第20話『骸底に響く声』
冷たい風が、岩肌の隙間を抜けていた。
骸場の大穴。
その深部。
巨大な岩山の内側を、何かが長い年月をかけて削り取ったような空間だった。
天井は見えない。
遥か上方――絡まり合う無数の蔦の隙間から、青白い外光だけが細く落ちている。
岩肌の裂け目では、風が鳴っていた。
ひゅう、と。
まるで巨大な獣が、眠りながら息を吐いているように。
「……う……」
ティプスタンは、薄く目を開けた。
全身が痛い。
痛い、というより。
自分の身体が、まだ本当に繋がっているのか分からない。
指先に力が入らない。
呼吸をするだけで、胸の奥が軋んだ。
落ちた。
そうだ。
骸場の大穴へ。
フラットを庇って。
そのあとの記憶は、途切れ途切れだった。
黄色い光。
金色の靄。
蔦。
岩肌。
衝撃。
そして――。
低い唸り声。
「……っ」
ぼやけた視界の奥で、二つの光が揺れていた。
獣の目。
ティプスタンの喉が、ひゅっと鳴る。
マッドクロウ。
そう思った。
剣を取ろうとする。
だが、腕は動かない。
直継の柄に指を伸ばすことすらできない。
影が近づく。
大きい。
白銀の毛並みが、青白い外光を受けて淡く揺れている。
巨狼だった。
四つ足で立った肩の高さだけで、ティプスタンの胸ほどもある。
首元の毛は豊かで、額から脚にかけて青白い霊紋が走っていた。
人ひとりを背に乗せられそうなほどの、異様に大きな獣――そんな印象だった。
その巨狼は、ティプスタンのすぐそばで足を止めた。
低く鼻を鳴らす。
くん。
くん。
傷だらけの少年の匂いを確かめるように、鼻先を近づけてくる。
「…………」
ティプスタンは動けなかった。
逃げられない。
防げない。
声も出ない。
狼の冷たい鼻先が、頬へ触れた。
ひやり、とした感触。
次の瞬間。
ぺろり。
温かい舌が、ティプスタンの頬を軽く舐めた。
「……え……?」
思わず、間の抜けた声が漏れる。
青い瞳は、ティプスタンを静かに見つめていた。
牙を剥く気配はない。
むしろ――。
心配しているように見えた。
「……マリ?」
その時。
岩場の裂け目の向こうから、少女の声がした。
小さな足音が、ぱたぱたと近づいてくる。
白い頭巾。
緑のケープ。
ピンク髪の三つ編み。
丸みのある小柄な少女が、杖を抱えるようにして岩場を駆け降りてきた。
杖の先端には、小さな器のような金具。
その中に収められた試験管から、淡い緑色の液体がほのかに揺れている。
少女は、白銀の狼の横で足を止めた。
そして、倒れている少年を見た瞬間。
前髪で隠れた目が、見開かれた。
「……ティプスタン君?」
おっとりした声が、驚きで震えていた。
ティプスタンは、ぼんやりと瞬きをする。
「……リリネア……さん……?」
「やっぱりティプスタン君だわさ!」
リリネアは慌てて駆け寄る。
だが、すぐに表情を引き締めた。
ふわふわした雰囲気の奥に、魔術師としての冷静さが灯る。
「動いちゃだめだわさ。ひどい怪我だわさ」
「……僕……」
「いいから、じっとしとってな」
リリネアは杖を両手で握り、試験管の中の緑色の液体を揺らした。
紫色の小さな魔石が、蓋の上で淡く光る。
「癒しの雫よ、静かな水面のように、この身の痛みを鎮めよ」
緑の光が、杖先からこぼれた。
「――ハイミル・ヒール」
緑色のミストが、ティプスタンの身体を包む。
温かい。
傷口へ染み込む水のように、痛みの輪郭を少しずつ丸くしていく。
「……あ」
ティプスタンは、ようやく息を吐いた。
胸の軋みが、少しだけ軽くなる。
指先が動いた。
動く。
生きている。
そう実感した瞬間、急に目の奥が熱くなった。
