第26話『ほどける夜』
人は、何を持って生まれたかではなく。
誰と出会い、何を大切にすると決めたかによって、その人になる。
深夜。
メリシア邸にて。
ルベッカの自室には、まだ小さな灯りがともっていた。
机の上のランプからこぼれる光が、部屋に柔らかく広がっている。
ランプの脇には、焔芯茶のポットが置かれていた。
少し焦げたような香りのする、赤褐色の薬湯。
体調が戻ってから、彼女はそれをよく飲むようになっていた。
ルベッカは、その明かりのそばで羽根ペンを走らせていた。
目の前の用紙には、整った文章ではなく、単語や短文が乱雑に並んでいる。
玄冥郷。
刻継の里。
蛇骨の里。
転移ポータル。
皆既日食。
三週間。
数分。
還元符。
禁忌石。
闇魔石。
骸場。
ヴァーミリオン。
矢印。
疑問符。
消された文字。
書き足された仮説。
そこには、事実と推測が混ざっていた。
論理の順序も整っていない。
けれど、今はこれでよかった。
頭の中だけで考え続けていると、思考が絡まる。
絡まった思考は焦りを生み、焦りは見落としを生む。
だから紙へ書き出す。
不完全でも、乱雑でも、とにかく形にする。
そうすれば、自分の中で渦巻いているものを、一歩引いた視点で見られる。
ティプスタン、レヴィ、マー教授、リリネア。
四人がメリシア邸裏庭の転移ポータルから姿を消したのは、百年に一度といわれる皆既日食の日。
正午のことだった。
彼らは、幻の郷――玄冥郷へ転移し、そこで三週間ほど過ごしたという。
だが、ククルシア共和国へ戻ってきた時、こちらの世界ではほとんど時間が進んでいなかった。
時間にして、たった数分。
あり得ないことだ。
体験していない者が聞けば、まず集団催眠や記憶干渉を疑うだろう。
しかし、机の上には確かな証拠がある。
ティプスタンたちが持ち帰った物資が、そこに並んでいた。
その中にある還元符。
それは、ルベッカの水精霊アクアの呪怨を確かに抑えていた。
凍えるような冷え。
呼吸の重さと、身体にまとわりつく気怠さ。
それらはまだ完全に消えたわけではない。
それでも、日常生活に大きな支障をきたさないところまでは回復していた。
水を飲める。
歩ける。
考えられる。
書ける。
ほんの少し前まで、それすら難しかった。
だからこそ、動ける時に動きたかった。
「どこから手をつけるべきか……」
ルベッカは小さく呟いた。
あまりにも、不思議で異常なことが多すぎる。
とにかく、優先すべき単語に印を付けていく。
還元符。
闇魔石。
ティプスタンのヴァーミリオン。
五精霊の呪怨を解く鍵になりそうな単語。
その中で、闇魔石という文字に視線が止まる。
玄冥郷では、禁忌石と呼ばれていたもの。
それがあれば五精霊の呪怨を解呪できると、刻継の里の役人は言っていたらしい。
しかし、それはティプスタンによって破壊された。
すでにこの世にはない。
ルベッカは、闇魔石という単語にバツ印を付けた。
残るのは、還元符。
既存の魔導理論から外れている点は同じだ。
だが、今この手元に実物がある。
作用は不明。
製造方法も不明。
けれど、確かに症状を抑えている。
ならば、今もっとも現実的に追うべき糸口は、還元符だった。
ただし、持ち帰られた札には限りがある。
いずれなくなる。
製造方法については、玄冥郷の蛇骨の里の角鱗族が詳しいそうだが、マー教授たちは聞き出せなかったという。
門外不出の掟。
還元符は諸刃の剣であり、使う者によっては大きな災いをもたらす。
蛇骨の里の長、ユハはそう語ったらしい。
ルベッカは羽根ペンを置き、目頭を軽く押さえた。
肩が重い。
指先も冷えている。
無理をしている自覚はあった。
だが、眠ろうとしても眠れないことも分かっている。
ティプスタンたちが玄冥郷から戻って、三日が過ぎていた。
まだ全てを聞けたわけではない。
ティプスタン、レヴィ、マー教授、リリネア。
そして、同じく玄冥郷に迷い込んだクエンティン、モモネ、白狼のマリ。
情報は多い。
だが、整理が追いつかない。
何より。
ティプスタンの様子が、明らかにおかしかった。
笑う。
返事もする。
ミミリルに抱きつかれれば、いつものように戸惑った顔もする。
けれど、すぐに目が遠くなる。
