第48話『巡る紅』
地下古代闘技場――中央陣へ続く岩壁地帯。
「はっ……はっ……」
ティプスタンは片膝をついたまま、荒い呼吸を繰り返していた。
身体に力が入らない。
先ほどまで足元を覆っていた赤い膜は、もう消えていた。
《灼界》が広がってから、胸の奥が空になったような感覚が続いている。
それでも、紅の力が、辛うじて身体を支えていた。
少し離れたところでは、ミミリルが地面に伏している。
「ミミリル……大丈夫?」
「うぅ……。力が入らないゾ……」
ミミリルが両手を地面につこうとした。
細い腕が震える。
どうにか顔を上げたものの、それだけだった。
肘さえ身体を支えきれず、再び地面へ伏してしまう。
脚にもまるで力が入らない。
「…………」
ティプスタンは周囲へ目を走らせた。
《グレイファング》の剣士の姿がない。
密集する岩壁のどこかに、まだ潜んでいるのか。
「…………」
いや。
もし近くにいるなら、今の自分たちを見逃す訳がない。
まともに動けない二人など、とっくに攻撃されているはずだ。
――中央陣へ向かったのか。
ティプスタンはふらつきながら立ち上がり、ミミリルのそばまで歩いた。
しゃがみ込み、その腕を自分の肩へ回す。
「とりあえず隠れよう」
少し先。
岩壁の根元から大きな岩が張り出し、その裏側に窪みができている。
通路からは直接見えない。
「よい……しょっ……」
ティプスタンが身体を起こす。
「ティプスタン……無理するな……」
「大丈夫……僕は、まだ動けるから」
一歩進むたび、脚が震えた。
ミミリルの体重を支えながら、ゆっくりと岩陰まで進む。
「くっ……」
途中で膝が折れかける。
それでも踏みとどまり、ようやく張り出した岩の裏へ入った。
ティプスタンはミミリルを岩壁にもたれさせる。
自分もその隣へ身を沈めた。
聞こえるのは、自分たちの荒い呼吸だけだった。
ティプスタンは岩陰から僅かに顔を出し、周囲を窺った。
岩壁。
砂地。
誰もいない。
すぐに身を戻す。
その時、地面へついた左手に硬いものが触れた。
「……?」
《緋幻紋の盾》だった。
先ほど剣士の赤黒いオーラに触れ、持っていられないほど熱を帯びた盾。
《灼界》が第二階位へ移った時、剣士の装備を覆っていた赤黒いオーラは消えていた。
ティプスタンは恐る恐る指先を縁へ触れさせた。
「……熱くない」
掌を置いてみる。
もう、あの熱は残っていなかった。
盾を拾い上げ、左腕へ装着する。
普段なら気にもならない重さが、今は腕へずしりとのしかかった。
その時だった。
ヴゥン……。
「……?」
遠くで、紫色の光が揺らいだ。
ティプスタンが岩陰から上空を見上げる。
闘技場の両端から伸びていた二本の光柱が揺らぎ――。
フッ。
ほとんど同時に消えた。
「……っ!」
「防護壁が……!」
ミミリルも息を呑む。
ティプスタンは岩陰から身体を少し乗り出した。
中央陣の方角を見る。
ガミとキリカがいる場所。
すぐに顔を巡らせ、今度は王女のいる方角へ目を向けた。
防護壁は、もうない。
王女の元へ戻るべきか。
それとも中央陣へ向かい、防護壁を再び展開するべきか。
「…………」
視線が中央陣へ戻る。
そして、また王女の方へ。
その時。
ティプスタンの視界の下端で、赤い光が明滅した。
「……っ」
胸元へ目を落とす。
花弁中央の赤い宝石が、ゆっくりと明滅を始めていた。
残り一分。
――どうすればいい。
ティプスタンは唇を噛んだ。
「ウチも……」
ミミリルが岩壁へ手をつく。
立ち上がろうと力を込めた瞬間、腕が震えた。
「うっ……!」
身体が僅かに浮いただけで、すぐに崩れ落ちる。
「ミミリル!」
「だ、大丈夫だゾ……」
ミミリルはそう言ったものの、呼吸は乱れたままだった。
「ミミリルはここで隠れてて」
「ティプスタン……」
「あの剣士が戻ってくるかもしれないから」
ミミリルは悔しそうに俯いた。
それでも、やがて小さく頷く。
