第22話『希望と絶望』
刻継の里下層――。
下層中央に建てられた、治療小屋兼集会所。
湿った薬草の匂い。
煮沸した布の湯気。
呻き声。
咳。
押し殺した泣き声。
骸場での騒動から、五日が経っていた。
崩れた足場の補修。
負傷者の手当て。
大穴周辺の立ち入り制限。
それらは少しずつ進み、下層はある程度、落ち着きを取り戻していたかに見えた。
だが――。
下層の空気は、以前より重かった。
五精霊の呪怨患者たちの容態が、ここ数日で急激に悪化し始めていたからだ。
熱。
咳。
痙攣。
眠ったまま目を覚まさない者。
治まりかけていたはずの症状が、再び深く身体を蝕み始めている。
治療小屋には、日に日に苦しむ者たちが増えていた。
イワネが、静かに一人の患者へ向き合っていた。
痩せたヒューマンの男。
胸元には、火傷のような赤黒い紋様――火精霊イグニスの呪怨、その呪印が浮かんでいた。
男は汗を流しながら、荒い呼吸を繰り返している。
「……っ……あぁ……」
苦しげな呻き。
イワネは無言で懐から一枚の札を取り出した。
黄ばんだ和紙のような札。
そこには、黒い墨で術式刻印が幾重にも描かれている。
イワネは札を患者の胸元へ貼り付け、札の先端を破った。
すると。
札の術式刻印が淡く発光した。
患者の身体を覆っていた赤熱が、ゆっくりと沈静していく。
荒れていた呼吸が落ち着き、痙攣していた指先が静かになる。
「これは……」
近くで見ていたマー教授が目を見開いた。
イワネは静かに患者の額へ濡れ布を置く。
「しばらくは持つだろうさ」
マー教授は、食い入るように札を見つめた。
「それは……なんですか?」
イワネは札へ視線を落とす。
「還元符という札だよ」
静かな声だった。
「蛇骨の里の角鱗族だけが作れる札さ」
マー教授の目が細まる。
「角鱗族……」
「悪化した呪怨を、一時的に和らげることができる」
マー教授が息を呑む。
呪怨を安定化させる。
外界では、そんな技術は存在しない。
呪怨は、進行を遅らせることしかできない災厄。
それが外界での常識だった。
「ただし――」
イワネが言いかけた時だった。
治療小屋の入口が勢いよく開いた。
「イワネさん! 新しい患者だ!」
下層兵が、若い女を抱えて飛び込んでくる。
女の身体は小刻みに震えていた。
目は見開かれ、焦点が合っていない。
「み、みえる……みえる……っ」
うわ言のように、同じ言葉を繰り返している。
イワネはすぐに動いた。
懐から、先端に渦が刻まれた水晶板――五渦の識晶を取り出す。
識晶を女の指先へ触れさせる。
すると。
水晶に白い光が滲んだ。
イワネの眉がわずかに沈む。
「……光かい」
女の爪が、自分の腕をぼりぼりと掻きむしる。
血が滲んでいた。
だが本人は気づいていない。
焦点の合わない瞳だけが、虚空を見つめ続けている。
マー教授が不思議そうに言う。
「還元符を使わないのですか?」
イワネは答えず、近くの看護役へ顎をしゃくった。
「奥へ運びな」
「は、はい!」
女は別室へ運ばれていく。
「みえる……すべてが……全部……全部ぅ……」
声だけが遠ざかっていった。
それを見送ってから。
イワネが静かに口を開く。
「還元符は万能じゃない。火と水の呪怨には有効だが、他の呪怨には効かない」
イワネは苦い顔をした。
「むしろ悪化する場合もある。特に光と風には使っちゃならない」
マー教授の表情が変わる。
(呪怨ごとに性質が違うからか? しかし、それへ対処する術が存在するとは……)
玄冥郷は、魔石運用も魔導具体系も外界より遅れている。
だが、呪怨に関してだけは、外界に存在しない知識を持っている。
チグハグだった。
まるで、世界の進化方向が分かれているような感覚。
マー教授は唇へ手を当てる。
(還元符……)
ルベッカ。
水精霊アクアの呪怨。
もしこれがあれば。
一時的にでも、彼女を繋ぎ止められる可能性がある。
マー教授はイワネを見る。
「……その還元符を、少し譲っていただけませんか」
イワネは沈黙した。
そして。
申し訳なさそうに息を吐く。
「悪いが、もう残り数枚しかない」
マー教授の視線が、先ほど使われた札へ向く。
術式刻印は、完全に消えていた。
ただの紙切れになっている。
使い切り。
