第34話『巡りあわせ』
ティプスタンたちが、アンナと顔合わせをする前夜。
メリシア邸の自室。
机の前に座ったルベッカは、一枚の還元符を見つめていた。
隣には、分厚い手帳と数冊の資料。
さらに、ティプスタンたちが玄冥郷から持ち帰った《五渦の識晶》が置かれている。
手のひらより僅かに長い薄い水晶板で、先端には渦をかたどった紋が刻まれていた。
「なぜ、火と水だけなのか……」
還元符が効果を示すのは、火精霊イグニスの《灰燼の刻印》と、水精霊アクアの《沈静の淵》。
それ以外の呪怨には効果を示さず、光と風へ使用した場合には、症状を悪化させる危険すらある。
火は、生命と魔力を炎へ変え、宿主が灰と化すまで燃焼を止めない。
水は、感情と自我を深みへ沈め、その動きを奪っていく。
燃え続ける火と、沈み込む水。
現れる症状は正反対だった。
それでも、同じ還元符が両方へ作用する。
ならば、この札が干渉しているのは、火や水という属性そのものではない。
二つの呪怨に共通する、さらに根本的な異常があるはずだった。
ルベッカは、机の端に置かれた拡大鏡を手に取った。
手のひらほどの円形ガラスを真鍮の縁が囲み、細身の柄の根元には三枚の青い花弁を模した装飾が並んでいる。
ティプスタンのマントにある留め金具とよく似ているが、中央に宝石はない。
自身の魔力ではなく、周囲から蓄えた魔力で動く術式魔導具型の拡大鏡だった。
以前使っていた手鏡型魔導具は、自身の魔力を引き金として起動する。
起動だけなら僅かな消耗である。
ただし、積み重なれば呪怨を悪化させる。
実際、それが原因で症状を進めたことがあった。
この拡大鏡は、それを防ぐための特注品である。
一枚の花弁につき、使用できるのは十分間。
起動すれば途中で止めることはできず、使った花弁が再び青色を取り戻すまでには、およそ四時間かかる。
一枚を使ったあとの待機時間はなく、三枚まで続けて使用できる。
ルベッカは短い起動句を唱えた。
一枚の花弁が青く輝き、透明へ変わる。
円形のガラスも一瞬だけ青白い光を帯び、すぐに元の姿へ戻った。
外見は普通のガラスと変わらない。
だが、その向こうには肉眼では見えない術式が映し出される。
還元符へ焦点を合わせた。
黒い紋様の奥から、幾重にも重なった術式経路が浮かび上がる。
外周から内部へ入り込む線。
複雑に絡み合った構文。
離れた位置に刻まれながら、互いにつながっている経路。
すでに何度も確認した構造だった。
札を裏返す。
角度を変える。
焦点を絞り、映し出す層を切り替える。
それでも、新しいものは見つからない。
同じ対象を見続ければ、自分の仮説に都合のよいものだけを拾い始める危険がある。
一度、離れた方がよい。
ルベッカは拡大鏡を机へ置いた。
まだ起動時間は残っているが、必要がなければ放っておけばよい。
長く机へ向かっていたためか、目の奥には鈍い重さがあった。
部屋には、古紙と乾いた薬草の匂いがこもっている。
夜風に当たり、遠くを見る。
凝り固まった視野を戻すには、それが最も手早い。
銀縁眼鏡の位置を直し、自室を出た。
★
縁側へ続く廊下。
裏庭側の戸が開かれ、昼の熱を僅かに残した夜気が屋敷の中へ流れ込んでいた。
季節は夏へ近づいている。
日が沈んだあとも、空気には柔らかな温もりが残っていた。
その先から、慌ただしい足音が近づいてくる。
「――あっ!」
角を曲がってきたミミリルが、ルベッカを見て立ち止まった。
ウサギ耳が、ぴんと硬直している。
「ミミリル」
「ル、ルベッカ」
顔にも耳にも、分かりやすく動揺が現れていた。
「どうしたのです?」
「えっ」
ミミリルの視線が左右へ泳ぐ。
「何かありましたか?」
「何でもないゾ!」
「そうですか」
「うん! 何でもないからな!」
念を押すように繰り返すと、ミミリルはルベッカの横をすり抜けた。
「お、おやすみだゾ!」
「おやすみなさい」
足音が廊下の奥へ遠ざかっていく。
何でもない者の態度ではなかったが、追及はしなかった。
「やあ、ルベッカちゃん」
縁側から声が届いた。