「……分かったゾ。でも、絶対に無理するんじゃないゾ」
「うん」
ティプスタンは立ち上がった。
脚が震える。
左腕の《緋幻紋の盾》も重い。
それでも、立てる。
中央陣を見る。
王女のいる方角を見る。
『王女たちを追う者は、まず王女と首相の護衛を最優先にしろ』
ライアンの言葉が蘇る。
王女を守る。
それが、自分たちに与えられた役目だ。
「…………」
小さく息を吸った。
ティプスタンは岩陰から一歩踏み出した。
すぐに脚がもつれ、肩が岩壁へぶつかる。
「くっ……」
倒れそうになる身体を押し戻す。
その姿は岩壁の向こうへ消えた。
★
地下古代闘技場――中央陣付近。
シュゥゥゥゥ……。
キリカの背中から、白い煙が立ちのぼっていた。
剣に裂かれた胴着の奥。
深く開いていた刺し傷が、みるみる塞がっていく。
裂けた肉が寄り合い、流れていた血が止まる。
最後に残った細い傷跡も、白煙の中へ消えていった。
「はっ……はっ……」
だが、キリカは起き上がれなかった。
外傷は消えている。
それなのに呼吸は激しく乱れ、額だけでなく首筋や腕からも汗が流れ落ちていた。
「なに……これ……」
指を動かそうとする。
ほとんど動かない。
身体の内側から、力という力を抜き取られたようだった。
《灼界》第二階位の力を宿した武器で傷を負えば、自身のエネルギーを強制的に燃焼させられ、自然治癒力が一気に引き出される。
傷は塞がる。
だが、傷が深ければ、それだけ多くの力を奪われる。
キリカの長い尾が力なく伸びていた。
「くっ……」
起きようとしても、肘さえ満足に立たない。
傷は消えた。
だが、動ける状態ではなかった。
ザッ。
少し離れたところで、《グレイファング》の槍使いが長槍を握り、その視線をガミへ向ける。
ガミは腹を押さえ、地面に伏していた。
「ぐっ……!」
起き上がろうと腕に力を込める。
肘が伸びきる前に、身体が沈んだ。
先ほど腹部へ叩き込まれた蹴りの衝撃が残っている。
息を吸うたび腹の奥が軋み、傷めた右のふくらはぎにも力が入らない。
灰色の髪は砂にまみれ、褐色の腕と脚には傷がいくつも残っていた。
槍使いがゆっくりと近づいてくる。
「くそっ……」
ガミが上目遣いに睨みつけた。
槍使いが足を止めた。
両手で長槍を握り直し、穂先をガミへ向けて高く構える。
「終わりだ」
ガミの狼耳が伏せられた。
頭上で穂先が鈍く光る。
槍使いの両腕が、一気に沈んだ。
ヒュンッ!
穂先がガミへ迫る。
その刹那。
ドクンッ。
「……!?」
ガミの胸が大きく脈打った。
紅の光が身体を包む。
失われていた力が、腕へ、脚へ、一気に流れ込んできた。
「っ!」
ガミは咄嗟に身体を捻った。
ドシュッ!
穂先が脇腹すれすれを通り抜け、砂へ深く突き刺さる。
「なに!?」
槍使いの目が見開かれた。
ガミは地面へ手をつくと、そのまま身体を跳ね上げた。
ザッ!
後方へ跳び、槍使いとの間合いを開ける。
着地した右脚に痛みが走り、膝が大きく沈んだ。
「くっ……」
それでも、踏みとどまる。
傷が治ったわけではない。
それでも、動ける。
「これは……」
ガミが自分の身体を見る。
紅のオーラが全身を覆っていた。
胸元からは、一本の紅光が伸びている。
「……?」
その先を目で追った。
中央陣から外れた岩壁の切れ目。
そこに、一人の少年が立っていた。
「ティプスタン……?」
岩壁へ片手をつき、ティプスタンが荒い呼吸を繰り返している。
赤い短髪は汗で額へ張りつき、深紅のマントの下では肩が大きく上下していた。
足元も覚束ない。
それでもティプスタンは、まっすぐガミだけを見ている。
紅光が二人を繋いでいた。
「…………」
ガミは一瞬、中央陣へ目をやった。
それからティプスタンへ視線を戻し、唇をきゅっと結んだ。
王女防護壁の方角へ向かっていた《グレイファング》の剣士も、足を止めた。
「!?」
赤黒くひび割れた剣を握ったまま、ティプスタンを見る。
――なぜ、動ける?