しかも貴重品。
イワネは疲れた顔で言う。
「五日前に、カグロイ小隊が蛇骨の里へ向かった。だが、まだ戻らん。本来なら、急げば三日。遅くとも四日で戻るはずだったんだがね……」
言葉の奥に、隠しきれない焦りが滲んでいた。
還元符が尽きる。
それは、下層の患者たちにとって命綱が切れることを意味していた。
その時だった。
入口が勢いよく開く。
「イワネさん!」
飛び込んできたのはフラットだった。
猫耳を立て、息を切らしている。
「小隊が戻ってきたよ!」
イワネが即座に反応した。
☆
刻継の里下層――禁足地入口。
そこには。
リリネア。
白銀の巨狼、マリ。
そして。
肩を貸し合うように歩く、下層兵八名の姿があった。
全員、泥と血にまみれている。
包帯だらけの一人は、簡易担架の上で唸っていた。
ざわ……と、下層が揺れた。
「帰ってきた……!」
「カグロイ隊だ……!」
「交易品が見当たらんぞ……」
誰かが呟いた。
その言葉に、周囲の空気が沈む。
交易の失敗。
少数の帰還兵士。
そこへ、イワネが到着した。
フラットも横へ並ぶ。
イワネは兵士たちを見るなり、顔をしかめた。
「……何があった? カグロイはどうした?」
兵士たちは疲弊していた。
その中の一人が、震える声で言う。
「地下水路で……」
「アンデッドが……」
「骸山が……」
断片的な言葉。
だが。
異常だけは伝わってくる。
その時。
上層側の道から、黒装束の集団が現れた。
先頭にいたのは、長い金髪を後ろへ流した細身の男。
サンサロ。
垂れた目を細め、帰還者たちを値踏みするように見回している。
口元には薄い笑みがある。
だが、その目は笑っていなかった。
「帰還者だな」
フラットが睨む。
「見りゃ分かるだろ。ローワンはどうした?」
骸場の騒動後、ローワンは上層へ報告に向かったまま戻っていない。
フラットの声には、苛立ちと不信が混じっていた。
サンサロは答えない。
代わりに、後方の上層兵へ視線を送る。
兵士たちは、五渦の識晶を準備し始めた。
サンサロが淡々と言う。
「禁足地帰還者への、呪怨確認を行う」
「なんでお前らが!?」
フラットがかみつく。
しかし、サンサロは相手にしない。
「緊急対応だ」
短い返答。
それだけだった。
リリネアを含め、帰還者たちは識晶を順番に通される。
そこで、マリへ視線が集まった。
白い巨狼。
「モ、モンスター?」
刻継の里の者たちは警戒した。
だが。
「待ってくれ! 俺たちはこの狼に助けられたんだ」
帰還兵の言葉で空気が変わる。
識晶を持った上層兵が、マリを意識しながら恐る恐る帰還者たちへ識晶を手渡す。
マリにも識晶へ触れさせるべきか悩んだ兵士だったが、リリネアが対応した。
「ほら、マリ。ちょっと触れるだけだわさ」
マリは不服そうに鼻を鳴らした。
結果。
全員反応なし。
サンサロは確認を終えると、静かに告げた。
「クマシゲ様が、禁足地の状況報告を求めています」
イワネの眉がわずかに寄る。
「……分かった。フラット、お前も来な」
「はいっ!」
さらに、軽傷の帰還兵三人と、リリネアも同行することになった。
リリネアはマリの首元を撫でる。
「大丈夫だわさ。少しだけ待っててほしいわさ」
マリは低く唸った。
不満そうだったが、やがて渋々伏せる。
そこへ――。
「マリー!」
遅れてモモネがやってきた。
マリは、あからさまに嫌そうな顔をした。
「なんね、その顔は! 心配してやったのに!」
モモネが腰に手を当てる。
「クエンティン様は、いないのけ?」
マリは顔をそむけた。
☆
刻継の里上層。
整えられた石路。
清潔な空気。
静かな灯火。
下層とは別世界だった。
だが今日は違う。
上層の者たちの顔にも、不安が浮かんでいた。
骸場。
アンデッド。
禁足地異変。
不穏な空気が、里全体へ広がっている。
一行は、ユキナガの屋敷内にある会議の間へ通された。
そこは、屋敷の奥に設けられた広い室内だった。
高い天井。
磨かれた石床。
壁際には淡い灯火が等間隔に並び、天井近くに設けられた明かり取りの窓から、白い外光が細く差し込んでいる。
中央には、年季の入った大きな木製の円卓。
すでに円卓の周りには、クマシゲを含めた家臣たちが集まっていた。
