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第17話『閉ざされた郷へ』

 小雨が降っていた。


「ここは……いったい……」


 ティプスタンは、ぬかるんだ地面の上にいた。


 そこは、見知らぬ森だった。


 細く高い木々が空を覆うように生い茂り、見上げれば、長い蔦が幾重にも絡み合って、灰色の空を網のように塞いでいた。


 地面は湿っている。


 踏みしめるたび、靴裏が浅く沈んだ。


 風の音はない。


 動物の鳴き声もない。


 静寂の回廊林に似ている――だが、違う。


 空気そのものが重く、肌に貼りついて離れない。


「レヴィ……? マー教授……? リリネアさん……?」


 返事はない。


 ティプスタンの胸に、不安がじわりと広がっていく。


 その時だった。


 背後の草むらが、がさりと揺れた。


「……っ!」


 ティプスタンは反射的に身構えた。


 深紅のマントを翻し、小盾と剣を構える。


 だが、草むらの奥から現れたのは――。


「おや? ティプスタン君?」


「マー教授!」


 見慣れた丸眼鏡の青年、マー教授だった。


 マー教授は落ち着いた様子で、葉の付いた前髪を軽く払う。


 ティプスタンは、心底ほっとして駆け寄った。


「よかった……! マー教授、無事だったんですね!」


「ええ。少々驚きましたが、怪我はありません」


「ここはどこなんでしょう? 何が起きたんですか? レヴィとリリネアさんは……?」


 言葉が次々とこぼれる。


 自分でも混乱しているのが分かった。


 だが、マー教授は意外なほど冷静だった。


「うーん……」


 顎に手を当て、周囲を見回す。


 木々。


 湿った空気。


 見覚えのない植物。


 そして、自分たちが立っている場所。


 しばらく考えたあと、マー教授は静かに言った。


「おそらくは、転移したと考えられます」


「転移……?」


「ええ」


 マー教授は頷いた。


「あの遺跡にあった円環の石畳。あれは、もとは空間転移に利用されていた転移ポータルだとされています」


「空間転移……転移ポータル……?」


 聞き慣れない言葉に、ティプスタンは眉を寄せた。


「つまり、遠い場所へ一瞬で移動するための装置のようなものです」


「そ、そんな便利なものがあるんですか?」


「あります。ただし、莫大な魔力を消費するため、通常は使われません」


 マー教授はそこで一度、言葉を切った。


 小雨が、眼鏡の縁に小さな水滴を作っている。


「それに、転移する者同士は、必ず互いの身体の一部に触れている必要があります。手を握る、肩に触れる、服を掴む――何でも構いません。そうしていないと、転移先がばらばらになることがあるのです」


「ばらばらに……」


「最悪の場合、まったく違う場所に飛ばされる可能性もあります」


 ティプスタンの顔から血の気が引いた。


 あの時。


 皆既日食を見上げていた。


 ティプスタンも、レヴィも、マー教授も、リリネアも。


 誰も、誰の身体にも触れていなかった。


「じゃあ……レヴィとリリネアさんは……」


「私たちと同じ場所にいるとは限りません」


「そ、そんな……」


 ティプスタンは言葉を失った。


 胸の奥が、ぎゅっと縮む。


 レヴィとリリネアはどこにいるのか。


 それに、ルベッカのことも気になる。


 考えれば考えるほど、不安は膨らんでいく。


 けれど、マー教授は表情を崩さなかった。


「しかし、疑念もあります」


「疑念?」


「はい。あの遺跡の転移ポータルは、どれほど魔力を流しても、本来は機能しないはずでした。機構そのものが欠損していたからです」


「じゃあ、どうして……」


「それが分かりません」


 マー教授は空を見上げた。


 厚い雲に覆われ、太陽は見えない。


「月が特別な形を成した時、魔力が高まるという例は、伝承や古文献にいくつか見られます。もしかすると、百年に一度の皆既日食が、何らかの異常な現象を引き起こしたのかもしれません」


「皆既日食が……」


「ええ。ですが、今は原因の究明よりも優先すべきことがあります」


 マー教授はティプスタンを見る。


「レヴィ君とリリネアさんとの合流。そして、ここがどこなのかを把握することです」


「……はい」


 ティプスタンは頷いた。


 不安は消えない。


 けれど、立ち止まっているわけにはいかなかった。


 二人は、小雨の降る森の中を歩き出した。




 

