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ELVES《エルヴス》―命の器の継承者―  作者: 克
Passage/レグリアへの道編

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第34話『巡りあわせ』

 ティプスタンたちが、アンナと顔合わせをする前夜。


 メリシア邸の自室。


 机の前に座ったルベッカは、一枚の還元符を見つめていた。


 隣には、分厚い手帳と数冊の資料。


 さらに、ティプスタンたちが玄冥郷から持ち帰った《五渦(ごか)の識晶(しきしょう)》が置かれている。


 手のひらより僅かに長い薄い水晶板で、先端には渦をかたどった紋が刻まれていた。


「なぜ、火と水だけなのか……」


 還元符が効果を示すのは、火精霊イグニスの《灰燼(かいじん)の刻印(こくいん)》と、水精霊アクアの《沈静(ちんせい)の淵(ふち)》。


 それ以外の呪怨には効果を示さず、光と風へ使用した場合には、症状を悪化させる危険すらある。


 火は、生命と魔力を炎へ変え、宿主が灰と化すまで燃焼を止めない。


 水は、感情と自我を深みへ沈め、その動きを奪っていく。


 燃え続ける火と、沈み込む水。


 現れる症状は正反対だった。


 それでも、同じ還元符が両方へ作用する。


 ならば、この札が干渉しているのは、火や水という属性そのものではない。


 二つの呪怨に共通する、さらに根本的な異常があるはずだった。


 ルベッカは、机の端に置かれた拡大鏡を手に取った。


 手のひらほどの円形ガラスを真鍮の縁が囲み、細身の柄の根元には三枚の青い花弁を模した装飾が並んでいる。


 ティプスタンのマントにある留め金具とよく似ているが、中央に宝石はない。


 自身の魔力ではなく、周囲から蓄えた魔力で動く術式魔導具型の拡大鏡だった。


 以前使っていた手鏡型魔導具は、自身の魔力を引き金として起動する。


 起動だけなら僅かな消耗である。


 ただし、積み重なれば呪怨を悪化させる。


 実際、それが原因で症状を進めたことがあった。


 この拡大鏡は、それを防ぐための特注品である。


 一枚の花弁につき、使用できるのは十分間。


 起動すれば途中で止めることはできず、使った花弁が再び青色を取り戻すまでには、およそ四時間かかる。


 一枚を使ったあとの待機時間はなく、三枚まで続けて使用できる。


 ルベッカは短い起動句を唱えた。


 一枚の花弁が青く輝き、透明へ変わる。


 円形のガラスも一瞬だけ青白い光を帯び、すぐに元の姿へ戻った。


 外見は普通のガラスと変わらない。


 だが、その向こうには肉眼では見えない術式が映し出される。


 還元符へ焦点を合わせた。


 黒い紋様の奥から、幾重にも重なった術式経路が浮かび上がる。


 外周から内部へ入り込む線。


 複雑に絡み合った構文。


 離れた位置に刻まれながら、互いにつながっている経路。


 すでに何度も確認した構造だった。


 札を裏返す。


 角度を変える。


 焦点を絞り、映し出す層を切り替える。


 それでも、新しいものは見つからない。


 同じ対象を見続ければ、自分の仮説に都合のよいものだけを拾い始める危険がある。


 一度、離れた方がよい。


 ルベッカは拡大鏡を机へ置いた。


 まだ起動時間は残っているが、必要がなければ放っておけばよい。


 長く机へ向かっていたためか、目の奥には鈍い重さがあった。


 部屋には、古紙と乾いた薬草の匂いがこもっている。


 夜風に当たり、遠くを見る。


 凝り固まった視野を戻すには、それが最も手早い。


 銀縁眼鏡の位置を直し、自室を出た。


 

★


 