今ここではない何かを見ている。
そんな顔だった。
ルベッカは窓の外へ視線を向けた。
夜は晴れていた。
月明かりが、メリシア邸前の噴水を静かに照らしている。
水面が淡く光っていた。
その縁に、一人。
赤髪の少年が座っていた。
ぽつんと。
ルベッカは、しばらくその背中を見つめていた。
そして、静かに立ち上がった。
☆
メリシア邸の正面玄関前。
噴水の水音が細く流れていた。
ちょろちょろ、と水が落ちる。
かすかな風に、葉が擦れる。
遠くで夜虫が鳴く。
夏へ向かう夜は、少しだけ湿っている。
ティプスタンは、噴水を囲む石枠に腰掛けていた。
深紅のマントは夜気を吸ってわずかに重い。
それでも、脱ぐ気にはなれなかった。
胸元の留め金具。
五枚の花弁を模した赤い石。
それに触れると、少しだけ落ち着く。
けれど今、ティプスタンが見ているのは、留め金具ではなかった。
自分の手のひら。
開く。
閉じる。
また開く。
『手のひらでも、ネクロクレイマンかどうかは判別できます』
ローワンの声が、ふと頭の中に蘇った。
あの時は、ただじっと聞いていた。
自分と他人の手のひらをじっくり比べたことなどない。
だから違いは分からない。
皺が少ないような気はする。
線が浅いような気もする。
でも、それが種族の違いなのか、ただの個人差なのか、ティプスタンには分からなかった。
「……違うから、なんだっていうんだよ」
小さく呟く。
この世界には、実に様々な種族がいる。
ヒューマン、エルフ、ドワーフ、獣人、亜人、アルギオン。
そして、ネクロクレイマン。
寿命も、身体のつくりも、魔力の扱い方も、それぞれ違う。
長く生きる種族もいれば、魔法に長けた種族もいる。
アルギオンのように、最強種と呼ばれる者たちさえいる。
けれど、違うこと自体は、この世界では珍しくない。
それなのに。
玄冥郷で、ティプスタンは初めて知った。
ネクロクレイマンが差別や偏見を受けていた歴史を。
他種族とは明らかに異質で異様な存在。
そう見なされ、追いやられた者たちがいた。
刻継の里は、救いの地でもあった。
同時に、歪みの地でもあった。
そんな偏見の歴史を知った時、ティプスタンの胸には、別の記憶も蘇っていた。
リュミナリア学園。
魔力量を測った、あの日のこと。
講師のモブロンは言っていた。
魔力が少なくても、魔導具を使えば道はある。
自分に合った道具を選び、適した役職につけばいい。
その言葉に安心した。
自分にも、きっと何か道がある。
けれど、測定の時。
ティプスタンがスクロールに手を置いても、赤い染みは中心に小さく滲んだだけで、まったく広がらなかった。
モブロンの口元が引きつった。
「ゼロ……?」
その一言で、講義室の空気が変わった。
「魔力ゼロとか、初めて見た」
「そんなやついるのかよ」
誰かが笑った。
誰かが身を乗り出した。
誰かが奇異の目を向けた。
ティプスタンは震える声で尋ねた。
魔力がゼロなら、どの系統を目指せばいいのか。
モブロンは鼻で笑った。
「あ〜、つまりはですね~……どの系統も、魔力ありきですので」
声は穏やかだった。
けれど、その奥には冷たさがあった。
「正直に申し上げて、なんの適性もありません」
希望・相談シートに、短く書かれた文字。
『すべての適性なし』
その文字を見た時、ティプスタンは初めて知った。
自分には、皆にあるはずのモノがない。
魔力を持つことが当然のこの世界で、魔力がないということが、どれほど異常なのかを知った。
そのことで、誰もティプスタンに危害を加えようとはしなかった。
殴られなかったし、石を投げつけられたわけでもない。
けれど、視線が刺さった。
好奇の目。
哀れみ。
困惑。
軽蔑。
悪意は、暴力だけに宿るわけではない。
目にも宿る。
沈黙にも宿る。
ほんの少しの態度の違いに、軽蔑は滲む。
それが、ティプスタンにとって初めての理不尽だった。
初めて触れた、人の醜さだった。
玄冥郷で知った歴史は、その記憶をさらに深く抉った。
ティプスタンは、手を握った。
ぎゅっと。
少し痛いくらいに。
玄冥郷で体験した出来事は、あまりにも衝撃的だった。
クマシゲ。
ティプスタンは目を伏せた。
