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ELVES《エルヴス》―命の器の継承者―  作者:
Exile/玄冥郷編

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第22話『希望と絶望』

 刻継こくけいの里下層――。


 下層中央に建てられた、治療小屋兼集会所。


 湿った薬草の匂い。

 煮沸した布の湯気。

 呻き声。

 咳。

 押し殺した泣き声。


 骸場がいばでの騒動から、五日が経っていた。


 崩れた足場の補修。

 負傷者の手当て。

 大穴周辺の立ち入り制限。


 それらは少しずつ進み、下層はある程度、落ち着きを取り戻していたかに見えた。


 だが――。


 下層の空気は、以前より重かった。


 五精霊の呪怨患者たちの容態が、ここ数日で急激に悪化し始めていたからだ。


 熱。

 咳。

 痙攣。

 眠ったまま目を覚まさない者。


 治まりかけていたはずの症状が、再び深く身体を蝕み始めている。


 治療小屋には、日に日に苦しむ者たちが増えていた。


 イワネが、静かに一人の患者へ向き合っていた。


 痩せたヒューマンの男。


 胸元には、火傷のような赤黒い紋様――火精霊イグニスの呪怨、その呪印が浮かんでいた。


 男は汗を流しながら、荒い呼吸を繰り返している。


「……っ……あぁ……」


 苦しげな呻き。


 イワネは無言で懐から一枚の札を取り出した。


 黄ばんだ和紙のような札。


 そこには、黒い墨で術式刻印が幾重にも描かれている。


 イワネは札を患者の胸元へ貼り付け、札の先端を破った。


 すると。


 札の術式刻印が淡く発光した。


 患者の身体を覆っていた赤熱が、ゆっくりと沈静していく。


 荒れていた呼吸が落ち着き、痙攣していた指先が静かになる。


「これは……」


 近くで見ていたマー教授が目を見開いた。


 イワネは静かに患者の額へ濡れ布を置く。


「しばらくは持つだろうさ」


 マー教授は、食い入るように札を見つめた。


「それは……なんですか?」


 イワネは札へ視線を落とす。


還元符かんげんふという札だよ」


 静かな声だった。


「蛇骨の里の角鱗族かくりんぞくだけが作れる札さ」


 マー教授の目が細まる。


「角鱗族……」


「悪化した呪怨を、一時的に和らげることができる」


 マー教授が息を呑む。


 呪怨を安定化させる。


 外界では、そんな技術は存在しない。


 呪怨は、進行を遅らせることしかできない災厄。


 それが外界での常識だった。


「ただし――」


 イワネが言いかけた時だった。


 治療小屋の入口が勢いよく開いた。


「イワネさん! 新しい患者だ!」


 下層兵が、若い女を抱えて飛び込んでくる。


 女の身体は小刻みに震えていた。


 目は見開かれ、焦点が合っていない。


「み、みえる……みえる……っ」


 うわ言のように、同じ言葉を繰り返している。


 イワネはすぐに動いた。


 懐から、先端に渦が刻まれた水晶板――五渦ごか識晶しきしょうを取り出す。


 識晶を女の指先へ触れさせる。


 すると。


 水晶に白い光が滲んだ。


 イワネの眉がわずかに沈む。


「……ひかりかい」


 女の爪が、自分の腕をぼりぼりと掻きむしる。


 血が滲んでいた。


 だが本人は気づいていない。


 焦点の合わない瞳だけが、虚空を見つめ続けている。


 マー教授が不思議そうに言う。


「還元符を使わないのですか?」


 イワネは答えず、近くの看護役へ顎をしゃくった。


「奥へ運びな」


「は、はい!」


 女は別室へ運ばれていく。


「みえる……すべてが……全部……全部ぅ……」


 声だけが遠ざかっていった。


 それを見送ってから。


 イワネが静かに口を開く。


「還元符は万能じゃない。火と水の呪怨には有効だが、他の呪怨には効かない」


 イワネは苦い顔をした。


「むしろ悪化する場合もある。特に光と風には使っちゃならない」


 マー教授の表情が変わる。


(呪怨ごとに性質が違うからか? しかし、それへ対処する術が存在するとは……)


 玄冥郷は、魔石運用も魔導具体系も外界より遅れている。


 だが、呪怨に関してだけは、外界に存在しない知識を持っている。


 チグハグだった。


 まるで、世界の進化方向が分かれているような感覚。


 マー教授は唇へ手を当てる。


(還元符……)