 縁側へ続く廊下。


 裏庭側の戸が開かれ、昼の熱を僅かに残した夜気が屋敷の中へ流れ込んでいた。


 季節は夏へ近づいている。


 日が沈んだあとも、空気には柔らかな温もりが残っていた。


 その先から、慌ただしい足音が近づいてくる。


「――あっ!」


 角を曲がってきたミミリルが、ルベッカを見て立ち止まった。


 ウサギ耳が、ぴんと硬直している。


「ミミリル」


「ル、ルベッカ」


 顔にも耳にも、分かりやすく動揺が現れていた。


「どうしたのです?」


「えっ」


 ミミリルの視線が左右へ泳ぐ。


「何かありましたか?」


「何でもないゾ!」


「そうですか」


「うん! 何でもないからな!」


 念を押すように繰り返すと、ミミリルはルベッカの横をすり抜けた。


「お、おやすみだゾ!」


「おやすみなさい」


 足音が廊下の奥へ遠ざかっていく。


 何でもない者の態度ではなかったが、追及はしなかった。


「やあ、ルベッカちゃん」


 縁側から声が届いた。


 月明かりの下。


 クエンティンが庭を眺めながら、煙管をくゆらせている。


 白い煙が細く昇り、夜の空気へ溶けていった。


「気分転換かね?」


「ええ」


「そうかい、そうかい」


 骨董修復師、クエンティン。


 ミミリルの育ての親であり、兄のような存在でもある。


 玄冥郷ではティプスタンたちの帰還に力を貸し、還元符を持ち帰ることができたのも彼の協力があってこそだった。


 その後も、彼の助言によって分析は進んでいる。


 頼りになる存在だ。


 だからこそ、ルベッカには引っかかるものがあった。


 あまりにも、出来すぎている。


「クエンティン」


「なんだね?」


「あなたが玄冥郷へ転移したのは、偶然ですか?」


 煙管の先から、白い煙がゆっくり流れた。


「ああ。あれには吾輩も驚かされたよ」


「そうですか」


 クエンティンは薄く微笑んだだけだった。


 それ以上、何も語ろうとはしない。


「戻ります」


「そうかい。あまり根を詰めすぎないようにね」


 クエンティンは煙管を口元へ運んだ。


 ルベッカは何も答えず、縁側を後にした。


 

★


 

 自室へ戻る頃には、拡大鏡の起動時間は終わっていた。


 机の上には、先ほどと変わらず還元符と五渦の識晶が並んでいる。


 ルベッカは椅子へ腰を下ろし、二枚目の花弁を使った。


 再び還元符を調べながら、羽根ペンへ手を伸ばす。


 しかし、視線を拡大鏡へ固定していたため、指先が僅かに軌道を外れた。


 触れたのは、五渦の識晶だった。


「――っ」


 水晶板の内側へ、淡い青光が滲んだ。


 識晶が、ルベッカの身体に宿る《沈静の淵》を読み取ったのである。


 触れた者が、どの五精霊の呪怨を宿しているのか。


 識晶は、その違いを光の色によって示す。


 だが、その時。


 還元符へ向けていた拡大鏡の端に、識晶が映り込んだ。


「……?」


 青い光の上で、何かが揺れている。


 直接目を向けても、水晶板の内部へ光が滲んでいるだけだった。


 もう一度、拡大鏡越しに見る。


 今度は、はっきりと見えた。


 平たい水晶板の上へ、複数の文字が浮かんでいる。


 精霊言語だった。


「識別表示でしょうか?」


 複数の行に分かれた文字列が並んでいる。


 ルベッカは片手を識晶へ触れさせたまま、拡大鏡を積み重ねた資料へ立てかけた。


 角度を調整し、空いた手で羽根ペンを取る。


 一文字ずつ、手帳へ写していった。


 文字そのものは知っている。


 だが、その意味までは読み解けない。


 精霊言語は、同じ文字でも置かれた場所や前後の流れによって意味が変わる。


 規則や構造から追おうとすると、途中で解釈が崩れてしまうのだ。


 レヴィは違った。


 以前、なぜ読めるのかと尋ねたことがある。


 返ってきた答えは、


『なんとなく、言葉の流れで分かる』


 という、要領を得ないものだった。


 理屈で説明できないからこそ、ルベッカには真似できない。


 今夜は、見えている文字を正確に残すことだけに集中する。


 最後の一文字を書き写し、識晶から指を離した。


 青い光が消える。


 拡大鏡越しに見えていた文字も、同時に失われた。


 明日、レヴィへ翻訳を頼めばよい。


 ルベッカは手帳を閉じた。


 

