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ELVES《エルヴス》―命の器の継承者―  作者: 克
Passage/レグリアへの道編

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第28話『黒の軌跡 Ⅱ』分割改稿版

 占いを終えたフィオとアンナは、時計塔広場へ戻った。


 二人は物思いにふけるように、広場の端にあるベンチへ腰掛けていた。


 フィオは気まずかった。


 占い師が口にした「あなたと結ばれるために輝くのではありません」という言葉。


 それは、アンナの想い人がアンナとは結ばれないと宣言したようなものだったからだ。


 フィオは隣へ目を向けた。


「ま、まあ。所詮、占いだからね! なんとでも解釈できるよ。ねっ?」


「ん? ああ、そうだね」


 思いのほか、アンナは落ち込んではいなかった。


 むしろ、どこか嬉しそうだ。


 その表情に、フィオは内心ほっとする。


「アンナの星の王子様って、誰なんだろうねぇ」


「さ、さぁね」


 アンナは素っ気なく答えた。


 きゅるるる……。


 そこで、フィオのお腹が鳴った。


「もう! 急にロマンチックじゃなくなった」


「あはは。ごめん」


「私、何か買ってくるよ。占い料はフィオが出してくれたし、ここは私がおごる」


 アンナは食べ物の並ぶ屋台へ向かっていった。


 フィオはその背中を見送り、広場の一角に小さな子供たちが集まっていることに気づいた。


 リュミナリア学園初等部の生徒たちだった。


 クリーム色の毛並みと丸い獣耳を持つ女性教師が、星輪灯(せいりんとう)を指し示している。


「昔の人々は、星輪灯の明かりが願いを空へ届けると考えていました」


「願ったら、何でもかなうの?」


「願うだけでは駄目ですよ。自分でも努力し、行動しなければなりません。お勉強もそうです」


 子供たちから、一斉に「うへぇ」という声が漏れる。


 フィオは、その様子を微笑ましく眺めた。


 作業員たちは三本の吊索を調整し、星輪灯をゆっくりと地上へ下ろし始めている。


 ふと、広場の人混みの中に見覚えのある姿を見つけた。


 黒い髪。


 前髪の奥にある、暗い灰色の切れ長の瞳。


 学園の男子制服をまとった少年は、同年代の中では背が高く、細身ながら無駄なく引き締まっていた。


 左腕を包帯で首から吊っているにもかかわらず、真っ直ぐに伸びた背筋は凛としている。


 寡黙で、無愛想。


 周囲から一歩離れているような、近寄りがたい雰囲気。


「イッサ……?」


 スメラギ・イッサ。


 フィオの幼馴染であり、皇流(すめらぎりゅう)短剣盾術(たんけんじゅんじゅつ)の正統後継者でもある。


 普段なら短刀と小型の円盾を携えているが、今は療養中のため装備は身に付けていなかった。


 イッサは、魔導具の並ぶ露店を眺めていた。


 そこへ、サンドイッチを抱えたアンナが戻ってくる。


 二人は露店の前で鉢合わせ、何やら言葉を交わした。


 アンナがフィオの方を顎で示す。


 それを見た途端、フィオの背筋が自然と伸びた。


 跳ねた髪を手で整える。


 黒羽の髪飾りへ触れる。


 制服の襟元を確かめる。


「べ、別に……どうでもいいんだけどね」


 星火祭(せいかさい)のように着飾っているわけではない。


 それでも、イッサに見られると思うと、少しでもきちんとしていたかった。


 イッサがアンナの視線を追う。


 広場を挟み、二人の目が合った。


「……あ」


 フィオの表情が自然とほころぶ。


 小さく手を上げかけた、その瞬間。


 ギィィィィン――!


 甲高い金属音が、広場を切り裂いた。


 フィオとアンナ、そしてイッサが、ほとんど同時に空を見上げる。


 左側の商館屋上。


 吊索を支えていた固定具が、石造りの台座から浮き上がっていた。


「待て! 滑車を止めろ!」


 作業員が制動桿へ飛びつく。


 だが、間に合わない。


 バギン――!


