第41話『袋の鼠』
大闘技場――地下通路・地上側出入口前。
「申し訳ありません。現在、地下通路の安全確認を行っておりますので、関係者以外の方はお通しできません」
入口を守る衛兵が、丁寧に頭を下げた。
その前で、バスケットを抱えた婦人が困ったように頬へ手を添える。
「あら。そうなの? 主人にお弁当を届けに来たのだけど……」
白い布の隙間から、パンや果物が覗いている。
「どうしましょ」
「よろしければ、こちらでお預かりしますよ」
もう一人の衛兵が言った。
「選手番号か、お名前を教えていただければ、こちらからお渡ししておきます」
「あら、助かるわぁ。そうしてくださる?」
婦人は夫の名前と選手番号を告げ、バスケットを差し出した。
「よろしくお願いしますね」
「承知しました」
何度か礼を言い、婦人は来た道を戻っていく。
その姿が角の向こうへ消えた。
衛兵の一人がバスケットの布をめくる。
赤いリンゴを一つ取り出し、隣へ放った。
ぽんっ。
もう一人が片手で受け取る。
ためらいなく齧った。
シャリッ。
★
大闘技場地下――中央広場へ続く通路。
「急いでください!」
チユチウを先頭に、《ファイブスター》の五人が石造りの通路を駆けていた。
いくつもの足音が壁に反響する。
カプリオスから指示を受けたのは、ほんの数分前だった。
――地下中央広場で、両国の要人を狙った襲撃が起きました。
いつもの柔らかな笑みは消えていた。
――現れたのは《グレイファング》の三人。ですが、状況が分かりません。皆さんには、その確認をお願いします。
そして最後に、念を押された。
――戦う必要はありません。状況確認を最優先してください。決して深追いしないように。
学生を賊と戦わせるつもりはない。
それでも今すぐ動ける者の中で、能力まで把握したうえで信頼して送り出せるのは、彼らしかいなかった。
「つってもよぉ」
走りながら、ピクトが口を開いた。
「賊って三人なんだろ? もうとっくに捕まってんじゃねーの?」
「馬鹿か」
横を走るタンクスが吐き捨てる。
「なんでだよ!」
「中央広場までの通路にゃ衛兵がいる。それを抜けて、要人の前まで来てんだぞ」
ピクトの表情から軽さが消えた。
「三人しかいねぇことより――三人でそこまで入り込んでることが異常なんだよ」
「……確かにそうだな」
コウが前を見たまま呟く。
「見えてきました!」
通路の先に、白い光が広がっている。
「待て」
コウの声で、全員が足を緩めた。
中央広場で、まだ戦闘が続いている可能性もある。
チユチウもすぐに速度を落とし、壁際へ寄った。
六人の足音が消える。
聞こえてきたのは、剣戟でも怒号でもなかった。
かすかな呻き声。
チユチウが壁からそっと広場を覗き込む。
「……っ」
息を呑んだ。
広場じゅうに、人が倒れていた。
すぐに左右へ目を走らせる。
「敵の姿は見えません」
コウも入口から中を確認した。
「行こう。警戒は解くな」
六人は慎重に広場へ入った。
「なんだよ……これ……」
ピクトの声が掠れた。
血に濡れた者。
身動き一つしない者。
腕や脚を押さえ、苦しげに呻く者。
二十人近くいたはずの護衛で、まともに立っている者はほとんどいない。
壁の所々が大きく陥没し、そこから無数の亀裂が走っていた。
砕けた石片が床へ散らばっている。
倒れた者たちの中には、レグリア王国の近衛騎士団長もいた。
分厚い胸甲を貫き、護衛兵が使っていたものと同じ型の槍が、その身体へ深々と突き刺さっている。
壁際に崩れ落ちたまま、すでに息はなかった。
少し離れた場所では、王室外交官が頭を抱えてうずくまっている。
肩が小刻みに震えていた。
「……マジかよ」
タンクスも、さすがに言葉を失っていた。
「ライアン様!」
チユチウが叫んだ。
三本に分かれた通路の一つ。
その脇の壁に、黄金色のたてがみが見えた。