クマシゲの背後には、サンサロが控えている。
円卓の端には、薄黄色の衣をまとった大柄な男――センリョウが座っていた。
そして、その隣には、くすんだ灰鼠色の上層官吏服をまとった細身の男――ギョウジが腰を下ろしていた。
イワネとリリネアが円卓の前に腰を下ろし、背後にフラットと帰還兵三名が控える。
クマシゲはそれを確認すると、すぐに口を開いた。
「禁足地で何があったのです?」
その声は落ち着いていた。
帰還兵たちは、地下で見たものを語った。
地下水路。
骸山。
謎の巨大アンデッド。
「なぜ正規ルートから向かわなかった?」
イワネが帰還兵に尋ねる。
「カグロイ隊長の指示です。正規ルートはモンスターが異常増加しており、突破は困難だと判断されました」
「カグロイが……」
イワネはわずかに目を伏せた。
急ぐ理由はあった。
還元符不足。
呪怨患者の悪化。
下層の逼迫。
だが、地下水路は危険すぎる。
カグロイも、それは充分理解していたはずだった。
そこで、クマシゲが問いを重ねた。
「そのアンデッドは、どのようなモンスターだったのです?」
「あちきとクエンティンさんで、骸黒犬と名づけたわさ」
リリネアが答える。
「名前などどうでもよいっ! どのような姿だったのだ!」
センリョウが口を挟んだ。
その場にいた者たちが、わずかに目を向ける。
クマシゲが「まあ、まあ」とセンリョウをなだめた。
「見た目は、グレイブクロウのアンデッドでした。大きさは通常のグレイブクロウより数十倍大きく、頭が三つありました」
帰還兵の一人が答えた。
「グレイブクロウに三つの頭。しかもアンデッド……まさに、アンデッドケルベロスグレイブクロウ……」
「だから、長すぎるから骸黒犬って名づけたんだわさっ!」
「そうですか、そうですか。それで、その骸黒犬は、何か石のようなものを身に付けていませんでしたかな?」
「真ん中の頭の額に、黒い石みたいなものがありました……」
帰還兵が答えた。
黒い石。
その言葉に、ギョウジの指先が止まった。
爪の周囲を掻き毟っていた手が、ぴたりと固まる。
落ち窪んだ目が、異様な熱を帯びた。
「禁忌石だ!」
甲高い叫びだった。
場の空気が止まる。
イワネがゆっくり顔を向けた。
「……禁忌石?」
ギョウジは慌てて口元を押さえた。
「ギョウジ」
クマシゲが、穏やかな声でたしなめる。
だが、その声の奥には鋭い制止があった。
ギョウジの肩がびくりと震える。
「古文書では、瘴気核の通称としてそう記されています」
クマシゲは、すぐに場へ向き直った。
「おそらく、それが今回の事件の元凶でしょう」
「あちきとクエンティンさんは、闇魔石って名づけたわさ」
「そうですか、そうですか」
クマシゲは軽くあしらうように応えた。
ギョウジは唇を噛んでいる。
指先が震えていた。
イワネは、クマシゲの態度に違和感を覚える。
禁忌石というものがすべての元凶だと知っているなら、気にするのも当然だろう。
しかし。
なぜ、クマシゲは一瞬笑みを浮かべたのか。
恐怖ではない。
驚愕でもない。
あれは――悦びに近かった。
その時、センリョウが小さく咳き込んだ。
太い手で口元を覆う。
指の隙間から、濡れたような呼吸音が漏れた。
顔色が悪い。
元の色黒の肌は、まるで冷たい水を吸い込みすぎた土のように、黒みの奥から灰青く濁っていた。
額には冷や汗が浮かび、浅く、重たい呼吸が続いている。
そして、わずかに漂う独特の匂い。
イワネの目が細くなる。
治療小屋で、何度も嗅いできた匂いだった。
還元符を使った後に残る、焦げた薬草の匂い。
イワネは、センリョウの襟元へ視線を向けた。
襟元の布の奥で、色黒の肌が不自然にぬめり、灰を溶かしたような青黒さを帯びていた。
まるで冷たい水に浸かり続け、皮膚の下から血の熱だけを抜かれたような色だった。
水精霊アクアの呪怨を受けた者に、よく似た症状だった。
イワネの眉間に深い皺が刻まれる。
「……センリョウ」
低い声だった。
「識晶を通しな」
その一言だけで、センリョウの色黒の顔から、さらに血の気が引いた。
「な、なぜ私が……」
かすれた声だった。
イワネは視線を逸らさない。
「顔色が悪い。それに、還元符の匂いがする」
空気が止まる。