 しばらく進むと、遠くから犬の吠え声が聞こえてきた。


 だが、その声は普通の犬とは違っていた。


 濁っている。


 水を含んだ泥の奥から響いてくるような、嫌な吠え声だった。


 ティプスタンとマー教授は顔を見合わせ、その方向へ向かった。


 木々の間を抜けると、少し開けた場所に出る。


 川沿いの岩場だった。


 雨で濡れた岩が、鈍く光っている。


 その中央で、一人の戦士らしき男が、数匹の大きな犬に囲まれていた。


 いや、犬と呼ぶには異様だった。


 全身に泥を被ったような毛並み。


 濁った目。


 異様に長い爪。


 口元からは、泥水のような唾液が垂れている。


「あれは……マッドクロウ」


 マー教授が低く呟いた。


 戦士の男は、一人でマッドクロウの群れを相手にしていた。


 黒い革鎧には重厚な金属補強が施され、肩当ては分厚い。


 背には裾の裂けた黒いマントを羽織り、片手には黒鉄色の巨大な武器。


 両刃斧のような刃と、槌の重みを併せ持つ破鎚斧はついふ


 もう片方の腕には、身体の半分以上を覆う黒鉄色のタワーシールドを構えていた。


 攻めにも守りにも優れた、重戦士の装備だった。


 しかし、男は明らかに疲弊している。


 呼吸は荒い。


 すでに何度も襲撃を受けたのだろう。


 泥と血が、服のあちこちに滲んでいた。


 その瞬間、一匹のマッドクロウが飛びかかった。


「ぐっ……!」


 男は盾を構えたが、足元に力が入らなかった。


 仰向けに倒される。


 そこへ、もう一匹が喉元を狙って襲いかかった。



 皇流短剣盾術すめらぎりゅう・たんけんじゅんじゅつ――《いちつき



 針のようにまっすぐ伸びた両刃が、雨を受けて鈍く光った。


 ドシュッ!


 鋭い突きが、マッドクロウの胸元を貫く。


 泥を含んだような血が飛び散った。


 コフッ……ゴプァッ!


