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第16話『沈みゆく君に願いを』

 メリシア邸の二階、北向きの一室。

 

 ルベッカの寝室は、昼だというのに薄暗かった。

 

 厚手のカーテンは半ば閉じられ、窓の隙間から差し込む光だけが、かろうじて床を照らしている。

 

 室内には、湯を入れた器や温めた布がいくつも並べられていた。

 

 毛布も何枚も重ねられている。

 

 それでも――ベッドに横たわるルベッカの身体は、異様なほど冷たかった。

 

 倒れてから、丸二日。

 

 症状はまったく良くなっていなかった。

 

 呼吸は浅い。

 

 胸はかすかに上下しているのに、その動きはひどく弱々しい。

 

 頬は青白く、色を失っている。

 

 唇は乾き、細かなひびが入っていた。

 

 眼鏡は外され、いつものポニーテールもほどかれている。

 

 紺がかった長い髪は枕の上に静かに広がり、白い寝間着の胸元だけが、かすかに上下している。

 

 その小さな動きがなければ、眠っているのかさえ分からなかった。

 

 寝間着の合わせ目は少し乱れ、左胸のあたりがわずかに覗いている。

 

 そこには、黒く焦げついたような小さな紋様があった。

 

 中央に渦を思わせる印。

 

 その周囲を、水の流れのような意匠が囲んでいる。

 

 それは、水精霊アクアの呪印だった。

 

 そして、そのすぐそばにもうひとつ。

 

 呪いとは別の、けれど同じように消えないものがあった。

 

 肌を断ち切るように残った、古い傷跡だった。

 

 ティプスタンは、その傷を一度だけ見たことがある。

 

 風呂場にて、湯気の向こうに見えてしまった傷。

 

 その時は、ただ見てはいけないものを見てしまった気がして、慌てて目を逸らすことしかできなかった。

 

 けれど今は違う。

 

 その傷も、呪印も、ルベッカが背負ってきたものなのだと分かってしまう。

 

 それが、胸を締めつけた。

 

 ルベッカの口元からこぼれる息は、白かった。

 

 まるで真冬の外気の中にいるかのように、細い吐息が白い霧となって漏れていく。

 

 これだけ身体を冷やさないようにしているにもかかわらず、だ。

 

「……っ」

 

 ルベッカの喉が、かすかに鳴る。

 

 けれど、目は開かない。

 

 深い眠りに落ちているようでいて、安らいでいるようには到底見えなかった。

 

 日中のルベッカは、そうしてほとんど動かない。

 

 脈はある。

 

 息もしている。

 

 だが、身体は異常に冷たく、意識は深い水の底へ沈んだまま戻ってこない。

 

 そして夜になると、症状はさらに酷くなった。

 

 まるで水の中で溺れているかのように苦しみ出し、呼吸が乱れ、全身をガタガタと震わせる。

 

 冷えきっているはずなのに、額や首筋には脂汗がにじむ。

 

 苦しげに眉を寄せ、ときおり何かにうなされるように喉を震わせるのだ。

 

 水精霊アクアの呪怨《沈静ちんせいふち》――その重症化症状だった。

 

 問題は他にもあった。

 

 何よりまずいのは、水分も食事も摂れないことだ。

 

 粥をすり潰し、薄くした流動食を用意しても、喉を通らない。

 

 ポットのような形をした、小さなガラス製の吸い飲みを口元に当てても、飲もうとしない。

 

 水分が入らない。

 

 それがどれほど危ういことかは、誰の目にも明らかだった。

 

 部屋には、ティプスタン、ミミリル、ガミ、そしてレヴィがいた。

 

 ベッド脇の椅子に腰かけたガミが、眉間に皺を寄せてルベッカを見る。

 

「ルベッカのやつ……俺らには魔力は使うなって言っといて、自分は使ってたんじゃねーかよ」

 

 乱暴な口調だった。

 

 けれど、その声音には怒りよりも、ずっと強い焦りと不安が混じっていた。

 

 机の椅子に座るレヴィは、小さく目を伏せる。

 

「……解析するには、魔力を使うしかなかったんだよ……」

 

 レヴィの視線は机の上へ向いた。

 

 そこには、ルベッカの手鏡型魔導具が置かれている。

 

 銀の縁取りに紫の魔石を嵌め込んだ、ルベッカ愛用の魔導具だ。

 

