第13話『紅の記憶と呪いの影』
ククルシア共和国――冒険者ギルド本部。
会議室には、重苦しい空気が沈み込んでいる。
種族も立場も異なる幹部たちが、険しい顔で長机を囲み、席についていた。
その一角には、エルフの少女――ルベッカ。
そして、その隣には、ククルシア共和国の執政補佐官カプリオスの姿もあった。
普段なら依頼の割り振りや周辺モンスターの動向を議論することが多い場である。
だが今日の議題は、明らかにそれとは異なっていた。
「これは明らかなテロ行為ですぞ!」
怒号が、会議室の空気を震わせた。
声を張り上げたのは、小太りのヒューマン幹部の男だった。
顔を真っ赤にし、拳で机を叩く。
「『五精霊の呪い』は自然の災厄だったはずだろう!? それを人の手で引き起こしただと!? 断じて許されん! アルギオンは即刻討伐対象にすべし!」
唾を飛ばしながら叫ぶその姿に、向かい側の獣人幹部が鼻で笑った。
「いやいや、ヒューマンひとりがテロ行為をしたからといって、ヒューマン全てを討伐対象にしますか? ありえないでしょ」
その獣人は椅子に浅く腰掛け、わざとらしく肩をすくめる。
「これだからヒューマンは……」
「貴様……!」
小太りの男の額に青筋が浮いた。
会議室の空気が、一気に険悪へ傾く。
怒号と反論が交錯する。
机を叩く音、舌打ち、吐き捨てるような言葉。
会議は、もはや体をなしていなかった。
無理もなかった。
これまで、『五精霊の呪い』――あるいは『五精霊の呪印』は、古の勇者たちが魔王を討った際に生じた、不治の災厄として扱われてきた。
由来は伝承の中にあり、実在してなお、呪解法は明確には分かっていない。
魔力を使用しなければ、進行を遅らせることができる。
ただそれだけが、辛うじて知られている対処法だった。
それは、“対処不能な災厄”として扱われてきた。
自然に降りかかる、理不尽な終焉。
人の意思ではどうにもならぬもの。
だからこそ、恐れられながらも、半ば受け入れられていた。
だが今回、ガンハートという存在によって、その前提が崩れた。
『五精霊の呪い』は、意図的に発生させ得る。
しかも、それを使ったのが――かつて勇者が封印したはずの『深淵の魔王』を名乗る男だった。
真意は不明。
目的も不明。
だが、危険であることだけは、誰の目にも明らかだった。
アルギオンという種族そのものが一丸となって動いているのか。
あるいは、その一部が裏で暗躍しているのか。
そこが判然としない以上、下手な断定は火種を広げる。
それでも、感情が先走る者は少なくなかった。
「そもそもアルギオンなんてのは昔から――」
「偏見で物を言うな!」
「偏見ではない! 現に被害が――」
「被害ならヒューマンの盗賊だって山ほどいるだろうが!」
また怒声が重なる。
収拾はついていなかった。
その時だった。
「――静まれ」
低く、重い声が落ちた。
それだけで、会議室の空気が変わる。
怒鳴り声は、まるで喉元を掴まれたように止んだ。
視線が、一斉に部屋の奥へ向く。
そこに座していたのは、ククルシア共和国冒険者ギルド長――ライアン。
黄金のたてがみは年齢を重ねたことでわずかに白を混じらせている。
片目には古傷。
緑のマントの上から重厚な軽鎧をまとい、椅子に深く腰掛けたその姿には、ただそこにいるだけで場を支配する圧があった。
王のような風格。
だが、その眼差しは独裁者のものではない。
戦場、死、喪失の理不尽さを知った者の目だった。
「感情論で敵を増やしても、何も好転はしない」
ライアンの声は大きくない。
だが、一言一言が重い。
「まず優先すべきは、『五精霊の呪解』方法の確立だ」
その言葉に、何人かが顔をしかめた。
ライアンは構わず続ける。