 マッドクロウは短く吠え、地面へ崩れ落ちる。


「大丈夫ですか!」


「……助かる!」


 戦士の男が身を起こした。


 だが、安心する暇はなかった。


 周囲の草むらが、次々と揺れる。


 新たなマッドクロウが、三匹、四匹と姿を現した。


「ふんっ!」


 マー教授も、背中に抱えた斧型ギターで応戦する。


 だが、マッドクロウは素早い。


 斧の刃は空を切り、敵を遠ざけるだけに留まった。


「数が多いですね……!」


 ティプスタンは小盾と剣を構え直す。


 スメラギ・ソウイチロウから譲り受けた剣、直継なおつぐは、一対一でこそ真価を発揮する武器だ。


 細く、軽く、急所を穿つことに特化している。


 だが、横薙ぎには向かない。


 複数の敵をまとめて払うこともできない。


 マッドクロウのように素早い相手が群れで襲ってくる状況は、相性が悪かった。


 雨は少しずつ強くなっていた。


 空は暗い。


 濡れた岩場は足場が悪く、思うように踏み込めない。


 ティプスタンはちらりと、マー教授の武器を見る。


 《雷鳴斧弦らいめいふげんルテウス》


 魔石を使用しない魔導具。


 術式魔導具の武器だ。


 星紡ぎの樹のもとで花見をした際、ティプスタンはその武器に興味を持ち、マー教授に色々と質問をした。


 その時、マー教授は言っていた。


『この武器は非常に強力ですが、扱いが難しく、威力や効果が天候に左右されます。天気が悪い状況では、斧としてしか使えません』


 天候さえ良ければ、マー教授はマイコーになれる。


 いや、マイコーになる必要はないのだけれど、音波でモンスターの動きを封じられる。


 あの能力はかなり強力だ。


 しかし、今は使えない。


 光の届かない曇り空。


 さらには雨。


 ルテウスの力は封じられていた。


 三人はじりじりと後退する。


 背後には大きな岩。


 逃げ場が狭まっていく。


 マッドクロウたちが、低く唸った。


 そして数匹が一斉に飛びかかってきた。


 その時――。


 ひゅん、と空気を裂く音がした。


 数本の矢が、マッドクロウたちを射抜く。


「囲め!」


 鋭い号令が飛んだ。


 剣と槍を持った兵士たちが、雨の中から現れる。


 十人ほどの小隊だった。


 盾を構えた者が前に出て、槍持ちが隙間を突く。


 弓兵が後方から援護する。


 統率の取れた動きだった。


 マッドクロウたちは次々と倒されていく。


 数匹は兵士たちの隙間をすり抜け、森の奥へ逃げていった。


 戦いは、あっという間に終わった。


 遅れて駆けつけた兵士たちが、倒れたマッドクロウを確認していく。


 そのうちの一人が、戦士の男へ駆け寄った。


「隊長、ご無事ですか!」


「ああ。そっちは?」


「フラット隊は予定通り分岐路へ向かわせました。負傷者も、今のところ命に別状はありません」


「そうか」


 男は、短く息を吐いた。


 その表情に安堵が滲む。


 ティプスタンは息を整えながら、濡れた直継を下ろした。


 戦士の男が、こちらへ深く頭を下げる。


「助かった。礼を言う」


 その男は、無骨な顔立ちをしていた。


 剃り上げられた頭。


 太く濃い眉と、鋭い眼光。


 頬や額には、古傷のような細い傷跡がいくつも刻まれている。


 顎には短く整えられた黒い髭。


 肩幅は広く、全身が分厚い筋肉に覆われていた。


 まるで、巨大な城壁がそのまま人の形を取ったようだった。


「俺はローワン。この隊の隊長を務めている」


「僕はティプスタンです」


「マー・マイコーと申します」


 マー教授が穏やかに会釈する。


 ローワンは二人の装備を見て、少し目を細めた。


 だが、すぐには何も言わなかった。





 雨はおさまりつつあった。


 けれど、空にはまだ暗雲が垂れ込めている。


「改めて、礼を言う」


 山道の歩きやすい場所を進みながら、ローワンは言った。


 ティプスタンとマー教授、そしてローワンが先頭を歩く。


 背後では、数人の部下が押しぐるまを引いていた。


 そこには、先ほど襲ってきたマッドクロウの死体が乗せられている。


 それだけではない。


 尾が鞭のように長い、猿に似たモンスターの死骸も混ざっていた。


「見かけない服装ですな」


 ローワンが言った。


「もしや、外界から来たのですかな?」


 マー教授は少しだけ考えた。


 すべてを話すべきか。


 ある程度伏せるべきか。


 そう判断しているようだった。


 やがて、静かに答える。


「……そうです」


「ふむ」


 ローワンの表情が、ほんのわずかに曇った。


 それは警戒というより、気の毒がるような顔だった。


 マー教授はすかさず尋ねる。


「ローワンさん。赤いバンダナをした少年と、ピンク色の髪をした小さな女の子を見かけませんでしたか?」


「お仲間ですか?」


「はい」


「いや、見かけておりませんな」


 ローワンは首を横に振った。


 ティプスタンの胸が沈む。


 だが、ローワンは続けた。


「里に戻ったら、巡回部隊にも伝えておきましょう。見かけた者がいれば、すぐ報告させます」


「ありがとうございます」


 マー教授が頭を下げる。


 ティプスタンも慌てて続いた。


「ありがとうございます!」


 しばらく進むと、分かれ道に差しかかった。


 そこには、茶色の革鎧を着た五人の兵士が立っていた。


 そのそばには、ローワンの小隊が引いているものと同じ押しぐるまが一台置かれている。


 上には、同じようにモンスターの死骸が重ねられていた。


 五人の装備は、ローワンの小隊とはずいぶん違っている。


 服も鎧も少しくたびれ、泥や擦れ跡が目立つ。


 その中央にいたのは、猫型の獣人の女だった。


 茶トラの毛並みに、大きな猫耳。

 