 ルベッカ。


 水精霊アクアの呪怨。


 もしこれがあれば。


 一時的にでも、彼女を繋ぎ止められる可能性がある。


 マー教授はイワネを見る。


「……その還元符を、少し譲っていただけませんか」


 イワネは沈黙した。


 そして。


 申し訳なさそうに息を吐く。


「悪いが、もう残り数枚しかない」


 マー教授の視線が、先ほど使われた札へ向く。


 術式刻印は、完全に消えていた。


 ただの紙切れになっている。


 使い切り。


 しかも貴重品。


 イワネは疲れた顔で言う。


「五日前に、カグロイ小隊が蛇骨の里へ向かった。だが、まだ戻らん。本来なら、急げば三日。遅くとも四日で戻るはずだったんだがね……」


 言葉の奥に、隠しきれない焦りが滲んでいた。


 還元符が尽きる。


 それは、下層の患者たちにとって命綱が切れることを意味していた。


 その時だった。


 入口が勢いよく開く。


「イワネさん!」


 飛び込んできたのはフラットだった。


 猫耳を立て、息を切らしている。


「小隊が戻ってきたよ!」


 イワネが即座に反応した。


 


 

 刻継の里下層――禁足地入口。


 そこには。


 リリネア。


 白銀の巨狼、マリ。


 そして。


 肩を貸し合うように歩く、下層兵八名の姿があった。


 全員、泥と血にまみれている。


 包帯だらけの一人は、簡易担架の上で唸っていた。


 ざわ……と、下層が揺れた。


「帰ってきた……!」


「カグロイ隊だ……!」


「交易品が見当たらんぞ……」


 誰かが呟いた。


 その言葉に、周囲の空気が沈む。


 交易の失敗。


 少数の帰還兵士。


 そこへ、イワネが到着した。


 フラットも横へ並ぶ。


 イワネは兵士たちを見るなり、顔をしかめた。


「……何があった? カグロイはどうした?」


 兵士たちは疲弊していた。


 その中の一人が、震える声で言う。


「地下水路で……」


「アンデッドが……」


「骸山が……」


 断片的な言葉。


 だが。


 異常だけは伝わってくる。


 その時。


 上層側の道から、黒装束の集団が現れた。


 先頭にいたのは、長い金髪を後ろへ流した細身の男。


 サンサロ。


 垂れた目を細め、帰還者たちを値踏みするように見回している。


 口元には薄い笑みがある。


 だが、その目は笑っていなかった。


「帰還者だな」


 フラットが睨む。


「見りゃ分かるだろ。ローワンはどうした?」


 骸場の騒動後、ローワンは上層へ報告に向かったまま戻っていない。


 フラットの声には、苛立ちと不信が混じっていた。


 サンサロは答えない。


 代わりに、後方の上層兵へ視線を送る。


 兵士たちは、五渦の識晶を準備し始めた。


 サンサロが淡々と言う。


「禁足地帰還者への、呪怨確認を行う」


「なんでお前らが!?」


 フラットがかみつく。


 しかし、サンサロは相手にしない。


「緊急対応だ」


 短い返答。


 それだけだった。


 リリネアを含め、帰還者たちは識晶を順番に通される。


 そこで、マリへ視線が集まった。


 白い巨狼。


「モ、モンスター?」


 刻継の里の者たちは警戒した。


 だが。


「待ってくれ! 俺たちはこの狼に助けられたんだ」


 帰還兵の言葉で空気が変わる。


 識晶を持った上層兵が、マリを意識しながら恐る恐る帰還者たちへ識晶を手渡す。


 マリにも識晶へ触れさせるべきか悩んだ兵士だったが、リリネアが対応した。


「ほら、マリ。ちょっと触れるだけだわさ」


 マリは不服そうに鼻を鳴らした。


 結果。


 全員反応なし。


 サンサロは確認を終えると、静かに告げた。


「クマシゲ様が、禁足地の状況報告を求めています」


 イワネの眉がわずかに寄る。


「……分かった。フラット、お前も来な」


「はいっ!」


 さらに、軽傷の帰還兵三人と、リリネアも同行することになった。


 リリネアはマリの首元を撫でる。


「大丈夫だわさ。少しだけ待っててほしいわさ」


 マリは低く唸った。


 不満そうだったが、やがて渋々伏せる。


 そこへ――。


「マリー!」


 遅れてモモネがやってきた。


 マリは、あからさまに嫌そうな顔をした。


「なんね、その顔は! 心配してやったのに!」


 モモネが腰に手を当てる。


「クエンティン様は、いないのけ?」


 マリは顔をそむけた。


 


 