あの場にいたのは、ユハと、その腹心であるシーとスー。
レヴィ。
そして、ティプスタン。
五人は、炎に包まれたクマシゲが骸場の大穴へ落ちていく姿を見た。
だが、ティプスタンだけは違った。
クマシゲが大穴へ落ちる直前。
ヴァーミリオン・レゾナンスが、発動していた。
紅く細い光の線。
それが、クマシゲからティプスタンへと繋がっていた。
レヴィと繋がった時と同じ。
当事者同士にしか認識できない、紅の糸。
発動条件の詳細は、まだ掴めていない。
それでも、感覚として確かなことがあった。
あれは、悪意や敵意では繋がらない。
傷つけようとする心。
奪おうとする心。
利用しようとする心。
そうしたものとは、決して繋がらない。
支えたい。
力になりたい。
届いてほしい。
受け取ってほしい。
そんな想いが、強く形を持った時。
紅い線は、繋がる。
クマシゲが大穴に落ちて、炎の光が闇に飲まれるまで。
ほんの数秒だった。
たった数秒。
だが、その数秒の中で、クマシゲの記憶が、後悔が、怒りが、諦めが、悲しみが、一気に流れ込んできた。
クマシゲは、ネクロクレイマンではなかった。
ヒューマンだった。
ヒューマンであるにもかかわらず、ヒューマンから迫害されていた。
見た目が少し違う。
ヒューマンたちの価値観では、受け入れられなかった姿。
ただ、それだけで、尊厳を踏みにじられた。
夢を奪われた。
おぞましい仕打ちだった。
だが、だからといって、クマシゲがその後に行ったことが許されるわけではない。
屍術師としての残虐行為。
死体を利用した支配。
還元符の横流し。
病人や呪怨患者を犠牲にした骸場。
どれも許されない。
肯定できない。
そんなことは分かっている。
それでも、考えてしまう。
もし、夢を奪われなければ。
クマシゲは、本当に素晴らしい歌紡ぎになっていたのではないか。
ユキナガを支え、誰かの心を救う人になっていたのではないか。
リュミナリア学園で向けられた視線。
それだけでも、ティプスタンの胸には小さな傷として残っている。
ならば。
クマシゲが向けられ続けた目は、どれほど深く人を壊したのだろう。
考えても仕方のない問いが、胸の奥で何度も巡る。
クマシゲの最期の言葉。
『あなたはどうか……そのままでいて下さいね』
それは確かに聞こえていた。
だが、本当の最期の言葉は、その後だった。
大穴へ落ちていく炎。
闇に沈んでいく光。
クマシゲの姿が視界から消える、その寸前。
紅い線を通じて届いた想い。
『勇者ティプスタン。ありがとう』
そこには、感謝があった。
自分ではどうにもできなかった怨嗟の鎖を断ってくれたことへの感謝。
もう戻れないところまで来てしまった自分を、終わらせてくれたことへの、悲しいほど穏やかな感謝。
それが、ティプスタンには分かってしまった。
だから、苦しかった。
「……僕は」
何を救ったのだろう。
何を救えなかったのだろう。
何を、見なければならなかったのだろう。
ティプスタンは、握った手を膝の上へ落とした。
「眠れないのですか?」
不意に声がした。
ティプスタンは、少し遅れて顔を上げた。
「え?」
月明かりの中に、青い髪のエルフの少女が立っていた。
銀縁眼鏡。
白い寝間着の上に羽織った、薄手の紺色の上着。
特徴的なポニーテイルはほどかれ、髪は肩へ流れている。
「ルベッカ……」
「はい」
ルベッカは静かに頷いた。
ティプスタンは、はっとしたように姿勢を正す。
「え? あっ、こんな時間に……身体は大丈夫?」
「ええ。おかげさまで、ずいぶん良くなりました」
「そ、それは良かった」
ティプスタンは、ほっとしたように笑った。
けれど、その笑みは弱かった。
目元には薄い隈があり、頬も少しこけている。
玄冥郷から戻って以来、ティプスタンの様子がおかしいことに、ルベッカは気づいていた。
もちろん、ミミリルも気づいている。
ミミリルは何度も声をかけた。
励ました。
いつものように笑わせようとした。
抱きつこうともした。
だが、ティプスタンは愛想笑いを浮かべるだけで、すぐに上の空になった。
ガミも、不器用に気にしていた。
レヴィは何か知っているような顔をしていたが、詳しくは話そうとしなかった。
刻継の里。
呪怨患者。