 長く太い尻尾が、雨に濡れてゆっくり揺れ、腰には爪状の武器を下げている。


 緑色の縦長の瞳が、ローワンを見た。


「フラット!」


 ローワンの声が、少しだけ明るくなった。


 猫型の獣人――フラットが振り向き、片手を上げる。


「なんだ、ローワン。生きてたのか」


「お前な……」


 ローワンは苦い顔をした。


 だが、その視線はすぐにフラットの全身を確かめるように動く。


 二人は短く言葉を交わす。


 フラットはちらりとティプスタンたちを見た。


 興味深そうな視線だったが、深入りはしてこなかった。


 やがて、ローワンの小隊が引いてきた押しぐるまを、フラットの部下たちが引き継いだ。


「じゃ、こっちは下ろしとく」


「ああ」


 フラットは軽く手を振り、四人の部下と共に二つの押しぐるまを押して、下りの道を歩いていった。


 尻尾が大きく揺れている。


 ローワンはしばらくその背中を見ていた。


 だが、すぐに表情を引き締め直す。


「行きましょう」


 ティプスタンたちは、上りの道を進んだ。


 やがて、霧の向こうに大きな橋が見えてきた。


 そして、その向こうに――。


「……街?」


 ティプスタンは思わず呟いた。


 高所に浮かぶ城のような里があった。


 下から霧が立ちのぼり、まるで雲の上に築かれているように見える。


 石造りの建物。


 張り巡らされた通路。


 高い塔。


 山奥にあるとは思えない、奇妙な美しさを持つ里だった。


 橋の前には兵士が二人立っている。


 そこで、ローワンは橋の前の兵士から、中指ほどの長さの平たい水晶板のようなものを受け取った。


 そして、それをティプスタンとマー教授の前に差し出す。


「これに触れてください」


「これは?」


「危険はありません。ただの決まりですので……どうか」


 ローワンの顔は、わずかに張り詰めていた。


 マー教授は一瞬だけ目を細めたが、素直に指先で触れた。


 続いてティプスタンも触れる。


 水晶板の内側に、淡い光が揺れた。


 一瞬――。


 ローワンの指がわずかに強張る。


 だが、光はすぐに消えた。


 それを見て、ローワンはほっと息を吐いた。


 次に、隊員たちも次々とその板に触れていく。


 触れる側も、触れさせる側も。


 皆、終わるたびに安堵した顔をしていた。


「あれは何ですか?」


 マー教授が尋ねる。


「五渦の識晶です」


「ごかのしきしょう……」


「五精霊の呪怨を受けていないか識別する道具です」


 その言葉に、ティプスタンとマー教授は同時に反応した。


「五精霊の呪怨……」


「呪怨を受ければ、身体のどこかに呪印が浮き出る。だが、隠す者もいる。これなら一発で分かります」


 ローワンは、五渦の識晶を橋の兵士へ返して言った。


「しかも、五精霊のうち、どの呪怨を受けているかも分かる。刻継の里上層に入るには、最低限、五精霊の呪いを受けていないことが条件です」


「一度、上層を出た者もですか?」


 マー教授が問う。


「もちろんです」


 ローワンは当然のように答えた。


「外で呪いを受ける可能性がありますから」


 ティプスタンは思わず口を開いた。


「五精霊の呪いを受けていると、どうして入れないんですか?」


 ローワンがきょとんとする。


 まるで、そんなことを聞かれるとは思っていなかったような顔だった。


「呪いが伝染すると言われているからです」


「でも、ルベッカは伝染しないって言ってました」


 ティプスタンは即座に返した。


 ローワンの眉がわずかに動く。


 マー教授が、そっとティプスタンの肩に手を置いた。


「ティプスタン君」


「あ……」


 ティプスタンは口を閉じる。


 ローワンはしばらくティプスタンを見ていた。


 怒った様子はない。


 ただ、複雑な目だった。


「……ここでは、そう信じられています」


 静かに、ローワンは言った。


 それ以上は語らなかった。


「――では、参りましょう」


 ローワンが橋へ足を向ける。


 ティプスタンとマー教授も、それに続いた。