 深淵の王ガンハートが消える間際に放った、五つの煙。

 

 そのうち四つは、ルベッカ、ミミリル、ガミ、そしてイッサに宿った。

 

 残るひとつは、静寂の回廊林の奥へと消えた。

 

 後に、胸元の呪印を確認したルベッカは、それを『五精霊の呪い』だと結論づけた。


 あの日から、ルベッカは何度も口を酸っぱくして言っていた。

 

 ミミリル、ガミ、そしてイッサには、絶対に魔力を使ってはならない、と。

 

 五精霊の呪いに対して、唯一はっきりしている対処法。

 

 それは、魔力を使わないことだった。

 

 そうすれば、進行を遅らせることができる。

 

 ならば、無駄な魔力使用は避けるべきだ。

 

 だから彼女は、ミミリルたちに魔力の使用を禁じた。

 

 だが、そのルベッカ自身は、精霊言語の解析や資料照合のため、どうしても魔力を使わざるを得なかった。

 

 それ自体は、ごく微量の使用にすぎなかった。

 

 しかし、魔力による解析と分析を、日に何度も繰り返していた。

 

 五精霊の呪いは、わずかな魔力であっても、積み重なれば確実に進行する。

 

 結果として、呪いの進行を早めてしまった。

 

 医者は言っていた。

 

 精霊の呪いの悪化だけが原因ではない。

 

 レヴィから聞いた普段の行動――研究への没頭、ろくに休まない生活、それによる身体の消耗も大きいのではないか、と。

 

 そしてさらに、こうも告げた。

 

 精霊の呪いがここまで重症化すれば、回復魔法、薬草治療など、医療行為全般が通用しない。

 

 医者は最後に、言いにくそうに視線を伏せた。

 

 このまま水分さえ摂れない状態が続けば――

 

 一週間は、もたない。

 

 その言葉だけが、部屋の中に重く残っていた。

 

「そ、そんな……」

 

 ティプスタンは絞り出すように呟いた。

 

 誰も何も言わなかった。

 

 言えなかった。

 

 その現実が、重すぎたからだ。

 

 ミミリルは必死にルベッカの手を握っていた。

 

 小さな両手で包み込むように、何度も何度も擦る。

 

 冷えきったその手に、少しでも温もりを移そうとするかのように。

 

 夜には額の汗を拭い、苦しげに震える身体に寄り添って、一緒に寝ていた。

 

 ティプスタンが倒れた時に、そうしてくれたように。

 

 ティプスタンもまた、何かできることはないかと、夜中の看病に付き添っていた。

 

 濡れたタオルを替える。 

 温めた布を取り替える。 

 毛布を直す。

 

 そんなことしかできなくても、何もしないではいられなかった。


 


 

 メリシア邸の裏庭、そのさらに奥。

 

 そこには、小さな遺跡と大きな樹があった。

 

 円環の石畳の前には、樹の根元に半ば埋もれた大きな石板がある。

 

 皆と花見をした場所だった。

 

 そこにある星紡ぎの樹の下で、ティプスタンは両手を組み、深く頭を垂れていた。

 

「お願いします……」

 

 掠れた声がこぼれる。

 

「お願いします。どうか……どうかルベッカを助けてください」

 

 ルベッカが倒れたと知った翌日から、ティプスタンはここを訪れるようになった。

 

 朝早くから、夕方まで。

 

 できることがないからこそ、せめて願うしかなかった。

 

 星紡ぎの樹には、もう花はなかった。

 

 花見の頃に咲いていた淡い花々はすでに散りきり、今は枝葉だけが静かに揺れている。

 

 風が吹くたび、葉がかすかに擦れ合い、さらさらと乾いた音を立てた。

 

 その音が、ティプスタンにはひどく頼りなく聞こえた。

 

 まるで、すべてが終わってしまった静けさを象徴するかのように。

 

 ティプスタンは唇を噛んだ。

 

 自分が、たまらなく情けなかった。

 

 ルベッカは仲間のために、必死で五精霊の呪いを呪解しようとしていた。

 

 危険だと分かっていながら、魔力を使っていた。

 

 資料を漁り、解析を重ね、無理を重ねていた。

 

 その結果が、今だ。

 

 なのに自分はどうだ。

 