★


 

 翌朝。


 メリシア邸の大食堂。


 朝食を終えたレヴィは、満足そうに椅子の背へもたれていた。


 食堂の中央を占める長テーブルには、空になった皿と、湯気の薄れた茶器が残っている。


「レヴィ」


「あん?」


 ルベッカは手帳を開き、昨夜写し取った精霊言語を差し出した。


「これを読めますか?」


「んー?」


 レヴィが気だるそうに手帳を受け取る。


「昨夜、識晶に触れた際に、術式拡大鏡を通して浮かび上がった文字なのですが」


「へぇー……」


 並んだ文字へ目を落とし、僅かに目を見開いた。


「そんな文字が隠されてたのか」


「読めますか?」


「ああ」


 少しの間を置いて、ゆっくり読み上げる。


 ――沈みは底へと定まり。


 ――静寂はすべてを止める。


 一度、言葉を区切る。


 そして、後半。


 ――然れど沈みは巡りへ還り。


 ――深みは均される。


「……こんな感じだな」


 返された手帳へ視線を落とす。


 沈み。


 静寂。


 止まる。


 前半は、《沈静の淵》の性質と一致している。


 感情と自我を沈め、宿主を静寂の底へ引き込む水の理。


 だが、後半は違う。


 沈みを巡りへ還す。


 深みを均す。


 呪怨が引き起こす状態とは、逆の変化を示している。


「水の呪怨について記した詩……でしょうか」


 レヴィが頷く。


「確かに詩っぽいな」


「断定はできませんが、私が識晶へ触れた時に表示された以上、《沈静の淵》との関連性は高いでしょう」


「ルベッカねーちゃんが触った時に出たんだよな?」


「ええ」


 レヴィは手帳を眺めたまま、しばらく黙っていた。


 やがて、何かに気づいたように顔を上げる。


「だとしたら……呪怨によって、出てくる言葉も違うんじゃねーかな?」


 ルベッカの指が止まった。


「確かに、その可能性はありますね」


「俺っちが触れば分かるだろ」


 ルベッカは白衣の内ポケットから、布に包んだ五渦の識晶を取り出した。


 その前に拡大鏡を起動し、自身が触れた時の表示と昨夜の記録を照合する。


 書き損じも、抜けもない。


「記録に誤りはありませんね」


「そこまでする必要ねーだろ」


「一文字の誤りで、意味が変わる可能性がありますから」


「まあ、そりゃそうだけど」


 識晶から手を離す。


 青い光と文字が消えた。


「次は、レヴィ。お願いします」


「おう」


 レヴィが身を起こし、水晶板へ指を置く。


 その指先から広がるように、内部へ赤い光が滲んだ。


 火精霊イグニスの《灰燼の刻印》。


「見てください」


 長テーブルの上で、二人が同じ円形ガラスを覗き込む。


 赤い光の上には、昨夜とは異なる精霊言語が浮かんでいた。


「やっぱり違うな」


「読めますか?」


 レヴィは文字を追いながら、ゆっくり口にする。


「燃えは形を与えられ――炎は永へと刻まれる」


 ルベッカはすぐに羽根ペンを取り、手帳へ書き留めた。


「続けてください」


「はいはい」


「然れど燃えは環へ還り――炎は鎮まる」


 最後の言葉を書き終え、ルベッカは二つの詩を見比べた。


 内容は違う。


 だが、どちらも前半と後半に分かれている。


 そして後半だけが、呪怨とは逆の変化を示していた。


 

★


 

 その日の午前。


 ククルシア中央図書館。


 窓際の閲覧机で、ルベッカは手帳に並んだ四つの詩を見つめていた。


 水。


 火。


 光。


 地。


 レヴィの推測を確かめるため、同じ食堂にいたミミリルとガミにも協力を頼んだ。


 結果は同じだった。


 識晶は、触れた者の呪怨に応じて異なる色を滲ませ、それぞれ異なる精霊言語を浮かび上がらせた。


 それをレヴィが読み取り、ルベッカが書き留めた。


 