クマシゲ。
骸場。
レヴィから聞いた断片だけでも、原因を察するには充分だった。
恐らく、それ以外にも壮絶な経験をしてきたのだろう。
ティプスタンは、何を話していいのか分からないように視線を泳がせていた。
ルベッカを見る。
噴水を見る。
自分の手を見る。
またルベッカを見る。
迷子のような顔だった。
すとん。
ルベッカは、ティプスタンの隣へ腰掛けた。
「私も今日は、なんだか寝付けません」
「そ、そうなんだ」
「はい」
水音が、二人の間を静かに流れる。
しばらく、どちらも喋らなかった。
ルベッカは、無理に問い詰めるつもりはなかった。
聞き出すべき情報は山ほどある。
けれど今、なによりも優先すべきことがある。
目の前にいる、疲れ切った少年のことだ。
「またお願いできますか?」
ルベッカが言った。
ティプスタンは、きょとんとする。
「え? なにを?」
「疑似魔力を使った治療法です」
「あ……」
ティプスタンはすぐに納得したように頷き、ポケットを探った。
取り出したのは、小さなコースター型の術式魔導具だった。
表面には細かな円形術式が刻まれている。
アッシュシールに似ていた。
「それは……アッシュシールですか?」
「これはね」
ティプスタンの顔に、少しだけ明るさが戻った。
新しい玩具を見せる子供のような表情に変わる。
「スプレッドシールっていうんだ。簡易版だけど、クエンティンさんが譲ってくれたんだよ」
「スプレッドシール……」
「うん。クエンティンさんが使ってるものより効果範囲は狭いんだけど、半径四メートルくらいなら、周囲に魔力効果を広げられるんだって」
ティプスタンは、手のひらの上でスプレッドシールを見せながら説明する。
「これがあれば、僕が直接触らなくても、ヴァーミリオンの効果を周囲にまんべんなく広げられるんだ。刻継の里でも使ったんだよ。すごく便利なんだ」
そこで、ティプスタンは少しだけ笑った。
「だから、もうルベッカに嫌な思いをさせずに治療できるよ!」
「別に嫌な思いはしていませんよ」
「え?」
ティプスタンは、またきょとんとした。
ルベッカは眼鏡を押し上げる。
「不快なら、不快と言っています」
「そ、そうなの?」
「はい」
きっぱりと言う。
ティプスタンは、少し困ったように目を瞬かせた。
「でも、これでルベッカも寝やすくなるはずだよ。大丈夫。今日はまだヴァーミリオンの力を使ってないから、長く使える。きっとぐっすり寝られるよ」
そう言って、ティプスタンは自分の胸元の留め金具を指さした。
五枚の花弁。
今宵は、すべて赤く染まっている。
ルベッカは、その留め金具を一瞥した。
そして、眼鏡をクイッと押し上げると、ティプスタンの手にある円盤を指した。
「今日は、そのスプレッドシールは使わずにお願いします」
「へ?」
「スプレッドシールを使わずに、という意味です」
「え? でも、この方が楽だし、安全だし、効率も――」
「身体もある程度回復しましたので」
ルベッカは軽く咳払いした。
「実体験を元にした検証データが欲しいのです。まずは、あなたと直接触れている状態と、スプレッドシールを介した状態とで、効果にどの程度差が出るのか確認します」
「け、検証データ?」
「はい」
「で、でも、こんな時間に?」
「こんな時間だからです。睡眠導入時の症状緩和を確認できます」
ルベッカは淡々と言う。
ティプスタンは口を開けたまま固まった。
短い沈黙。
ルベッカは立ち上がり、ティプスタンの手を取る。
「行きますよ」
「えっ、ちょ、ルベッカ?」
「五精霊の呪怨を解くために必要な検証です」
ルベッカは、戸惑うティプスタンの手を引いて、半ば強引に屋敷の中へ戻っていった。
☆
ルベッカの自室。
ランプの明かりは落とされていた。
それでも、月明かりが漆黒を拒んでいた。
部屋の空気は先ほどよりも柔らかい。
白いカーテンが、夜風にほんの少し揺れる。
静かな夜の中で、ティプスタンには自分の鼓動が妙にうるさく感じられた。
ルベッカの治療目的で、寄り添ったことは何度もあった。
水の呪怨が重症化していた時。
苦しむルベッカをどうにかしたい。
その気持ちだけでいっぱいだった。
ミミリルと一緒に、ヴァーミリオンの光の中で、何度も願った。