 台座が砕け、固定具が石材ごと引き抜かれた。


 張り詰めていた吊索が、鞭のように空を打つ。


 三点の均衡を失った星輪灯が、大きく傾いた。


 残る二本の吊索に引かれ、巨大な金属環が振り子のように広場を横切る。


 その進路には、初等部の生徒たちがいた。


「みんな、こちらへ!」


 獣人の教師が声を張り上げる。


 しかし、突然の轟音に驚いた子供たちは、互いにぶつかり合って動けない。


 一人の男の子が転倒した。


 教師はすぐさま引き返し、その子を抱き起こす。


 星輪灯の巨大な影が、二人へ覆い被さった。


「危ない!」


 フィオが叫ぶ。


 その時には、イッサはすでに駆け出していた。


 片腕を負傷していても、その足運びには無駄がない。


 灰色の瞳が、迫る星輪灯の軌道を見定める。


 魔導具の露店から、星紡ぎ(ほしつむぎ)の樹材を芯に使った短剣型の木剣をつかみ取った。


「お、おい!?」


 店主の声を背に、イッサは右手で柄を握る。


「――開門せよ。鬼影門(きえいもん)」


 柄に埋め込まれた魔石から、紫色の光が走る。


 光は刀身を包み込み、木剣を強化した。


 イッサは、迫る星輪灯の下へ踏み込む。


 左腕を使えない状態でありながら、姿勢は一切崩れない。


 軸足。


 腰。


 肩。


 右腕。


 すべてが一本の線でつながる。


 力へ逆らうのではなく、その勢いに別の道を与える。


 皇流(すめらぎりゅう)短剣盾術(たんけんじゅんじゅつ)――《一刀流(いっとうなが)し》


 木剣が、星輪灯下部の星形装飾へ斜めに触れた。


 ドォォン――!


 衝撃がイッサの右腕を駆け抜ける。


 肩が軋み、身体がわずかに宙へ浮いた。


「ぐっ……!」


 まともに受ければ、身体ごと押し潰される。


 絶妙なタイミングで刀身を滑らせ、イッサは腰をひねった。


 巨大な金属環の軌道が、わずかに上へ逸れる。


 教師と男の子の頭上をかすめ、広場右手の作業足場へ激突した。


 ガッシャァァァン――!


 足場がひしゃげ、星輪灯が右側の商館外壁へ叩きつけられる。


 巨大な環の重量に引かれ、残る吊索が一斉に軋んだ。


「吊索を切れ! 建物まで引かれるぞ!」


 だが、限界まで張り詰めた吊索へ近づける者はいない。


 右側の支柱が屋上の縁ごと崩れ、その反動で時計塔の固定部にも亀裂が走った。


 次の瞬間。


 左右の商館と時計塔から、屋根材や石片が広場へ降り注いだ。


「全員、伏せて!」


 アンナが自身の短杖を掲げた。


「風魔法――《ウィンド・ベール》!」


 杖先から生まれた風が渦を巻き、初等部の生徒たちと教師、逃げ遅れた人々の頭上を覆った。


「広場の外へ! 建物から離れて!」


 安全な逃げ道は、正面の大通りだけだった。


 教師は子供たちを誘導し、大人たちもその手を引いて風の防壁の下を走り抜けていく。


 だが、アンナ自身は動けない。


 術を解けば、逃げる人々へ瓦礫が降り注ぐ。


 石造りの窓枠が、アンナの頭上へ落ちてきた。


 イッサが間へ入る。


 木剣を下から振り上げ、窓枠の角を打った。


 ガァン――!


