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ELVES《エルヴス》―命の器の継承者―  作者: 克
Exile/玄冥郷編

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第25話『それぞれの使命』

 雨脚は、少しずつ強まっていた。


 骸場(がいば)の大穴。


 その縁に、ティプスタンたちは立っていた。


 深く、深く、底の見えない大穴。


 そこへ、クマシゲは落ちていった。


 火の呪怨に包まれながら。


 最後に、ほんの少しだけ笑って。


「……クマシゲさん」


 ティプスタンは、大穴の縁に膝をついたまま、闇の底を見つめていた。


 雨粒が、ティプスタンの頬を濡らす。


 それが雨なのか、涙なのか、自分でも分からなかった。


 心を抑えつけるように、ただ、ティプスタンは胸元をぎゅっと押さえていた。


「アニキ……」


 レヴィが、少し離れた場所から声をかける。


 赤いバンダナは雨に濡れ、額へ張りついていた。


「終わったんだよな……?」


 ティプスタンは、すぐには答えられなかった。


 終わった。


 確かに、クマシゲはもういない。


 邪骨王(じゃこつおう)も、骸黒犬(がいこくけん)も、骸場を覆っていた異様な淀みも、今は雨に打たれて少しずつ薄れている。


 けれど。


 終わった、という言葉は、あまりにも軽かった。


 ユハは、悲しそうな表情で目を伏せていた。


 クマシゲが最後に見せた笑みを、胸の奥で何度もなぞっているようだった。


 そのやりきれなさは、ティプスタンも同じだった。


 クマシゲが最期にとった行動を目の当たりにして、誰も何も言えなかった。


 その時だった。


 ティプスタンの背後。


 泥の上に転がっていた、ひび割れた闇魔石。


 クマシゲが、自らの胸からえぐり出した黒い石。


 その割れ目が、ぴくりと動いた。


 けれど、誰も気づかない。


 雨音。


 遠くで響く、兵士たちの声。


 そのすべてに紛れるように。


 ひび割れた闇魔石の隙間から、黒いものが這い出した。


 細く、長い。


 ムカデのようなものだった。


 それは、泥の上を音もなく這った。


 黒い身体をくねらせながら、ゆっくりと進む。


 ティプスタンの足元へ。


 深紅のマントの裾。


 泥に濡れた靴。


 その影へ潜り込むように、黒いムカデは這い上がった。


 足首。

 脚。

 腰。


 ティプスタンは、大穴を見つめたまま、気づかない。


 黒いムカデは、腰のポーチの隙間へするりと入り込んだ。


 そして。


 ポーチの奥で、くるりと丸まった。


 ぐにゃり、と身体が縮む。


 節が消える。


 脚が消える。


 虫のような姿は、親指ほどの黒い玉石へと変わった。


 

☆


 