月明かりの下。
クエンティンが庭を眺めながら、煙管をくゆらせている。
白い煙が細く昇り、夜の空気へ溶けていった。
「気分転換かね?」
「ええ」
「そうかい、そうかい」
骨董修復師、クエンティン。
ミミリルの育ての親であり、兄のような存在でもある。
玄冥郷ではティプスタンたちの帰還に力を貸し、還元符を持ち帰ることができたのも彼の協力があってこそだった。
その後も、彼の助言によって分析は進んでいる。
頼りになる存在だ。
だからこそ、ルベッカには引っかかるものがあった。
あまりにも、出来すぎている。
「クエンティン」
「なんだね?」
「あなたが玄冥郷へ転移したのは、偶然ですか?」
煙管の先から、白い煙がゆっくり流れた。
「ああ。あれには吾輩も驚かされたよ」
「そうですか」
クエンティンは薄く微笑んだだけだった。
それ以上、何も語ろうとはしない。
「戻ります」
「そうかい。あまり根を詰めすぎないようにね」
クエンティンは煙管を口元へ運んだ。
ルベッカは何も答えず、縁側を後にした。
★
自室へ戻る頃には、拡大鏡の起動時間は終わっていた。
机の上には、先ほどと変わらず還元符と五渦の識晶が並んでいる。
ルベッカは椅子へ腰を下ろし、二枚目の花弁を使った。
再び還元符を調べながら、羽根ペンへ手を伸ばす。
しかし、視線を拡大鏡へ固定していたため、指先が僅かに軌道を外れた。
触れたのは、五渦の識晶だった。
「――っ」
水晶板の内側へ、淡い青光が滲んだ。
識晶が、ルベッカの身体に宿る《沈静の淵》を読み取ったのである。
触れた者が、どの五精霊の呪怨を宿しているのか。
識晶は、その違いを光の色によって示す。
だが、その時。
還元符へ向けていた拡大鏡の端に、識晶が映り込んだ。
「……?」
青い光の上で、何かが揺れている。
直接目を向けても、水晶板の内部へ光が滲んでいるだけだった。
もう一度、拡大鏡越しに見る。
今度は、はっきりと見えた。
平たい水晶板の上へ、複数の文字が浮かんでいる。
精霊言語だった。
「識別表示でしょうか?」
複数の行に分かれた文字列が並んでいる。
ルベッカは片手を識晶へ触れさせたまま、拡大鏡を積み重ねた資料へ立てかけた。
角度を調整し、空いた手で羽根ペンを取る。
一文字ずつ、手帳へ写していった。
文字そのものは知っている。
だが、その意味までは読み解けない。
精霊言語は、同じ文字でも置かれた場所や前後の流れによって意味が変わる。
規則や構造から追おうとすると、途中で解釈が崩れてしまうのだ。
レヴィは違った。
以前、なぜ読めるのかと尋ねたことがある。
返ってきた答えは、
『なんとなく、言葉の流れで分かる』
という、要領を得ないものだった。
理屈で説明できないからこそ、ルベッカには真似できない。
今夜は、見えている文字を正確に残すことだけに集中する。
最後の一文字を書き写し、識晶から指を離した。
青い光が消える。
拡大鏡越しに見えていた文字も、同時に失われた。
明日、レヴィへ翻訳を頼めばよい。
ルベッカは手帳を閉じた。
★
翌朝。
メリシア邸の大食堂。
朝食を終えたレヴィは、満足そうに椅子の背へもたれていた。
食堂の中央を占める長テーブルには、空になった皿と、湯気の薄れた茶器が残っている。
「レヴィ」
「あん?」
ルベッカは手帳を開き、昨夜写し取った精霊言語を差し出した。
「これを読めますか?」
「んー?」
レヴィが気だるそうに手帳を受け取る。
「昨夜、識晶に触れた際に、術式拡大鏡を通して浮かび上がった文字なのですが」
「へぇー……」
並んだ文字へ目を落とし、僅かに目を見開いた。
「そんな文字が隠されてたのか」
「読めますか?」
「ああ」
少しの間を置いて、ゆっくり読み上げる。
――沈みは底へと定まり。
――静寂はすべてを止める。
一度、言葉を区切る。
そして、後半。
――然れど沈みは巡りへ還り。
――深みは均される。
「……こんな感じだな」
返された手帳へ視線を落とす。
沈み。
静寂。
止まる。
前半は、《沈静の淵》の性質と一致している。