「よかったわさ。まだ無茶すると危ないけど、とりあえずこれで安心だわさ」
リリネアはほっと息をつく。
その横で、白銀の狼――マリが静かに伏せた。
まるで、乗れ、と言っているようだった。
「マリが運んでくれるわさ。あちきたちの拠点まで行くわさ」
「拠点……?」
「説明はあとだわさ。まずはここから離れるんだわさ」
リリネアは、にこりと微笑んだ。
その笑顔に、ティプスタンはようやく少しだけ力を抜いた。
マリの背に抱え上げられる。
白銀の背は広く、ティプスタンひとりを受け止めても、少しも揺らがなかった。
青白い霊紋が、ティプスタンの傷をいたわるように淡く揺れる。
マリが立ち上がる。
岩場の風が、深紅のマントを小さく揺らした。
☆
「おや?」
大穴内の岩肌に作られた、小さなキャンプ地。
そのテントの前で、青い長髪の少年が顔を上げた。
少年――に見える男だった。
岩に腰を下ろし、あぐらをかいて煙管をくわえている。
腰まで届く長い蒼髪。
透き通る青い瞳。
切れ長の耳は、エルフ特有の鋭さを持ちながら、どこか妖しく艶めいていた。
深藍と白を基調とした民族衣装風のローブ。
青い宝石が、煙に合わせて淡く瞬いている。
中性的な顔立ちは若々しい。
だが、煙管を持つ指先の所作だけが、妙に老成していた。
白い煙は、彼の周囲で生き物のようにゆるやかに漂っている。
男は、マリの背に乗せられたティプスタンを見て、薄く笑う。
「やあやあ。どうやら、リリネアちゃんが探していた赤髪の少年が見つかったようだね」
「見つかったわさ!」
リリネアが胸を張る。
「でも、すごい傷だらけだったわさ」
「ふむ。これはまた、実に文学的なぼろぼろ具合だ」
男は煙管を指先で回す。
「まさか、大穴の上から落ちてきたわけではあるまいね?」
「クエンティンさん、冗談がきついわさ」
リリネアが苦笑する。
男――クエンティンは、アッハッハ、と愉快そうに笑った。
ティプスタンは、マリの背の上で気まずそうに手を上げる。
「……そ、そうです」
「「そうなの?!」」
クエンティンとリリネアの声が、ぴたりと重なった。
数秒の沈黙。
クエンティンは煙管を口元から離し、しげしげとティプスタンを見た。
リリネアは、ティプスタンをマリの背から下ろす手伝いをする。
マリは大人しく伏せたまま、ティプスタンが岩にもたれられるように身体を寄せた。
白銀の毛並みは静かに揺れる。
巨大でありながら、不思議と威圧感はない。
神秘的な守護獣――そんな言葉が似合う存在だった。
「しかし、マリが初対面の相手にここまで気を許すのは珍しい」
クエンティンは目を細めた。
「君、何か良い匂いでもするのかね?」
「え?」
ティプスタンは自分の服を見る。
泥。
血。
擦り傷。
どう考えても、良い匂いとはほど遠い。
マリは何も言わず、ただティプスタンの横に顎を置いた。
その仕草があまりにも穏やかで、ティプスタンは少し困ったように笑う。
「ふむ」
クエンティンは煙を吐いた。
白い煙が、空中で細い文字のように揺れて消える。
「ボロボロの少年に寄り添う霊獣。いいね。実に神秘的だ」
☆
焚き火の上で、黒い鉄瓶が湯気を上げていた。
火が、ぱちりと爆ぜる。
外の風は冷たいが、岩陰に作られたキャンプ地は、布と木組みで上手く風を避けるように作られていた。
ティプスタンは、マリの身体に寄りかかるように座っていた。
リリネアの回復魔法のおかげで、痛みはかなり引いている。
それでも、身体は重い。
無理をすれば、またすぐに崩れてしまいそうだった。
「そうかい、そうかい。モモネは無事だったかい」
クエンティンは、焚き火の前で、ほっとしたように頷いた。
