第21話『紅の光を求めて』
濁流は、すべてを呑み込んだ。
水音。
岩の砕ける音。
骸黒犬の咆哮。
ティプスタンの叫び声。
それらすべてが、濁流の轟きに呑まれて遠ざかっていく。
息ができない。
上も下も分からない。
身体が岩に叩きつけられる。
腕に、裂けるような痛みが走った。
冷たい水が耳を塞ぐ。
視界が暗くなる。
何もかもが遠ざかっていく。
その闇の奥で――レヴィの中に、遠い記憶が静かに浮かび上がった。
☆
暗い石造りの部屋だった。
湿った石の匂い。
薄く灯る燭台の光。
冷たい台の上に、幼いレヴィはうつ伏せで横たわっていた。
上半身には何もまとっていない。
背中に触れる空気が、ひどく冷たい。
「……エルミナ」
幼い声が震えた。
すぐ傍らに、ひとりの女がいる。
黒い外套をまとった従者。
エルミナ。
レヴィの髪をそっと撫でる手だけが、その部屋で唯一温かかった。
「大丈夫ですよ、レヴィ様」
エルミナは静かに言った。
「少し痛みます。けれど、すぐに終わります」
「……ほんと?」
「はい」
だが、背中へ細い刻印針が触れた瞬間、レヴィの小さな身体はびくりと跳ねた。
「っ……!」
黒い術式が、肌へ刻み込まれていく。
それは、変化を固定するための術式刻印だった。
本当の姿を隠すため。
追手の目から、レヴィという存在そのものを遠ざけるため。
術式は背中へ広がっていった。
ちくちくとした痛みが、皮膚の下を這い回る。
黒い糸を縫い込まれているような感覚だった。
「痛いよ……エルミナ……」
「ご辛抱を、レヴィ様」
刻印針を動かしながら、エルミナは答えた。
「生きるためです」
その声は優しかった。
けれど、泣きそうだった。
「どうか、耐えてください」
レヴィは歯を食いしばった。
涙が石台へ落ちる。
ぽた、ぽた、と。
小さな音だけが、暗い部屋に響いていた。
☆
第三星腕国家、ククルシア共和国。
獣人も、亜人も、流れ者も、冒険者も、商人も、誰もが雑多に行き交う都市。
誰もレヴィを気に留めなかった。
汚れたマントをまとった小さな亜人など、ククルシアでは珍しくもない。
――ここなら、隠れていられる。
誰にも怪しまれず。
誰にも追われず。
うまく息を潜めていれば、きっと生きていける。
そう、思った。
いや――そう思い込もうとしていた。
人の波に紛れていられる間だけは。
☆
夜になると、寂しかった。
港町の外れ。
荷運び用の木箱が積み上げられた、人気のない岸壁。
潮風が、冷たく頬を撫でていく。
遠くでは、酒場の喧騒が聞こえていた。
酔っぱらいたちの笑い声。
グラスのぶつかる音。
陽気な楽器の旋律。
暖かな灯りと人の熱気が、夜の港へ滲んでいる。
けれど、その灯りの中に、レヴィの居場所はなかった。
レヴィは古びた外套へ身体を埋めるようにして、岸壁へ座り込んでいた。
膝を抱える。
小さな身体へ、夜風が容赦なく吹きつける。
寒かった。
だが、それ以上に、胸の奥がひどく空っぽだった。
「……エルミナ」
気づけば、その名が唇から零れていた。
呼んだところで、返事があるはずもない。
その温もりは、もうどこにもない。
分かっているはずなのに、胸の奥はあまりにも静かだった。
その静けさに耐えきれず、レヴィはもう一度、声にならないほど小さく、その名を呼んだ。
波が岸壁へ打ち寄せる。
ざぶん。
ざぶん。
暗い海が、夜空を揺らしていた。
その水音へ溶け込むように、レヴィは俯いたまま静かに唇を開く。
零れ落ちたのは、エルミナの故郷の古い詩。
幼い頃、眠れない夜にエルミナが歌ってくれた子守歌だった。
――たとえ星明かりが 行く先を閉ざしても
迷い子は いつか別の空へ辿り着く
終わらない夜はないと
風だけが 静かに知っている
名を失くしても
願いまで消えはしない
折れた羽の痛みさえ
まだ見ぬ空へ吹く風になる
眠れ 迷い子
泣いた夜さえ
いつか朝焼けへ溶けていく
選べなかった今日の先にも
明日は まだ誰にも閉ざされていない