 刻継こくけいの里上層。


 整えられた石路。


 清潔な空気。


 静かな灯火。


 下層とは別世界だった。


 だが今日は違う。


 上層の者たちの顔にも、不安が浮かんでいた。


 骸場がいば


 アンデッド。


 禁足地異変。


 不穏な空気が、里全体へ広がっている。


 一行は、ユキナガの屋敷内にある会議の間へ通された。


 そこは、屋敷の奥に設けられた広い室内だった。


 高い天井。


 磨かれた石床。


 壁際には淡い灯火が等間隔に並び、天井近くに設けられた明かり取りの窓から、白い外光が細く差し込んでいる。


 中央には、年季の入った大きな木製の円卓。


 すでに円卓の周りには、クマシゲを含めた家臣たちが集まっていた。


 クマシゲの背後には、サンサロが控えている。


 円卓の端には、薄黄色の衣をまとった大柄な男――センリョウが座っていた。


 そして、その隣には、くすんだ灰鼠色の上層官吏服をまとった細身の男――ギョウジが腰を下ろしていた。


 イワネとリリネアが円卓の前に腰を下ろし、背後にフラットと帰還兵三名が控える。


 クマシゲはそれを確認すると、すぐに口を開いた。


「禁足地で何があったのです?」


 その声は落ち着いていた。


 帰還兵たちは、地下で見たものを語った。


 地下水路。


 骸山。


 謎の巨大アンデッド。


「なぜ正規ルートから向かわなかった?」


 イワネが帰還兵に尋ねる。


「カグロイ隊長の指示です。正規ルートはモンスターが異常増加しており、突破は困難だと判断されました」


「カグロイが……」


 イワネはわずかに目を伏せた。


 急ぐ理由はあった。


 還元符不足。

 呪怨患者の悪化。

 下層の逼迫。


 だが、地下水路は危険すぎる。


 カグロイも、それは充分理解していたはずだった。


 そこで、クマシゲが問いを重ねた。


「そのアンデッドは、どのようなモンスターだったのです?」


「あちきとクエンティンさんで、骸黒犬がいこくけんと名づけたわさ」


 リリネアが答える。


「名前などどうでもよいっ! どのような姿だったのだ!」


 センリョウが口を挟んだ。


 その場にいた者たちが、わずかに目を向ける。


 クマシゲが「まあ、まあ」とセンリョウをなだめた。


「見た目は、グレイブクロウのアンデッドでした。大きさは通常のグレイブクロウより数十倍大きく、頭が三つありました」


 帰還兵の一人が答えた。


「グレイブクロウに三つの頭。しかもアンデッド……まさに、アンデッドケルベロスグレイブクロウ……」


「だから、長すぎるから骸黒犬って名づけたんだわさっ!」


「そうですか、そうですか。それで、その骸黒犬は、何か石のようなものを身に付けていませんでしたかな?」


「真ん中の頭の額に、黒い石みたいなものがありました……」


 帰還兵が答えた。


 黒い石。


 その言葉に、ギョウジの指先が止まった。


 爪の周囲を掻き毟っていた手が、ぴたりと固まる。


 落ち窪んだ目が、異様な熱を帯びた。


禁忌石きんきせきだ!」


 甲高い叫びだった。


 場の空気が止まる。


 イワネがゆっくり顔を向けた。


「……禁忌石?」


 ギョウジは慌てて口元を押さえた。


「ギョウジ」


 クマシゲが、穏やかな声でたしなめる。


 だが、その声の奥には鋭い制止があった。


 ギョウジの肩がびくりと震える。


「古文書では、瘴気核の通称としてそう記されています」


 クマシゲは、すぐに場へ向き直った。


「おそらく、それが今回の事件の元凶でしょう」


「あちきとクエンティンさんは、闇魔石って名づけたわさ」


「そうですか、そうですか」


 クマシゲは軽くあしらうように応えた。


 ギョウジは唇を噛んでいる。


 指先が震えていた。


 イワネは、クマシゲの態度に違和感を覚える。


 禁忌石というものがすべての元凶だと知っているなら、気にするのも当然だろう。


 しかし。


 なぜ、クマシゲは一瞬笑みを浮かべたのか。


 恐怖ではない。


 驚愕でもない。


 あれは――悦びに近かった。


 その時、センリョウが小さく咳き込んだ。


 太い手で口元を覆う。


 指の隙間から、濡れたような呼吸音が漏れた。


 顔色が悪い。


 元の色黒の肌は、まるで冷たい水を吸い込みすぎた土のように、黒みの奥から灰青く濁っていた。


 額には冷や汗が浮かび、浅く、重たい呼吸が続いている。


 そして、わずかに漂う独特の匂い。


 イワネの目が細くなる。


 治療小屋で、何度も嗅いできた匂いだった。


 還元符を使った後に残る、焦げた薬草の匂い。


 イワネは、センリョウの襟元へ視線を向けた。


 襟元の布の奥で、色黒の肌が不自然にぬめり、灰を溶かしたような青黒さを帯びていた。


 まるで冷たい水に浸かり続け、皮膚の下から血の熱だけを抜かれたような色だった。


 水精霊アクアの呪怨を受けた者に、よく似た症状だった。


 イワネの眉間に深い皺が刻まれる。


「……センリョウ」


 低い声だった。


「識晶を通しな」


 その一言だけで、センリョウの色黒の顔から、さらに血の気が引いた。


「な、なぜ私が……」


 かすれた声だった。


 イワネは視線を逸らさない。


「顔色が悪い。それに、還元符の匂いがする」


 空気が止まる。


 円卓に座る上層役人たちが、わずかにざわついた。


 センリョウの額から、冷や汗が一筋流れ落ちる。


「つ、疲れているだけですよ」


 視線が泳ぐ。


 太い指先が、落ち着きなく震えていた。


「いいから、さっさと識晶に触れろよ」


 フラットが苛立たしげに顎をしゃくる。


 センリョウの喉が、ごくりと鳴った。


 手は識晶へ伸びかけ――止まる。


 触れれば終わる。


 その事実が、センリョウの喉を締め上げていた。


「わ、私は……」


 視線が、助けを求めるようにクマシゲへ向く。


「クマシゲ様……!」