円卓に座る上層役人たちが、わずかにざわついた。
センリョウの額から、冷や汗が一筋流れ落ちる。
「つ、疲れているだけですよ」
視線が泳ぐ。
太い指先が、落ち着きなく震えていた。
「いいから、さっさと識晶に触れろよ」
フラットが苛立たしげに顎をしゃくる。
センリョウの喉が、ごくりと鳴った。
手は識晶へ伸びかけ――止まる。
触れれば終わる。
その事実が、センリョウの喉を締め上げていた。
「わ、私は……」
視線が、助けを求めるようにクマシゲへ向く。
「クマシゲ様……!」
しかし。
クマシゲは、わずかに目を細めただけだった。
「センリョウ殿」
穏やかな声。
だが、その響きは妙に冷たい。
「疑われているのであれば、識晶を通せば済む話でしょう」
「なっ……」
センリョウの目が見開かれる。
その瞬間。
悟った。
切り捨てられる。
自分だけが。
「ふ、ふざけるな……!」
声が裏返る。
「私は……誰のために……!」
クマシゲは答えない。
ただ静かにセンリョウを見ている。
その目には、助ける意思が一欠片もなかった。
センリョウの顔が、怒りと焦燥で醜く歪む。
「私が……どれほど苦労して還元符を集めたと思っている!」
怒声が響いた瞬間。
会議の間の空気が、ぴたりと凍りついた。
イワネの目が、ゆっくりと細まる。
「……今、なんて言った」
低い声だった。
センリョウは肩を震わせる。
だが、一度溢れた言葉は止まらなかった。
「私が倒れれば物資管理が止まる! 配給も滞る! 上層の機能が麻痺すれば、里全体が混乱するんだぞ!」
唾を飛ばしながら叫ぶ。
「だから必要だった! 私は、この里を維持するために――」
「おい。待てよ」
フラットの低い声が、鋭く割って入った。
緑色の瞳が細く光る。
「なんで“上層の機能を維持するため”に、還元符が必要なんだよ?」
センリョウの喉が詰まった。
フラットは一歩、前へ出る。
「還元符ってのは、呪怨を抑えるための札だろ」
静かな声音だった。
だが、その静けさには逃げ場がなかった。
「呪怨と関係ねぇはずのお前ら上層が、なんでそんな必死に札を集めてる?」
その言葉に。
周囲の上層役人たちが、びくりと肩を揺らした。
センリョウは、そこでようやく自分が何を口走ったのか理解したように、遅れて口元を押さえた。
「……っ」
だが、もう遅い。
「し、仕方なかったんだ!」
言葉が止まらなくなる。
「下層の病人とは役割が違う! 上層を維持する者が倒れれば、里そのものが――」
「役割、ねぇ」
フラットが鼻で笑った。
「下層じゃ札が足りなくて死にかけてる奴らがいるってのによ」
「黙れ!」
センリョウが怒鳴る。
灰青く濁った色黒の顔を歪めながら。
「醜いネクロクレイマンと、我々ヒューマンでは、そもそも命の価値が違うのだ!」
「なんだと……!」
フラットの緑色の瞳が鋭く細まる。
場の空気が、一気に険悪さを増した。
その時。
ギョウジが、円卓の端で口元へ手を当てて小さく笑った。
「……くくっ」
乾いた笑いだった。
怯えと嘲りが混ざったような、不快な笑み。
それを見た瞬間、センリョウの顔がかっと赤くなる。
「わ、私だけじゃない!」
震える指が、ギョウジを指した。
「ギョウジもだ!」
ギョウジの肩が跳ねた。
「……は?」
落ち窪んだ目が、ゆっくりセンリョウを向く。
「そいつも呪怨持ちだ! 風の呪怨に侵されてる!」
ギョウジの顔が、ぐしゃりと歪んだ。
「てめぇ……!」
怯えた小役人の仮面が剥がれる。
そこに浮かんだのは、追い詰められた獣のような怒りだった。
「道連れにする気かよ……!」
「ニヤニヤしやがって! お前だって同じだろうが!」
センリョウも怒鳴り返す。
「俺は札なんか貰ってねぇ!」
ギョウジが叫ぶ。
「だから禁忌石が必要なんだよ……!」
空気が、一気に荒れ始めた。
その時だった。
「――二人を拘束せよ」
落ち着き払った声が、場を断ち切った。
クマシゲだった。
即座に、サンサロと上層兵たちが動く。
センリョウとギョウジを取り囲み、腕を掴んだ。
「ま、待ってください! クマシゲ様!」
「俺を切り捨てる気か……!?」
二人は必死に喚きながら、上層兵に連行されていった。
クマシゲは眉一つ動かさない。
「全く……」