 二日後。


 刻継(こくけい)の里上層。


 白い石造りの大きな室内広場には、数十人の患者が寝かされていた。


 簡易寝台。

 毛布。

 薬草の匂い。

 濡れた布。


 苦しげな呻き声。


 そこに横たわっているのは、火と水以外の呪怨を抱えた者たちだった。


 地の精霊テラ。

 風の精霊ヴェント。

 光の精霊ルクス。


 それぞれの呪怨を抱えた者たちが、寝台の上で苦しんでいる。


 皆、還元符では繋ぎ止められない者たちだった。


「う……あ……」


「私は……誰だ?」


「見える……見えるぞ……」


 異質な呻き声が、広場に重く沈んでいた。


 ティプスタンは、その中央に立っていた。


 足元には、大きな魔法陣が展開されている。


 白く光る線が、床一面に広がり、幾重にも円を描いていた。


 その中心に置かれているのは、丸いコースター型の魔導具。


 だが、そこに魔石はついていない。


 アッシュシールと同じ。


 術式を刻み込んだ、魔石を使用しない魔導具――術式魔導具だった。


 それは、骨董修復師クエンティンの愛用品でもあった。


 拡域円盤(かくいきえんばん)。


 通称、スプレッドシール。


「準備はよいかね、ティプスタン君」


 背後から声がした。


 クエンティンだった。


 いつものように煙管をくわえている。


 ただし、その顔はほとんど見えない。


「クエンティン様ぁ〜」


 モモネが、後ろからぎゅうっと、クエンティンに抱きついているからだ。


 豊満な胸に顔の半分を埋もれさせながら、クエンティンは平然としていた。


 モモネはクエンティンと再会してからというもの、常にべったりとクエンティンにまとわりついている。


 まるで、大切な人形を抱える少女のように。


「……クエンティンさん。苦しくないんですか?」


 ティプスタンが聞く。


「人生とは、苦しみと幸福が表裏一体となっているものだよ」


 クエンティンの口元は、わずかに緩んでいる。


「クエンティン様は、大きなおなごに抱きつかれると、ちょっと嬉しそうなんだで」


 白銀の大狼、マリは広場の隅で、呆れたような視線を向けながら、静かに伏せていた。


 ティプスタンは、胸元へ手を当てた。


 深紅のマントの留め金具。


 五花の花弁。


 今は、すべての花弁が赤く染まっている。


 ティプスタンは、息を吸った。


「インスクリプト・ヴァーミリオン!」


 胸元の花弁の一つが、赤く輝き、透明へと変わる。


 ドクンッ。


 深紅の疑似魔力が、ティプスタンの身体を巡る。


 足元の魔法陣が、それに反応した。


 白かった光が、じわりと紅へ染まっていく。


 外周。

 内周。

 細かな術式の線。


 それらすべてが、スプレッドシールを中心に赤く脈打つ。


 紅の光は、床を伝い、寝台へ届いた。


「……あ」


 最初に変化が起きたのは、光の呪怨を抱えた若い女だった。


 虚空を見つめ、何かに怯えるように震えていた瞳が、ゆっくりと瞬きをする。


「……暗く、なった……」


 腕を掻きむしっていた手が止まった。


 次に、地の呪怨を抱えた老人の呼吸が落ち着いた。


 石のように硬直していた指先が、わずかに緩む。


 風の呪怨で息を乱していた少年の胸も、少しずつ上下の間隔を取り戻していった。


 広場に満ちていた呻き声が、少しずつ小さくなる。


 苦痛の声が。

 荒い呼吸が。

 泣き声が。


 紅の光の中で、ゆっくりと静まっていく。


 ティプスタンは、ほっと息をついた。


「……よかった」


 クエンティンが、モモネの胸の隙間から、目を細めた。


「拡域術式は上手く機能しているようだね」


「はい」


 ティプスタンは頷いた。


 ティプスタンのヴァーミリオンの疑似魔力には、呪怨を抑制する効果がある。


 理由は分からない。


 それを知ったのは、ルベッカの呪怨が悪化した時だった。


 触れた時。


 抱きしめた時。


 紅の力が、彼女の苦痛を一時的に和らげた。


 それをクエンティンに伝えたところ、彼は言った。


「ふむふむ。ならば、吾輩のスプレッドシールを使ってみるとしよう」


 結果は、想像以上だった。


 ティプスタンが一人ひとりに触れるよりも、ずっと効率がいい。


 範囲も広い。


 複数の患者に、同時に疑似魔力の効果を届けられる。


 それは、刻継(こくけい)の里にとって、まさに奇跡のようなものだった。


 その日から、ティプスタンは午前に二回、午後に三回と、時間が許す限り患者のためにヴァーミリオンの力を使い続けた。


 一つの花弁が赤に戻るには、約四時間。


 だから、使えるだけ使った。


 

☆


 