感情と自我を沈め、宿主を静寂の底へ引き込む水の理。
だが、後半は違う。
沈みを巡りへ還す。
深みを均す。
呪怨が引き起こす状態とは、逆の変化を示している。
「水の呪怨について記した詩……でしょうか」
レヴィが頷く。
「確かに詩っぽいな」
「断定はできませんが、私が識晶へ触れた時に表示された以上、《沈静の淵》との関連性は高いでしょう」
「ルベッカねーちゃんが触った時に出たんだよな?」
「ええ」
レヴィは手帳を眺めたまま、しばらく黙っていた。
やがて、何かに気づいたように顔を上げる。
「だとしたら……呪怨によって、出てくる言葉も違うんじゃねーかな?」
ルベッカの指が止まった。
「確かに、その可能性はありますね」
「俺っちが触れば分かるだろ」
ルベッカは白衣の内ポケットから、布に包んだ五渦の識晶を取り出した。
その前に拡大鏡を起動し、自身が触れた時の表示と昨夜の記録を照合する。
書き損じも、抜けもない。
「記録に誤りはありませんね」
「そこまでする必要ねーだろ」
「一文字の誤りで、意味が変わる可能性がありますから」
「まあ、そりゃそうだけど」
識晶から手を離す。
青い光と文字が消えた。
「次は、レヴィ。お願いします」
「おう」
レヴィが身を起こし、水晶板へ指を置く。
その指先から広がるように、内部へ赤い光が滲んだ。
火精霊イグニスの《灰燼の刻印》。
「見てください」
長テーブルの上で、二人が同じ円形ガラスを覗き込む。
赤い光の上には、昨夜とは異なる精霊言語が浮かんでいた。
「やっぱり違うな」
「読めますか?」
レヴィは文字を追いながら、ゆっくり口にする。
「燃えは形を与えられ――炎は永へと刻まれる」
ルベッカはすぐに羽根ペンを取り、手帳へ書き留めた。
「続けてください」
「はいはい」
「然れど燃えは環へ還り――炎は鎮まる」
最後の言葉を書き終え、ルベッカは二つの詩を見比べた。
内容は違う。
だが、どちらも前半と後半に分かれている。
そして後半だけが、呪怨とは逆の変化を示していた。
★
その日の午前。
ククルシア中央図書館。
窓際の閲覧机で、ルベッカは手帳に並んだ四つの詩を見つめていた。
水。
火。
光。
地。
レヴィの推測を確かめるため、同じ食堂にいたミミリルとガミにも協力を頼んだ。
結果は同じだった。
識晶は、触れた者の呪怨に応じて異なる色を滲ませ、それぞれ異なる精霊言語を浮かび上がらせた。
それをレヴィが読み取り、ルベッカが書き留めた。
水精霊アクアの《沈静の淵》。
――沈みは底へと定まり。
――静寂はすべてを止める。
――然れど沈みは巡りへ還り。
――深みは均される。
火精霊イグニスの《灰燼の刻印》。
――燃えは形を与えられ。
――炎は永へと刻まれる。
――然れど燃えは環へ還り。
――炎は鎮まる。
光精霊ルクスの《真理の曝露》。
――真はただ一つへ収まり。
――他のすべてを滅する。
――然れど真は分かたれ。
――新たな理として定まる。
地精霊テラの《圧根の縛》。
――縛りは理として定まり。
――動かぬものとなる。
――然れど固きは裂かれ。
――新たな形へ編まれる。
いずれも途中で詩の調子が変わる。
前半は、呪怨が宿主へ強いる状態。
では、後半は何を示しているのか。
未確認なのは、風精霊ヴェントの《風葬の孤界》。
それは後日、イッサにも識晶へ触れてもらえばよい。
今は、この四つで検証を進める。
ルベッカは手帳を閉じ、受付へ向かった。
研究者用の閲覧許可証を差し出す。
「五界使徒に関する資料を希望します」
「どの分野でしょうか」
「最古層の機能論と、五概念の相互関係。後世の解釈が加わる以前の記述を中心に」
「それでしたら、基礎概念の分野ですね」
「ええ」
五界使徒については、ルベッカも長年研究してきた。
だからこそ、一度先入観を捨てる必要があった。
信仰や物語によって与えられた人格ではなく、五界使徒が本来、世界のどの働きを示していたのか。
最古の定義から確かめる。
「一部、閉架資料が含まれる可能性があります。館長の確認を取りますので、しばらくお待ちください」
「分かりました」