チユチウが駆け寄る。
壁を背に座り込んでいたライアンが、ゆっくり顔を上げた。
「……チ、チユチウか」
「はい!」
胸甲の中央が、大きく内側へ歪んでいる。
その背後では石壁が深く窪み、周囲へ亀裂が走っていた。
強烈な一撃をまともに受け、そのまま壁まで吹き飛ばされたことは一目で分かった。
「こ、これは一体……! 何があったのです!?」
「あの三人に……やられた」
「三人でこれを……?」
チユチウが息を呑む。
ライアンはチユチウを見る。
「そっちは……どうなってる?」
「カプリオスさんが、外部へ異常を伝えるため地上入口へ向かっております!」
「そうか……」
ライアンは胸元を押さえながら息を整えた。
呼吸こそ浅いが、受け答えははっきりしている。
コウはすぐに周囲を見回した。
「ピクト、ネラ。動ける人から手当てを。キリカは周囲を警戒」
そのままライアンへ目を向ける。
「タンクス、まずライアンさんを頼む」
「ああ」
タンクスはライアンの脇へ膝をつき、回復魔法の準備をした。
★
その頃。
大闘技場地下――別通路。
「選手を控室から出さないでください」
カプリオスは歩きながら、側近の護衛へ指示を出していた。
隣には《レッドスター》の五人がいる。
「理由は安全確認で構いません。私から指示があるまで待機させてください」
「承知しました」
「それから」
今度は従者を見る。
「医務室へ。持ち出せるだけの救急用品を用意しておいてください」
「はい」
二人がそれぞれ別方向へ走っていく。
カプリオスたちは、そのまま地上入口を目指した。
ティプスタンが先頭に立ち、残る四人はカプリオスを囲むように進む。
階段を上りきる直前、ティプスタンが足を止めた。
「……これは」
目の前を、分厚い木製の扉が塞いでいた。
さらに手前には鉄格子。
扉の表面には淡い光を放つ術式が浮かび、複雑な線が幾重にも重なっている。
「なんだこりゃ?」
ガミが鉄格子を掴み、力任せに揺らした。
ガンッ、ガンッ。
びくともしない。
ミミリルも横から鉄格子の隙間へ手を伸ばし、木扉を叩く。
「おーい!」
返事はない。
カプリオスは扉を見つめ、顎ひげへ指を添えた。
「やはり、封鎖されていましたか」
驚いた様子はない。
おそらく、他の地上出口も同じように封じられていると考えるべきだろう。
だが――妙だった。
地下にいるのは、要人を直接守る護衛だけではない。
選手区画、出入口、主要な分岐。
大会中は地下の各所に両国の兵が持ち場を与えられている。
合わせれば、その数は数百に及ぶ。
だが、広い地下施設の各所に分散しており、すぐに集められる状態ではない。
賊がそれに匹敵するほど潜り込んでいるとは考えにくい。
それなのに、敵は地上への道を閉ざした。
本来、逃げ場を失うのは向こうのはずだ。
「袋の鼠……」
カプリオスが小さく呟く。
「果たして、どちらが鼠なのやら」
踵を返す。
「中央広場へ向かいます」
「他の出入口に行かないのか?」
レヴィが尋ねた。
「おそらく、他も同じように封鎖されているでしょう」
カプリオスは階段を下りながら続ける。
「まず中央広場の状況を確認します。《ファイブスター》とも合流しましょう」
途中で医務室へ寄り、準備されていた救急用品を受け取る。
それを手分けして抱え、《レッドスター》は再び中央広場へ向かった。
★
中央広場が近づくと、ティプスタンが足を緩めた。
入口の手前から中を窺う。
先に向かった《ファイブスター》の姿が見えた。敵の姿はない。
「敵はいないみたいです」
その言葉を受け、カプリオスたちも広場へ入った。
《レッドスター》の五人は、広場の光景を前に言葉を失った。
広場を照らす光石。
その明るさが、かえって惨状を際立たせていた。
石床に残る血。
砕けた壁。
そこかしこで横たわる護衛たち。
「カプリオスさん!」