 しかし。


 クマシゲは、わずかに目を細めただけだった。


「センリョウ殿」


 穏やかな声。


 だが、その響きは妙に冷たい。


「疑われているのであれば、識晶を通せば済む話でしょう」


「なっ……」


 センリョウの目が見開かれる。


 その瞬間。


 悟った。


 切り捨てられる。


 自分だけが。


「ふ、ふざけるな……!」


 声が裏返る。


「私は……誰のために……!」


 クマシゲは答えない。


 ただ静かにセンリョウを見ている。


 その目には、助ける意思が一欠片もなかった。


 センリョウの顔が、怒りと焦燥で醜く歪む。


「私が……どれほど苦労して還元符を集めたと思っている!」


 怒声が響いた瞬間。


 会議の間の空気が、ぴたりと凍りついた。


 イワネの目が、ゆっくりと細まる。


「……今、なんて言った」


 低い声だった。


 センリョウは肩を震わせる。


 だが、一度溢れた言葉は止まらなかった。


「私が倒れれば物資管理が止まる! 配給も滞る! 上層の機能が麻痺すれば、里全体が混乱するんだぞ!」


 唾を飛ばしながら叫ぶ。


「だから必要だった! 私は、この里を維持するために――」


「おい。待てよ」


 フラットの低い声が、鋭く割って入った。


 緑色の瞳が細く光る。


「なんで“上層の機能を維持するため”に、還元符が必要なんだよ?」


 センリョウの喉が詰まった。


 フラットは一歩、前へ出る。


「還元符ってのは、呪怨を抑えるための札だろ」


 静かな声音だった。


 だが、その静けさには逃げ場がなかった。


「呪怨と関係ねぇはずのお前ら上層が、なんでそんな必死に札を集めてる?」


 その言葉に。


 周囲の上層役人たちが、びくりと肩を揺らした。


 センリョウは、そこでようやく自分が何を口走ったのか理解したように、遅れて口元を押さえた。


「……っ」


 だが、もう遅い。


「し、仕方なかったんだ!」


 言葉が止まらなくなる。


「下層の病人とは役割が違う! 上層を維持する者が倒れれば、里そのものが――」


「役割、ねぇ」


 フラットが鼻で笑った。


「下層じゃ札が足りなくて死にかけてる奴らがいるってのによ」


「黙れ!」


 センリョウが怒鳴る。


 灰青く濁った色黒の顔を歪めながら。


「醜いネクロクレイマンと、我々ヒューマンでは、そもそも命の価値が違うのだ!」


「なんだと……!」


 フラットの緑色の瞳が鋭く細まる。


 場の空気が、一気に険悪さを増した。


 その時。


 ギョウジが、円卓の端で口元へ手を当てて小さく笑った。


「……くくっ」


 乾いた笑いだった。


 怯えと嘲りが混ざったような、不快な笑み。


 それを見た瞬間、センリョウの顔がかっと赤くなる。


「わ、私だけじゃない!」


 震える指が、ギョウジを指した。


「ギョウジもだ!」


 ギョウジの肩が跳ねた。


「……は?」


 落ち窪んだ目が、ゆっくりセンリョウを向く。


「そいつも呪怨持ちだ! 風の呪怨に侵されてる!」


 ギョウジの顔が、ぐしゃりと歪んだ。


「てめぇ……!」


 怯えた小役人の仮面が剥がれる。


 そこに浮かんだのは、追い詰められた獣のような怒りだった。


「道連れにする気かよ……!」


「ニヤニヤしやがって! お前だって同じだろうが!」


 センリョウも怒鳴り返す。


「俺は札なんか貰ってねぇ!」


 ギョウジが叫ぶ。


「だから禁忌石が必要なんだよ……!」


 空気が、一気に荒れ始めた。


 その時だった。


「――二人を拘束せよ」


 落ち着き払った声が、場を断ち切った。


 クマシゲだった。


 即座に、サンサロと上層兵たちが動く。


 センリョウとギョウジを取り囲み、腕を掴んだ。


「ま、待ってください! クマシゲ様!」


「俺を切り捨てる気か……!?」


 二人は必死に喚きながら、上層兵に連行されていった。


 クマシゲは眉一つ動かさない。


「全く……」


 深いため息。


「とんでもない者たちですな」


 まるで、自分は無関係だと言わんばかりだった。


「お前はどうなんだい」


 イワネが低く言った。


 クマシゲは、穏やかな顔を作る。


「私、ですか?」


「そうだ。お前も識晶を通しな」


「ええ。構いませんよ」


 クマシゲは、あっさり頷いた。


 その反応に、逆に場がわずかにざわつく。


 イワネが無言で五渦の識晶を差し出す。


 クマシゲは右手を袖から出し、静かに識晶へ触れた。


 識晶には淡い光が滲んだだけだった。


 色は変わらない。


 透明なまま。


 数秒の沈黙。


 クマシゲは、静かに識晶を返した。


「……ご納得いただけましたか?」


 穏やかな声音だった。


 そのまま、自然な動作で会議の場を見渡す。


 すると、先ほどまで青ざめていた上層役人たちが、目に見えて安堵した。


「さて」


 空気を切り替えるように、クマシゲは口を開いた。


「禁忌石……闇魔石でしたか? それが、今回の異変の元凶である可能性が高い以上、もはや放置はできません」


 冷静な口調。


 まるで先ほどの騒ぎなど、最初から存在しなかったかのように。


「刻継の里を守るためにも、骸黒犬とやらを早急に討伐する必要があるでしょう」


 話題を変える。


 自然に。


 巧妙に。


 まるで、ギョウジとセンリョウだけが独断で暴走していたかのように。


 その空気が、少しずつ場を覆い始めた――。


 その時だった。


 ズゥン――……。


 低い揺れ。


 会議の間の床が、わずかに震える。


 円卓の上に置かれていた器が、かたかたと音を立てた。


 兵士たちがざわつく。


 しばらくして、一人の上層兵が駆け込んできた。


 顔が青ざめている。


「あ、あの……!」


「祭壇広場に……蛇骨の民の者が現れました!」


 その場に困惑が走った。


 


 