 そんな日々が、数日続いた。


 ある日の治療後。


「浮かない顔をしているね。ティプスタン君」


 クエンティンが言った。


 ティプスタンは、患者たちを見つめた。


 紅の光の中で、苦しげだった患者たちの呼吸は落ち着いている。


 顔色も少し戻った。


 けれど。


 治ったわけではない。


 ただ、抑えているだけだ。


「……僕の力じゃ、治せません」


 小さく呟く。


「結局、助けられなかった人もいます」


 広場の端。


 今はもう使われていない寝台。


 そこに、数時間前まで横たわっていた老人の姿を、ティプスタンは思い出していた。


 手を握った。

 声をかけた。

 ヴァーミリオンの光も届いていた。


 それでも、救えなかった。


 クエンティンは、しばらく黙っていた。


 そして、身体に絡みつくモモネの腕をぽんぽんと叩く。


「モモネ。ちょっといいかい」


「んだ」


 モモネは名残惜しそうにしながら、腕をほどいた。


 クエンティンは、煙管を片手にティプスタンの横へ立つ。


 いつもの軽さは、少しだけ薄れていた。


「呪怨の末期はね、悲惨なものだよ」


 その声は、静かだった。


「痛みと恐怖の中で、自分が壊れていく。身体も、心も、自分のものではなくなっていく。あれは、人の最期としてはあまりに酷い」


 ティプスタンは唇を噛んだ。


「しかし、君の力を受けた末期患者は違った」


 クエンティンは、老人がいた寝台を見つめる。


「痛みが和らぎ、呼吸が戻り、最後に家族の声を聞けた。手を握り返せた。眠るように逝けた者もいた」


「……でも」


 ティプスタンの肩が、小さく震える。


「助けられなかったことに変わりは……」


「何もできなかったわけではない」


 クエンティンは、静かに言った。


 ティプスタンが顔を上げる。


「君は命は救えなかった。しかし、患者の最期を救った」


「最期を……?」


「うむ」


 クエンティンは、少しだけ微笑んだ。


「人として終わらせることができた」


 紅の光の中、患者たちの寝息だけが静かに響いていた。


 患者のそばで、誰かが泣いている。


 家族だろう。


 その涙は、絶望だけではなかった。


 大切な人の、苦しむ声を聞き続けるしかなかった者たちにとって、それは救いだった。


「君にしかできないことだよ、ティプスタン君」


 クエンティンは、静かに続けた。


「君が最後に看取った老人は、君になんて言っていたかね?」


 ティプスタンの胸の奥が、痛む。


「ありがとう……と言われました」


「我々は神ではない。それで充分だよ」


 その言葉に、やりきれないもやもやが、少しだけ楽になった気がした。


 

☆


 

 さらに数日後。


 刻継の里上層。


 室内祭事場。


 そこには、転移ポータルがあった。


 円環状の石畳。


 それは、ティプスタン、レヴィ、ユハ、そしてユハの腹心であるシーとスーが、蛇骨の里から転移してきた転移ポータルだった。


 その中央で、マー教授とクエンティンが、術式の確認を続けていた。


「しかし、よく起動できましたね。クエンティンさん」


 マー教授が感心したように言う。


 クエンティンが、蛇骨の里にある転移ポータルを外部操作して、ティプスタンたちを刻継の里へ転送した件について、二人は語っていた。


「あれは相当な無茶だったのでは?」


「アッハッハ。そこまで無茶ではなかったよ」


 クエンティンは、煙管をくわえたまま笑う。


「双方の転移ポータルが室内にあったのが良かったね。重要機構がほとんど欠損していなかった。さらには、元々、蛇骨と刻継をつなぐためのポータルだったことも幸いだったよ。設定変更する手間もなかった」