 落下する勢いを横へ流し、アンナの背後へ逸らす。


「さ、さっすが……イッサ君」


 イッサは無言のまま、次の瓦礫を見据えた。 


 折れた支柱。


 時計塔から剥がれた石片。


 星輪灯から外れた鋳鉄製の装飾。


 イッサは右腕一本で、木剣を振るい続けた。


 大きな瓦礫は軌道を逸らし、細かな破片はアンナの風へ預ける。


 二人が作った安全地帯を通り、子供たちが次々と広場の外へ逃れていった。


「あと少し!」


 最後尾の教師が男の子を抱え、大通りへ飛び込む。


 避難は、ほぼ終わった。


 だが、その避難を支えたイッサとアンナは、崩落の中心へ取り残されていた。


 やがて、時計塔側の固定部が耐えきれず、鈍い音を響かせた。


 ゴォン――。


 時計塔正面に据えられていた巨大な石造りの星章が、周囲のレンガごと傾く。


 イッサは木剣を握り直した。


 直後。


 胸の奥で、空気が弾けた。


 ヒュッ――。


「……っ!」


 息を吸ったはずだった。


 だが、肺が満たされない。


 胸の内側に生まれた風が、取り込んだ空気を片端から外へさらっていく。


 喉の奥から、笛の穴を抜けるような細い呼吸音が漏れた。


 周囲の音が遠のく。


 アンナの声も。


 崩れる石の音も。


 見えない壁の向こうへ切り離されていく。


 風精霊ヴェントの呪怨――《風葬(ふうそう)の孤界(こかい)》。


 魔力を使い続けた代償が、一気に噴き出した。


「イッサ君?」


 息がうまく吸えない。


 吐けない。


 冷たい風が、胸の奥で絡みつくような感覚。


 脚から力が抜けた。


 木剣が、イッサの手から滑り落ちる。


 カラン――。


 ひび割れた刀身が石畳を転がり、イッサの膝が折れた。


 真っ直ぐだった背が崩れ、黒い前髪が灰色の瞳を覆う。


「イッサ君!」


 アンナが叫ぶ。


 だが、《ウィンド・ベール》を維持する彼女も動けない。


 星章の周囲から、大小のレンガが次々と落ち始めた。


 一つが抜けるたび、隣の石材が支えを失う。


 時計塔の壁が、上から順にほどけるように崩れていった。


「……っ!」


 フィオは息を呑んだ。


 アンナの風も、大きな瓦礫までは防ぎきれない。


 何か。


 何かないの――!