深いため息。
「とんでもない者たちですな」
まるで、自分は無関係だと言わんばかりだった。
「お前はどうなんだい」
イワネが低く言った。
クマシゲは、穏やかな顔を作る。
「私、ですか?」
「そうだ。お前も識晶を通しな」
「ええ。構いませんよ」
クマシゲは、あっさり頷いた。
その反応に、逆に場がわずかにざわつく。
イワネが無言で五渦の識晶を差し出す。
クマシゲは右手を袖から出し、静かに識晶へ触れた。
識晶には淡い光が滲んだだけだった。
色は変わらない。
透明なまま。
数秒の沈黙。
クマシゲは、静かに識晶を返した。
「……ご納得いただけましたか?」
穏やかな声音だった。
そのまま、自然な動作で会議の場を見渡す。
すると、先ほどまで青ざめていた上層役人たちが、目に見えて安堵した。
「さて」
空気を切り替えるように、クマシゲは口を開いた。
「禁忌石……闇魔石でしたか? それが、今回の異変の元凶である可能性が高い以上、もはや放置はできません」
冷静な口調。
まるで先ほどの騒ぎなど、最初から存在しなかったかのように。
「刻継の里を守るためにも、骸黒犬とやらを早急に討伐する必要があるでしょう」
話題を変える。
自然に。
巧妙に。
まるで、ギョウジとセンリョウだけが独断で暴走していたかのように。
その空気が、少しずつ場を覆い始めた――。
その時だった。
ズゥン――……。
低い揺れ。
会議の間の床が、わずかに震える。
円卓の上に置かれていた器が、かたかたと音を立てた。
兵士たちがざわつく。
しばらくして、一人の上層兵が駆け込んできた。
顔が青ざめている。
「あ、あの……!」
「祭壇広場に……蛇骨の民の者が現れました!」
その場に困惑が走った。
☆
祭壇広場。
上層中央の地下に存在する、円環の石畳がある場所。
現在は祭事場として使われていた。
そこには――。
深紅のマントを纏った赤髪の少年、ティプスタン。
赤いバンダナを被った亜人の少年、レヴィ。
そして。
二本角を持つ、ふくよかな角鱗族の女性が立っていた。
蛇骨の里の若き里長、ユハである。
薄い緑色の短い髪。
明るい翡翠色の瞳。
白めの柔らかな肌には、淡い青緑色の蛇鱗模様が浮かんでいる。
大きめの外套の下で、豊かな身体つきがゆるやかに揺れる。
淡緑と白を基調にした祈祷衣装の裾が、風にふわりと広がった。
その姿は柔らかく、包み込むようでありながら、目元には里を背負う者の芯があった。
彼女の後ろには、双子の護衛――シーとスー。
兄のシーは、ユハの後方で広場の空気そのものを測るように静かに立っていた。
妹のスーは短中槍を抱え、ユハの傍から一歩も離れず、鋭い視線で上層兵たちを牽制している。
そして、ティプスタンとレヴィの装いも、以前とは少し変わっていた。
濁流に呑まれた際、元の服はほとんど使い物にならなくなっていた。
蛇骨の里で保護されたあと、ユハが二人のために新しい旅装を用意してくれたのだ。
ティプスタンは、黒を基調とした軽装の上から、淡い緑の布を巻いていた。
肩や胸元には、蛇鱗を思わせる装甲布が重ねられている。
レヴィは翠炎色の外套を羽織り、青緑の布装甲と白布を組み合わせた旅装へ変わっていた。
二人の装いには、どこか蛇骨の里の意匠が感じられた。
さらに。
ティプスタンたちは大量の荷物を抱えていた。
祭壇周囲の装飾は、上から押し潰されたように歪んでいる。
「い、いったいどこから現れたんだ……?」
クマシゲが顔を引きつらせる。
イワネも呆然としていた。
誰も、この円環が転移ポータルだとは知らなかった。
「ユハ様……」
イワネが目を見開く。
ユハは、ぱっと笑った。
「あら、イワネちゃん」
気さくな声。
「久しぶり。ずいぶん疲れた顔をしているわね」
「なぜ、ユハ様がここに……」
「困ってるって聞いたから、急いで来たのよ」
ユハは胸を張って言った。
「里長って、そういう時に動くものでしょう?」
「ティプスタン君にレヴィちゃん! 無事だったわさ!?」
リリネアが駆け寄る。
ティプスタンも笑顔になる。
「リリネアさん!」
レヴィはそっぽを向く。
「うるせぇな。見りゃ分かるだろ」
だが、その声には少しだけ安堵が混じっていた。
ユハがすかさずレヴィを後ろから抱きしめる。