《灼界》第二階位をまともに受けたはずだ。
あの領域で力を奪われれば、立ち上がることさえ難しい。
なのに今、ここにいる。
剣士は背後を一瞥した。
先ほどまで動けなかった獣人が、紅のオーラを纏って立っている。
剣士は赤黒くひび割れた剣を握り直した。
地面から剣を抜いた今、《灼界》の領域は消えている。
再び突き刺せば、あの少年も獣人も領域に収められる。
だが、槍使いも例外ではない。
「…………」
剣士は王女のいる方角へ目を向けた。
「アイツは何をしている?」
拳闘士には、防護壁が消え次第、王女を連れ出すよう命じてある。
その後は転送陣を展開する手筈だった。
転送陣が起動すれば、上空へ光柱が伸びるはずだった。
いまだに何も見えない。
「チッ」
剣士が舌打ちした。
もう一度ティプスタンを見る。
王女の元へ向かうには、あの少年が邪魔だ。
視線が、ティプスタンの震える脚へ落ちる。
荒い呼吸。
武器は持たず、左手に盾だけを身に着けている。
まともに反撃できる状態には見えない。
先に潰す。
剣士が身体を低く沈めた。
ティプスタンもそれに気づき、《緋幻紋の盾》を持ち上げる。
震える左腕で、どうにか正面へ構えた。
ザッ!
剣士が地面を蹴る。
赤黒くひび割れた剣を携え、ティプスタンへ一直線に駆け出した。
ジジジッ。
「……?」
ティプスタンを包んでいた紅のオーラが揺れた。
一瞬、弱まったように見えた。
だが――違う。
身体の外へ溢れていた紅の光が、内側へ沈み込んでいく。
胸から肩へ。
腕へ。
腰へ。
脚へ。
「これは……」
紅の疑似魔力が、全身を巡っている。
だが、その巡り方がこれまでとは違った。
ティプスタンには魔力がない。
故に、身体へ魔力を巡らせる循環系の感覚を、実際には知らなかった。
これまでの《ヴァーミリオン》は、周囲で見てきた魔力の在り方をなぞったものにすぎなかった。
だが今は、《レゾナンス》で繋がったガミから、身体へ魔力を巡らせる感覚そのものが伝わってくる。
「……っ」
震えていた脚が地面を捉えた。
左腕が《緋幻紋の盾》の重さを支える。
疲れが消えたわけではない。
息切れも、そのままだった。
それでも――身体が動く。
力が巡る。
剣士の赤黒い剣がティプスタンめがけて振り下ろされる。
ティプスタンは小さく一息ついて、盾を剣に滑らせる。
皇流短剣盾術――《盾刃流し》
ギャリッ。
剣と盾が擦れ、火花が散る。
真正面からは受け止めず、盾の表面へ刃を乗せ、その勢いを斜め下へ流す。
「なにっ!」
剣士の体勢が前へ崩れた。
ティプスタンの肩口すれすれを、赤黒い刃が抜ける。
剣士が盾を持つ左腕を跳ね上げる。
だが、遅い。
《灼界》を発動している間、術者自身は魔力を使うことができない。
普段なら魔力で軽くできる盾が、今はそのままの重さで左腕へかかっている。
重い盾が上がり切るより先に、ティプスタンが懐へ踏み込んだ。
皇流短剣盾術――《盾天衝》
ゴカッ! ゴキンッ。
盾が剣士の下顎を砕く。
剣士の頭が大きく跳ね上がった。
「がっ――」
膝から力が抜ける。
赤黒い剣が手を離れ、地面へ落ちた。
ガランッ。
剣士の身体も、その横へ崩れ落ちる。
そのまま、気を失った。
「はっ……はっ……」
ティプスタンは盾を構えたまま、荒い呼吸を繰り返した。
胸元では、中央の赤い宝石が激しく明滅している。
それを見ていた槍使いが舌打ちする。
「チッ。これまでか」
槍使いは片手を地面へついた。
ヴゥン……。
掌を中心に、紫色の円形術式が広がっていく。
槍使いはガミを見た。
「拳闘士……。ガミとかいったな。次は必ず始末する」
「あ?」
槍使いの口元が僅かに吊り上がる。
「ラグホーン。俺の名だ。覚えとけ」
「待ちやがれっ!」
ラグホーンの足元の術式から、紫色の光柱が上空へ伸びた。
シュン。
ラグホーンが消えると同時に、円形術式もスッと消えた。
その直後。
フッ。
胸元の宝石から赤い色が抜け落ち、透明へと変わった。
全身を巡っていた疑似魔力が消える。
同時に、ティプスタンとガミを結んでいた紅光も消えた。
ガミを覆っていた紅のオーラも失われる。
「……っ」
ガミの右膝が再び大きく沈んだ。
それまで身体を支えていた力が消え、ティプスタンの膝も地面へ落ちた。
★49話に続く★




