
一瞬、目を離せなかった。
小さく頷く。
「はい……」
それからしばらくして。
地下通路の奥から、いくつもの足音と鎧の擦れる音が響いてきた。
現れたのは、ククルシア兵とレグリア兵の増援だった。
★48話に続く★