 祭りに浮かれた。

 

 花見を楽しんだ。

 

 皆と笑って、幸せだと思っていた。

 

 その裏で、ルベッカは命を削って呪解方法を探していたのに。

 

「僕は……何も見てなかった……」

 

 自分は五精霊の呪いの恐ろしさを、どこか遠いもののように軽く見ていた。

 

 そのことが、ひどく情けなかった。

 

「僕は……何もできないのか……」

 

 俯いた先へ、木漏れ日が揺れる。

 

 祈ることしかできない自分が、どうしようもなく惨めに思えた。


 


 

 ルベッカが倒れて、三日目の夜。

 

 ルベッカの寝室では、今夜もティプスタンとミミリルが付き添っていた。

 

 けれど、この日もルベッカは何も口にできなかった。

 

 昼のあいだに飲ませようとした水も、まったく喉を通っていない。

 

 唇はさらに乾き、目元も少しくぼんで見える。

 

 顔色は青白いというより、くすみがかってすらいた。

 

 脱水が始まっている。

 

 皆、それは分かっていた。

 

 分かっていて、それでもどうしようもなかった。

 

 深夜に差しかかった頃、ルベッカの身体が再びガタガタと震え始めた。

 

「ルベッカ!」

 

 ミミリルがベッド脇から、ルベッカの手を握る。

 

 その声は掠れていた。

 

 ここ数日、ほとんどまともに眠れていないせいか、ミミリル自身も少しやつれて見える。

 

 ティプスタンも向かい側から、ルベッカの手を握った。

 

 冷たい。

 

 ぞっとするほどに、冷たい。

 

 ルベッカの口元からは、絶えず白い霧のような息が漏れている。

 

 まるで、魂が少しずつ身体から抜け出ているように見えて、ティプスタンの胸は強く締めつけられた。

 

 寒そうだ。

 

 苦しそうだ。

 

 どうにか、少しでも暖かくできないだろうか。

 

 そう悩んだ末、ティプスタンの脳裏に、ある考えがよぎる。

 

 疑似魔力。

 

 魔力に似ているのに、魔力ではない。

 

 だからこそ、呪いを刺激せずにルベッカの内側へ届くかもしれない。

 

 自分のマントに蓄えられた、魔力と酷似した、体内を巡る赤い力。

 

 あれなら――。

 

「インスクリプト・ヴァーミリオン」

 

 詠唱と同時に、胸元の留め金具の花弁が淡く光り、赤い輝きがティプスタンの身体へ流れ込んだ。

 

 熱が巡る。

 

 血の代わりに、温かな力が全身を走るような感覚。

 

 ティプスタンはそのまま、ルベッカの手をしっかり握った。

 

 その瞬間だった。

 

 あれほど激しく震えていたルベッカの身体が、ほんのわずかに落ち着いた。

 

 呼吸の乱れが和らぐ。

 

 苦悶に歪んでいた眉間の皺が、少しだけ薄くなる。

 

「おおっ!」

 

 ミミリルが目を見開いた。

 

 それは、ずっとルベッカを見てきたミミリルだからこそ分かる、微細な変化だった。

 

「今だゾ!」

 

 ミミリルはすぐに机の吸い飲みを掴み、ルベッカの口元へあてた。

 

 すると――。

 

 こく。

 

 こく、と。

 

 ほんのわずかではあるが、ルベッカがゆっくりと水を飲み始めた。

 

「……!」

 

 ティプスタンとミミリルは、同時に顔を見合わせる。

 

「やった!」「やったゾ!」

 

 二人の声が、重なった。

 

 小さな一歩だった。

 

 けれど、それは大きな希望だった。


 


 

 深い、深い水の底。

 

 ルベッカは夢を見ていた。

 

 いや、夢と呼ぶにはあまりにも生々しく、冷たすぎる感覚だった。

 

 自分の身体が、どこまでも深い水の底へ沈んでいく。

 

 上も下も分からない。

 

 光は遠く、音もない。

 

 周囲は、沈むほどに暗くなっていく。

 

 身体はうまく動かない。

 

 指先に力も入らない。

 

 感情まで薄れていく。

 

 怖いとか、苦しいとか、そういう輪郭すら曖昧になっていく。

 

 ああ……もういいか。

 

 そんな諦めに似たものが脳裏をよぎった、その時だった。

 