「今後、被害者が増える可能性がある」
会議室を見回す。
「アルギオンの仕業かどうかは断定できん。だが、各国で類似の被害が増えているという報告は、すでに上がっている」
ざわ、と室内が揺れた。
知らなかった者たちが顔を見合わせる。
小太りのヒューマン幹部が、今度は怒鳴るのではなく、低い声で問うた。
「……各国で、だと?」
「まだ断片的な情報だ。確認の取れていないものも含まれる」
ライアンは即答する。
「だからこそ、今は即応が必要だ。討伐対象を増やす話は後だ。まずは救える命を増やす――それが先決だろう」
その言葉には、反駁しづらい力があった。
ライアンは視線を横へ向ける。
「ルベッカ。お前の見解を聞こう」
銀縁眼鏡の奥で、ルベッカの青い瞳が静かに細まった。
彼女は指先で眼鏡を押し上げた
「解呪には、『精霊言語』の解読が必須です」
淡々とした声が、今度は会議室の中心になる。
「現在伝わっている文献は、断片的かつ象徴的表現が多く、実用的な解呪手順に繋がるほどの情報は残されていません」
ルベッカは机上に置かれた資料を指先で軽く押さえた。
「そのため、まず必要なのは精霊についての資料の閲覧許可です。加えて、精霊信仰に関する生きた知見を持つエルフとドワーフの協力」
一呼吸置く。
「さらに、精霊ゆかりの遺跡調査も必要になる可能性があります。該当遺跡の多くはダンジョン深層に存在すると推定されますが、許可を頂きたい」
会議室が静かになる。
理路整然としていた。
だからこそ、難点も鮮明だった。
ライアンは腕を組み、静かに頷く。
「資料閲覧許可は出そう」
そこまでは即答だった。
「だが――エルフとドワーフの協力は難しい」
その言葉に、ルベッカの表情は変わらない。
「理由はお前も分かっているはずだ、ルベッカ」
ライアンが言う。
「精霊信仰の強いエルフやドワーフにとって、『五精霊の呪い』は神意、あるいは天の定めに近いものだ。それへ人為的に抗うことは、さらなる災いを招く――そう考える者が多い」
しん、と静まる。
ルベッカは沈黙した。
それは否定ではなかった。
彼女自身、エルフであるがゆえに、その価値観をよく知っている。
「次に、精霊ゆかりの遺跡だが」
ライアンは続ける。
「許可自体は出せる。だが、到達は別問題だ。深層へ向かうには、相応の実力を持つ人員が要る」
片目を細めた。
「今後の深淵の魔王の動向も読めん。ギルドとしては、現時点で大規模な人員投入はできない」
「……理解しています」
ルベッカが短く答える。
だが、ライアンはさらに言葉を重ねた。
「それに――」
一瞬、会議室にいる何人かへ視線を流す。
「精霊の呪いは伝染すると信じている者も、まだ多い」
その言葉と同時に、数人の出席者が露骨に目を逸らした。
ルベッカの眉が、わずかに動く。
「現状、伝染した例はありません」
「事実はそうだ」
ライアンは頷く。
「だが、同行する冒険者がそう信じていなければ、危険度は変わる。疑心暗鬼は連携を壊す。仲間への信頼が揺らいだ状態でダンジョンへ入るのは――自殺行為に等しい」
その言葉には、経験の重みがあった。
理想だけでは、人は死ぬ。
ライアンという男は、それを誰よりも知っている。
ルベッカはしばらく黙っていたが、やがて静かに頷いた。
「……承知しました。現時点では、既存資料の分析を優先します」
「それがいいだろう。追加資料はこちらで集める。エルフとドワーフに大きな期待はできんが、話は通しておこう。深層調査についても、動ける目処が立ち次第知らせる」
ライアンの言葉に、ルベッカは頷いた。
そして、ライアンは全体を見渡した。
「さて、次に――」
◇
――白い天井。
気づけば、そこにいた。
薬品のにおいがする。
どこか遠くで、機械的な音が一定の間隔で鳴っている。