 広場の外縁に並ぶ露店へ目を走らせる。


 その一つに、魔導弓が掛けられていた。


 フィオは駆け寄り、弓をつかみ取る。


 しかし、矢は一本だけ。


「一本……」


 イッサとアンナへ迫る瓦礫は、数え切れない。


 一つを射抜いても、残りが二人を押し潰す。


 一矢では、どうにもならない。


 分かっている。


 それでも、何もしないで見ていることなどできなかった。


 フィオは矢をつがえ、イッサの真上で崩れかけている星章へ狙いを定めた。


 せめて、あれだけでも。


 軌道を少しでも逸らせられれば――。


 震える指先に力を込めた、その刹那。


 キュイイィン――。


「……!」


 澄んだ高音が、一瞬だけ鳴り響いた。


 まるで時が止まったかのように、世界から音と色が遠のく。


 崩れ落ちる建物も。


 舞い上がる砂埃も。


 逃げる人々も。


 すべてが白と黒だけの静かな世界へ沈んだ。


 ただ一か所。


 制服のスカートのポケットだけが、淡い虹色を帯びている。


 布越しに伝わる、小さな振動。


 ルベッカの研究室へ運ぶ木箱から落ちた、あの玉石だった。


 そこで初めて、フィオは玉石を返し忘れていたことに気づいた。


「この石……」


 胸の奥へ、不思議な熱が流れ込む。


 焦りが、すっと消えた。


 落下する速度。


 回転する方向。


 アンナの風によって変化する軌道。


 どこを射抜けば、どちらへ崩れるのか。


 すべてが、不自然なほど鮮明に見えた。


 無数の細い線が、視界へ浮かび上がる。


 一本の矢が通る道ではない。


 降り注ぐすべてを射抜くための軌跡。


 フィオはゆっくりと息を吐いた。


 弓を握る手から力みが消え、震えていた指先が止まる。


 髪飾りから垂れた鎖が、風に揺れてかすかな音を立てた。


 矢尻を、イッサとも星章とも重ならない、何もない空間へ向ける。


「この一矢(いっし)、外れはしない」


 魔導弓に埋め込まれた魔石から、紫がかった光が走る。


「――アエル・ミーティア!」


 フィオは弦から指を離した。


 弦が鳴る。


 一本の矢が、青白い閃光となって空へ駆け上がった。


 一筋だった光が、三つに分かれる。


 だが、そこで終わらない。


 三つの閃光はさらに枝分かれし、瞬く間に数え切れないほどの細い光となって空へ散開した。


 ビシッ、ビシッ、ビシッ――!


 変幻自在な矢群の閃光が、降り注ぐ瓦礫を次々ととらえた。


 星章を支えていた石材を射抜き、その巨体を時計塔側へ回転させる。


 折れた支柱を中央から割り、イッサとアンナの左右へ分ける。


 石造りの窓枠を斜め下から弾き、《ウィンド・ベール》の外側へ滑らせる。


 鉄具を弾き、色ガラスを砕き、落下するレンガの軌道を一つ残らず二人のいない場所へ導いていく。


 青白い閃光とアンナの風が重なり、二人へ集中していた崩落が左右へ割れていった。


 最後の石塊が、倒れたイッサへ迫る。


 飛び交っていた閃光が、まるで意思を持った光のように一点へ収束した。


 バギィィン――!


 石塊が空中で割れた。


 破片はアンナの風に押され、イッサの両脇へ流れ落ちる。


 細かな石片が、雨のように風の防壁を叩いた。


 やがて、最後のレンガが石畳へ落ちる。


 轟音が途切れた。


 役目を終えた青白い閃光が、空へ溶けていく。


 フィオは短く息を呑んだ。


 自分に、こんな力はない。


 あり得ない。


「どうして……」


 ポケットの玉石は、何事もなかったように静まり返っていた。


「フィオ!」


 アンナの声が響く。


「イッサ君を!」


「……っ!」


 フィオは弓を放り出し、瓦礫の間を駆けた。


「イッサ!」


 イッサは石畳へうずくまるように倒れていた。


 右手で胸元を押さえ、細く途切れた呼吸を繰り返している。


 息を吸うたび、喉から乾いた笛のような音が漏れた。


「イッサ、しっかりして!」


 フィオは膝をつき、その身体を抱き起こした。


「みんなは……無事か?」


 イッサは灰色の瞳をわずかに開き、必死に絞り出すように尋ねた。


「うん! みんな無事だよ!」


 イッサは安堵したように目を細めた。


 普段はほとんど動かないその表情が、ほんの少しだけ緩んだように、フィオには見えた。


 そして、そのまま意識を失った。


 

★


 