 祭壇広場。


 上層中央の地下に存在する、円環の石畳がある場所。


 現在は祭事場として使われていた。


 そこには――。


 深紅のマントを纏った赤髪の少年、ティプスタン。


 赤いバンダナを被った亜人の少年、レヴィ。


 そして。


 二本角を持つ、ふくよかな角鱗族の女性が立っていた。


 蛇骨の里の若き里長、ユハである。


 薄い緑色の短い髪。


 明るい翡翠色の瞳。


 白めの柔らかな肌には、淡い青緑色の蛇鱗模様が浮かんでいる。


 大きめの外套の下で、豊かな身体つきがゆるやかに揺れる。


 淡緑と白を基調にした祈祷衣装の裾が、風にふわりと広がった。


 その姿は柔らかく、包み込むようでありながら、目元には里を背負う者の芯があった。


 彼女の後ろには、双子の護衛――シーとスー。


 兄のシーは、ユハの後方で広場の空気そのものを測るように静かに立っていた。


 妹のスーは短中槍を抱え、ユハの傍から一歩も離れず、鋭い視線で上層兵たちを牽制している。


 そして、ティプスタンとレヴィの装いも、以前とは少し変わっていた。


 濁流に呑まれた際、元の服はほとんど使い物にならなくなっていた。


 蛇骨の里で保護されたあと、ユハが二人のために新しい旅装を用意してくれたのだ。


 ティプスタンは、黒を基調とした軽装の上から、淡い緑の布を巻いていた。


 肩や胸元には、蛇鱗を思わせる装甲布が重ねられている。


 レヴィは翠炎色の外套を羽織り、青緑の布装甲と白布を組み合わせた旅装へ変わっていた。


 二人の装いには、どこか蛇骨の里の意匠が感じられた。


 さらに。


 ティプスタンたちは大量の荷物を抱えていた。


 祭壇周囲の装飾は、上から押し潰されたように歪んでいる。


「い、いったいどこから現れたんだ……?」


 クマシゲが顔を引きつらせる。


 イワネも呆然としていた。


 誰も、この円環が転移ポータルだとは知らなかった。


「ユハ様……」


 イワネが目を見開く。


 ユハは、ぱっと笑った。


「あら、イワネちゃん」


 気さくな声。


「久しぶり。ずいぶん疲れた顔をしているわね」


「なぜ、ユハ様がここに……」


「困ってるって聞いたから、急いで来たのよ」


 ユハは胸を張って言った。


「里長って、そういう時に動くものでしょう?」


「ティプスタン君にレヴィちゃん! 無事だったわさ!?」


 リリネアが駆け寄る。


 ティプスタンも笑顔になる。


「リリネアさん!」


 レヴィはそっぽを向く。


「うるせぇな。見りゃ分かるだろ」


 だが、その声には少しだけ安堵が混じっていた。


 ユハがすかさずレヴィを後ろから抱きしめる。


「レヴィちゃんも頑張ったものねぇ」


「だ、抱きつくなっ……!」


 レヴィは頬を染める。


 だが、本気で振りほどこうとはしない。


 スーが、じとっと睨む。


「ユハ様に変なことしたら突くからね」


「しねぇよ!」


 シーが小さくため息をつく。


「ユハ様、前へ出すぎです」


「あら、大丈夫よ。みんないるもの」


 ユハは大荷物をぽんぽん叩いた。


「里のピンチだって聞いたから、色々持ってきたわよ。まさか転移ポータルがまだ動くとは思わなかったけどね」


 軽くウインクするユハ。


「クエンティンのおかげだわ」


 リリネアが首を傾げる。


「あれ? クエンティンさんはどうしたんだわさ? 『吾輩はティプスタン君を追う』って言ってたわさ」


 ティプスタンが答える。


「クエンティンさんは、向こう側で転移ポータルの操作をしてくれました。外部から調整しないと動かないらしくて……。だから、『吾輩は後から向かう』って」


「そうだったわさ……」


 リリネアは少しだけ胸を撫で下ろした。


「クエンティンさんらしいわさ」


 ユハは懐から、分厚い紙の束を取り出した。


 還元符だった。


 それをイワネへ手渡す。


「はいこれ、イワネちゃん」


 イワネの目が見開かれる。


「こ、こんなに……」


 ユハは不思議そうに首を傾げた。


「あら? いつもこれくらい渡してなかったかしら?」


 下層兵たちがざわつく。


「こんな量……見たことねぇ……」


「いつもは、せいぜい数十枚だぞ……」


「じゃあ……残りはやっぱり、あいつらが……」


 イワネの脳裏に浮かぶ。


 カグロイの行方不明。

 