その部屋の中で、ひとりの少年がベッドへ身体を預けていた。
頬は青白く、手首は細い。
呼吸ひとつにも、どこかかすかな弱さがある。
だが、その瞳だけは本を読む時だけ別の光を宿していた。
膝の上には、分厚い冒険譚の本。
胸元には、灰色のウサギがちょこんと抱えられている。
「僕もいつか、こんな冒険をしてみたいな」
ページを見つめながら、少年が呟いた。
ウサギが、もきゅもきゅ、と小さく口を鳴らす。
「僕もこんなふうに走れたらいいのに」
少年は頁を撫でる。
「こんな主人公みたいに、思いっきり野山を駆け巡るんだ」
静かな夢だった。
叶うかどうかも分からない。
それでも、心の中で何度も描いた夢。
少年はそっと本を閉じた。
「それから……友達もいっぱい作って、いっぱい遊ぶんだ」
その瞬間、ウサギが抗議するように耳をばたばたと揺らした。
少年は目を丸くし、それからくすっと笑う。
「あはは。もちろん、ミミだって大切な友達さ」
そう言って、ふわりと灰色の頭を撫でた。
ウサギはようやく納得したように、鼻を鳴らして大人しくなる。
「そうだ。ミミに良いもの見せてあげる」
少年は胸元から、ひとつのネックレスを取り出した。
扁平な球体をした、赤い石。
直径2センチほどのその石は、細い紐に複雑な編み込みで固定され、首飾りとして形作られていた。
赤い色は、深くてあたたかい。
まるで、小さな炎を閉じ込めたみたいだった。
モキュ? とウサギが首を傾げる。
「これはね。ママがくれたんだ」
少年は少しだけ誇らしげに言った。
「願いを叶えてくれる、魔法の石なんだって」
ウサギは石に鼻先を寄せ、くんくんと匂いを嗅いだ。
次の瞬間。
ぱくり。
「ミミ!?」
少年は慌てて身を起こした。
「食べ物じゃないよ!」
急いで紐を引っ張り、ウサギの口から石を引き抜く。
ウサギは不満そうに耳を揺らした。
「もう……ミミは食いしん坊だなぁ」
少年は笑った。
あはは、と。
楽しげな声だった。
その声だけが、白い病室にやわらかく広がる。
だが――。
その風景へ、ゆっくりと白い靄がかかっていく。
輪郭が曖昧になる。
声が遠くなる。
そして、場面が切り替わった。
「様態が急変しました!」
鋭い声が響く。
病室の空気は一変していた。
少年の身体には、数多のチューブが繋がれていた。
口元には酸素マスク。
慌ただしく動く人影。
機械音が乱れ、誰かの切迫した指示が飛び交う。
少し離れたところでは、女の人に抱えられた灰色のウサギ――ミミが、耳をぺたりと伏せてこちらを見ていた。
心配そうに。
怯えたように。
何かを必死に感じ取ろうとするように。
少年の左手には、あの赤い石が握られていた。
意識は薄れていく。
視界は滲み、音は水の底から聞こえるみたいに遠い。
それでも、願いだけは残っていた。
「僕にも……いつか……」
少年の唇が、かすかに動く。
「大切な仲間が……できる……そして……」
その先は――音にならなかった。
最後の力を振り絞るように、震える左手が天へかざされる。
赤い石が、ほんの一瞬だけ、深く灯った気がした。
そして――
少年は、静かに息を引き取った。
◇
「……み……」
声にならない声が漏れる。
意識の底から、ゆっくりと浮かび上がるようだった。
重たい瞼を開く。
最初に視界へ入ってきたのは――やわらかな灰色と、長い耳だった。
「み……み……?」
ティプスタンは、ぼんやりと呟いた。
夢の中にいた灰色のウサギ。
その像が、今目の前にあるものと重なる。
だが、焦点が合っていくにつれ、違いが見えてくる。
ウサギではない。
ウサギ耳型の魔導具。
そして、それを頭につけた――ミミリルだった。
ティプスタンの胸元に抱きつくようにして、ベッドへ入り込み、そのまま眠っている。