コウが気づいた。
《ファイブスター》はすでに負傷者の応急処置を始めている。
「救急用品を持ってきました!」
アンナたちも荷物を下ろし、すぐに手当てへ加わった。
「カプリオスさん!」
今度はチユチウの声。
壁際にライアンがいた。
「ライアン……!」
カプリオスが駆け寄る。
ライアンの胸甲はすでに外され、傍らへ置かれていた。
大きく陥没したその形と、背後の壁に残る窪みを見て、カプリオスの顔が強張る。
「これは……何があったのです!?」
ライアンは息を整えながら、襲撃から現在までの出来事を手短に説明した。
「王女は?」
「ホウホに任せた」
ライアンが通路の一つを見る。
「隠し通路……Bルートへ逃がした」
カプリオスの目が僅かに見開かれる。
「Bルートというと……あの場所ですか」
「ああ」
「三人も後を追った。まだ、そう時間は経っていない。そっちは?」
「選手控室側の出口が、完全に封じられていました。おそらく、他の出入口も同じでしょう」
ライアンの眉間に皺が寄る。
「……だとすると、制御室を押さえられたと見るべきか」
「私もそう考えています」
複数の出入口が同時に封じられているなら、制御室から操作されたと考えるのが自然だ。
しかし、制御室は地下でも特に重要な区画。
普段から多くの衛兵が配置され、警備も厳重な場所だった。
そして《グレイファング》は五人。
この広場へ現れたのは三人だけ。
「残る二人がいるとすれば、そこにいる可能性が高いですね」
「ああ」
ライアンが壁へ手をつき、ゆっくり立ち上がる。
痛みに眉を寄せたが、足元にふらつきはない。
「全員、集まれ」
低い声が広場に通った。
《レッドスター》。
《ファイブスター》。
十人が集まる。
「緊急クエストだ」
ライアンは十人を見回した。
「お前たちに、王女とホウホ首相の追跡・護衛。ならびに、制御室の奪還任務を依頼する」
「よっしゃあ!」
ガミが拳を打ち合わせた。
「やってやるぜ!」
「ガミさん」
カプリオスが呼び止める。
「あ?」
「ミミリルさん、レヴィ君も」
三人が振り向いた。
「あなた方は、ここに残ってください」
「はぁ!?」
ガミの声が響いた。
「なんでだよっ!」
カプリオスは三人を見る。
「今は、まともに魔力を使えないのでしょう?」
「だからって――」
「これは試合ではありません」
ガミの言葉を遮る。
「ここにいる護衛を見てください。あの三人は、これだけの人数を短時間で退けています」
ガミが口を閉じた。
「途中で動けなくなれば、危険に晒されるのはあなた方だけではありません」
ミミリルのウサギ耳が僅かに垂れた。
「負傷者の手当てと護衛も必要です。三人には、ここを――」
「ちょっと待てよ」
レヴィが口を挟んだ。
カプリオスが見る。
「俺っちたちは、自分の魔力を使わなくても魔力が使える」
「ちょっと……レヴィ」
ティプスタンが止めようとする。
レヴィはティプスタンを見る。
「黙って突っ立ってる場合じゃねぇだろ、アニキ」
「でも……」
「緊急事態なんだ。使える手があるなら、言っといた方がいい」
カプリオスが尋ねる。
「どういうことです?」
レヴィは親指でティプスタンを示した。
「アニキの《ヴァーミリオン》の力だ。そいつで疑似魔力を借りれば、自分の魔力を使わずに魔法や魔導具を使える」
一瞬、場が静まり返った。
初めて聞いた者たちが、一斉にティプスタンへ目を向ける。
「は?」
その中で、真っ先に声を上げたのはピクトだった。
「そんなことできんのかよ」
「すごいだろっ!」
ミミリルが胸を張る。
カプリオスはティプスタンを見る。
「本当ですか、ティプスタン君?」
「……はい。制限はありますが」
ティプスタンは頷いた。
「でも、まだ分かっていないことが多いんです。今まで問題がなかったからといって、安全だとは言い切れません」