ティプスタンは、刻継の里で起きたことを話していた。
「マー先生も無事でよかったわさ。あとはレヴィちゃんさえ見つかれば一安心だわさ」
リリネアが胸をなで下ろす。
「ひとまず、話の続きは茶を飲みながらにしよう」
クエンティンは、傍らの布袋から深い紅褐色の茶葉をひとつまみ取り出し、鉄瓶へ落とした。
ふわり、と香りが立つ。
香木のような深い香り。
その奥に、蜜のような甘さがわずかに混じっている。
ティプスタンは、その香りに目を瞬かせた。
「……これ、焔芯茶?」
「おや。知っているのかね?」
「はい。ルベッカ……仲間の看病をしていた時に、何度かいれたことがあります」
青白い顔で眠るルベッカ。
冷えた指先。
少しでも身体が温まるようにと、湯気の立つ茶を運んだ夜。
その記憶が、骸穴の冷たい空気の中でふいに胸を締めつけた。
「それはよい経験だ。吾輩はこの茶が好きでね。見つけると、つい飲みたくなる」
「でも、焔芯茶って……貴重なお茶なんですよね?」
「普通ならね。市場で買おうと思えば、なかなかよい値がつく」
クエンティンは湯飲みを片手に、煙管の先で岩棚の方を示した。
「だが、ここでは事情が違う。ほら、あそこを見たまえ」
「……え?」
ティプスタンは、クエンティンが指し示した先へ目を向けた。
岩の裂け目。
風の通る棚。
湿った石の隙間。
そこに、赤みを帯びた細い草が点々と根を張っていた。
葉先には、火の粉のような赤が宿っている。
「あれが……焔芯茶の原料になる草」
「うむ。焔芯草だね」
クエンティンは、鉄瓶から湯飲みに茶を注ぎ、ティプスタンへ差し出した。
赤みを帯びた茶の水面から、温かな香気が立ちのぼる。
「本来は、山脈の火脈が地表近くを走る、ごく限られた高地でしか育たない。寒い外気と地中の熱が交わる土地を好む、実に気難しい草だよ」
「だから高いんですね……」
「旅人や山岳兵、寒地の冒険者にはありがたい茶だよ。身体を芯から温め、冷えを払い、疲れた身体に火を戻してくれる。吾輩も、こういう湿った穴ではつい欲しくなる」
ティプスタンは湯飲みを両手で受け取った。
熱が、冷えた指先へじんわりと染み込んでいく。
ひと口飲む。
濃厚で、まろやか。
後味にほんの少し辛味があり、舌先に熱が残った。
喉から胸へ、ゆっくりと温かさが落ちていく。
落下で冷え切った身体の奥に、小さな火が灯るようだった。
「……温かい」
「微かな甘い香りと、飲んだあとに残る熱味。これが実に良い」
クエンティンは満足げに煙管をくわえた。
「湿気ばかりの穴だが、この中腹は風が通る。近くの火山脈の影響か、岩の奥には熱も残っている。寒気と地熱が混じるこの場所は、焔芯草にはよほど居心地がいいらしい」
ティプスタンは、赤い草が揺れる岩棚を見つめた。
希少なはずの薬草。
ルベッカの命をつないだ茶。
それが、ここでは当たり前のように生えている。
不思議で、少しだけ怖い。
けれど今は、その温かさがありがたかった。
焔芯茶の香りが、湿った岩場の匂いの中へほのかに広がっている。
「それにしても、よく無事だったね、君。普通なら、即死だよ。たぶん」
クエンティンが湯飲みを置き、改めてティプスタンを見る。
「穴に落ちてすぐに……黄色い光みたいなものが、身体に当たったんです」
ティプスタンは、記憶を辿りながら言う。
「それから、金色の靄みたいなものが身体にまとわりついて……急に、力がみなぎって。だから、必死で蔦にしがみつけました」
「あっ!」
リリネアが顔を上げる。
「それは、マイコーの強化術式魔法だわさ!」
「ルテウス・ドライヴ?」