 夕暮れ。


 ククルシア東部の病院にて。


 イッサは病室のベッドへ横たわっていた。


 意識は、まだ戻っていない。


 医師たちは、可能な限りの処置を施した。


 だが、イッサを最も苦しめているものには手を出せなかった。


 風精霊ヴェントの呪怨――《風葬(ふうそう)の孤界(こかい)》。


 魔力を使ったことで、その進行は急激に早まっていた。


 ヒュ。ヒュ。ヒュ。


 短い呼吸しかできない。


 時折、身体が大きく跳ねた。


 胸の中が突風にさらされているかのように背が反り、喉から掠れた音が漏れる。


 駆けつけたイッサの祖父、ソウイチロウは、医師と共に別室へ向かった。


 アンナも事故について、教師や衛兵から事情を聞かれている。


 病室に残っているのは、フィオとイッサだけだった。


 フィオはベッド脇に座り、イッサの右手を握っていた。


 髪も制服も、事故の埃に汚れたままだった。


「イッサ……」


 返事はない。


 呼吸は変わらず不規則だった。


 長い空白のあと、苦しげに喉を鳴らし、奪われた空気を求めるように身体が震える。


 見ているのが辛かった。


「どうすればいいの……?」


 フィオは泣きそうな顔で呟いた。


 普段の強気な笑みは、どこにもない。


「いっつも、自分のことなんて後回しにして……」


 握った手へ、涙が落ちる。


「不器用なんだから……」


 五精霊の呪怨そのものに、医療行為は通じない。


 回復魔法も魔力を用いるため、下手に使えば、かえって呪怨を悪化させてしまう。


 呪怨の進行を抑える唯一の手段は、魔力を使わないこと。


 それを、イッサは破ってしまった。


 誰かを守るために。


 フィオにできるのは、ただ苦しむ姿を見ていることだけだった。


 俯いたフィオの脳裏に、ふいに時計塔で起きた不可解な出来事がよぎった。


 一本の矢から無数の閃光を生み出した《アエル・ミーティア》。


 本来は三本の矢を同時に放ち、三方向の獲物を狙う技。


 一本の矢を無数に増やす技ではない。


 そして、ポケットの中で確かに音を鳴らした虹色の玉石。


「まさか……」


 続いて、占い師の言葉が蘇る。


 ――夜明けを待つ虹は、あなたの願いに応える。


「虹……」


 フィオは恐る恐るポケットへ手を入れ、玉石を取り出した。


 ただの装飾石だと思っていた石。


「もしかして……本当にエーテリウムなんじゃ……?」


 通常の魔石の数百倍もの魔力を宿すというエーテリウム。


 希少で高価な品であり、フィオは実物を使ったことも、その正確な性質も知らない。


 それでも、通常ではあり得ない《アエル・ミーティア》を可能にしたのが、この石なのだとすれば。


 虹色の宝石と、占いに現れた「虹」という言葉。


 偶然かもしれない。


 それでも、ほかにすがれるものはなかった。


 フィオは玉石を両手で包み込む。


「お願い……」


 何に祈っているのか、自分でも分からない。


 神か。


 星か。


 玉石そのものか。


 それとも、別の何かなのか。


 今のフィオには、どうでもよかった。


 ただ、目の前で苦しむ想い人を。


 幼い頃からそばにいて。


 無愛想で。


 不器用で。


 それでも、いつも誰かを守ろうとする大切な存在を救いたい。


「お願い……この人を助けて」


「私にできることがあるなら、何でもするから」


 涙が、イッサの手のひらへ落ちた。


「イッサを助けて!」


 変わらぬ沈黙が流れる。


 やがて窓から風が流れ込み、フィオの頬を撫でた。


 その時だった。


 玉石を包む指の隙間から、闇が溢れ出した。


 同時に、イッサの胸元の呪印が激しく脈打つ。


 ヒュオオオオ――。


 低い風音が病室を巡る。


 イッサの身体に、細い痣のような筋が浮かび上がった。


 胸と肺へ絡みつき、幾重もの渦となって呼吸を閉ざしていたもの。


 その中へ、黒が混ざる。


 黒は痣を一本ずつほどくように、イッサの身体から引き離していった。


 剥がれた痣は細い黒煙へ変わり、吸い寄せられるように、フィオの手の中にある玉石へ流れ込んでいく。


 一筋。


 また一筋。


 最後の煙がイッサの胸元から離れた瞬間、病室の空気が静まった。


 揺れていたカーテンが止まる。


 イッサの胸元の呪印は跡形もなく消え、苦しげに寄せられていた眉も緩んでいった。


「イッサ……?」


 返事はない。


 だが、その胸は規則正しく上下している。


 息を吸い。