閲覧机へ戻る。
呪解法が文献に残されているとは考えていない。
それなら、すでに探し尽くしていた。
医療記録。
精霊信仰の祭祀書。
各地に残された伝承。
危険な遺跡から持ち帰られた石板。
精霊言語に手がかりがあると考え、レヴィを助手に迎えたあとも、見つかったのは祈りや奉納詩、民間伝承ばかりだった。
世間で知られている対処法は、自らの魔力を使わないことだけ。
治すのではない。
悪化する時を、僅かに先へ延ばしているにすぎない。
だから今日は呪解法を探しに来たわけではなかった。
星紡ぎの花見の日に思いついた仮説。
――五精霊の働きを、五界使徒の理によって均す。
あの日は、そこまで考えたところで倒れた。
還元符によって再び動けるようになった今、その続きを検証する。
「お待たせいたしました」
司書が戻ってきた。
運ばれてきたのは、六冊の本と、革紐で留められた古い巻物だった。
「こちらの三冊と巻物は館外へ持ち出せません。取り扱いにご注意ください」
「承知しました」
ルベッカは、最も古い体系書から開いた。
後世では「認識」「可能性と選択」「時間と因果」「解放と進化」「調和と均衡」といった言葉で語られる五界使徒。
だが、最古層では、それらはさらに単純な五つの機能として捉えられていた。
蒼天龍――観測。
存在を捉え、その状態を現実として確定する。
白夜蝶――分岐。
一つに閉じた可能性を分かち、新たな道を生む。
玄冥陰蛇――循環。
始点と終点をつなぎ、流れを巡らせる。
陽輪凰――再生。
停滞した状態を破り、新たな形へ作り直す。
翠界麒麟――調和。
異なる働きをまとめ、全体の均衡を保つ。
そこに善悪も、対象を救おうとする意思もない。
ただ、与えられた働きを実行する。
ルベッカは、水の詩へ目を移した。
――然れど沈みは巡りへ還り。
「循環」
止まった感情と自我を、再び流れへ戻す。
――深みは均される。
「調和」
偏った状態を均し、再び沈まないよう整える。
手帳へ書き込む。
水――循環、調和。
次は火。
――然れど燃えは環へ還り。
――炎は鎮まる。
生命と魔力が炎へ変わり、一方向へ失われ続ける流れを環へ戻す。
その後、燃焼への偏りを鎮める。
火――循環、調和。
光の詩へ移る。
――然れど真は分かたれ。
「分岐」
一つだけに閉じた真を分かち、別の可能性を生む。
――新たな理として定まる。
「観測……」
生まれた新たな理を、現実の状態として確定する。
光――分岐、観測。
続いて、地。
――然れど固きは裂かれ。
羽根ペンが止まった。
「破壊……?」
固着した肉体や意識を壊し、その後、再生によって作り直す。
一瞬、そう読めた。
だが、完全に破壊すれば、元の宿主を維持できる保証がない。
何より、白夜蝶の「分岐」は、既存のものを消滅させる働きではない。
一つしかない状態へ、別の可能性を生む機能。
「破壊ではない」
固定された状態そのものを砕くのではない。
それが唯一であるという前提を裂き、変化できる道を生む。
続く「新たな形へ編まれる」は、陽輪凰の再生。
地――分岐、再生。
最初の解釈へ横線を引き、訂正を書き加える。
四つの詩には、いずれも二段階の変化が示されている。
詩の順序が、そのまま作用の順を示しているのなら――。
一つ目の機能で、呪怨による偏りを崩す。
二つ目の機能で、変化後の状態を定め、安定させる。
そう読むことができた。
ルベッカは、それぞれを主術、補術と仮称する。
主術だけでは、変化後の状態を制御できない可能性がある。
補術だけでは、元の偏りそのものを崩せない。
二つを、詩に記された順で働かせる必要があるのではないか。
組み合わせを誤れば、呪怨を解くどころか、異常な状態を固定する危険すらある。
手帳の余白へ書き加える。
――誤作用の危険。要注意。
まだ推測にすぎない。
だが、四つの詩と五界使徒の機能に、大きな矛盾はなかった。
ルベッカは、新たな見出しを書いた。
――二相解呪式。
その下へ、四つの対応を並べる。
水――循環、調和。
火――循環、調和。
光――分岐、観測。
