第35話『託す鬼』
メリシア邸の裏庭は、静まり返っていた。
聞こえるのは、夜風に揺れる葉擦れだけ。
ルベッカはランプを片手に、庭の奥へ進んだ。
やがて月明かりの下に、大きな星紡ぎの樹が現れる。
その根元近く。
半ば土へ埋もれた石板には、中央の緋幻紋を囲むように五界使徒の紋が刻まれていた。
蒼天龍――観測。
白夜蝶――分岐。
玄冥陰蛇――循環。
陽輪凰――再生。
翠界麒麟――調和。
そして中央の――緋幻紋。
ルベッカは石板の前で足を止めた。
見つめているうちに、《緋幻紋の盾》を構えるティプスタンの姿が浮かぶ。
無意識に手を伸ばした。
指先が石板へ触れようとした――その時。
「……?」
かすかな声が聞こえた。
歌。
星紡ぎの樹より、さらに奥。
旧訓練場の方からだった。
ルベッカは手を下ろし、声のする方へ向かった。
★
――たとえ星明かりが 行く先を閉ざしても
静かな歌声が夜を渡っていた。
――迷い子は いつか別の空へ辿り着く
張り上げているわけではない。
それでも、澄んだ声は不思議なほど耳へ届いた。
旧訓練場の端。
低い石に腰を下ろし、一人の小さな影が夜空を見上げている。
月光が、その横顔を照らした。
長い銀髪。
赤銅色の肌。
鋭く長い耳。
そして、赤い瞳。
「……っ」
ルベッカの足が止まった。
(アルギオン……?)
思わず物陰へ身を寄せ、もう一度目を凝らす。
「……?」
そこにいたのは――レヴィだった。
黒い短髪。
褐色の肌。
赤いバンダナ。
いつも見慣れた姿。
研究で目が疲れているのかもしれない。
――眠れ 迷い子
――泣いた夜さえ
――いつか朝焼けへ溶けていく
レヴィはまだ、ルベッカに気づいていない。
月を見上げる横顔は、普段よりずっと大人びて見えた。
――選べなかった今日の先にも
――明日は まだ誰にも閉ざされていない
歌が終わった。
レヴィはしばらく空を見上げたままだった。
ルベッカは声を掛けず、その場を離れようとする。
パキッ。
足元の枯れ枝が折れた。
「誰だ!」
レヴィが勢いよく振り返る。
「私です」
「……な、なんだ。ルベッカねーちゃんかよ。脅かすなよ」
「申し訳ありません」
「いつからいたんだ?」
「歌の途中からです」
「…………」
レヴィが固まった。
両手で赤いバンダナを押さえ、顔を隠すように俯く。
「最悪だ……」
「お上手でしたよ」
「言うなって!」
耳まで赤くなっている。
「誰にも言うなよ。特にガミには」
「なぜです?」
「バカにされんだよ!」
「バカにする要素はありませんが」
レヴィは大きく息を吐いた。
ルベッカは少し間を置いて尋ねる。
「先ほどの歌が、破魔の詩ですか?」
「ん? あー……ちげーよ」
「では、今の詩は?」
レヴィは夜空へ視線を戻した。
「昔、知人がよく歌ってた詩だ」
「そうですか」
その声に、かすかな寂しさが混じっていた。
ルベッカは、それ以上訊かなかった。
ランプを地面へ置き、レヴィの隣へ腰を下ろす。
「よろしければ、破魔の詩を聞かせていただけませんか?」
「なんでだよ」
「五精霊の呪怨を解くヒントになるかもしれません」
レヴィが顔をしかめる。
「また呪怨分析かよ。あんま無茶すんなよな。また倒れっぞ」
「心配してくれているのですか?」
「なっ……!」
レヴィの肩が跳ねた。
「お、俺っちっていうか……アニキたちがな!」
「そうですか」
ルベッカの口元が、かすかに緩む。
「……今、笑っただろ」
「気のせいです」
「絶対笑った!」
レヴィは頭を掻いた。
「あれは破魔の詩じゃねーよ。巡鎮詩――『還浄の詩』だ」
「還浄の詩……」
「ユハおば……ユハねーちゃんに教えてもらった。乱れた流れを鎮める詩らしい」
乱れた流れを、鎮める。
その言葉に、ルベッカの目が細くなる。
「なるほど」
「研究者の顔になってんぞ」
「否定はしません」
「しろよ……」
レヴィはため息をつき、立ち上がった。
「まあ、俺っちの呪怨にも関係するかもしれねーしな。歌ってやるよ」
「お願いします」
レヴィは数歩離れ、ルベッカへ背を向ける。
「なぜ後ろを?」
「気にすんなっ!」