 水精霊アクアの《沈静(ちんせい)の淵(ふち)》。


 ――沈みは底へと定まり。


 ――静寂はすべてを止める。


 ――然れど沈みは巡りへ還り。


 ――深みは均される。

 


 火精霊イグニスの《灰燼(かいじん)の刻印(こくいん)》。


 ――燃えは形を与えられ。


 ――炎は永へと刻まれる。


 ――然れど燃えは環へ還り。


 ――炎は鎮まる。

 


 光精霊ルクスの《真理(しんり)の曝露(ばくろ)》。


 ――真はただ一つへ収まり。


 ――他のすべてを滅する。


 ――然れど真は分かたれ。


 ――新たな理として定まる。

 


 地精霊テラの《圧根(あっこん)の縛(しばり)》。


 ――縛りは理として定まり。


 ――動かぬものとなる。


 ――然れど固きは裂かれ。


 ――新たな形へ編まれる。

 


 いずれも途中で詩の調子が変わる。


 前半は、呪怨が宿主へ強いる状態。


 では、後半は何を示しているのか。


 未確認なのは、風精霊ヴェントの《風葬(ふうそう)の孤界(こかい)》。


 それは後日、イッサにも識晶へ触れてもらえばよい。


 今は、この四つで検証を進める。


 ルベッカは手帳を閉じ、受付へ向かった。


 研究者用の閲覧許可証を差し出す。


「五界使徒に関する資料を希望します」


「どの分野でしょうか」


「最古層の機能論と、五概念の相互関係。後世の解釈が加わる以前の記述を中心に」


「それでしたら、基礎概念の分野ですね」


「ええ」


 五界使徒については、ルベッカも長年研究してきた。


 だからこそ、一度先入観を捨てる必要があった。


 信仰や物語によって与えられた人格ではなく、五界使徒が本来、世界のどの働きを示していたのか。


 最古の定義から確かめる。

 