掠れるほど小さな歌声だった。
誰かに聞かせるための歌ではない。
壊れてしまいそうな自分を、かろうじて繋ぎ止めるための歌だった。
その旋律を口ずさむたび、レヴィは決まって思い出す。
幼い自分を抱き寄せる腕。
大丈夫ですよ、と。
ここにいますよ、と。
優しい声で囁いてくれた、エルミナの温もりを。
歌っているうちに、視界が滲んだ。
レヴィは慌てて袖で目元を擦る。
「……っ、ばかみてぇ……」
誰も聞いていない。
誰も見ていない。
それなのに、涙だけが止まらなかった。
ひとりだった。
ククルシアは、レヴィを拒まなかった。
誰も追わない。
誰も、正体を暴こうとしない。
汚れたマントをまとった小さな亜人として、街の景色に紛れていられた。
だから、生きやすかった。
けれど、誰も自分を知らない。
名前を呼んでくれる人もいない。
帰る場所もなかった。
港の片隅で、レヴィは小さく身体を丸める。
まるで、世界へ置き去りにされた子供のように。
夜風が吹く。
その風だけが、か細い歌の続きを静かに攫っていった。
☆
その後のククルシアで、レヴィは冒険者ギルドの雑用係のように扱われた。
掃除。
荷運び。
使い走り。
補助魔法だけは使える、便利な子供。
仲間ではなかった。
友達でもなかった。
それでも、食べ物がもらえた。
寝る場所があった。
追手から隠れられた。
だから、それでいいと思っていた。
断界谷の深部へ入るまでは。
☆
断界谷。
それは、静寂の回廊林の奥にあった。
巨大な裂け目。
底の見えない地下渓谷。
空間そのものが、どこか噛み合っていないように見えた。
遠くの岩壁が近く見え、足元の影だけが妙に深い。
そんな、気味の悪い場所だった。
本来なら、モンスターの気配に満ちているはずだった。
だが、その日は違った。
静かすぎた。
鳥の声もない。
獣の気配もない。
「……おかしい」
レヴィは小さく呟いた。
だが、前を歩く冒険者たちは笑った。
「ビビってんのか?」
「荷物持ちは黙ってついてこい」
レヴィは口を閉じた。
そして一行は、深部の遺跡へ辿り着いた。
五界使徒の刻印石板。
円環状の石畳。
その中央に、卵型の奇妙な遺物が落ちていた。
殻とも鉱石ともつかない表面に、かすかな光が脈打っている。
白。
灰。
青。
緑。
赤。
五つの色が、まるで呼吸をしているように、ゆっくりと明滅していた。
冒険者たちが、それを見つけて笑った。
「これだ、これだ。《覇王の卵》。依頼品に間違いない」
「たいそうな名前の割にちっせえなぁ」
そう言って、迷いなく拾い上げる。
レヴィだけは感じていた。
あれは駄目だ。
近づいてはいけない。
そう本能が叫んでいた。
☆
帰路。
断界谷の出口へ向かう途中。
レヴィは、その男を見た。
長い灰色の髪。
赤い瞳。
黒い紋様が刻まれた、硬質な肌。
アダマンタイトの片手剣を携えた男。
「あ……あいつは……」
ガンハート。
その名を、レヴィは知っていた。
知っていたからこそ、身体が先に動いた。
ただ、ひとり、岩陰へ隠れた。
息を殺した。
冒険者たちは、あっという間に倒された。
短い悲鳴。
弾ける魔法光。
血の匂い。
剣が振り抜かれる音。
それらを聞きながら、レヴィは岩陰で震えていた。
助けようとは、思わなかった。
あいつらは仲間じゃない。
自分は、ただ使われていただけだ。
だから逃げる。
生きるために。
それでいい。
ずっと、そうしてきた。
☆
フィオとイッサが現れたのは、その直後だった。
ガンハートの前へ立つ、二つの影。
弓を持った少女。
短剣と小盾を構える少年。
二人の姿を、レヴィは岩陰から息を殺して見つめていた。
まるで勝負になっていなかった。
ガンハートは圧倒的だった。
風の矢を掴み潰し、踏み込みだけで岩を砕く。
二人は、まるで子供のように追い詰められていった。
やがて、フィオを庇うように前へ出たイッサが、拳圧に叩き飛ばされた。
その衝撃に、後方のフィオまで巻き込まれる。