治れ。治れ。治れ。
その時は、恥ずかしいとか、緊張するとか、そんなことを考える余裕はほとんどなかった。
だが今は違う。
ルベッカは起きている。
話せる。
歩ける。
自分の意思で、ティプスタンをここへ連れてきた。
それだけで、何かが違った。
ティプスタンは、顔が熱くなるのを感じた。
「どうぞ」
「ど、どうぞって」
「以前と同じようにどうぞ」
「う、うん……」
ティプスタンは、ぎこちなくベッドへ入った。
距離がある。
かなりある。
寝台の端と端。
これでは、ただ同じベッドにいるだけだ。
ルベッカは、じっとティプスタンを見る。
「もっと近づかないと効果がないのでは?」
「ゔっ」
ティプスタンは変な声を漏らした。
「う、うん……」
ぎこちなく身体を寄せる。
肩が触れる。
それだけで、ティプスタンの身体がこわばった。
「緊張しすぎですよ」
「だ、だって」
「以前は平然としていました」
「あの時は、ルベッカが苦しそうで、それどころじゃなかったから……」
「今は苦しそうではないから、緊張するのですか?」
「言葉にすると、すごく変だけど……たぶん、そう」
ティプスタンは、小さく答えた。
ルベッカはしばらく黙っていた。
そして、静かに言う。
「私は、生きています」
「……うん」
「あなたたちのおかげで」
「…………」
ルベッカは、ティプスタンの手を取った。
冷えは、以前より収まっている。
ティプスタンは、その手を握り返した。
沈黙が流れる。
「そろそろ始めてください」
「あっ」
「忘れていましたね」
「……うん」
ティプスタンは、情けなさそうに頷いた。
胸元の留め金具へ意識を向ける。
五枚の赤い花弁。
その一枚へ、心を触れさせるように。
息を吸った。
「インスクリプト・ヴァーミリオン」
小さな声だった。
赤い花弁の一つが、淡く輝く。
深紅の光が、ティプスタンの胸元から全身へ広がっていく。
ドクンッ。
疑似魔力が、血流のように巡る。
胸の奥に灯った小さな火が、全身へ優しく広がるような感覚。
その光が、触れ合った手からルベッカへ伝わっていく。
ルベッカの呼吸が、わずかに深くなった。
「……なるほど。改めて体感すると、こういう感じなのですね」
「どんな感じ?」
ルベッカは、静かに目を閉じた。
「胸の奥で強張っていたものが、少しずつほどけていくような感覚です」
「そ、そうなんだ?」
ティプスタンは、心から安堵した。
その時だった。
胸元が、強く脈打った。
ドクンッ。
「え……?」
ティプスタンの視界に、紅い光が走る。
細い線。
ルベッカの胸元から、ティプスタンの胸元へ。
まっすぐに。
静かに。
けれど、確かに。
繋がった。
ヴァーミリオン・レゾナンス。
ティプスタンは息を呑んだ。
ルベッカも、目を見開いた。
青い瞳が、わずかに驚きに揺れる。
だが、二人の間に、もはや言葉は必要なかった。
流れ込んでくる。
ルベッカの想いが。
紅い線を通じて、胸の奥へ伝わってくる。
そしてティプスタンには、自分の中にあるものもまた、ルベッカへ届いているのだと分かった。
ルベッカは、何も言わなかった。
問いたださなかった。
慰めの言葉を探すこともしなかった。
ただ、ティプスタンの手を引いた。
そして、震えるティプスタンを、そっと腕の中に抱き寄せた。
ぎゅっと。
優しく。
包み込むように。
「……ルベッカ」
ティプスタンの声が震えた。
それ以上、言葉は続かなかった。
代わりに、涙が溢れた。
一度こぼれたら、止まらなかった。
声を抑えようとした。
でも、無理だった。
ティプスタンの心の中で、言葉になりきらないものが崩れていく。
助けたかった。
でも、助けられなかった。
許せなかった。
でも、憎みきれなかった。
帰りたかった。
置いてきてしまった。
自分は何ができたのか。
何もできなかったのではないか。
すべての想いが、声にならないまま、レゾナンスを通じてルベッカへ流れていく。
彼女は受け止めた。
研究者としてではなく。
ルベッカとして。
ティプスタンの抱える痛みは、彼女に届いた。
だが、それと同時に、ルベッカの中にあるものもティプスタンへ届いていた。
怖かった。
知らないことが怖い。