地――分岐、再生。
風――未確認。
そして見出しの横へ、明確に書き加えた。
――未検証。
星紡ぎの花見の日に生まれた仮説は、まだ崩れていなかった。
★
閉館を知らせる鐘が鳴った時、窓の外はすでに茜色へ染まっていた。
閲覧机には、書き込みで埋まった紙が何枚も広がっている。
ルベッカは持ち出せない資料を司書へ返し、借りられる三冊だけを鞄へ収めた。
還元符と識晶を布で包む。
最後に、手帳と研究記録を革製の書類入れへ収め、席を立った。
★
メリシア邸へ戻る頃には、空は夜の色へ変わり始めていた。
玄関を開けると、食堂の方から賑やかな声が聞こえてくる。
夕食の時間らしい。
逸る気持ちを抑え、食事だけは手早く済ませた。
その後、自室へ戻り、鞄を机へ置く。
朝に使った拡大鏡の花弁も、すでに青色を取り戻していた。
還元符と、図書館でまとめた手帳を机へ並べる。
拡大鏡を起動した。
一枚目の花弁が透明へ変わる。
識晶の詩と照らし合わせながら、複雑に重なった術式を一つずつ追っていく。
異常な力を受け止める。
行き止まりへ達した流れを折り返す。
始点と終点をつなぎ、環へ戻す。
「玄冥陰蛇……循環」
還元符が火と水へ作用する理由が、ようやく見えてきた。
火は、力が一方向へ失われ続ける。
水は、流れそのものが止まる。
正反対に見えて、どちらも循環が断たれている。
還元符は属性を選んでいるのではない。
二つの呪怨に共通する、流れの異常へ干渉しているのだ。
そして、還元符によって症状が抑えられても、呪怨そのものは消えない。
札に組み込まれているのは、循環だけ。
炎を鎮める調和。
深みを均す調和。
補術に相当する機能は、どこにもない。
「……だから、完全には治らないのでは?」
還元符は、完全な呪解式ではない。
火と水に必要な最初の変化だけを与える、応急術式。
そう仮定すれば、辻褄が合う。
仕組みが見えてくると、複雑に重なっていた構文にも意味が生まれた。
異常な力を検知する経路。
流れを受け止める接続部。
力を折り返す構文。
始点と終点をつなぐ循環式。
そして札の上端近くには、破断を合図として循環式を起動させる短い構文が刻まれている。
ルベッカは新しい紙を取り出し、拡大鏡に映る構造を書き写していった。
十分後。
拡大鏡は術式を映さなくなった。
ルベッカは壁際にある細長い箱を開く。
中には、一本の羽根ペンが収められていた。
《魔導刻筆》。
物質へ術式を刻み込むための魔導具である。
白い羽軸の根元には、拡大鏡と同じ三枚の青い花弁が並んでいる。
こちらも自身の魔力を使わず、一枚につき十分間起動する術式魔導具型だった。
拡大鏡と刻筆。
どちらも高価な特注品である。
ルベッカの論文をまとめた研究書の売上金も、資料や魔導具、各地での情報収集へ費やされ、今ではほとんど残っていない。
それでも、研究を止める理由にはならなかった。
還元符によく似た材質の札紙を、二枚机へ並べる。
刻筆を起動した。
一枚の花弁が透明へ変わる。
青い光が羽軸からペン先へ走り、すぐに消えた。
ルベッカは先ほど書き写した構造を確認しながら、一枚目の札紙へペン先を下ろす。
インクは出ない。
刻筆が走った跡へ、細い光の文字列が一瞬だけ浮かぶ。
その光が札紙へ沈み、術式として定着していった。
検知。
受容。
折り返し。
循環。
最後に、断裂起動式。
最後の一文字が定着すると、札全体へ青い光が広がり、すぐに消えた。
一枚目の試作品が完成した。
ルベッカは刻筆を置き、拡大鏡を再び起動する。
二枚目の花弁が透明へ変わった。
本物と試作品の術式を、線一本ずつ比較していく。
魔力経路。
接続位置。
構文の順序。
循環の方向。
断裂起動式から循環式へ至る伝達経路。
すべて一致していた。
「少なくとも、構造上の問題はありませんね」
試作品へ刻んだのは、本物の還元符から読み取った術式そのもの。
拡大鏡で確認できる範囲に、余計な機能も欠落も見当たらない。
ルベッカは試作品を白衣の内側へ差し入れ、左胸の呪印へ貼り付けた。
本物の還元符は、すぐ手に取れる位置へ置いておく。