 少し進んだ、その時だった。


 世界が一変した。


 背後に残された霧が、境界のように途切れる。


 一歩、踏み出す。


 ――静けさが、消えた。


 水の音。


 木を打つ音。


 遠くで鉄を打つ槌音。


 畑から届く短い掛け声。


 音が重なる。


 人の気配が押し寄せる。


 ティプスタンは思わず足を止めた。


「……これは」


 賑やかだった。


 だが、騒がしくはない。


 人々は忙しなく動いている。


 荷物を運ぶ者。


 鉄を打つ者。


 畑を耕す者。


 人の営みが、乱れなく巡っている。


 活気と秩序が、同時に成立していた。


 これまでの湿った静けさとは、まるで違う。


 けれど、しばらく歩くうちに、ティプスタンは別の違和感を覚えた。


 人は多い。


 兵も、職人も、荷を運ぶ者もいる。


 だが、その姿はどれもヒューマンに見えた。


 獣人の耳も尾もない。


 エルフの長い耳も、ドワーフの小柄で頑健な体格も見当たらない。


 亜人らしい特徴を持つ者の姿もない。


 ティプスタンは、先ほど分岐路で別れたフラットの姿を思い出した。


 あの猫型の獣人は、上層ではなく下りの道へ向かっていった。


 そのことが、今さら妙に引っかかった。


「あの、ローワンさん」


「何でしょう」


「ここには、ヒューマンしかいないんですか?」


 問いかけた瞬間、ローワンの表情がわずかに硬くなった。


 言葉に詰まったように、彼は少しだけ視線を逸らす。


「いえ……下層の里には、ネクロクレイマンもいます」


「下層の里……」


「ここ、刻継こくけいの里は、上層と下層に分かれております。しかし、そのいずれにも、ヒューマンとネクロクレイマン以外の種族はおりません」 


 ローワンの声は低かった。


 説明しているというより、言いづらい事実を慎重に置いているようだった。


 ティプスタンは眉を寄せる。


「純粋な獣人やエルフ、ドワーフ、亜人はいないのですか?」


 マー教授が尋ねた。


「いません」


 短い答えだった。


 それ以上、ローワンは続けようとしない。


 ティプスタンは、先ほど分岐路で別れたフラットの姿を思い出した。


 猫耳と太い尻尾を持つ、獣人の女性。


 だが、この里に純粋な獣人はいないという。


 では、彼女は――。


 そこまで考えて、ティプスタンは言葉を飲み込む。


 ティプスタンにはもう一つ、前々から気になっていたことがあった。


「僕も、ネクロクレイマンなんです」


 ローワンの足が止まった。


 ティプスタンは、自分の胸元に手を当てる。


「ヒューマン型の、ネクロクレイマンです。ネクロクレイマンって、獣人やエルフ、ドワーフ、亜人のタイプもいて……外見だけだと見分けがつかないんですよね?」


 ローワンは、しばらくティプスタンを見ていた。


 驚きというより、言葉を選んでいる顔だった。


 代わりに答えたのは、マー教授だった。


「ええ。ネクロクレイマンは、外見上は他種族とほとんど変わらないことがあります。ヒューマン型ならヒューマンに、ドワーフ型ならドワーフに見える。獣人型なら獣人として暮らしていても、周囲が気づかない場合もあります」


「では、どうやって見分けるんですか?」


 ティプスタンが尋ねる。


 マー教授は少しだけ考えた。


 不用意な言い方を避けるように、穏やかな声で続ける。


「いくつか方法はあります。最も確実なものの一つは、へその有無です」


「へそ?」


「ええ。ネクロクレイマンは母胎を経由して生まれるわけではありません。ですから、臍帯の痕跡がない。腹部の皮膚は自然に繋がっていて、臍が存在しないのです」


 ティプスタンは、思わず自分の腹のあたりを見た。


 もちろん、服の上からでは分からない。


「ただし、これは通常、衣服で隠れている部分です。公の場で確認されることはまずありません」


 マー教授は続ける。


「ほかには、顔立ちです。ネクロクレイマンの肉体は、自然成長というより“構築”に近い形で形成される。そのため、目の位置、耳の高さ、鼻筋、顎の形などに、生物特有の微妙な左右差が少ないことがあります」