 そして、裏切りの疑い。


 クマシゲが、そこで一歩前へ出た。


「これは、これは。お初にお目にかかります」


 笑みは柔らかい。


 だが、その目だけはユハを値踏みするように細められていた。


「蛇骨の里の里長殿が直々にお越しとは、恐れ入ります。私はユキナガ様の右腕として、上層の政務一切を預かっております、クマシゲと申します」


 クマシゲは恭しく頭を下げ、そのままユハへ近づこうとした。


 しかし。


 すっと、シーが前へ出た。


 同時に、スーの短中槍が斜めに構えられる。


 穂先は向けていない。


 だが、それ以上近づくなという意思は明白だった。


 クマシゲの足が止まる。


「……これは失礼」


 クマシゲは笑みを保ったまま、一歩引いた。


 ユハは気にした様子もなく、にこりと笑う。


「こちらこそ、急に来てごめんなさいね」


 そして、辺りを見回した。


「それで、上層の里長に会いたいんだけど」


 空気がわずかに揺れた。


 クマシゲがすぐに口を開く。


「申し訳ありません。ユキナガ様は、ここのところ体調を崩しておりまして」


「あら、そうなの?」


 ユハの声は柔らかい。


 だが、翡翠色の瞳はクマシゲから離れなかった。


「それなら、なおさら会いたいわ。体調を崩しているなら、詩紡うたつむぎとして力になれるかもしれないもの」


 クマシゲの頬が、わずかに引きつる。


「いえ、お気遣いには及びません。ユキナガ様は静養を必要としておりますので――」


「静養、ね」


 ユハは小さく頷いた。


 それから、不意に周囲を見回す。


 怯えた上層役人たち。


 不安げに立ち尽くす兵士たち。


 睨み合う下層の者たち。


 ユハは、ふっと息を吐いた。


「みんな、ずいぶん息が乱れているわね」


 そう言って、ユハは胸元に手を添えた。


「少し、場を鎮めましょうか」


 ユハの唇が、静かに開いた。


 それは言葉であり、旋律だった。


 澄んだ声が、祭壇広場にゆっくりと広がっていく。


 低く、やわらかく。


 水面に落ちる一滴の雫のように。


「――翠の息吹、乱れし火をやわらげて」


 歌声が、空気を震わせる。


「――巡る風よ、迷える脈に道をひらいて」


 強く張り上げているわけではない。


 それなのに、不思議と誰もがその声へ意識を向けてしまう。


「――渇いた土に、雫をひとつ」


 張り詰めていた空気が、わずかに和らぐ。


「――荒ぶる胸に、眠りの葉陰を」


 ざわついていた呼吸が、少しずつ落ち着いていく。


 誰かを抑えつける力ではない。


 感情を奪うものでもない。


 ただ、乱れていた心の流れへ、そっと寄り添うような響きだった。


 胸の奥へ絡みついていた焦りや恐怖が、ゆっくりとほどけていく。


 広場を満たしていた険しい気配は、いつの間にか薄れていた。


 そして。


「――灰に隠れし偽りよ」


 ユハの詩が、そこで深く沈んだ。


 同時にユハは、クマシゲを見つめた。


「――古き殻を脱ぎ、真の名を現せ」


 クマシゲの顔色が変わった。


「……っ」


 胸元を押さえる。


 さっきまで平然としていたはずの身体が、突然、内側から焼かれるように震え始めた。


「な、何を……」


 クマシゲの声が掠れる。


 次の瞬間。


「――ごふっ!」


 激しく咳き込んだ。


 白粉おしろいで隠していた胸元の皮膚が、赤く熱を帯びていく。


 衣の合わせ目から、火傷痕のような赤黒い紋様が浮かび上がった。


 火精霊イグニスの呪印。


 場が凍りつく。


「な……」


「どういうことだ……?」


「さっき、識晶は反応しなかったはずだぞ……!」


 上層役人たちが混乱する。


 フラットも目を見開いた。


「おい……どうなってんだよ」


 イワネは息を呑む。


 クマシゲは苦しみながら、右腕を押さえた。


 識晶に触れた腕。


 その袖口が、不自然に膨らむ。


 みしり、と乾いた音がした。