異常が起きれば、すぐ使えるようにするためだ。
試作品の上端を指でつまむ。
本物であれば、ここを破ることで断裂起動式が働く。
紙の端を破った。
乾いた音が、自室へ小さく響く。
「…………」
何も起こらない。
札は光らず、胸の奥に沈む冷たさにも変化はなかった。
「ダメですね……」
破れた試作品を机へ戻し、拡大鏡を向ける。
破断位置に誤りはない。
循環式にも、そこへ至る伝達経路にも異常は見つからなかった。
それでも、起動しない。
ルベッカは手帳へ記録する。
――還元符の術式構造を再現。
――断裂起動式を含め、本物と一致。
――試作品は破断後も起動せず。
――原因不明。
羽根ペンの先が止まる。
視線が、破れた試作品へ落ちた。
「……紙?」
今回使用した札紙は、本物の還元符によく似たものを選んでいる。
だが、まったく同じ材質かどうかまでは確認できていない。
術式ではなく、札そのものに何らかの条件がある可能性。
ルベッカは本物の還元符を指先でなぞった。
「材質まで再現するとなると……」
還元符そのものの製造法すら分かっていない。
現状では、可能性の一つとして残すしかなかった。
手帳へ書き足す。
――札紙の材質差についても要検証。
構造上は忠実に再現された術式が、本物と同じ手順を踏んでも起動しない。
その事実だけは変わらない。
検証を終える頃には、拡大鏡の二度目の起動時間も、刻筆の一度目の起動時間も尽きていた。
ルベッカは二枚目の札紙へ視線を移す。
未使用の試作品も残しておく必要がある。
刻筆を再び起動した。
二枚目の花弁が透明へ変わる。
先ほどと同じ術式を、同じ順序で刻んでいく。
今度は破らない。
最後の一文字が定着すると、二枚目の試作品が完成した。
続けて、拡大鏡を三度目に起動する。
最後の青い花弁が透明へ変わった。
本物と試作品を照合する。
やはり、構造に相違は見つからない。
ルベッカは試作品を裏返し、端へ小さな印をつけた。
表から見れば、本物とほとんど区別はつかなかった。
二枚を重ね、指先で厚みを比べる。
光に透かす。
裏返し、表面をなぞる。
「……やはり、材質までは分かりませんね」
見た限りではよく似ている。
だが、同じものだと断定できるだけの材料はなかった。
何度か角度を変えて確かめたあと、ルベッカは二枚を重ねたまま机の端へ寄せた。
これ以上は、紙そのものを調べる手段が必要になる。
今夜できる検証ではなかった。
拡大鏡の花弁は、すべて透明になっている。
刻筆には一枚残っているが、拡大鏡がなければ、刻んだ術式を正確に検証できない。
精密な作業は、ここで終わりだった。
術式魔導具型の道具は、研究者であるルベッカにとって不便でもある。
必要な時に、好きなだけ使えるわけではない。
だが、その不便さが、今のルベッカに無茶をさせずにいた。
花弁を使い切れば、どれほど思考が続いていても、分析と刻印はそこで終わる。
その強制的な区切りが、以前のように身体の限界まで作業を続けることを防いでいた。
それでも、長時間の作業で首と肩は重い。
呪怨が悪化してからは、自分の魔力も使っていない。
まだ還元符を使うほどではない。
だが、これ以上研究を続けるべき状態でもなかった。
ルベッカは眼鏡を外し、目頭を軽く押さえた。
机の上には、破れた試作品。
その横には、書き込みで埋まった手帳が開かれている。
構造に異常はない。
破断位置も間違っていない。
材質については、まだ確かめようがない。
「……分かりませんね」
小さく呟き、手帳を閉じた。
今夜は、ここまでにしておくべきだろう。
散らばった紙を揃え、使い終えた道具を元の場所へ戻していく。
机の端に重ねてあった札にも手を伸ばした。
一枚を薄紙に包み、机の引き出しへしまう。
もう一枚は、いつでも使えるよう白衣の内ポケットへ収めた。
ルベッカは椅子から立ち上がり、凝り固まった肩をゆっくりと回した。
窓の向こうでは、夜風に揺れた木々が静かな葉擦れの音を立てている。
少しだけ、外の空気を吸いたくなった。
★35話に続く★