「左右差……」


「はい。美しい、整っている、と受け取られることもあります。ですが、観察眼の鋭い者には、整いすぎていて、かえって不気味に映ることもある」


 ティプスタンは黙った。


 自分の顔を、そこまでじっくり見てはいなかった。


 けれど、誰かにそう見られているかもしれないと思うと、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。


「手のひらを見る者もいます」


 今度はローワンが、低い声で言った。


 ティプスタンが顔を上げる。


「ネクロクレイマンの手のひらには、深い皺や複雑な掌紋が少ないとされています。胎児期を経ていないためだと聞きます」


 ローワンは自分の革手袋を見下ろした。


「古い時代には、それを“魂を持たぬ者の手”などと呼んで恐れた者もいたそうです」


 その言葉には、かすかな苦味があった。


「……魂を持たぬ者」


 ティプスタンが小さく呟く。


 マー教授は静かに頷いた。


「ひどい話です。ですが、偏見とはそういうものです。知らないものを、自分の都合のよい恐怖に置き換える」


 ティプスタンは黙り込んだ。


 自分の手のひらを見下ろす。


 自分は何者なのか。


 どこから来て、何のために生まれたのか。


 そうした哲学的な問いを、ぼんやりと思索したことはあった。


 けれど、自分の身体そのものが、誰かに恐怖や嫌悪を抱かせるかもしれない――そんなふうに考えたことは、一度もなかった。


 誰かにはこの手が、“魂を持たぬ者の手”に見えるのかもしれない。


 そう思った瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。


「……ローワンさん」


 ティプスタンはゆっくりと顔を上げた。


「この里でも、ネクロクレイマンは……そういう目で見られているんですか?」


 ローワンは、すぐには答えなかった。


 険しい顔つきは変わらない。


 だが、その沈黙には、どこか言いづらそうな気配が滲んでいた。


「この里では……」


 やがて、ローワンが低く口を開く。


「十年ほど前までは、上層にもネクロクレイマンが多く暮らしていました」


「え……?」


「ヒューマンと共に働き、学び、里を守っていた者もいます。ですが、病と、五精霊の呪怨が広がり始めてから状況が変わりました」


 ローワンの声が、さらに低くなる。


「呪怨を受けた者。病に倒れた者。身体に異変が現れた者。そうした者たちは、下層へ移されるようになりました」


「移された……?」


 ティプスタンの胸がざわつく。


 マー教授も眉をひそめる。


「それは、隔離ですか」


 静かな問いだった。


 ローワンはすぐには答えなかった。


 歩く足音だけが、水路の音に混ざる。


「……上層の者たちは、保護と呼びます」


 ローワンは、苦々しく言った。


「ですが、下層へ移された者たちに、上層へ戻れた者は、ほとんどいません」


 ティプスタンは言葉を失った。


 上層の整った通路。


 水路。


 工房。


 規則正しく働く人々。


 そのすべてが、急に違って見えた。


 整っているのではない。


 分けられている。


 そう感じてしまった。


「こちらです」


 ローワンの声で、ティプスタンははっとした。


 通路の先に、一つの屋敷が見えていた。


 他の建物よりもやや大きいが、派手さはない。


 むしろ、簡素で実務的な造りだった。


 門前には数人の兵が控えている。


 ローワンが近づくと、そのうちの一人が屋敷の中へ走った。


 ほどなくして、奥から一人の男が現れる。


 小太りの中年男だった。


 深緑と錆色を基調にした和装寄りの上層服をまとい、黒髪に白髪の混じった髪を後ろへ撫でつけている。


 丸い顔には柔らかな笑みが浮かんでいた。


 だが、細い目の奥は笑っていない。


 笑顔のまま、相手を値踏みするような視線だった。


 そして、その男の半歩後ろには、もう一人。


 長めの金髪を後ろへ流した細身の男が、静かに立っていた。


 黒革主体の装備。


 擦り切れた黒い外套。


 腰にはサーベル。