「一時的に身体能力を限界まで引き上げる補助魔法なんだわさ。間に合ってよかったわさ。さっすがマイコーだわさ」
えっへん、とリリネアが胸を張る。
「マー先生ではなく、マイコーなのかね?」
「マー先生は愛用の武器を持つと、性格と見た目が変わるんだわさ。変身した時はマイコーなんだわさ。これが、すっごくカッコイイんだわ〜」
リリネアが興奮気味に語る。
「なるほど。人格ごとに呼称が分かれるのかね。実に魅力的な二重構造だ」
クエンティンは楽しそうに笑い、煙管を指先で回した。
だが、その笑みはすぐに薄くなる。
「しかし、骸場でアンデッドが六体も動き出したとはねぇ」
クエンティンの声が、少しだけ低くなった。
「骸場という場所は、おそらく魔鉱石を採取するための場所なのだろうけれど。まとめて六体も出現するのは、明らかに異常だね」
「そうなんですか?」
「ああ。普通はね」
クエンティンは煙管をくわえたまま、白い煙を細く吐く。
「魔鉱石を宿したモンスターは、まれにアンデッド化することがある。だが、魔鉱石程度の魔力で動く骸は鈍い。放っておけば、やがて崩れて骸へ戻る。普通なら、そこまで大きな脅威にはならない」
「じゃあ……どうして」
「十中八九、屍術師の仕業だろうねぇ」
「しじゅつし……?」
「骸を操る術師のことだよ」
クエンティンは煙管をくわえたまま、白い煙を細く吐く。
「複雑な術式。生物の構造。魔力循環への理解。そして、数えきれない実験。そういうものを積み上げなければ、骸は操れない」
「その屍術師は、骸場で何か試していたってことかいな?」
リリネアが眉を下げる。
「ううむ。数とタイミングを考えると、単なる実験というより、時限式発動魔法に近い気がするね」
「時限式……」
「誰かが、決められた条件で骸が動き出すように仕込んだ。そう考える方が自然かもしれないね」
ティプスタンは、真上を見上げた。
そこから大穴の入口は見えない。
ただ、蔦の網の隙間から光が漏れているだけだ。
みんなは無事だろうか。
マー教授。
フラット。
ローワン。
下層の人たち。
そして――レヴィ。
「早く、刻継の里へ戻らないと」
ティプスタンは湯飲みを握りしめた。
「レヴィも見つけないといけない」
クエンティンとリリネアが、顔を見合わせる。
ほんの少し、空気が重くなった。
「そうしたいのは、やまやまなのだがねぇ」
クエンティンは、煙管の灰を軽く落とす。
「ここから上へ戻る道は、ない」
「……え?」
「正確には、吾輩たちが安全に通れる道はない。落ちてきた穴へ戻るには、垂直の岩壁と崩れやすい蔦を登る必要がある。君の身体では無理だ。リリネアちゃんも、マリも連れてはいけない」
「じゃあ……」
「下へ進むしかない」
クエンティンは、キャンプ地の奥を顎で示した。
そこには、さらに深い空洞へ続く細い道がある。
風の音が、そこから流れ込んでいた。
「この大穴の最下層に、外へ抜ける横穴がある。吾輩たちはそこを目指しているのだよ」
「外へ……!」
「ただし」
クエンティンの声が、静かに沈む。
「そこには、主がいる」
☆
地下の道は、狭く、湿っていた。
壁には青白い苔が生え、足元では細い水が流れている。
マリが先頭を歩き、リリネアがその後ろに続く。
ティプスタンは、まだ身体が完全ではないため、マリの背に乗せられていた。
クエンティンは最後尾。
煙管から流れる白い煙が、暗がりの中で細い線を描いている。
「主って……どんなモンスターなんですか?」
ティプスタンが尋ねる。
「そうだねぇ……」
クエンティンは少し考えて答えた。
「三つ首の巨大な犬型アンデッドなんだがねぇ。ベースはグレイブクロウという黒い犬のモンスター。つまり、アンデッドケルベロスグレイブクロウ」