 底の見えない暗闇の向こうに、何かがいた。

 

 形はない。

 

 声もない。

 

 ただ、そこに近づけば二度と戻れないのだと分かった。

 

 それは襲ってくるのではない。

 

 呼びかけてくるのでもない。

 

 ただ静かに、ルベッカが沈みきるのを待っていた。

 

 見てはいけないものだと本能が理解する。

 

 ゾワッと、冷たい恐怖が全身を貫いた。

 

(怖い……)

 

 感情が薄れていたはずなのに、その恐怖だけは鮮烈だった。

 

 少しずつ、それに引き寄せられる。

 

 抵抗できない。

 

(怖い……誰か……)

 

 そう思った瞬間。

 

 背後から、温かな光が差し込んだ。

 

 柔らかく、しかし確かな熱を持った光だった。

 

 それはまるで、抱きしめるように優しくルベッカの身体を包み込む。

 

 冷たい水の中に、ぬくもりが滲んでいく。

 

 その温かさに触れた途端、恐怖が遠のいた。

 

 沈みきっていた意識の底で、ルベッカはかすかに思った。

 

 ――ああ。


 この温もりを、私は知っている。


 


 

 パチリ、と。

 

 ルベッカは目を開けた。

 

 視界はぼやけていた。

 

 身体は重く、指一本うまく動かせない。

 

 けれど、意識の表面へ少しだけ浮かび上がってきたことは分かった。

 

 ゆっくりと視線を横へ向ける。

 

 すると、そこには――。

 

 自分の身体へ抱きつくようにして眠っているティプスタンの姿があった。

 

 驚いて、ルベッカの目がわずかに見開かれる。

 

 ティプスタンの胸元では、深紅のマントの留め金具が色を失っていた。

 

 本来、赤く輝いているはずの五つの花弁石は、今はすべて透明へと変わっている。

 

 なるほど、と。

 

 ぼんやりした意識の中でも、ルベッカは何となく理解した。

 

 自分を包んでいたあの温かさは、この少年のものだったのだと。

 

 驚きはあった。

 

 けれど、不快ではなかった。

 

 むしろ、胸の奥の凍えた何かが、ほどけていくような安心感があった。

 

 ルベッカはふっと微笑んだ。

 

 穏やかな表情だった。

 

 目の前の少年を愛おしく見つめる青い瞳は、再びゆっくりと閉じていった。


 


 

 ルベッカが倒れてから、八日目の朝。

 

 メリシア邸の裏庭、星紡ぎの樹のある遺跡にて。

 

 今日もまた、ティプスタンは樹の下にいた。

 

 祈ることは、もう日課になっていた。

 

 ティプスタンは祈りながら、自分のマントの留め金具へそっと手を触れる。

 

 あの夜、疑似魔力を身体に宿した状態でルベッカに触れてから、状況はわずかに変わった。

 

 少量ながら、水だけは継続して飲ませられるようになったのだ。

 

 それが分かると、ミミリルが真っ先に言った。

 

「手で触れるだけで、あれだけ効いたなら、全身で触れればもっと効くはずだゾ!」

 

 ティプスタンは最初、かなり戸惑った。

 

 けれど、ルベッカが助かるならと腹をくくった。

 

 それ以来、夜になるとティプスタンは疑似魔力を使い、ルベッカと添い寝して症状を和らげる役目を担っていた。

 

 四日目、五日目、六日目――夜ごとティプスタンは疑似魔力を用い、ルベッカの発作を和らげた。

 

 劇的な快復ではない。

 

 だが、確かに“まだ繋ぎ止められている”という実感だけはあった。

 

 差し迫っていた脱水の危機だけは、かろうじて先送りにできている。

 

 だが、食事はまだ喉を通らず、衰弱そのものは止まっていなかった。

 

 万全ではない。

 

 ティプスタンが疑似魔力を身体に宿せるのは、一日に最大五回まで。

 

 一回につき約三分。

 

 使った後、次の使用までには、三分ほどインターバルを必要とする。

 

 留め金具の五枚の赤い花弁石が、その残数の目安になっている。

 

 一回使えば、ひとつの花弁が赤色から透明に変わる。

 

 そして再び赤く満ちるまでには、およそ四時間。

 