三人へ目を向ける。
その視線が、ガミの右脚に巻かれた包帯で止まった。
「僕も、無茶はしてほしくないです」
「私も同じ考えです」
カプリオスは頷いた。
「使えることは分かりました。ですが、安全が確認できていない以上、やはり三人には――」
ライアンは黙ってティプスタンを見据えていた。
――こいつが、ティプスタンか。
ルベッカの仲間。
にわかには信じがたいが、玄冥郷では闇魔石を宿した強敵を退けたと、マー教授から聞いている。
ライアンの目が、ティプスタンの手にする緋幻紋の盾へ移った。
「――俺が許可する」
カプリオスが振り向く。
「ライアン?」
「こいつらに敵を倒させる必要はない」
「しかし――」
ライアンは集まった面々を見渡した。
「深追いはするな。敵を無理に倒す必要もない」
一呼吸置く。
「王女たちを追う者は、まず王女と首相の護衛を最優先にしろ。賊を倒す必要はない。制御室へ向かう者は奪還を優先する。敵が退いたなら追うな」
声を低くする。
「できれば増援が来るまで持ちこたえろ。それでいい」
カプリオスはしばらく黙っていた。
「……分かりました」
三人へ向き直る。
「今の条件は必ず守ってくださいね。決して深追いしないこと」
「了解」
レヴィが頷いた。
「分かったゾ」
「……へいへい」
ガミも渋々答える。
カプリオスは《レッドスター》の五人に、各々の能力を手短に確認した。
返ってきた答えを頭の中で整理し、すぐに口を開く。
「では、三班で対処します」
全員が耳を傾ける。
「王女と首相の追跡はライアンを筆頭に――コウ君、キリカさん、ネラさん、ティプスタン君、ガミさん、ミミリルさん」
呼ばれた面々が、それぞれに頷く。
「制御室はチユチウさんの案内で――タンクス君、ピクト君、アンナさん、レヴィ君」
こちらも異論はない。
「任せてください!」
チユチウが力強く答えた。
最後に、カプリオスは王室外交官へ向き直った。
顔色はまだ悪い。
それでも先ほどまでの震えは止まり、自力で立っていた。
「外交官殿。お力をお借りしたい」
「……私に?」
「地下にはレグリア王国の兵も分散しております」
カプリオスは、壁際で息絶えている近衛騎士団長へ一瞬だけ目を向けた。
「ですが、私だけでは彼らを動かすのは難しい。騎士団長が亡くなられたことと、王女殿下が危険な状況にあることを、レグリア側の兵へ伝えていただきたい」
王室外交官は唇を引き結んだ。
「わ、分かった」
「ククルシア側は私が動かします」
カプリオスは広場を見回す。
傷を負いながらも動ける兵士が、何人か残っている。
「まずは彼らを連れて各所を回り、兵を集めます。集まった者から、追跡班、制御室、各出入口へ増援を回します」
どこか一箇所へ戦力を集中させれば、別の場所への対応が遅れる。
今は、必要な場所を見極め、優先して戦力を回す必要があった。
「それでいこう」
ライアンが答えた。
王室外交官も頷く。
出発に備え、各自が装備を整える。
ティプスタンたち四人も、それぞれ身に着けた漆黒の革装備を確かめる。
必要な者は大会用の武器を置き、倒れた護衛たちの魔導具武器へと持ち替えていく。
直継を受付に預けているティプスタンも、木製短剣を置き、護衛のショートソードを手に取った。
他の者たちも、手にした武器や魔導具を確かめた。
それぞれが、割り振られた班へ分かれていく。
カプリオスの周囲には王室外交官と、動ける兵士たちが集まった。
出発を前に、ライアンがぽつりと言った。
「ホウホなら、うまく時間を稼ぐだろう」
「そうですね」
カプリオスは《レッドスター》と《ファイブスター》へ目をやった。
「なんたって――我々《ビースター》のリーダーですからね」
ライアンがカプリオスを見る。
古傷の走る目元が僅かに緩んだ。
「ふっ……そうだな」
★42話に続く★