「一部、閉架資料が含まれる可能性があります。館長の確認を取りますので、しばらくお待ちください」


「分かりました」


 閲覧机へ戻る。


 呪解法が文献に残されているとは考えていない。


 それなら、すでに探し尽くしていた。


 医療記録。


 精霊信仰の祭祀書。


 各地に残された伝承。


 危険な遺跡から持ち帰られた石板。


 精霊言語に手がかりがあると考え、レヴィを助手に迎えたあとも、見つかったのは祈りや奉納詩、民間伝承ばかりだった。


 世間で知られている対処法は、自らの魔力を使わないことだけ。


 治すのではない。


 悪化する時を、僅かに先へ延ばしているにすぎない。


 だから今日は呪解法を探しに来たわけではなかった。


 星紡ぎの花見の日に思いついた仮説。


 ――五精霊の働きを、五界使徒の理によって均す。


 あの日は、そこまで考えたところで倒れた。


 還元符によって再び動けるようになった今、その続きを検証する。


「お待たせいたしました」


 司書が戻ってきた。


 運ばれてきたのは、六冊の本と、革紐で留められた古い巻物だった。


「こちらの三冊と巻物は館外へ持ち出せません。取り扱いにご注意ください」


「承知しました」


 ルベッカは、最も古い体系書から開いた。


 後世では「認識」「可能性と選択」「時間と因果」「解放と進化」「調和と均衡」といった言葉で語られる五界使徒。


 だが、最古層では、それらはさらに単純な五つの機能として捉えられていた。


 蒼天龍(そうてんりゅう)――観測。


 存在を捉え、その状態を現実として確定する。


 白夜蝶(びゃくやちょう)――分岐。


 一つに閉じた可能性を分かち、新たな道を生む。


 玄冥陰蛇(げんめいいんじゃ)――循環。


 始点と終点をつなぎ、流れを巡らせる。


 陽輪凰(ようりんおう)――再生。


 停滞した状態を破り、新たな形へ作り直す。


 翠界麒麟(すいかいきりん)――調和。


 異なる働きをまとめ、全体の均衡を保つ。


 そこに善悪も、対象を救おうとする意思もない。


 ただ、与えられた働きを実行する。


 ルベッカは、水の詩へ目を移した。


 ――然れど沈みは巡りへ還り。


「循環」


 止まった感情と自我を、再び流れへ戻す。


 ――深みは均される。


「調和」


 偏った状態を均し、再び沈まないよう整える。


 手帳へ書き込む。


 水――循環、調和。


 次は火。


 ――然れど燃えは環へ還り。


 ――炎は鎮まる。


 生命と魔力が炎へ変わり、一方向へ失われ続ける流れを環へ戻す。


 その後、燃焼への偏りを鎮める。


 火――循環、調和。


 光の詩へ移る。


 ――然れど真は分かたれ。


「分岐」


 一つだけに閉じた真を分かち、別の可能性を生む。


 ――新たな理として定まる。


「観測……」


 生まれた新たな理を、現実の状態として確定する。


 光――分岐、観測。


 続いて、地。


 ――然れど固きは裂かれ。


 羽根ペンが止まった。


「破壊……?」


 固着した肉体や意識を壊し、その後、再生によって作り直す。


 一瞬、そう読めた。


 だが、完全に破壊すれば、元の宿主を維持できる保証がない。


 何より、白夜蝶の「分岐」は、既存のものを消滅させる働きではない。


 一つしかない状態へ、別の可能性を生む機能。


「破壊ではない」


 固定された状態そのものを砕くのではない。


 それが唯一であるという前提を裂き、変化できる道を生む。


 続く「新たな形へ編まれる」は、陽輪凰の再生。


 地――分岐、再生。


 最初の解釈へ横線を引き、訂正を書き加える。


 四つの詩には、いずれも二段階の変化が示されている。


 詩の順序が、そのまま作用の順を示しているのなら――。


 一つ目の機能で、呪怨による偏りを崩す。


 二つ目の機能で、変化後の状態を定め、安定させる。


 そう読むことができた。


 ルベッカは、それぞれを主術、補術と仮称する。


 主術だけでは、変化後の状態を制御できない可能性がある。


 補術だけでは、元の偏りそのものを崩せない。


 二つを、詩に記された順で働かせる必要があるのではないか。


 組み合わせを誤れば、呪怨を解くどころか、異常な状態を固定する危険すらある。


 手帳の余白へ書き加える。


 ――誤作用の危険。要注意。


 まだ推測にすぎない。


 だが、四つの詩と五界使徒の機能に、大きな矛盾はなかった。


 ルベッカは、新たな見出しを書いた。


 ――二相解呪式《デュアル・リリース》。


 その下へ、四つの対応を並べる。


 水――循環、調和。


 火――循環、調和。


 光――分岐、観測。


 地――分岐、再生。


 風――未確認。


 そして見出しの横へ、明確に書き加えた。


 ――未検証。


 星紡ぎの花見の日に生まれた仮説は、まだ崩れていなかった。


 

★


 

 閉館を知らせる鐘が鳴った時、窓の外はすでに茜色へ染まっていた。


 閲覧机には、書き込みで埋まった紙が何枚も広がっている。


 ルベッカは持ち出せない資料を司書へ返し、借りられる三冊だけを鞄へ収めた。


 還元符と識晶を布で包む。


 最後に、手帳と研究記録を革製の書類入れへ収め、席を立った。


 

★


 