「この転移ポータルをククルシア共和国の座標に合わせれば、恐らく設定上は問題ないはずなのですが……」


 マー教授は、床に広げた羊皮紙へ視線を落とす。


 そこには、幾何学的な線と数字、古い座標式がびっしりと書き込まれていた。


「うむ。ここからククルシアまで、どれだけ離れているか分からないのが問題だね」


「はい。距離が分からないと転移で使用する魔力量を算出できません。かなりの量の魔力が必要になることは想定しているのですが」


「魔力については、これでなんとかすることにしよう」


 クエンティンはそう言って、懐から小さな布包みを取り出した。


 布を開く。


 その中にあったのは、楕円形にオーバルカットされた、虹色に輝く美しい宝石だった。


 マー教授の目が、見開かれる。


「それは……エーテリウムですか」


 エーテリウム。


 一般的に使用される魔石の数百倍の魔力量を宿すとされる希少鉱石。


 市場では、大きさによっては一国の価値と同等なほどの値がつけられることもある。


 クエンティンが手にしている大きさだけでも、城ひとつは買えるほどのものだった。


「マリとモモネ、吾輩の分を合わせれば、まあ、足りるだろう」


「そ、そんなにあるのですか?」


 マー教授の声が裏返る。


「クエンティンさん……あなたは一体何者なんですか?」


 クエンティンは、ふっと笑った。


「フッフッフ。さすらいの、ただの骨董修復師だよ」


 煙管から、白い煙がゆるりと流れる。


 マー教授は呆れた顔をした。


「ただの骨董修復師がエーテリウムなんて持ってませんよ……」


 それ以上、追及はしなかった。


 したところで、まともな答えが返ってくる気がしなかったからだ。


 

☆


 

 調査の結果、蛇骨の里と刻継の里の転移ポータルは、二つの里の間に限れば、定期的な行き来に使えることが分かった。


 空気中の魔力を少しずつ蓄え、転移の力へ変える。


 その仕組みが、まだ生きていたのだ。


 基本的には、魔力が十分に蓄積されるまで使用できない。


 だが、緊急時には魔石を使って起動できる。


 危険を冒して禁足地を越える必要はもうない。


「これで、還元符を含めた物資不足は解消されるかな」


 クエンティンが、イワネとユハ、双方の里長に転移ポータルの仕組みを説明していた。


「す、すごいわ……」


 ユハは、両手を合わせ、まるで少女のように目を輝かせながら、クエンティンの話を聞いている。


 すでに三回の転移実験を体験しているユハ。


 まるで遊具で遊ぶような感覚で、転移ポータルを利用していた。


「ユ、ユハ様……。あまり無茶はしないで下さい。何があるか、分からないのですから」


 ユハの腹心、シーはひどく衰弱した表情でユハに訴えた。


「兄さん……乗り物酔いがひどいんだから、里で大人しくしてなよ」


 妹のスーが呆れた表情で言った。


「ユハ様をおいて、そんなことが出来るかっ。うぷっ」


 シーは青ざめた表情でトイレに駆けていった。


「あたしゃ、こういうのはさっぱり分からん。説明されても理解できん」


 今では、刻継の里上層と下層の里長を務めるイワネが不満を漏らした。


「大丈夫よ、イワネちゃん。基本的には蛇骨の里から定期的に転移すれば良いんだから」


 ユハは嬉しそうに言った。


 どうやら、飽きるまで毎回転移してくるつもりらしいことを、スーは悟った。


「兄さん……大丈夫かな……」


「まあ、そのへんは里長同士で議論してくれたまえ」


 クエンティンは苦笑いしながら、話を終えた。


 

☆


 