二人の身体は岩壁へ激突し、フィオは意識を失ったように動かなくなった。
そこへ、巨大な猪型モンスター、ガンガチョが戦場へ突っ込んできた。
木々を薙ぎ倒し、岩を砕き、土煙を巻き上げる巨体。
だが、ガンハートは表情ひとつ変えなかった。
赤黒い剣が一閃する。
次の瞬間、ガンガチョの巨体は両断されていた。
断ち切られた肉塊と鮮血が、轟音とともに戦場へ降り注ぐ。
その混乱の中で。
レヴィの目に、一人の少年が飛び込んできた。
赤い髪。
深紅のマント。
震えている。
怯えている。
今にも泣きそうな顔をしている。
それなのに――前へ出た。
ガンハートの前へ。
「……あいつ、死ぬぞ」
レヴィには理解できなかった。
どうして逃げない。
どうして隠れない。
どうして、自分より強い相手の前に立てる。
理解できない。
なのに、目が離せなかった。
そして、紅の光が灯った。
深紅のマントが翻る。
紅いオーラが少年の身体を包む。
その姿を見た瞬間、レヴィの奥底で声がした。
『レヴィ様……“紅の光”を探してください』
『きっとそれは、レヴィ様の行く先を照らしてくれます』
エルミナの声。
遠い日の、優しい手。
「紅の……光……」
レヴィは呆然と呟いた。
少年は、ガンハートと渡り合っていた。
ありえない。
あのガンハートに。
あの化け物に。
少年は、一歩もひかない。
その時、レヴィの胸に初めて芽生えた。
こいつなら。
こいつなら、もしかしたら。
☆
ガンハートは、倒れた冒険者たちから奪った卵型の遺物――《覇王の卵》を取り出した。
五つの光が、表面で不気味に明滅している。
ガンハートは掌に力を込めた。
《覇王の卵》が砕ける。
裂け目から、どろりと濃い煙が溢れ出した。
白。
灰。
青。
緑。
そして、赤。
五色の煙は風には流されなかった。
それぞれが意思を持つようにうねり、異なる方角へ伸びていく。
白い煙は、ミミリルへ。
灰は、ガミへ。
青は、ルベッカへ。
緑は、イッサへ。
そして赤だけが、戦場を離れた。
ガンガチョに薙ぎ倒された木々の隙間を抜け、裂けた肉塊の血煙を越え、静寂の回廊林の奥へ流れていく。
その先にいたのは、混乱に紛れて岩陰を離れ、林の中へ逃げ込んでいたレヴィだった。
赤い煙が、レヴィの頬のすぐ横を掠める。
次の瞬間、首の後ろに熱い針を刺し込まれたような痛みが走った。
「っ……?」
レヴィは反射的に振り返る。
だが、そこには何もない。
「……なんだ、今の……」
レヴィには、それが何だったのか分からなかった。
だから気づかなかった。
火精霊イグニスの呪怨が、自分の内側へ沈んでいたことに。
黒い変化術式の奥で、それはじわじわと呪印を形作り始めていたことに。
☆
夢が、焼ける。
水の中にいたはずなのに、熱い。
首の後ろが燃える。
背中が軋む。
隠してきた肌。
偽ってきた瞳。
それらが、内側から剥がされていく。
レヴィは、暗闇の中にいた。
いや――暗闇そのものへ、沈められていた。
上下も分からない。
地面もない。
自分の身体が、本当に存在しているのかすら曖昧だった。
足元には、赤黒い淀みが広がっている。
底は見えない。
世界そのものに穿たれた裂け目のように、どこまでも深く、どこまでも暗かった。
その淀みの奥に、“何か”がいた。
形はない。
輪郭もない。
声すらない。
なのに、それが確かにそこにいると分かる。
見られていた。
いや――覗き込まれていた。
もっと深く。
もっと暗い底へ。
ゆっくりと、静かに引きずり込むように。
本能が絶叫する。
見てはいけない。
触れてはいけない。
あれを知ってしまえば、もう戻れない。
どくん。
赤黒い淀みが脈打った。
どくん。
どくん。
巨大な心臓の鼓動のように、暗闇そのものが脈動している。
鼓動のたびに、それが闇の底から近づいてくる。
レヴィは逃げられなかった。
身体が動かない。
指先ひとつ、震わせることすらできない。
ただ沈んでいく。
ゆっくりと。
確実に。
見てはならない、あまりにも悍ましい“何か”へ向かって。