 左頬には古い刀傷が一本走っている。


 視線だけで周囲を黙らせるような、冷たい威圧感があった。


 小太りの男が、にこやかに口を開く。


「ローワン殿。お戻りでしたか」


「はい。危ないところを、この方たちに助けていただきました。外界の冒険者の方々です」


「それはそれは」


 男は穏やかに目を細めた。


「刻継の里上層にて、里長ユキナガ様の補佐を務めております。クマシゲと申します」


「ティプスタンです」


「マー・マイコーと申します」


 マー教授が丁寧に会釈する。


 クマシゲは柔らかく頭を下げた。


 その仕草は穏やかだった。


 しかし、ティプスタンはなぜか、ほんの少しだけ背筋が冷えるのを感じた。


「こちらは、サンサロ」


 クマシゲが隣の男を示す。


「私の腹心です」


 サンサロは無言で軽く頭を下げた。


 その鋭い三白眼気味の目が、ティプスタンとマー教授を順に見る。


 観察されている。


 ティプスタンはそう感じた。


 敵意はない。


 だが、隙を見せれば即座に斬られるような緊張感があった。


「識晶は?」


 クマシゲが尋ねる。


「問題ありません」


 ローワンが答える。


「そうですか。それは何より」


 クマシゲは微笑んだ。


 だが、その視線がティプスタンの顔に止まった瞬間、ほんのわずかに細い目が開いた。


 一瞬だった。


 すぐに穏やかな表情へ戻る。


「ユキナガ様へお取次ぎいたしましょう。外界より来られた方となれば、まずはお話を伺う必要がございます」


 クマシゲは近くの従者へ目配せした。


 従者は一礼し、屋敷の奥へ消える。


 しばらくして戻ってきた。


「ユキナガ様がお会いになるとのことです」


「では、ご案内いたしましょう」


 クマシゲが言う。


 そこでローワンが、ティプスタンたちへ向き直る。


「俺はここまでです。部隊の報告と、外の巡回の手配がありますので」


「あ、はい。ありがとうございました」


 ティプスタンが頭を下げる。


「レヴィ君とリリネアさんの件、よろしくお願いします」


 マー教授が言う。


 ローワンは重々しく頷いた。


「必ず伝えておきます。見つかり次第、知らせましょう」


 そう言い残し、ローワンは部下たちを連れて屋敷の前から離れていった。


 黒いマントの裂けた裾が、雨上がりの風にわずかに揺れる。


 その背中は、やはり壁のように大きかった。


「では、こちらへ」


 クマシゲが柔らかく促す。


 ティプスタンとマー教授は、クマシゲとサンサロに導かれ、屋敷の中へ入った。





 廊下は静かだった。


 外の賑わいが、嘘のように遠ざかる。


 歩くたび、木の床がかすかに軋む。


 クマシゲは振り返らない。


 小太りの身体を揺らしながら、しかし足取りは意外なほど静かだった。


 その後ろを、サンサロが続く。


 気配が薄い。


 背後から常に監視されているような感覚があった。


「外界からのお客様は、実に珍しい」


 歩きながら、クマシゲが言った。


「この地は、長く閉ざされておりますゆえ」


 クマシゲは穏やかに笑う。


 やがて、奥まった扉の前でクマシゲは足を止めた。


 両脇には兵が二人立っている。


 クマシゲは静かに振り返った。


「この先に、ユキナガ様がおられます」


 そう言って、柔らかく微笑む。


「では、私はここで」


 その横で、サンサロが一歩前へ出た。


「あとは、私が同行致します」


 低い声だった。


 クマシゲは軽く頷く。


「サンサロ殿は、ユキナガ様の警護も兼ねておりますので」


 サンサロは扉へ手をかけた。


 その先に――。


 そこには、一人の人物が静かに佇んでいた。


 ヒューマンではない。


 細く長い耳は、エルフを思わせた。


 だが、その身体はひどく痩せ細っている。


 青と白の混じった長い髪を低い位置で束ね、頬はこけ、皺は深く、肌は青白い。


 老齢という言葉だけでは足りない。


 長く存在しすぎたものが、少しずつ削ぎ落とされていったような姿だった。


 ティプスタンは思わず、その耳を見た。

 

 細く長い耳。

 

 だが、ローワンは言っていた。

 