 メリシア邸へ戻る頃には、空は夜の色へ変わり始めていた。


 玄関を開けると、食堂の方から賑やかな声が聞こえてくる。


 夕食の時間らしい。


 逸る気持ちを抑え、食事だけは手早く済ませた。


 その後、自室へ戻り、鞄を机へ置く。


 朝に使った拡大鏡の花弁も、すでに青色を取り戻していた。


 還元符と、図書館でまとめた手帳を机へ並べる。


 拡大鏡を起動した。


 一枚目の花弁が透明へ変わる。


 識晶の詩と照らし合わせながら、複雑に重なった術式を一つずつ追っていく。


 異常な力を受け止める。


 行き止まりへ達した流れを折り返す。


 始点と終点をつなぎ、環へ戻す。


「玄冥陰蛇……循環」


 還元符が火と水へ作用する理由が、ようやく見えてきた。


 火は、力が一方向へ失われ続ける。


 水は、流れそのものが止まる。


 正反対に見えて、どちらも循環が断たれている。


 還元符は属性を選んでいるのではない。


 二つの呪怨に共通する、流れの異常へ干渉しているのだ。


 そして、還元符によって症状が抑えられても、呪怨そのものは消えない。


 札に組み込まれているのは、循環だけ。


 炎を鎮める調和。


 深みを均す調和。


 補術に相当する機能は、どこにもない。


「……だから、完全には治らないのでは?」


 還元符は、完全な呪解式ではない。


 火と水に必要な最初の変化だけを与える、応急術式。


 そう仮定すれば、辻褄が合う。


 仕組みが見えてくると、複雑に重なっていた構文にも意味が生まれた。


 異常な力を検知する経路。


 流れを受け止める接続部。


 力を折り返す構文。


 始点と終点をつなぐ循環式。


 そして札の上端近くには、破断を合図として循環式を起動させる短い構文が刻まれている。


 ルベッカは新しい紙を取り出し、拡大鏡に映る構造を書き写していった。


 十分後。


 拡大鏡は術式を映さなくなった。


 ルベッカは壁際にある細長い箱を開く。


 中には、一本の羽根ペンが収められていた。


 《魔導刻筆《インスクリプト・クイル》》。


 物質へ術式を刻み込むための魔導具である。


 白い羽軸の根元には、拡大鏡と同じ三枚の青い花弁が並んでいる。


 こちらも自身の魔力を使わず、一枚につき十分間起動する術式魔導具型だった。


 拡大鏡と刻筆。


 どちらも高価な特注品である。


 ルベッカの論文をまとめた研究書の売上金も、資料や魔導具、各地での情報収集へ費やされ、今ではほとんど残っていない。


 それでも、研究を止める理由にはならなかった。


 還元符によく似た材質の札紙を、二枚机へ並べる。


 刻筆を起動した。


 一枚の花弁が透明へ変わる。


 青い光が羽軸からペン先へ走り、すぐに消えた。


 ルベッカは先ほど書き写した構造を確認しながら、一枚目の札紙へペン先を下ろす。


 インクは出ない。


 刻筆が走った跡へ、細い光の文字列が一瞬だけ浮かぶ。


 その光が札紙へ沈み、術式として定着していった。


 検知。


 受容。


 折り返し。


 循環。


 最後に、断裂起動式。


 最後の一文字が定着すると、札全体へ青い光が広がり、すぐに消えた。


 一枚目の試作品が完成した。


 ルベッカは刻筆を置き、拡大鏡を再び起動する。


 二枚目の花弁が透明へ変わった。


 本物と試作品の術式を、線一本ずつ比較していく。


 魔力経路。


 接続位置。


 構文の順序。


 循環の方向。


 断裂起動式から循環式へ至る伝達経路。


 すべて一致していた。


「少なくとも、構造上の問題はありませんね」


 試作品へ刻んだのは、本物の還元符から読み取った術式そのもの。


 拡大鏡で確認できる範囲に、余計な機能も欠落も見当たらない。


 ルベッカは試作品を白衣の内側へ差し入れ、左胸の呪印へ貼り付けた。


 本物の還元符は、すぐ手に取れる位置へ置いておく。


 異常が起きれば、すぐ使えるようにするためだ。


 試作品の上端を指でつまむ。


 本物であれば、ここを破ることで断裂起動式が働く。


 紙の端を破った。


 乾いた音が、自室へ小さく響く。


「…………」


 何も起こらない。