 ククルシア共和国への本格的な転移起動実験は、満月の夜に行われた。


『月が特別なカタチを成した時、魔力が増幅する』


 この世界では、そう信じられている。


「本来は、ここに飛ばされた状況に合わせて日蝕の日に行いたいのですが、ピンポイントで狙えるものではありません」


 マー教授はそう説明した。


 満月は、最も狙いやすい。


 今、考えうる中で、もっとも安定した条件。


 それが、今夜だった。


 祭事場の天窓から、白い月光が降り注いでいる。


 円環の石畳が、淡く照らされていた。


 その中央に、六人と一匹が並ぶ。


 ティプスタン。

 レヴィ。

 マー教授。

 リリネア。

 クエンティン。

 モモネ。

 マリ。


 ティプスタンたちは大きな荷物を抱え、輪になって手を組んでいた。


 クエンティンはマリの背に腰掛けている。


 転移ポータルの周囲には、見送りの者たちが集まっていた。


 ユハ。

 シーとスー。

 イワネ。

 フラット。

 上層と下層の兵士たち。

 数人の役人。

 そして、ローワン。


 そこにいたローワンは、いつものような堅牢な装備をまとっていなかった。


 里の一般人と同じような、身軽な服装だった。


 大きな盾もない。

 分厚い鎧もない。


 フラットに肩を借りて、ようやく立っている。


 顔色は悪く、体調は優れないように見える。


 それでも、彼は懸命にまっすぐ立とうとしていた。


 ローワンは、サンサロとの戦闘で地精霊テラの呪怨を受けた。


 水や火の呪怨ならば、還元符で繋ぎ止められる。


 けれど、それ以外の呪怨に、確実な対処法はない。


 ティプスタンのヴァーミリオンの力を使っても、気休め程度にしかならなかった。


 ローワンの身体は、日に日に石のように重くなっている。


 まるで、身体そのものが土へ還ろうとしているように。


「大丈夫かよ? アニキ」


 レヴィが、ティプスタンの顔を覗き込む。


「ん? ああ……大丈夫だよ、レヴィ」


 そう答えたティプスタンの顔も、決して良くはなかった。


 目元にはうっすらと隈が浮かび、やつれている。


 無理もなかった。


 ここ数日、ティプスタンは呪怨患者のためにヴァーミリオンの力を、時間が許す限り使い続けていた。


 その日は、最後の赤い花弁だけは残しておくよう、クエンティンから言われていた。


 だから。


 その力を受けられなかった患者もいる。


 今も、別の建物で苦しんでいる者がいる。


 ティプスタンは、それを知っている。


 このままククルシアに戻れば、ローワンも含め、その人たちは地獄の苦しみを抱えたまま死んでいくかもしれない。


 その現実が、胸の中に重くのしかかっていた。


(僕は……このまま、ここの人たちをおいて帰るのか)


 早く帰りたい。


 ルベッカたちのいるところへ帰りたい。


 ククルシアへ。

 リュミナリア学園へ。

 メリシア邸へ。

 あの日常へ。


 ここには、もういたくない。


 けれど。


 ここにも、苦しんでいる人がいる。


 助けを求めている人がいる。


 ティプスタンの胸の奥で、二つの想いがぶつかっていた。


 見捨てられない。

 帰りたい。

 助けたい。

 逃げたい。


 その全部が、本音だった。


「まあ、成功するかは分からんのだが、万全な状態でスタンバイしよう」


 マリの背に乗ったクエンティンが、空気を変えるように言った。


「みんな、トイレは済ませたかね?」


「バッチリ!」


 リリネアとモモネが同時に答えた。


「元気だな……」


 レヴィがぼそりと呟く。


 少しだけ、場の空気が和らいだ。


 マー教授は術式盤を確認し、頷いた。


「座標固定、完了。エーテリウム接続、安定。各機構にも問題はなさそうです」


「では、始めようか」


 クエンティンが短く詠唱を唱える。


 円環の石畳の隙間から、淡く白い光が走った。


 一周。


 二周。


 光は輪を描き、足元へ広がっていく。


 だが。


 いっこうに転移する様子がない。


「ん? 失敗か?」


 レヴィが不安そうに言う。


 マー教授の眉が寄る。


「術式は起動しています。魔力供給も問題ありません。ですが、転移門が開ききらない……」


 クエンティンは、ティプスタンを見つめた。


「ティプスタン君」


 その一言で、ティプスタンは、はっとした。


 胸元の留め金具。


 五花の花弁。


 最後の一枚の赤い花弁。


 ティプスタンは、震える手で胸元へ触れた。


 この力を使えば、帰れるかもしれない。


 でも。


 この力を使えば、ここの人たちは……。


 ティプスタンは、奥歯を噛みしめた。


(僕は……)