「レヴィちゃんも頑張ったものねぇ」
「だ、抱きつくなっ……!」
レヴィは頬を染める。
だが、本気で振りほどこうとはしない。
スーが、じとっと睨む。
「ユハ様に変なことしたら突くからね」
「しねぇよ!」
シーが小さくため息をつく。
「ユハ様、前へ出すぎです」
「あら、大丈夫よ。みんないるもの」
ユハは大荷物をぽんぽん叩いた。
「里のピンチだって聞いたから、色々持ってきたわよ。まさか転移ポータルがまだ動くとは思わなかったけどね」
軽くウインクするユハ。
「クエンティンのおかげだわ」
リリネアが首を傾げる。
「あれ? クエンティンさんはどうしたんだわさ? 『吾輩はティプスタン君を追う』って言ってたわさ」
ティプスタンが答える。
「クエンティンさんは、向こう側で転移ポータルの操作をしてくれました。外部から調整しないと動かないらしくて……。だから、『吾輩は後から向かう』って」
「そうだったわさ……」
リリネアは少しだけ胸を撫で下ろした。
「クエンティンさんらしいわさ」
ユハは懐から、分厚い紙の束を取り出した。
還元符だった。
それをイワネへ手渡す。
「はいこれ、イワネちゃん」
イワネの目が見開かれる。
「こ、こんなに……」
ユハは不思議そうに首を傾げた。
「あら? いつもこれくらい渡してなかったかしら?」
下層兵たちがざわつく。
「こんな量……見たことねぇ……」
「いつもは、せいぜい数十枚だぞ……」
「じゃあ……残りはやっぱり、あいつらが……」
イワネの脳裏に浮かぶ。
カグロイの行方不明。
そして、裏切りの疑い。
クマシゲが、そこで一歩前へ出た。
「これは、これは。お初にお目にかかります」
笑みは柔らかい。
だが、その目だけはユハを値踏みするように細められていた。
「蛇骨の里の里長殿が直々にお越しとは、恐れ入ります。私はユキナガ様の右腕として、上層の政務一切を預かっております、クマシゲと申します」
クマシゲは恭しく頭を下げ、そのままユハへ近づこうとした。
しかし。
すっと、シーが前へ出た。
同時に、スーの短中槍が斜めに構えられる。
穂先は向けていない。
だが、それ以上近づくなという意思は明白だった。
クマシゲの足が止まる。
「……これは失礼」
クマシゲは笑みを保ったまま、一歩引いた。
ユハは気にした様子もなく、にこりと笑う。
「こちらこそ、急に来てごめんなさいね」
そして、辺りを見回した。
「それで、上層の里長に会いたいんだけど」
空気がわずかに揺れた。
クマシゲがすぐに口を開く。
「申し訳ありません。ユキナガ様は、ここのところ体調を崩しておりまして」
「あら、そうなの?」
ユハの声は柔らかい。
だが、翡翠色の瞳はクマシゲから離れなかった。
「それなら、なおさら会いたいわ。体調を崩しているなら、詩紡ぎとして力になれるかもしれないもの」
クマシゲの頬が、わずかに引きつる。
「いえ、お気遣いには及びません。ユキナガ様は静養を必要としておりますので――」
「静養、ね」
ユハは小さく頷いた。
それから、不意に周囲を見回す。
怯えた上層役人たち。
不安げに立ち尽くす兵士たち。
睨み合う下層の者たち。
ユハは、ふっと息を吐いた。
「みんな、ずいぶん息が乱れているわね」
そう言って、ユハは胸元に手を添えた。
「少し、場を鎮めましょうか」
ユハの唇が、静かに開いた。
それは言葉であり、旋律だった。
澄んだ声が、祭壇広場にゆっくりと広がっていく。
低く、やわらかく。
水面に落ちる一滴の雫のように。
「――翠の息吹、乱れし火をやわらげて」
歌声が、空気を震わせる。
「――巡る風よ、迷える脈に道をひらいて」
強く張り上げているわけではない。
それなのに、不思議と誰もがその声へ意識を向けてしまう。
「――渇いた土に、雫をひとつ」
張り詰めていた空気が、わずかに和らぐ。
「――荒ぶる胸に、眠りの葉陰を」
ざわついていた呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
誰かを抑えつける力ではない。
感情を奪うものでもない。
ただ、乱れていた心の流れへ、そっと寄り添うような響きだった。
胸の奥へ絡みついていた焦りや恐怖が、ゆっくりとほどけていく。