 皮膚の下で何かがずれる。


 ぼとり。


 クマシゲの右腕が、肩口から石床へ落ちた。


 悲鳴が上がる。


 落ちた腕は、血を流さなかった。


 しかし、カタチが徐々に変わっていく。


 干からびていく皮膚。


 黒ずんでいく肉。


 黒い術式糸のようなものが、切れた蔦のように蠢いている。


 それは、生きた腕ではなかった。


 識晶は、触れた者の呪怨を読む。


 だが、触れていたのが死肉を加工した腕ならば、そこにクマシゲ自身の呪怨は流れていない。


 五渦の識晶が反応しなかった理由が、そこに転がっていた。


 クマシゲは片膝をつき、荒い息を吐く。


 胸元の呪印は、赤く疼いていた。


 ユハは静かに言った。


「……ずいぶん無理をしていたのね」


 その声に、責める響きはない。


 だからこそ、余計に重かった。


 サンサロが即座に動いた。


 懐から還元符を取り出し、クマシゲの胸元へ貼り付け、先端を破る。


 術式が発光し、赤熱が沈静していく。


 誰もが見てしまった。


 サンサロが、還元符を当然のように所持していたことを。


 上層で。


 秘密裏に。


 使っていたことを。


「……お前……」


 イワネの声が震えた。


 フラットの声が、低く沈む。


「この……クソ野郎!」


 怒声が、祭壇広場に叩きつけられた。


 その瞬間。


 イワネは、はっと顔を上げた。


「……ユキナガは?」


 誰も答えない。


 クマシゲの顔が引きつる。


「ですから……ユキナガ様は、ご静養中で――」


「こんな状況でかい」


 イワネの声が、さらに低くなる。


 転移ポータルの揺れ。


 蛇骨の民の来訪。


 クマシゲの呪怨露見。


 これほどの異変が立て続けに起きている。


 上層の里長であるユキナガが、気づかないはずがない。


 たとえ、立ち上がることすら難しいほど衰えていたとしても。


 あの男なら来る。


 自分の身体より、里を選ぶ。


 イワネは、それを知っていた。


 幼馴染だったから。


 かつて同じ土を踏み、同じ里の行く末を語った相手だったから。


 だからこそ分かる。


 ユキナガが姿を見せないこと。


 それ自体が、異常だった。


「……ユキナガの部屋へ行く」


 イワネは、屋敷の奥へ歩き出した。


「フラット、来な」


「はい!」


 フラットと下層兵が後を追う。


 祭壇広場には、重苦しい沈黙が残った。


 誰もが、片膝をついたクマシゲを見ている。


 クマシゲは荒い息を吐いていた。


 胸元の呪印は、まだ赤く疼いている。


 肩口からは、偽りの腕を失った袖が、虚しく垂れていた。


 その姿は、もはや穏やかな実務家などではない。


 追い詰められた獣だった。


 


 

 屋敷の奥。


 白檀の柔らかい甘さが漂う部屋に、一人の痩せ細った男が腰掛けていた。


 刻継こくけいの里上層の里長、ユキナガ。


「ユキナガ……」


 イワネの声に、ユキナガは応えない。


 青白い肌。


 こけた頬。


 長く伸びた青白の髪。


 そこにあるのは、かつての幼馴染の姿。


 だが、部屋に漂う白檀の香りは濃すぎた。


 その奥に、わずかに別の匂いが混じっている。


 腐臭。


 イワネは、ゆっくりと歩み寄った。


「ユキナガ。あんた……もう……」


 言葉が喉で詰まる。


 ユキナガは死んでいた。


 ずっと前から。


 イワネは、ユキナガの枯れた皺だらけの手を握りしめた。


 二十年。


 会わなかった。


 会えなかった。


 上層と下層に分かれ、互いに別の場所で里を支えていると思っていた。


 だが。


 ユキナガは、もうそこにはいなかった。


 残っていたのは、誰かに操られていただけの、静かな骸。


 白檀の香りの中に、一筋の雫が音もなく零れた。


 その時だった。


 遠くから、怒号が響いた。


「――殺せぇ!!」


 クマシゲの声だった。


 