 肺を満たし。


 穏やかに吐いている。


「よかった……」


 フィオは安堵し、涙を拭った。


「本当に……よかった」


 次の刹那。


 手の中で、何かが脈を打った。


 ドクン――。


「……え?」


 虹色だった玉石から、急速に色が失われていく。


 表面に浮かんでいた幾つもの輝きが、内側から滲み出す黒に呑み込まれた。


 ほんの数秒で、光を一切通さない漆黒の石へと変わる。


「なに……これ」


 石を放そうと、手を開く。


 だが、離れない。


「え? な、なんで……」


 反対の手で引き剥がそうとする。


 動かない。


 漆黒の石が、生き物のように脈打ち始めた。


 ドクン。


 ドクン。


 輪郭が崩れる。


 黒い塊が細長く伸び、節が生まれた。


 左右から、無数の細い脚が生える。


 やがてそれは、黒いムカデの形を成した。


「……っ!」


 悲鳴を上げようとした。


 だが、声が出ない。


 ムカデの脚が掌へ食い込み、その輪郭が皮膚の内側へ沈んでいく。


 焼けた針を、幾本も突き刺されたような痛み。


 それなのに、腕を動かすことも、助けを呼ぶこともできない。


 黒いムカデは入れ墨のような姿となり、掌から手首へ這い上がった。


 肘を越え。


 肩から鎖骨へ。


 皮膚の下を、背筋が凍るような痛みが這っていく。


 目の前では、イッサが穏やかな呼吸を取り戻していた。


 まるで、イッサの中にあった悪いものが、自分の中へ流れ込んでくるような感覚。


 再び、占い師の言葉が脳裏をよぎる。


 ――けれど、虹の向こうに生まれるものが、光だけとは限りません。


 ――変えられた流れは波紋となり、その願いは形を変え、別の岸で災いの芽となるでしょう。


 黒いムカデは胸元へたどり着き、心臓の近くで身体を丸めた。


 幾重にも重なり、漆黒の渦へ変わっていく。


 その中心で、灰青色の光が一瞬だけ明滅した。


 ヒュウ――。


 フィオの胸の中で、小さな風が鳴った。


 ドクン――。


 漆黒の呪印が脈打つ。


 鮮やかだった瞳から、少しずつ光が薄れていった。


 自信に満ちた表情も。


 少し挑発的な笑みも。


 すべてが、静かに失われていく。


 自分が何者だったのか。


 ここで何をしていたのか。


 大切なものが、指の間から静かにこぼれ落ちていく。


 それでも最後に。


 フィオは、心の中で一つの名だけを唱えた。


 ――イッサ……。


 

★


 

 風が吹いた。


 白いカーテンが、ゆっくりと揺れる。


 黒髪の少年は目を開いた。


 白い天井。


 薬品の匂い。


 窓から差し込む夕暮れの光。


 少年はゆっくりと上体を起こした。


 まるで憑き物が落ちたように、身体が軽かった。


 息苦しさが消えている。


 胸の内側で荒れ狂っていた風も。


 世界から切り離されていくような、あの静かな恐怖もない。


 両手を見つめ、はっとした。


 左腕が当たり前のように動く。


 両手を開いては、握る。


 何度繰り返しても、痛みはなかった。


 驚いているはずなのに、その表情は変わらない。


 まるで、長い悪夢から目覚めたような感覚だった。


 風が少年の頬をなでる。


 窓に目を向けると、カラスの羽根が一つ、ひらひらと病室へ入り込み、床へ落ちた。


 

★


 

 夕暮れ。


 フィオは虚ろな表情のまま、ククルシア中央広場から少し離れた場所にいた。


 そこは、広場の喧騒から外れ、石段を登り切った先にある、人目につきにくい場所だった。


 鮮やかだった緑の瞳には、何も映っていない。


 やがて、影守(かげも)りの樹の前で足を止める。


 なぜ自分がここにいるのか分からない。


 それなのに、自然と足はこの場所へ向かっていた。


 胸には、何も浮かばない。


 何も。


 風が、影守りの樹の枝葉を静かに揺らした。


 フィオの髪が、ふわりと持ち上がる。


 その拍子に、緩んでいた黒羽の髪飾りが髪の間を滑った。


 カチャ――。


 髪飾りは、平たい石の上へ落ちた。


 星火祭の夜。


 フィオとイッサが並んで腰を下ろしていた石だった。


 幼い頃、イッサが自分の目標を宣言した場所だった。


 けれど、今のフィオには何も浮かばない。


 フィオは落ちた髪飾りを一瞥する。


 美しいとも。


 大切だとも。


 懐かしいとも思わない。


 フィオはそのまま樹へ背を向け、何かに導かれるようにククルシアから姿を消した。


 