広場を満たしていた険しい気配は、いつの間にか薄れていた。
そして。
「――灰に隠れし偽りよ」
ユハの詩が、そこで深く沈んだ。
同時にユハは、クマシゲを見つめた。
「――古き殻を脱ぎ、真の名を現せ」
クマシゲの顔色が変わった。
「……っ」
胸元を押さえる。
さっきまで平然としていたはずの身体が、突然、内側から焼かれるように震え始めた。
「な、何を……」
クマシゲの声が掠れる。
次の瞬間。
「――ごふっ!」
激しく咳き込んだ。
白粉で隠していた胸元の皮膚が、赤く熱を帯びていく。
衣の合わせ目から、火傷痕のような赤黒い紋様が浮かび上がった。
火精霊イグニスの呪印。
場が凍りつく。
「な……」
「どういうことだ……?」
「さっき、識晶は反応しなかったはずだぞ……!」
上層役人たちが混乱する。
フラットも目を見開いた。
「おい……どうなってんだよ」
イワネは息を呑む。
クマシゲは苦しみながら、右腕を押さえた。
識晶に触れた腕。
その袖口が、不自然に膨らむ。
みしり、と乾いた音がした。
皮膚の下で何かがずれる。
ぼとり。
クマシゲの右腕が、肩口から石床へ落ちた。
悲鳴が上がる。
落ちた腕は、血を流さなかった。
しかし、カタチが徐々に変わっていく。
干からびていく皮膚。
黒ずんでいく肉。
黒い術式糸のようなものが、切れた蔦のように蠢いている。
それは、生きた腕ではなかった。
識晶は、触れた者の呪怨を読む。
だが、触れていたのが死肉を加工した腕ならば、そこにクマシゲ自身の呪怨は流れていない。
五渦の識晶が反応しなかった理由が、そこに転がっていた。
クマシゲは片膝をつき、荒い息を吐く。
胸元の呪印は、赤く疼いていた。
ユハは静かに言った。
「……ずいぶん無理をしていたのね」
その声に、責める響きはない。
だからこそ、余計に重かった。
サンサロが即座に動いた。
懐から還元符を取り出し、クマシゲの胸元へ貼り付け、先端を破る。
術式が発光し、赤熱が沈静していく。
誰もが見てしまった。
サンサロが、還元符を当然のように所持していたことを。
上層で。
秘密裏に。
使っていたことを。
「……お前……」
イワネの声が震えた。
フラットの声が、低く沈む。
「この……クソ野郎!」
怒声が、祭壇広場に叩きつけられた。
その瞬間。
イワネは、はっと顔を上げた。
「……ユキナガは?」
誰も答えない。
クマシゲの顔が引きつる。
「ですから……ユキナガ様は、ご静養中で――」
「こんな状況でかい」
イワネの声が、さらに低くなる。
転移ポータルの揺れ。
蛇骨の民の来訪。
クマシゲの呪怨露見。
これほどの異変が立て続けに起きている。
上層の里長であるユキナガが、気づかないはずがない。
たとえ、立ち上がることすら難しいほど衰えていたとしても。
あの男なら来る。
自分の身体より、里を選ぶ。
イワネは、それを知っていた。
幼馴染だったから。
かつて同じ土を踏み、同じ里の行く末を語った相手だったから。
だからこそ分かる。
ユキナガが姿を見せないこと。
それ自体が、異常だった。
「……ユキナガの部屋へ行く」
イワネは、屋敷の奥へ歩き出した。
「フラット、来な」
「はい!」
フラットと下層兵が後を追う。
祭壇広場には、重苦しい沈黙が残った。
誰もが、片膝をついたクマシゲを見ている。
クマシゲは荒い息を吐いていた。
胸元の呪印は、まだ赤く疼いている。
肩口からは、偽りの腕を失った袖が、虚しく垂れていた。
その姿は、もはや穏やかな実務家などではない。
追い詰められた獣だった。
☆
屋敷の奥。
白檀の柔らかい甘さが漂う部屋に、一人の痩せ細った男が腰掛けていた。
刻継の里上層の里長、ユキナガ。
「ユキナガ……」
イワネの声に、ユキナガは応えない。
青白い肌。
こけた頬。
長く伸びた青白の髪。
そこにあるのは、かつての幼馴染の姿。
だが、部屋に漂う白檀の香りは濃すぎた。
その奥に、わずかに別の匂いが混じっている。
腐臭。
イワネは、ゆっくりと歩み寄った。
「ユキナガ。あんた……もう……」
言葉が喉で詰まる。
ユキナガは死んでいた。
ずっと前から。
イワネは、ユキナガの枯れた皺だらけの手を握りしめた。
二十年。
会わなかった。
会えなかった。