 その時だった。


「勇者ティプスタン!」


 ローワンの声が、祭事場に響いた。


 ティプスタンは顔を上げる。


 ローワンは、フラットに支えられながら、それでも胸を張っていた。


「刻継の里を……玄冥郷を救ってくださり、感謝いたす!」


「ローワンさん……」


 ローワンの声は、少し震えていた。


 だが、そこには確かな意思があった。


「私は……我々は、我々の使命を果たします」


 その言葉に、周囲の者たちも顔を上げる。


 上層の者も。


 下層の者も。


 誰もが、ローワンを見ていた。


「あなたはどうか……あなたの使命を……果たして下さ……」


 最後の言葉は、少し呂律が回っていなかった。


 それでも。


 ティプスタンには、届いた。


 痛いほどに。


 ローワンは、震える手を持ち上げる。


 そして、ティプスタンへ向かって親指を立てた。


 それが。


 ティプスタンにとって、何よりの救いだった。


「……はいっ!」


 ティプスタンは、栗色の瞳に涙を浮かべながら応えた。


 そして、胸元の花弁へ意識を向ける。


「インスクリプト・ヴァーミリオン!」


 最後の赤い花弁が、透明へと変わった。


 深紅の疑似魔力が、ティプスタンの身体を巡る。


 足元の転移ポータルへ、その光も流れ込む。


 白かった光が、紅を帯びた。


 円環が鳴る。


 石畳が震える。


 エーテリウムの虹色の光が、月光と混ざり合い、祭事場全体を満たしていく。


「転移門、開きます!」


 マー教授が叫んだ。


 同時に、皆の手がぎゅっと互いを繋ぎ止める。


 空間が歪む。


 ティプスタンは、最後にもう一度だけ、玄冥郷のみんなを見た。


 ローワンは、笑っていた。


 フラットは軽く手を上げた。


 イワネは深く頭を下げていた。


 ユハは目に涙を浮かべていた。


 シーとスーは軽く会釈した。


「ありがとう……」


 それが誰の声かは分からなかった。


 それでも、ティプスタンには届いていた。


 ティプスタンの瞳から、雫が落ちた。


 その雫が石畳に触れる。


 その頃には。


 六人と一匹の姿は、もうそこにはなかった。


 祭事場には、白い月光だけが残っていた。


 

☆


 

 玄冥郷の禁足地にて。


 枯れた木々に囲まれた薄暗い一角に、一際どす黒い邪気が漂っていた。


 地面には、数十体ものモンスターの死骸が乱雑に転がり、流れ出た血は、ぬかるんだ土に染み込み、赤黒い泥となって広がっている。


 その死骸の中央に、円環の石畳があった。


 転移ポータル。


 蛇骨の里や刻継の里に残されていたものと、同じ形式の遺物だった。


 だが、それはあまりにも朽ち果てていた。


 石畳は割れ、術式の溝は欠け、刻まれた古代文字も風化して、ほとんど読み取れない。


 本来ならば、二度と起動するはずのない、壊れた遺物。


 そのはずだった。


 しかし今。


 円環の内側には、まだ黒い煙のようなものが燻っていた。


 割れた石の隙間から、赤黒い液体がじわりと滲み出している。


 焼け焦げたような術式の跡。


 魔石の欠片。


 不気味な魔力の残滓。


 それらが、転移ポータルの周囲にこびりついていた。


 外道術式(げどうじゅつしき)。


 朽ちた転移門を、強引にこじ開けた痕跡だった。


 ティプスタンたちが、閉ざされた郷――玄冥郷を去るよりも、一足早く。


 誰にも悟られずに、この地を去った者がいた。


 イワネの元腹心。


 そして、クマシゲに屍術師としての知識と技術を与えた男。


 カグロイ。


 転移ポータルの光は、すでに消えている。


 だが、円環の中央に残された黒い染みだけが、まだ生き物のように脈打っていた。


 まるで、次なる災厄の種が、そこで静かに芽吹こうとしているかのように。


  

☆26話に続く☆

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