「……やだ」
声が震えた。
いつもなら、強がれた。
笑って誤魔化せた。
汚い言葉で虚勢を張れた。
けれど今は、何もできなかった。
暗い石の部屋で泣いていた、あの日のままの子供だった。
「助けて……エルミナ……!」
その瞬間。
背後から、光が差した。
紅の光だった。
触れた瞬間、やわらかな温もりが、身体の奥へ静かに染み込んでくる。
熱ではない。
灼ける痛みでもない。
それは、壊れそうだった心を、そっと抱き寄せてくれるような温かさだった。
怖くない。
赤黒い淀みが、ゆっくり遠ざかっていく。
レヴィはその光を知っていた。
ガンハートの前に立った少年の光。
震えながらも逃げなかった、紅の光。
あの日、エルミナが言っていた。
行く先を照らしてくれるもの。
「……ティプスタン……?」
紅の光が、優しくレヴィを包み込んでいく。
☆
ティプスタンは、濁流の中で必死にレヴィの身体を抱きかかえていた。
水が重い。
呼吸が苦しい。
全身が軋む。
疑似魔力で無理やり動かしていた身体は、もう悲鳴を上げていた。
それでも、離せなかった。
レヴィの小さな身体は冷たい。
少しでも腕の力を緩めれば、また濁流にさらわれてしまう。
「レヴィ……!」
激流に何度も呑まれながら、ティプスタンは岩へしがみついた。
指先が裂ける。
爪の間に、焼けるような痛みが走る。
肺が焼けるように痛い。
それでも、ただ前へ進んだ。
やがて、流れがわずかに緩やかになる。
川べり。
岩場。
ティプスタンは最後の力を振り絞り、レヴィの身体を岸へ押し上げた。
「っ……はぁ……!」
自分も岩へ這い上がる。
全身が泥と血でぐしゃぐしゃだった。
息を吸うたび、胸の奥が悲鳴を上げる。
腕も足も震えていた。
それでもティプスタンは、すぐにレヴィへ視線を向けた。
「レヴィ……!」
その瞬間だった。
ティプスタンの目が、大きく見開かれる。
「……え?」
そこにいたのは、ティプスタンの知っている“亜人の少年”ではなかった。
赤銅色の肌。
濡れた長い銀髪。
鋭く長い耳。
閉じられた瞼の奥に、かすかに覗く赤い瞳。
ティプスタンの呼吸が止まった。
ミミリルを貫いた、顎髭の男。
深淵の魔王、ガンハート。
あの姿が、脳裏に焼きついて離れない。
「アル……ギオン……?」
声が掠れた。
一瞬、手が止まった。
その時だった。
濁流に揉まれ、はだけたレヴィの胸元で、小さな宝石が揺れた。
琥珀色の丸い宝石。
それは、ティプスタンが星火祭の輪投げで手に入れ、レヴィへ渡したネックレスだった。
「……嫌だよ……怖いよ……」
苦しそうに怯える声。
ティプスタンの瞳が揺れる。
琥珀色の宝石が、胸元で小さく光を返していた。
姿が違っても。
目の前にいるのは、レヴィだった。
「っ……!」
レヴィの身体が、小さく震える。
首の後ろ。
濡れた髪の隙間から、黒く焦げたような紋様がちらりと見えた。
ティプスタンの心臓が、どくん、と嫌な音を立てる。
ルベッカの呪印と似ていた。
「レヴィ……!」
ティプスタンは反射的にレヴィを抱き起こした。
身体が異様に熱い。
しかし、凍えているようにも見えた。
胸元の留め金具へ視線を向ける。
残る赤い花弁は、あと一枚。
ティプスタンは迷わなかった。
「インスクリプト・ヴァーミリオン……!」
最後の花弁が、赤く輝いた。
紅の光が、ティプスタンの身体を包む。
熱が巡る。
ティプスタンはそのまま、レヴィを強く抱きしめた。
「大丈夫……! 絶対に、ひとりにしない……!」
しかし、もう限界だった。
壊れかけた身体で、最後まで庇うようにレヴィを抱いたまま、ティプスタンは静かに川べりへ倒れ込んだ。
☆
暗闇の中で、身体を包む温もりがあった。
怖くない。
沈まない。
引きずり込まれない。
レヴィは、重たい瞼をゆっくり開いた。
ぼやけた視界。
紅の光。
すぐ目の前に、深紅のマントがあった。
紅いオーラをまとったティプスタンが、自分を抱きしめている。
身体はうまく動かない。