上層と下層に分かれ、互いに別の場所で里を支えていると思っていた。
だが。
ユキナガは、もうそこにはいなかった。
残っていたのは、誰かに操られていただけの、静かな骸。
白檀の香りの中に、一筋の雫が音もなく零れた。
その時だった。
遠くから、怒号が響いた。
「――殺せぇ!!」
クマシゲの声だった。
☆
祭壇広場。
クマシゲが、残った左手で懐の腕輪を握りしめていた。
紫色の魔石が嵌め込まれた魔導具。
その石が、不気味な光を放つ。
直後。
上層各所から、獣じみた唸り声が響いた。
次の瞬間。
複数のアンデッドモンスターが、屋敷の外壁を突き破って侵入してきた。
轟音。
木片と石片が飛び散る。
悲鳴。
怒号。
上層兵の一人が、腐った獣型アンデッドに押し倒された。
「ぎゃああああっ!?」
牙が肩へ食い込む。
血飛沫が散った。
別の場所では、女の叫び声が響く。
子供の泣き声。
倒れる灯火。
散る火花。
刻継の里上層は、一瞬で地獄へ変わった。
「くそっ、あいつ最初から仕込んでやがったな!」
フラットが、イワネの側で鉤爪を構える。
スーが短中槍を構え、ユハの前へ出た。
「ユハ様、下がって!」
シーも無言でユハを庇うように前へ出る。
ティプスタンは直継の柄へ手をかけた。
レヴィが舌打ちする。
「面倒くせぇことになってきたな」
混乱は広がるばかりだった。
その隙に。
クマシゲは、ふらつく身体で外へ走った。
「逃がすな!」
誰かが叫ぶ。
だが、押し寄せるアンデッドが道を塞いだ。
そして、誰も気づかぬうちに。
クマシゲの背後に控えていたはずのサンサロの姿も、祭壇広場から消えていた。
ギョウジとセンリョウも、混乱に乗じて外へ逃げていた。
ここに残れば、いずれ下層へ落とされる。
そこに未来はない。
二人の目に、クマシゲが映った。
ギョウジが叫ぶ。
「ま、待ってください! クマシゲ様!」
禁忌石。
その言葉だけが、頭の中に残っていた。
クマシゲは言っていた。
禁忌石があれば、五精霊の呪怨すら完全に呪解できると。
ここに残っても救いはない。
ならば、クマシゲについていくしかない。
「待って……待ってください……!」
二人は、転げるようにクマシゲの後を追った。
☆
屋敷を抜けた先。
上層広場の外周。
そこには、黒ずんだ巨大な羽根を持つ飛行モンスター――ガルヴァルがいた。
首から上に羽毛はなく、黒ずんだ皮膚が露出している。
濁った黄色い眼。
裂けた翼。
異様に発達した後脚の鉤爪。
そのアンデッドの背へ、クマシゲがよじ登る。
ガルヴァルが翼を広げた。
死臭が、夜気に混じる。
「クマシゲ様!」
センリョウが叫ぶ。
「私を置いていかないでください! 私は、まだ役に立ちます!」
クマシゲは振り返らない。
飛び立とうとするガルヴァルの後脚へ、センリョウは必死にしがみついた。
「落ちる……! 落ちるっ……!」
ギョウジも、もう片方の脚へ飛びつく。
細い腕で、死臭を放つ脚にしがみついた。
「クマシゲ様! お、お助けを……!」
ガルヴァルが大きく羽ばたく。
風圧が広場の灯火を揺らした。
「ええい、邪魔だ! 離れろ!」
クマシゲが怒鳴る。
「い、嫌です! ここに残ったら終わりです!」
「俺も……俺も行く……!」
ギョウジは、血の滲む指で腐った脚にしがみつく。
「風の呪怨を治すんだ……禁忌石で……!」
クマシゲは舌打ちした。
振り落としている時間はない。
背後から追手が近づいている。
ガルヴァルが飛び立つ。
翼が空気を叩き、上層の灯火が激しく揺れた。
センリョウとギョウジは、ガルヴァルの脚にしがみついたまま、宙へ持ち上げられる。
「離すな……離したら終わりだ……!」
ギョウジの声が、夜気に溶ける。
悲鳴と怒号が遠ざかっていく。
クマシゲの顔は汗に濡れ、白粉は崩れ、胸元の呪印は赤く疼いている。
肩口からは、腕を失った袖だけが、虚しく垂れていた。
それでも、その目だけは異様に光っていた。
「まだだ……禁忌石さえあれば、まだ立て直せる……」
クマシゲの目が狂気に染まる。
ガルヴァルは、死臭を撒き散らしながら、上層の夜を裂いて飛んだ。
クマシゲの視線の先にあるのは、ただひとつ。
骸場。
そこにある、大穴最深部――。
☆23話に続く☆