ルベッカはそれ以上追及しなかった。
レヴィが呼吸を整える。
そして――。
巡鎮詩――『還浄の詩』。
――巡る風よ
――乱れた命へ
――静かに流れを繋げ
――流れる水よ
――燃え続ける痛みを
――優しくほどけ
ルベッカの表情が変わる。
――終わりを失った炎も
――沈み続ける孤独も
火。
水。
五渦の識晶に現れた二つの呪怨が頭をよぎった。
――巡る時の調べは
――やがて穏やかな岸へ還っていく
歌が終わった。
「……なるほど」
「それだけかよ」
「興味深い詩ですね」
「そ、そうかよ……」
「ああ。歌もお上手でしたよ」
「とってつけたように言うな!」
レヴィが顔を赤くする。
ルベッカは小さなメモ帳を取り出した。
「正確に記録したいので、今の詩を書いていただけますか?」
差し出されたメモ帳を、レヴィが見つめる。
「これ……俺っち歌わなくてもよかったんじゃねーかよ」
「文字で読むのと、実際に聞くのとでは得られる情報が違います」
「そうかよ……」
レヴィは肩を落としながら、詩を書き留めた。
メモ帳を受け取り、ルベッカはランプを拾い上げる。
「そろそろ戻りましょう」
「歌のこと、マジでガミには言うなよ!」
「善処します」
「絶対言うなよ!」
★
翌日。
ククルシア共和国冒険者ギルド。
会議室の円卓を囲んでいたのは四人。
ルベッカ。
マー教授。
ククルシア共和国の執政補佐官として同席するカプリオス。
そして、冒険者ギルド長――ライアン。
机の中央には、一枚の還元符が置かれていた。
「……幻の郷、玄冥郷か」
ライアンが低く呟く。
皆既日食の最中、メリシア邸裏庭の遺跡で転移ポータルが起動し、ティプスタンたちは玄冥郷へ飛ばされた。
刻継の里。
蛇骨の里。
そこで数々の出来事を経て帰還した時、ククルシアでは数分しか経っていなかった。
マー教授から一通り説明を受けても、ライアンは半信半疑といった表情だった。
無理もない。
ルベッカ自身も、まだ信じ難い。
だが、目の前の還元符の効果だけは疑いようがなかった。
重症化していた水精霊アクアの呪怨を、実際に鎮めている。
ライアンの視線が札へ落ちた。
「その還元符はいくつ持ち帰れたのだ?」
「二十枚ほどです」
マー教授が答える。
「……それだけか」
ライアンの眉間に皺が寄った。
「玄冥郷でも不足していましたからね」
マー教授が続ける。
「作れるのは蛇骨の里だけです。刻継の里にも重症患者が多く、在庫には余裕がありませんでした」
玄冥郷には魔導刻筆のような道具もなく、複雑な術式を刻むには時間がかかる。
そんな中、蛇骨の里長ユハが用意できたのが二十枚だった。
「でしたら」
ルベッカが口を開く。
「解析に必要な分を残し、火と水の呪怨が重症化している患者へ優先して使用するべきです」
ライアンがルベッカを見る。
「一度使えば完治するわけではないのだろう?」
「……はい」
還元符は呪怨そのものを消せない。
異常な流れを一時的に戻し、症状を抑えるだけだ。
「ルベッカ。呪解研究はどこまで進んでいる?」
「五渦の識晶に現れた詩をもとに、五精霊と五界使徒の機能に対応関係を見つけています。還元符の術式構造も解析しました」
「再現できたのか!」
ライアンが身を乗り出す。
「試作品の作製までは」
一拍置く。
「ですが、起動しませんでした」
「構造に違いは?」
「確認できる範囲では、本物と一致しています」
ライアンは腕を組み、しばらく黙考した。
「……ならば、再現法が確立するまでは公にはできんな」
「なぜです?」
「二十枚しかないからだ」
太い指が、円卓の札を指す。
「誰を救い、誰を見捨てる?」
「重症度を基準に――」
「同じ重症度の患者が二十一人いたら?」
ルベッカの言葉が止まった。
「すべての者へは渡せん。効果が知れ渡れば、金を積む者も、権力を使う者も現れる。最後には奪い合いになるだろう」
カプリオスも口を開いた。
「五精霊の呪怨へこれほど作用する品です。国も放ってはおきませんな」
「国が?」
「ククルシアだけとは限りません」
執政補佐官として各国との関係にも携わるカプリオスの表情から、いつもの柔らかな微笑が消える。