 この里に、純粋なエルフはいない、と。


 サンサロは部屋の端へ移動し、壁際に立った。


 護衛として、ユキナガの斜め後ろを守る位置だった。


「ローワンを助けていただき、感謝致します」


 低く乾いた声だった。


 男はそう言って、深々と頭を下げた。


「刻継の里上層を預かる、ユキナガと申します」


 静かに名乗る。


「冒険者の方だそうですが、どちらから来られたのですか?」


 ユキナガが尋ねる。


 マー教授は丁寧に答えた。


「第三星腕国家、ククルシア共和国からです」


 ほんのわずかに、間が空いた。


「……そうですか」


 ユキナガは静かに頷く。


 その表情から感情は読めなかった。


 マー教授は続ける。


「実は、私たちは転移ポータルによって、ここに飛ばされた可能性がありまして……」


「転移ポータル……」


「帰る方法を探しています」


 ユキナガはしばらく沈黙した。


 屋敷の中は静かだった。


 外の賑わいは遠く、今は雨音だけがかすかに聞こえる。


 やがて、ユキナガはゆっくりと言った。


「ここ玄冥郷は、外界から閉ざされた地です」


 その声は、重かった。


「少なくとも、我々の知る限り――玄冥郷へ入った者が、外界へ戻った例はありません」


「そんな……」


 ティプスタンは思わず立ち上がりかけた。


 ルベッカの顔が脳裏に浮かぶ。


 冷えきった手。


 白い吐息。


 弱々しい呼吸。


 まだ、メリシア邸で苦しんでいるに違いない。


「帰れないなんて……そんなの……!」


「玄冥郷……まさか、そんな……」


 マー教授もまた、珍しく動揺を見せていた。


 ティプスタンはマー教授を見る。


「げんめいきょう?」


「玄冥陰蛇の発祥の地とされる場所です」


 マー教授は、眼鏡の奥の目を揺らしながら答えた。


「そして――五界使徒思想の始まりの地と伝えられる幻のさと


 今度はユキナガが、わずかに首を傾げた。


「ごかいしと……?」


 マー教授はその反応に違和感を抱き、口を閉じた。


 外界で知られる伝承と、この地に住む者たちの認識が一致していない。


 しかし、ティプスタンはそれどころではなかった。


「なんとか帰る方法はないんですか? 僕たち、帰らないといけないんです。ルベッカが……ルベッカが大変なんです!」


「ティプスタン君、落ち着いてください」


 マー教授がなだめる。


 だが、ティプスタンの焦りは収まらない。


 マー教授はユキナガへ向き直った。


「せめて、この地に転移ポータルのようなものはありませんか?」


「転移ポータル、ですか」


「円環の石畳のような場所です。古い遺跡によく見られるものなのですが……」


 ユキナガは、ふむ、と小さく息をついた。


「遺跡ということでしたら、禁足地によく見られます」


「禁足地……」


「そこに住む蛇骨の里の民ならば、何か知っているかもしれません」


 ティプスタンはすぐにマー教授を見た。


「行きましょう、マー教授!」


「待ってください」


「でも!」


「今すぐ動くのは危険です」


 マー教授の声は穏やかだったが、強かった。


 ユキナガも静かに言う。


「この天気です。加えて、もうじき夜になります。禁足地はただでさえ危険な場所。夜に向かうべきではありません」


 ユキナガの言葉に合わせるように、外では再び雨脚が強まっていた。


 屋敷の屋根を打つ雨音が、先ほどよりもはっきりと響き始める。


「……っ」


 ティプスタンは唇を噛んだ。


 行きたい。


 今すぐにでも。


 だが、自分一人で飛び出したところで、何ができるのか。


 レヴィもリリネアも見つかっていない。


 この地のことも何も分からない。


 焦れば、余計に事態は悪くなるだけかもしれない。


 マー教授が静かに頷いた。


「今夜は、こちらでお世話になりましょう。明日、改めて行動を考えます」


 ティプスタンは拳を握りしめた。


 悔しかった。


 怖かった。


 ルベッカのもとへ戻れないことが、たまらなく不安だった。


 それでも、今は耐えるしかない。


「……はい」


 こうして、ティプスタンとマー教授は刻継こくけいの里上層に留まることになった。


 雨音は、夜が近づくほどに強くなっていく。


 まるでこの郷そのものが、外へ出る道を閉ざしているかのようだった。


 その雨音の向こうで、ルベッカの苦しげな息づかいが聞こえた気がした。



☆18話に続く☆

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