知識が足りずに失うのが怖い。
考えることをやめたくない。
書く。
調べる。
疑う。
積み上げる。
大切な何かを取りこぼさないように。
失いたくないから。
その想いも、紅い線を通じて流れていく。
ティプスタンの涙が、ルベッカの寝間着に染み込む。
ルベッカは、彼の髪を撫でた。
ぎこちなく、慣れない手つきだった。
けれど、丁寧だった。
二人の間に言葉はない。
けれど、想いは確かに伝わっていた。
命を救えなかったことと、何もできなかったことは同じではない。
『大切なことを見失わないでください』
その想いは、ティプスタンに届いた。
人は、醜くなれる。
奪い、見下し、追いやり、手のひらを返す。
誰かの大切なものを、何でもない顔で踏みにじることがある。
そんな面を、確かに見た。
嫌だった。
おぞましかった。
怖かった。
絶望しそうになった。
でも。
人は、それだけではなかった。
名前をくれた人がいた。
手を伸ばしてくれた人がいた。
学園で出会った人の中にも、玄冥郷で出会った人の中にも、誇りを失わず、誰かを抱きしめ、祈り、助けようとする人がいた。
醜いものを見た。
けれど、それより先に、美しいものを知っていた。
もし、先に悪意だけを知っていたら。
もし、最初に出会ったのが、奪う人たちだったら。
自分は、クマシゲのようにならなかったと言い切れるだろうか。
ティプスタンには分からない。
だからこそ、思った。
自分は恵まれている。
大切な人たちに出会えた。
それは、当たり前ではない。
奇跡のようなものだ。
だから。
大切にする。
この手が届く限り。
声にはならなかった。
けれど、ルベッカには伝わった。
僕は、僕の大切な人を粗末にしない。
全部を守れるなんて、思わない。
それでも。
手が届くところにいる人だけは、絶対に大切にしたい。
ルベッカは、静かに目を伏せた。
その想いを受け止めるように、ティプスタンを抱く腕に少しだけ力を込める。
そして、心の奥で小さく返した。
それでいいのだと。
それが、あなたのままでいるということなのだと。
ティプスタンは、はっとした。
『あなたはどうか……そのままでいて下さいね』
クマシゲの言葉。
その意味が、少しだけ胸の中で形を変える。
そのまま。
何も知らないまま、という意味ではない。
醜さを見ても。
理不尽を知っても。
残酷な現実に触れても。
それでも、大切なものを大切だと思えるままでいること。
手を伸ばそうとする自分を、捨てないこと。
きっと。
そういう意味だったのだと。
ティプスタンは思った。
涙は、まだ止まらない。
けれど、さっきまでのように胸を裂く涙ではなかった。
淀みが外へ流れていくような涙だった。
ルベッカは、ティプスタンの頭を撫でる。
ぎこちなく。
不慣れに。
それでも、優しく。
紅い光は、静かに二人を包んでいた。
ヴァーミリオンの疑似魔力。
還元符では届かない場所へも、少しだけ温かさを運ぶ力。
それは呪怨を完全に消すわけではない。
悲しみを消すわけでもない。
過去を変えるわけでもない。
それでも。
今、ここにいる二人の呼吸を、少しだけ楽にしていた。
窓の外では、月明かりが噴水を照らしている。
水音は変わらず、静かに続いていた。
夏へ向かう夜。
メリシア邸の一室で。
赤髪の少年は、ようやく目を閉じた。
その頬には、まだ涙の跡が残っていた。
けれど、呼吸は少しずつ穏やかになっていく。
ルベッカは、その寝息を確かめながら、静かに天井を見つめた。
レゾナンスの紅い線は、もう薄れ始めている。
だが、胸の奥に残った温かさは消えない。
つい癖で、思考を深めようとする。
やめた。
今夜は、もう必要ない。
言葉にするより先に、伝わっていた。
伝わってしまった。
だから、ルベッカはただ静かに目を閉じた。
机の上。
用紙の端が、夜風にわずかに揺れる。
そこには、乱雑な文字の中に、書きかけの一文が残されていた。
――ヴァーミリオン・レゾナンス。発動条件、未確定。
――ただし、悪意では繋がらない。
黒い文字の上を、一瞬だけ、紅い光がなぞった。
夜は、まだ深い。
けれど、その一文には、迷いがほどけていくような気配が、かすかに滲んでいた。
☆27話に続く☆