息も苦しい。
けれど、その温もりだけは、はっきり分かった。
「……ティプ……」
名前を呼びかけて、レヴィはかすかに唇を噛んだ。
「……アニキ……!」
ティプスタンは、返事をしなかった。
気を失っている。
それでも、その腕はレヴィを守るように抱いていた。
紅の光が、ゆっくりと揺れている。
レヴィは、その光を見つめた。
エルミナの言葉が、遠くで蘇る。
『レヴィ様……“紅の光”を探してください』
レヴィは、潤んだ瞳を細めた。
苦しいはずなのに、その口元には笑みが浮かぶ。
「……見つけたよ……エルミナ」
その呟きとともに、意識が再び闇へ沈みかける。
けれど――その時だった。
歌が聞こえた。
遠く。
川音の向こう側。
夜風へ溶け込むような、静かな歌声。
レヴィの瞳が、かすかに揺れる。
「……歌……?」
霞む意識の中でも、その声だけは不思議なほど鮮明に届いた。
柔らかく。
深く。
包み込むような響き。
どこか懐かしい。
胸の奥へ、そっと触れてくるような声だった。
――揺れる水の調べは
やがて静かな岸へ導いていく
離れた鼓動が
再び同じ温もりへ寄り添えるように
眠れ 迷い子
夜は終わりではない
流れる水は
孤独な命さえ静かに抱いて流れていく
歌を聞いた瞬間だった。
身体の奥を焼いていた熱が、わずかに和らいだ。
「……っ?」
重かった身体が、ほんの少しだけ軽くなる。
息がしやすい。
首の後ろを蝕んでいた灼けるような痛みも、微かに遠のいていく。
訳が分からなかった。
けれど、本能だけは理解していた。
――あの歌の方へ行かなければならない。
レヴィは震える腕で、ティプスタンの身体へ手を伸ばした。
「……アニキ……」
返事はない。
ティプスタンは意識を失ったまま、ぐったりしている。
川はまだ唸っていた。
いつ流れが変わり、再び岸を呑み込むか分からない。
このままでは、また濁流へ攫われる。
レヴィは歯を食いしばった。
細い腕で、ティプスタンの身体を無理やり引き寄せる。
「っ……ぅ……!」
重い。
自分もまともに立てない。
一歩進むたび、首の後ろが焼けた。
膝から力が抜ける。
視界の端が黒く滲む。
それでも、レヴィはティプスタンの腕を離さなかった。
この温もりを離してはいけない。
ティプスタンの腕を肩へ回し、引きずるように立ち上がる。
ふらつく足で、一歩。
また一歩。
歌声へ導かれるように、暗い林の中を進んでいく。
歌声が近づくたび、不思議と身体が軽くなっていった。
灼けるような痛みが引いていく。
呼吸が、少しずつ楽になる。
レヴィは朦朧とする意識の中、それでも必死にティプスタンを引きずり続けた。
やがて、林が途切れる。
ぽっかりと開けた空間。
焚き火の橙色が、暗闇を静かに揺らしていた。
その火の傍らにいたのは、ふくよかな身体つきの女だった。
薄緑色の短い髪。
月明かりを受けた白い肌には、蛇鱗にも似た紋様が淡く浮かんでいる。
額から後ろへ流れるように、二本の角が伸びていた。
角鱗族。
女は空を見上げながら、静かに歌っていた。
その姿を見た瞬間。
レヴィの瞳が、大きく揺れる。
「……エル……ミナ……?」
違う。
声色も、顔立ちも違う。
そこにいるのは、エルミナではない。
それでも、月明かりに照らされたふくよかな輪郭だけが、記憶の中のエルミナと重なった。
包み込むような、その柔らかさ。
焚き火の傍で静かに歌うその姿が、レヴィの胸の奥に眠っていた記憶をそっと揺らす。
眠れない夜。
優しく髪を撫でる手。
大丈夫ですよ、と囁いてくれた声。
張り詰めていたものが、ぷつりと切れた。
レヴィの膝から力が抜ける。
ティプスタンの身体を支えきれず、その場へ崩れ落ちた。
「っ……ぁ……」
視界が暗くなる。
最後に見えたのは、角鱗族の女が驚いたように立ち上がる姿だった。
そしてレヴィの意識は、今度こそ静かに闇へ沈んでいった。
けれど、もう怖くはなかった。
紅の光が、確かにそこにあったから。
☆22話に続く☆