 札は光らず、胸の奥に沈む冷たさにも変化はなかった。


「ダメですね……」


 破れた試作品を机へ戻し、拡大鏡を向ける。


 破断位置に誤りはない。


 循環式にも、そこへ至る伝達経路にも異常は見つからなかった。


 それでも、起動しない。


 ルベッカは手帳へ記録する。


 ――還元符の術式構造を再現。


 ――断裂起動式を含め、本物と一致。


 ――試作品は破断後も起動せず。


 ――原因不明。


 羽根ペンの先が止まる。


 視線が、破れた試作品へ落ちた。


「……紙?」


 今回使用した札紙は、本物の還元符によく似たものを選んでいる。


 だが、まったく同じ材質かどうかまでは確認できていない。


 術式ではなく、札そのものに何らかの条件がある可能性。


 ルベッカは本物の還元符を指先でなぞった。


「材質まで再現するとなると……」


 還元符そのものの製造法すら分かっていない。


 現状では、可能性の一つとして残すしかなかった。


 手帳へ書き足す。


 ――札紙の材質差についても要検証。


 構造上は忠実に再現された術式が、本物と同じ手順を踏んでも起動しない。


 その事実だけは変わらない。


 検証を終える頃には、拡大鏡の二度目の起動時間も、刻筆の一度目の起動時間も尽きていた。


 ルベッカは二枚目の札紙へ視線を移す。


 未使用の試作品も残しておく必要がある。


 刻筆を再び起動した。


 二枚目の花弁が透明へ変わる。


 先ほどと同じ術式を、同じ順序で刻んでいく。


 今度は破らない。


 最後の一文字が定着すると、二枚目の試作品が完成した。


 続けて、拡大鏡を三度目に起動する。


 最後の青い花弁が透明へ変わった。


 本物と試作品を照合する。


 やはり、構造に相違は見つからない。


 ルベッカは試作品を裏返し、端へ小さな印をつけた。


 表から見れば、本物とほとんど区別はつかなかった。


 二枚を重ね、指先で厚みを比べる。


 光に透かす。


 裏返し、表面をなぞる。


「……やはり、材質までは分かりませんね」


 見た限りではよく似ている。


 だが、同じものだと断定できるだけの材料はなかった。


 何度か角度を変えて確かめたあと、ルベッカは二枚を重ねたまま机の端へ寄せた。


 これ以上は、紙そのものを調べる手段が必要になる。


 今夜できる検証ではなかった。


 拡大鏡の花弁は、すべて透明になっている。


 刻筆には一枚残っているが、拡大鏡がなければ、刻んだ術式を正確に検証できない。


 精密な作業は、ここで終わりだった。


 術式魔導具型の道具は、研究者であるルベッカにとって不便でもある。


 必要な時に、好きなだけ使えるわけではない。


 だが、その不便さが、今のルベッカに無茶をさせずにいた。


 花弁を使い切れば、どれほど思考が続いていても、分析と刻印はそこで終わる。


 その強制的な区切りが、以前のように身体の限界まで作業を続けることを防いでいた。


 それでも、長時間の作業で首と肩は重い。


 呪怨が悪化してからは、自分の魔力も使っていない。


 まだ還元符を使うほどではない。


 だが、これ以上研究を続けるべき状態でもなかった。


 ルベッカは眼鏡を外し、目頭を軽く押さえた。


 机の上には、破れた試作品。


 その横には、書き込みで埋まった手帳が開かれている。


 構造に異常はない。


 破断位置も間違っていない。


 材質については、まだ確かめようがない。


「……分かりませんね」


 小さく呟き、手帳を閉じた。


 今夜は、ここまでにしておくべきだろう。


 散らばった紙を揃え、使い終えた道具を元の場所へ戻していく。


 机の端に重ねてあった札にも手を伸ばした。


 一枚を薄紙に包み、机の引き出しへしまう。


 もう一枚は、いつでも使えるよう白衣の内ポケットへ収めた。


 ルベッカは椅子から立ち上がり、凝り固まった肩をゆっくりと回した。


 窓の向こうでは、夜風に揺れた木々が静かな葉擦れの音を立てている。


 少しだけ、外の空気を吸いたくなった。


 

★35話に続く★

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