 三分ほどルベッカの身体を抱きしめれば、三十分ほど症状は安定する。

 

 全部使っても、最大で約150分。

 

 つまり、二時間半だけだ。

 

 それでも、その二時間半だけはルベッカも少し落ち着いて眠れるようになっていた。

 

 水を飲めるようになったことをきっかけに、ミミリルは薬湯も試した。

 

 それは、少し焦げたような香りのする、赤褐色の茶だった。

 

 焔芯茶えんしんちゃ

 

 珍しい漢方薬らしい。

 

 七日目の夜、ガミが泥だらけの姿で持ち帰ってきた薬だった。

 

「……んっ」


 そう言って、小さな包みをミミリルに押しつけた。

 

 どこで、何をしてきたのか。

 

 誰も知らない。

 

 ぶっきらぼうで、どこか棘のある横顔。

 

 けれど、ふと、ルベッカへ向けられたその視線には、不器用な優しさと、仲間を気遣う色が確かに滲んでいた。

 

 しかし、焔芯茶は、本来なら意味を持たなかった。

 

 医者は言っていた。

 

 精霊の呪いが重症化すれば、すべての医療行為は効力を失うと。


 漢方薬も例外ではなかった。

  

 けれど、ティプスタンの疑似魔力によって、ルベッカはわずかに水分を受け入れられるようになっていた。


 たとえ、効果が無いと言われても、試さずにはいられない。

 

 そのわずかな希望に、焔芯茶は届いた。

 

 その日の夜から、ルベッカの血色は少しずつ戻り始めた。

 

 頬に、ほんのわずかな赤みが差した。

 

 白く凍っていた吐息も、以前より薄くなった。

 

 確かに何かが変わった。

 

 ガミの持ち帰った焔芯茶は、確かにルベッカをこちら側へ繋ぎ止めていた。

 

 それでも、予断を許さない状況に変わりはない。

 

 水と薬湯は飲めるようになっても、食べ物はまだ喉を通らない。

 

 衰弱は、少しずつ進んでいる。

 

 それでもティプスタンは、願いが少しだけ通じたのだと思いたかった。

 

 だから、今日も変わらず樹の下で祈っていた。

 

 見上げた枝には、もう花はひとつも残っていない。

 

 あるのは、静かに揺れる葉だけだ。

 

 その葉擦れの音を聞きながら、ティプスタンはそれでも願い続けた。


 


 

 昼頃になると、レヴィがやって来た。

 

 片手には昼食の入った籠。

 

 もう片方には、大きめの水筒。

 

 籠からはバゲットがはみ出している。

 

 これも、ここ数日のレヴィの日課になっていた。

 

「アニキ。飯、持ってきたぜ」

 

「ありがとう、レヴィ」

 

 二人は遺跡の円形石畳の上に座り、簡単な昼食をとる。

 

 ティプスタンは、恐る恐るルベッカの様子を尋ねた。

 

「……どう、だった?」

 

 レヴィは少しだけ考えてから答える。

 

「顔色は、マシになってる」

 

 そこで一拍置き、視線を落とした。

 

「でも、衰弱は進んでる。……やっぱ、食えないのがきつい」

 

「……そっか」

 

 ティプスタンは俯いた。

 

 分かってはいた。

 

 けれど、改めて言葉にされると胸が沈む。

 

 そこへ、足音が近づいてきた。

 

 顔を上げると、マー教授とリリネアがこちらへ歩いて来るのが見えた。

 

 マー教授は、いつもの実用重視の装備に身を包み、背には大きな布袋を負っている。

 

 リリネアは白い頭巾と緑のケープ姿で、短い杖を手にしていた。

 

「おや、お二人ともここにいらしたのですね」

 

 マー教授が穏やかに言う。

 

 続けて、リリネアがほんのり微笑みながら告げた。

 

「今日は、皆既日食の日なんだわさ。もうすぐ始まる時間なんだわさ」

 

「皆既日食……」

 

 その言葉で、ティプスタンは花見の日のメリシアの話を思い出した。

 

 月が特別な形を成した時、その願いはより強く叶う――と。

 

 リリネアは少ししょんぼりした調子で言う。

 

「あちき、ミミリルちゃんと今日ここで落ち合う約束をしてたんだわさ……。でも、ずっと看病してたから、疲れて眠ってたんだわさ。起こすのも悪いと思って、声をかけなかったんだわ」