「長すぎるわさ」
「うむ。だから、リリネアちゃんと吾輩は、骸黒犬と名づけた」
「骸黒犬……」
「骸の山の中で眠っている。あれに気づかれないように、根元の横穴へ抜ける必要がある」
「倒せないんですか?」
リリネアが、ぶんぶんと首を振った。
「無理だわさ。あちきたちだけじゃ無理だわさ」
「骸黒犬単体だけなら、まだ対処のしようもあるんだがね」
クエンティンが言う。
「骸黒犬が従えているアンデッドモンスターの数が多すぎるのだよ」
やがて、道が開けた。
ティプスタンは息を呑む。
そこは、巨大な空間だった。
中央に、骸の山があった。
骨。
角。
牙。
腐った肉片。
何十年、いや、何百年分もの死骸が積み重なったような山。
岩壁の裂け目から差し込む光が、その一部だけを白く照らしている。
あちこちを流れる地下水路の音が、洞窟全体へ低く響いていた。
細い流れもあれば、濁った激流となって岩肌を削っている場所もある。
それなのに。
骸の山だけは、不気味なほど動きを感じさせなかった。
水音が絶えず響く空間の中で、そこだけが世界から切り離されているように見える。
「あれが……」
「そう。骸黒犬の寝床だ」
クエンティンは、地下水路を見下ろす岩棚の縁に立った。
岩棚のすぐ下では、濁った地下水が激しく流れている。
「あの骸山の根元に、外へ抜ける横穴がある。今はまだ――」
その時だった。
がたん、と遠くで音がした。
水路の向こう。
岩壁の穴から、松明の明かりが揺れながら現れる。
茶色い革鎧を着た兵士たち。
二十人ほどの小隊。
毛の長い牛が、荷馬車を引いている。
一台。
もう一台。
「おやおや?」
クエンティンが目を細めた。
「来客だ」
「刻継の里の兵士……?」
ティプスタンは身を乗り出す。
その中に、見覚えのある人物がいた。
刻継の里下層の分岐路で見かけた男。
イワネの腹心、カグロイ。
彼が、兵士たちへ短く指示を飛ばしている。
荷馬車は、骸山の根元を通ろうとしていた。
「まずいねぇ」
クエンティンが小さく呟いた。
次の瞬間。
メギャッ!
骸山の側面が、内側から脈打つように膨れ――弾けた。
積み重なっていた骨と腐肉が、滝のように崩れ落ちる。
骨の山を突き破り、巨大な黒い犬の頭が飛び出した。
グシャァッ!
開かれた顎が、毛の長い牛を胴から咥え込む。
骨が砕ける音。
肉が潰れる音。
血が、水路へ飛び散った。
「うわああああああっ!」
「な、なんだあれは!」
「隊列を崩すな!」
兵士たちの叫び声が、空間に反響する。
骸山が崩れる。
その中から、さらに二つの頭が現れた。
三つ首。
黒く腐った毛皮。
骨の浮いた巨大な脚。
眼窩の奥で燃える、濁った白い瞳。
骸黒犬。
その名の通り、骸を纏った黒い巨犬が、骸山の内側から這い出すように姿を現した。
その中央の頭――額の奥に、黒い石が埋め込まれていた。
魔石、ではない。
少なくとも、ティプスタンがこれまで見てきた紫の魔石とはまるで違っていた。
光を吸い込むような黒。
濡れた闇を固めたような艶。
その表面から、煙にも影にも見えるドス黒い靄が、じわじわと漏れ出している。
骸黒犬が息を吐くたび、その黒い石が脈打つように鈍く光った。
「……なんだ、あの石?」
ティプスタンは思わず呟いた。
クエンティンが目を細める。
「うむ。あれはただの魔石や魔鉱石ではないねぇ。リリネアちゃんと吾輩は、闇魔石と呼んでいるよ」
「闇魔石……」
「この骸山の淀みを、あそこまで縛りつけている核だろうね。骸黒犬がただのアンデッドではない理由も、おそらくあれだ」
骸黒犬の中央の頭が、低く唸った。