 

 祭壇広場。


 クマシゲが、残った左手で懐の腕輪を握りしめていた。


 紫色の魔石が嵌め込まれた魔導具。


 その石が、不気味な光を放つ。


 直後。


 上層各所から、獣じみた唸り声が響いた。


 次の瞬間。


 複数のアンデッドモンスターが、屋敷の外壁を突き破って侵入してきた。


 轟音。


 木片と石片が飛び散る。


 悲鳴。


 怒号。


 上層兵の一人が、腐った獣型アンデッドに押し倒された。


「ぎゃああああっ!?」


 牙が肩へ食い込む。


 血飛沫が散った。


 別の場所では、女の叫び声が響く。


 子供の泣き声。


 倒れる灯火。


 散る火花。


 刻継の里上層は、一瞬で地獄へ変わった。


「くそっ、あいつ最初から仕込んでやがったな!」


 フラットが、イワネの側で鉤爪を構える。


 スーが短中槍を構え、ユハの前へ出た。


「ユハ様、下がって!」


 シーも無言でユハを庇うように前へ出る。


 ティプスタンは直継の柄へ手をかけた。


 レヴィが舌打ちする。


「面倒くせぇことになってきたな」


 混乱は広がるばかりだった。


 その隙に。


 クマシゲは、ふらつく身体で外へ走った。


「逃がすな!」


 誰かが叫ぶ。


 だが、押し寄せるアンデッドが道を塞いだ。


 そして、誰も気づかぬうちに。


 クマシゲの背後に控えていたはずのサンサロの姿も、祭壇広場から消えていた。


 ギョウジとセンリョウも、混乱に乗じて外へ逃げていた。


 ここに残れば、いずれ下層へ落とされる。


 そこに未来はない。


 二人の目に、クマシゲが映った。


 ギョウジが叫ぶ。


「ま、待ってください! クマシゲ様!」


 禁忌石。


 その言葉だけが、頭の中に残っていた。


 クマシゲは言っていた。


 禁忌石があれば、五精霊の呪怨すら完全に呪解できると。


 ここに残っても救いはない。


 ならば、クマシゲについていくしかない。


「待って……待ってください……!」


 二人は、転げるようにクマシゲの後を追った。


 


 

 屋敷を抜けた先。


 上層広場の外周。


 そこには、黒ずんだ巨大な羽根を持つ飛行モンスター――ガルヴァルがいた。


 首から上に羽毛はなく、黒ずんだ皮膚が露出している。


 濁った黄色い眼。


 裂けた翼。


 異様に発達した後脚の鉤爪。


 そのアンデッドの背へ、クマシゲがよじ登る。


 ガルヴァルが翼を広げた。


 死臭が、夜気に混じる。


「クマシゲ様!」


 センリョウが叫ぶ。


「私を置いていかないでください! 私は、まだ役に立ちます!」


 クマシゲは振り返らない。


 飛び立とうとするガルヴァルの後脚へ、センリョウは必死にしがみついた。


「落ちる……! 落ちるっ……!」


 ギョウジも、もう片方の脚へ飛びつく。


 細い腕で、死臭を放つ脚にしがみついた。


「クマシゲ様! お、お助けを……!」


 ガルヴァルが大きく羽ばたく。


 風圧が広場の灯火を揺らした。


「ええい、邪魔だ! 離れろ!」


 クマシゲが怒鳴る。


「い、嫌です! ここに残ったら終わりです!」


「俺も……俺も行く……!」


 ギョウジは、血の滲む指で腐った脚にしがみつく。


「風の呪怨を治すんだ……禁忌石で……!」


 クマシゲは舌打ちした。


 振り落としている時間はない。


 背後から追手が近づいている。


 ガルヴァルが飛び立つ。


 翼が空気を叩き、上層の灯火が激しく揺れた。


 センリョウとギョウジは、ガルヴァルの脚にしがみついたまま、宙へ持ち上げられる。


「離すな……離したら終わりだ……!」


 ギョウジの声が、夜気に溶ける。


 悲鳴と怒号が遠ざかっていく。


 クマシゲの顔は汗に濡れ、白粉は崩れ、胸元の呪印は赤く疼いている。


 肩口からは、腕を失った袖だけが、虚しく垂れていた。


 それでも、その目だけは異様に光っていた。


「まだだ……禁忌石さえあれば、まだ立て直せる……」


 クマシゲの目が狂気に染まる。


 ガルヴァルは、死臭を撒き散らしながら、上層の夜を裂いて飛んだ。


 クマシゲの視線の先にあるのは、ただひとつ。


 骸場がいば


 そこにある、大穴最深部――。


 

☆23話に続く☆

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