★


 

 深夜。


 病室を訪れたアンナに、フィオのことを尋ねた時だった。


「フィオ? 誰、それ?」


 アンナは本気で分からないという顔をして、そう答えた。


 からかわれているのかと思ったイッサだったが、その後に訪れた祖父のソウイチロウも、同じ反応を示した。


 祖父が、こんな状況でそんな冗談を言うわけがない。


 二人は明らかに、フィオの存在を忘れていた。


 忘れたというより、初めから存在していなかったような口ぶりだった。


 イッサは異常を感じ取り、すぐに病院を飛び出した。


 寮にも。


 学園にも。


 フィオがよく立ち寄る菓子店にも、その姿はなかった。


 誰に聞いても、フィオを知る者はいなかった。


 イッサの足取りには焦りが混ざり、夜道に人影を見つけるたび、その姿を確かめた。


 どこにもフィオの姿はない。


 どこにもフィオを知る者がいない。


 途方に暮れたイッサは、気づけば影守りの樹の前にいた。


 悩み事があると、イッサはいつもここに来ていた。


 ふと、樹の根元にある平石で、何かが月明かりを返した。


 イッサは腰をかがめ、それを拾い上げる。


 カラスの羽根を模した髪飾り。


 幼い頃、自分がフィオへ贈ったものだった。


 いつも、彼女の髪を飾っていたもの。


 イッサは髪飾りを握り締めた。


「フィオ……」


 影守りの樹を見上げる。


 樹は相変わらず、何も応えはしなかった。


 

★


 

 イッサがフィオの髪飾りを見つけた頃。


 静寂の回廊林の奥深く。


 木々に囲まれた開けた場所に、古びた遺跡があった。


 とうに役目を失ったはずの、円環状の転移ポータル。


 割れた円環の前に、二つの影が立っていた。


 一人は、昼間、占い師のテントで受付をしていた小柄な亜人の女の子。


 もう一人は、頭から足元まで黒衣に包まれた人影だった。


 深いフードを目深に被り、顔も身体の輪郭も闇の中へ隠している。


 月明かりを受けても、黒衣の奥は見通せない。


「ね、姉さん……。本当に追わなくて良かったのかなぁ……」


 黒衣の影が、おどおどと女の子へ尋ねた。


 昼間の占い師と同じ、か細い声だった。


「いいのいいの。存在だけ確認できれば上出来、上出来。よくやったね、エルミナ」


 そう言って、亜人の女の子は背伸びをし、黒いフードの上からエルミナの頭を撫でた。


「えへ……えへへへ……」


 エルミナは嬉しそうに声を弾ませる。


 だが、フードの奥にある表情までは見えない。


「あとは、その流れに乗れば、向こうからやってくるよ」


「さ、さすが。姉さん」


「まあ、一番の功労者はシャドー様だけどね」


「潜伏期間、長かったもんね」


「うんうん」


 女の子は腕を組み、何度も頷いた。


「これで、シャドー様のお側にいられるね。姉さん」


「そ、そうね……」


 亜人の女の子は、ふいと顔を背けた。


 頬が月明かりの下で、わずかに赤く染まる。


 不意に、木々の奥で草を踏む音がした。


 二人が同時に顔を上げる。


 林の闇から、学園の制服を着た少女が現れた。


 かつて自信と生命力に満ちていた瞳は、今は虚ろに曇っている。


 少女は一度も足を止めることなく、古びた円環へ向かって歩いてくる。


 その胸元では、漆黒の呪印が静かに脈打っていた。


 亜人の女の子は、その姿を見つめた。


 そして、少女を迎えるように口元を緩めた。


「お待ちしておりました。禁忌石様」


 

★29話に続く★

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