額の黒石から漏れた闇が、三つの首を伝い、腐った毛皮の隙間へ染み込んでいく。
そのたびに、骸の山の奥で骨が鳴った。
まるで、眠っていた死骸たちが、その黒い石の鼓動に呼応しているようだった。
「……骸黒犬」
ティプスタンの声が震える。
クエンティンが煙管をくわえ直す。
「これは好機だね」
「好機……?」
「あれが小隊に気を取られている今なら、骸山の根元へ近づける。急ごう。長引けば、骸山から雑多なアンデッドがぞろぞろ湧いてくる」
ティプスタンは、岩棚の下を見た。
兵士たちは混乱している。
牛を失った荷馬車が横倒しになり、積荷が散らばっていた。
叫び声。
怒号。
逃げ惑う人影。
「でも……あの人たちは?」
ティプスタンは言った。
クエンティンは、横目でティプスタンを見る。
「ティプスタン君」
その声は、静かだった。
「戦場で他人に同情していると、一番大切な人は守れないよ」
「そんな……」
「半端な同情で、大切な人を失う。吾輩は、そういう結末を何度も見てきた」
クエンティンの言葉は冷たい。
けれど、軽くはなかった。
ティプスタンは唇を噛む。
納得できない。
しかし、クエンティンが言いたいことは分かる。
分かってしまう。
今の自分は、まともに走ることすらできない。
骸黒犬と戦えるはずがない。
その事実が、喉の奥に苦く残った。
その時――
遠くから、声が聞こえた気がした。
「――キー!」
轟音に呑まれる。
地下水路の激流。
崩れる骨。
骸黒犬の唸り。
それでも。
確かに、聞き覚えのある声が聞こえた。
「……?」
ティプスタンは顔を上げる。
「アニキー!!」
今度は、はっきり聞こえた。
ティプスタンの目が見開かれる。
アニキ。
その呼び方をする者は、一人しかいない。
「レヴィ……?」
☆
レヴィは、壊れた木箱の残骸の中から這い出した。
藁。
果物。
砕けた板。
泥水。
全部がぐちゃぐちゃに混ざっている。
「いってぇ……なんだよ、これ……」
頭を振る。
木箱の中で息を潜めているうちに、いつの間にか寝ていた。
昨夜、カグロイたちの荷馬車に忍び込んだレヴィは、そのまま蛇骨の里まで行くつもりだった。
それが、気づけば荷台ごと投げ出されていた。
目の前では、巨大な三つ首の犬が暴れている。
兵士たちは完全に混乱していた。
だが、レヴィの目はそこには向かなかった。
骸山の向こう。
地下水路を挟んだ先の岩棚。
そこに、赤い髪が見えた。
深紅のマント。
見間違えるはずがない。
「アニキ……?」
胸が跳ねた。
生きていた。
ティプスタンが、生きていた。
それだけで、喉の奥が熱くなる。
「アニキー!」
レヴィは叫んだ。
だが、声は届かない。
激流の轟き。
骸黒犬の咆哮。
兵士たちの悲鳴。
すべてが、声を呑み込んでいく。
「おーい!!」
レヴィはさらに叫ぶ。
「アニキー!!」
必死だった。
だが、ティプスタンは気づかない。
いや。
気づきかけている。
岩棚の上で、こちらを探している。
その時。
ドクンッ。
レヴィの心臓が、嫌な音を立てた。
「っ……!」
熱い。
身体の内側を、火が舐めるような感覚。
首の後ろが焼けるように熱い。
息が詰まる。
同時に、レヴィの変化魔法が揺らいだ。
視界が歪む。
膝が笑う。
レヴィは、地下水路の向こうにある岩棚を見上げた。
「ア、アニキ……!」
その瞬間。
骸黒犬の巨体が、骸山を踏み砕いた。
骨と腐肉が、波のように崩れる。
三つの頭のうち一つが、兵士たちへ向けて吠えた。
グォォォォォンッ!
空気が震え、松明の火が大きく揺れる。
「ひっ……!」
兵士の一人が、足を止めた。
次の瞬間。
ドガシャァッ!