「製造法が確立されていない以上、現存する札そのものに価値が集中します。扱いを誤れば、国家間の火種にもなりかねません」
「しかし……」
ライアンがルベッカを制した。
「限られた札を使い続けるより、再現法を確立するべきだ」
「……」
「そうすれば、その先を救える」
マー教授も静かに頷いた。
「ルベッカ。お気持ちは分かりますが、私も今は再現を優先すべきだと思います」
ルベッカの指がわずかに動く。
「今、必要としている人を見捨てるのですか?」
会議室が静まった。
ライアンはルベッカを正面から見る。
「今ある札だけで救える人数には限界がある。だが、再現できれば話は違う」
少しだけ声を落とす。
「お前も頭では理解しているだろう?」
分かっている。
以前の自分なら、迷わず同じ結論を出した。
限られた資源を研究へ回し、将来救える人数を増やす。
合理的だ。
しかし。
ルベッカは胸元へ手を添えた。
骨の奥まで染み込む冷たさ。
思考も感情も、自分そのものも深い場所へ沈んでいく恐怖。
水精霊アクアの呪怨。
自分は助かった。
ティプスタンたちがいた。
還元符も間に合った。
だが、助けが届かない者もいる。
それを知ってしまった今、以前のようには割り切れなかった。
「……」
ルベッカには答えられなかった。
★
会議が終わった。
カプリオスとマー教授が退室したあとも、ルベッカは残った。
研究の詳細をライアンへ報告するためだった。
識晶に現れた四つの詩。
五界使徒との対応。
還元符に組み込まれた循環式。
そして、起動しなかった試作品。
最後まで聞いたライアンが頷く。
「必要な資料や設備があれば言え。ギルドで用意できるものは用意する」
「ありがとうございます」
ルベッカは手帳を閉じた。
「では、失礼します」
扉へ向かう。
その時だった。
ガタッ!!
「!」
振り返る。
「ライアン!」
巨体が床へ倒れていた。
横倒しになった椅子のそばで、ライアンが苦しそうに首筋を押さえている。
「ぐ……っ……!」
ルベッカは駆け寄った。
「どうしましたっ?!」
震える手をどかす。
首筋に浮かんでいたのは、赤黒く焼け焦げたような紋様。
「……イグニス」
火精霊イグニスの呪怨――《灰燼の刻印》。
「あなたも呪怨を……」
ライアンは答えられない。
額から汗が流れ、呼吸も乱れている。
ルベッカは白衣の内ポケットへ手を入れ、一枚の札を取り出した。
その瞬間、ライアンの目が見開かれた。
「それは使うなっ!」
振り絞るように言って、彼は意識を失った。
「……申し訳ありません」
首筋の呪印へ押し当て、先端を破る。
白い光が走った。
★
ライアンが目を覚ました時。
そこは冒険者ギルド内の診療所だった。
白い天井。
薬品の匂い。
隣の椅子には、ルベッカが座っている。
「気づきましたか」
ライアンは首筋へ触れた。
痛みはほとんど引いていた。
「……使ったのか?」
「はい」
「そうか……」
目を閉じ、小さく息を吐く。
「皮肉なものだな。使うなと言った本人が、その一枚に救われるとは」
「私の判断です」
「それでも、一人を犠牲にしたことに変わりはない」
ライアンはゆっくり上体を起こした。
「だが、考えは変わらん。還元符の再現を何よりも優先してもらいたい」
「……」
ルベッカは黙って彼を見る。
ギルド長であるライアンなら、呪怨を伏せたまま、研究用と称して還元符を一枚手元へ置くこともできたはずだ。
だが、彼はそうしなかった。
意識を失う寸前まで、自分には使うなと言った。
あの苦しみを知るルベッカには、それが容易なことではないと分かっていた。
「……一つ、お聞きしたいことがあります」
「なんだ?」
「なぜ、私なのですか?」
ライアンが目を細めた。
「他にも優れた研究者はいるでしょう。私が呪解法へ辿り着く保証もありません」
試作品も起動していない。
それでもライアンは、自分へ託そうとしている。
「……うむ」
ライアンは病室の壁を指した。
そこには、運び込まれた際に脱がされた上着が掛けられている。
「あの上着の内ポケットにあるものを取ってくれんか」