 

 マー教授は苦笑しつつ、分厚い丸眼鏡を押し上げた。

 

「こんな時に不謹慎かもしれませんが、私はこの遺跡で皆既日食を観察したかったのです。少し、伝承で確かめたいことがありまして」

 

 ティプスタンの胸が、どくんと鳴る。

 

 チャンスだ、と思った。

 

 百年に一度の皆既日食。

 

 特別な月のイベント。

 

 この樹の下で願えば、願いは叶うかもしれない。

 

 子供っぽい話だと分かっている。

 

 けれど今のティプスタンには、すがれるものなら何でもすがりたかった。

 

 マー教授とリリネアは、日食グラスを目に当てて空を見上げた。

 

「直接太陽を見るのは危険ですが、完全に隠れている、ごく短い間だけなら直視できます。光が戻り始めたら、すぐに目を逸らしてください」

 

 ティプスタン、レヴィ、マー教授、リリネアの四人は、円形の石畳の上でその時を待った。

 

 やがて、あたりの光が少しずつ薄れていった。

 

 昼のはずの空が、ゆっくりと夕闇を飛び越えて、夜の色へ沈んでいく。

 

 風が止まり、空気が静まる。

 

 世界そのものが息を潜めたようだった。

 

 マー教授が、はっとしたように声を上げた。

 

「――いまですっ!」

 

 完全に太陽が月に隠れた。

 

 ティプスタンとレヴィが空を見上げる。

 

 光の冠だけを残して黒く沈む太陽。

 

 あまりにも現実離れした光景に、レヴィが「おぉー……」と感嘆の声を漏らした。

 

 ティプスタンも息を呑む。

 

 胸元の留め金具へ、自然と手が触れていた。

 

 何かに引かれるように。

 

 願掛けのつもりだったのかもしれない。

 

 あるいは、祈りを形にしたかっただけなのかもしれない。

 

 ティプスタンは、ほとんど無意識に呟いていた。

 

「……インスクリプト・ヴァーミリオン」

 

 ティプスタンのマントから、赤い光が走った。

 

 しかし、いつもと様子が違った。

 

 いつもは身体に流れるはずの赤い光が、円形の石畳全体へ流れた。

 

 赤い光が一瞬で、石畳の継ぎ目を駆け巡る。

 

 だが、四人は皆、空を見上げていた。

 

 誰も、その足元の異変に気づかない。

 

 マー教授の目は、皆既日食を見ていた。

 

 その瞳に、一瞬だけ奇妙な紋様が映り込む。

 

 蛇の紋。

 

 玄冥陰蛇。

 

 それが、確かにそこにあった。

 

 次の瞬間――。

 

 世界が、ふっと揺らいだ。

 

 音が消える。

 

 風が消える。

 

 光が途切れる。

 

 そして、足元の石畳だけが、赤く脈打った。

 

 皆既日食が終わり、太陽の輪郭に再び光が戻り始めた、その時には――。

 

 円形の石畳には、もう誰の姿もなかった。

 

 崩れかけた遺跡と、星紡ぎの樹だけが、何事もなかったかのようにそこに残されていた。

 

 ひとしきり遅れて吹いた風に、枝葉が静かに揺れる。

 

 その葉擦れだけが、すべてを知っているように、細く響いていた。


 

☆第17話に続く☆

★作中登場の用語について★

【水精霊アクアの呪怨《沈静ちんせいふち》】

■症状

感情が薄れていく(怒り・喜びが消える)。

呼吸が浅くなる(水中にいるような圧迫感)。

音や光が遠く感じる。


■進行すると

意識が深く沈む(眠りに近い状態)。

自我が溶ける(記憶・個性の希薄化)。

身体が氷のように冷たくなり、身動きがとれず、飲み食いも自分からは出来なくなる。

最終的には、静かな水の一部となるように、命が溺れて尽きていく。


■対処法

現在判明している有効な延命手段は、魔力を使用しないことのみである。

魔力の行使を避けることで、呪いの進行速度をある程度抑えられるとされる。

一方で、重症化した場合は、

回復魔法、薬草治療、医療行為全般が効果を失う。

また、重症化以前であっても、魔力を用いた回復魔法は呪いを刺激し、かえって症状を悪化させる危険がある。

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