巨大な前脚が横殴りに振るわれ、兵士一人を巻き添えにして岩壁へ叩き込んだ。
轟音。
天井の一部が崩れる。
砕けた岩が、地下河川へ落ちた。
その衝撃で、水路が膨れ上がる。
濁流。
鉄砲水。
茶色く濁った水が、一気に岩場へ押し寄せた。
「――っ!」
レヴィの立っていた足場へ、水が叩きつけられる。
岩が砕けた。
身体が傾く。
咄嗟に、手を伸ばす。
指先が岩肌を掴む。
だが、濁流は容赦なく小さな身体をさらおうとする。
その時。
頭に巻いていた赤いバンダナが、激流に引きちぎられた。
「あっ……!」
紫の魔石が付いた赤い布。
変化魔法を支えていた魔導具。
それが濁流に呑まれ、渦に揉まれながら流されていく。
村人の少年の輪郭が、水に溶けるように崩れた。
泥と水飛沫の中で、変化が剥がれ落ちる。
褐色の肌。
黒い短髪。
長い耳。
ボロボロの茶色いマントを濡らした、小柄な亜人の少年の姿が、そこにはあった。
「くそ……!」
レヴィは必死に岩へしがみつく。
だが、水が重い。
腕が抜けそうになる。
首の後ろが焼ける。
「ティプスタン……!」
☆
赤い布が、激流の中から弾かれるように飛び出した。
濁流に揉まれながら、それは地下水路の流れに乗って運ばれてくる。
岩へぶつかり、水飛沫と一緒に跳ね上がった。
赤い布は、岩棚の縁に引っかかる。
水を含んだ布が、ずるりと岩の上へ滑り込む。
そして、ティプスタンの足元へ、ぺたりと張り付いた。
「……え?」
ティプスタンは、それを見下ろした。
泥水に濡れている。
それでも、分かる。
深い赤のバンダナ。
中央についた、紫色の魔石。
レヴィが頭に巻いていたもの。
「……レヴィ?」
反射的に顔を上げる。
地下水路の激流。
崩落。
流される木片。
暴れる骸黒犬。
その向こう。
砕けた岩場へ必死にしがみつく、小柄な人影が見えた。
濁流に引きずられている。
褐色の肌。
黒い短髪。
長い耳。
ボロボロの茶色いマント。
間違いない。
レヴィだった。
ティプスタンの目が、大きく見開かれた。
「――レヴィ!!」
その声に、レヴィが顔を上げた。
「アニキ……!」
だが、その瞬間。
レヴィの指が、岩肌から滑った。
「――っ!」
小さな身体が、濁流へ引き剥がされる。
茶色い水飛沫が跳ねた。
レヴィの姿が、激流の中へ呑まれていく。
「レヴィ――!!」
考えるより先に、身体が動いた。
胸元の赤い花弁は、まだ二枚残っている。
けれど、今の身体で使えばどうなるか分からない。
それでも。
「インスクリプト・ヴァーミリオン!!」
赤い光が、ティプスタンのマントに走る。
深紅のマントが、風もないのに大きく翻る。
疑似魔力が全身を駆け巡る。
視界が研ぎ澄まされる。
痛みが遠のく。
しかし、痛みが消えたわけではない。
ただ、疑似魔力が痛みを押し込め、壊れかけた身体を無理やり動かしているだけだった。
マリが低く唸った。
リリネアが息を呑む。
「あの光は……」
クエンティンが、静かに呟いた。
青い瞳に、初めて明確な驚きが宿る。
「ティプスタン君、待つわさ!」
リリネアの声。
クエンティンの伸ばした手。
どちらも間に合わない。
ティプスタンは岩棚の縁を蹴った。
マントが、大穴の闇へ赤い軌跡を描く。
眼下には、轟く濁流。
その中に、流されていくレヴィの姿がある。
骸黒犬の咆哮が、空間を震わせる。
それでも、ティプスタンはレヴィだけを見ていた。
紅の光が、濁流へ飛び込んだ。
☆21話に続く☆