「?」
ルベッカは立ち上がり、内ポケットへ手を入れた。
出てきたのは、一冊の本だった。
「……私の本ですか?」
かつてルベッカが各地から送り続けた研究論文を、メリシアがまとめ、リュミナリア学園から出版された研究書だった。
表紙の角は擦れ、何度も開かれた跡がある。
「ああ」
ライアンが頷く。
「その本に、俺は助けられた」
「え?」
「昔の俺はな。一度道を違えれば、それで終わりだと思っていた」
ライアンは本を指した。
「五界使徒について、お前が書いた考察の辺りを開いてみろ。白夜蝶と陽輪凰の部分だ」
ルベッカはページをめくる。
白夜蝶――分岐。
そこには、かつて自分が記した考察があった。
――一つの道が閉ざされても、すべての可能性が失われたわけではない。
――可能性が残されている限り、終わりと定める理由はない。
続く、陽輪凰――再生。
――今ある形で進めなくても、それは終わりではない。
――形を変えることで、再び前へ進むことができる。
「私は……五界使徒について考察しただけです」
「ああ。お前にそのつもりはなかったのだろう」
ライアンは小さく笑った。
「だが、俺には――どちらも同じことを言っているように思えた」
「……?」
「行き詰まったからといって、そこで終わりではないとな」
ライアンはルベッカを真っ直ぐ見る。
「俺は、お前の研究から――あきらめないことを教わった」
「……あきらめない」
ルベッカは、その言葉を小さく繰り返した。
そんなことを誰かへ教えた覚えはない。
けれど。
文献になければ、別を探した。
行き詰まれば、視点を変えた。
失敗すれば、原因を調べた。
思えば自分はいつも、可能性が残っている限り、そこで終わりとはしなかった。
「お前なら、答えが見つかるまで諦めんだろう」
一拍。
「だから――俺はお前に託す」
「……」
ライアンは首筋へ触れた。
「俺も、あの苦しみを知っている。今まさに苦しんでいる者へ札を使うなと言うことが、どれほど残酷かもな」
そして、寝台の上で深く頭を下げた。
「それでも頼む」
「ライアン……」
「これはギルド長としての命令ではない。一人の呪怨患者としての頼みだ」
ルベッカの指が、研究書の表紙を握る。
「多くの者を救うためには、鬼にならねばならぬ時がある」
一呼吸。
「今だけは――鬼となってくれ」
ルベッカは手の中の研究書を見る。
――可能性が残されている限り、終わりと定める理由はない。
かつて自分が書いた言葉。
今度は、自分自身がそれを貫く番だった。
ルベッカは本を閉じる。
「……分かりました」
ライアンが顔を上げた。
「還元符の再現を最優先します」
青い瞳に、強い意志が宿る。
「呪解法を確立します。必ず」
ライアンは静かに頷いた。
★
夕刻。
メリシア邸。
自室へ戻ったルベッカは、白衣を椅子の背へ掛けた。
机に手帳を置く。
続いて、診療所から持ち帰った使用済みの還元符を置いた。
術式刻印は、すでに消えている。
ただの白い札。
そのはずだった。
ランプへ火を灯す。
ぼっ。
橙色の光が机を照らした。
「……?」
ルベッカの手が止まる。
札の片隅に、小さな印があった。
手に取り、ランプへ近づける。
小さな――星印。
「…………」
見間違えるはずがない。
本物と区別するため、昨夜自分が試作品へ付けた印だった。
「……そんな」
取り違えたのか。
この試作品は起動しないはずだった。
だが今日。
ライアンへ使った時には――確かに光った。
《灰燼の刻印》も鎮まった。
一瞬、火の呪怨だったからかと考えたが、すぐに否定する。
「違う……」
還元符は属性を選ばない。
火と水に共通する、循環の異常へ干渉する術式だ。
それは昨日、自分で確かめた。
なら、火だから動いたわけではない。
「…………」
ルベッカは星印を見つめる。
自分には反応せず。
ライアンには――反応した。
「何が……違った?」
静かな部屋に、ルベッカの声が落ちる。
ランプの炎が揺れた。
その明かりの中で。
起動しないはずだった還元符の片隅に――
小さな星だけが残っていた。
★36話に続く★