頬はわずかに赤く、目の下には薄い隈があった。
髪も少し乱れている。
ずっとここにいたのだと、見ただけで分かった。
「……ミミリル」
掠れた声で名前を呼ぶ。
その瞬間、ぴくりとウサギ耳が跳ねた。
ミミリルが、はっと顔を上げる。
寝起きで焦点の合っていなかった瞳が、次の瞬間、ティプスタンの顔を捉えて――固まった。
「…………」
言葉が出ない。
信じられないものを見たように、まばたきすら忘れている。
数秒。
いや、本人にとってはもっと長く感じたかもしれない。
そして次の瞬間。
「よ、よかったゾ……!」
半泣きの声で叫ぶように言って、ミミリルは勢いよくティプスタンへ抱きついた。
「うわっ」
ティプスタンの身体が少し揺れる。
胸元へぎゅうっと押しつけられた顔から、震えが伝わってきた。
「よかった……ほんとに、よかったんだゾ……!」
ミミリルの声が、もう抑えきれていない。
安堵と、恐怖と、張り詰めていたものが一気にほどけた声だった。
ティプスタンはしばらく目を瞬かせていたが、やがてゆっくりと手を上げ、そっとミミリルの背に回した。
「……ごめん」
ひどく小さな声だった。
ミミリルの肩がびくりと揺れる。
「心配かけて、ごめん……」
ティプスタンは、自分の声が少しだけ震えているのを感じていた。
ミミリルは顔を上げた。
その目は涙で潤んでいる。
「心配したんだゾ……!」
とうとう、本音がそのまま零れた。
「ずっと起きなくて……っ、また起きなくて……! いなくなるんじゃないかって……っ、思って……!」
言いながら、涙がぽろりと落ちた。
ティプスタンの胸に、小さく温かいしずくが染みる。
彼は息を呑み、それから、困ったように眉を下げた。
「……うん」
夢の残滓が、まだ胸の奥にあった。
誰かがいなくなること。
置いていかれること。
置いていってしまうこと。
それがどれほど怖いか、今は妙にはっきり分かる気がした。
「ごめん」
もう一度言う。
今度は、さっきより少しだけ強く。
「僕、ちゃんと戻ってきたよ」
ミミリルはぐしゃぐしゃの顔で、それでもこくこくと頷いた。
「……もう、勝手に寝込むな!」
「それは……努力するよ」
「そこは絶対って言うとこだゾ……」
泣き笑いみたいな顔でミミリルが言う。
ティプスタンも、少しだけ笑った。
身体は重く、意識もまだ霞んでいる。
けれど、ここがメリシア邸の自室で、ベッドがあたたかくて、ミミリルが生きていて、自分もこうして言葉を交わせている。
その事実だけで、胸の奥にじんわりと安堵が広がっていく。
「……みんなは?」
「ルベッカは学園の研究室にこもってるゾ……。ガミは飯食ってるゾ。あとで来ると思うけど……今は、とにかくティプスタンが起きたって知らせるんだゾ!」
そう言うや否や、ミミリルはベッドから飛び降りた。
だが一歩踏み出したところで、ぴたりと止まり、振り返る。
そして、少しだけ迷うようにしてから、もう一度だけティプスタンへ駆け寄った。
「……ほんとに、よかったんだゾ」
今度はさっきほど強くではなく、確かめるみたいに、そっと抱きつく。
ティプスタンは静かに目を閉じた。
「……うん」
短い返事だった。
けれど、それだけで十分だった。
◇
その頃。
ルベッカの研究室には、紙の擦れる音だけが響いていた。
薄暗い室内。
棚にも床にも資料が積まれ、机の上は文献と器具で埋め尽くされている。
いつもの光景だ。
だが、今日、その机上で最も大きな面積を占めているのは、精霊に関する資料群だった。
古文書の写本。
信仰体系の記録。
遺跡報告の断片。
そして、精霊言語と思しき文字列の転写。
ルベッカは白衣姿のまま、羽ペン型魔導具といくつかの紙束を使い、淡々と分析を進めていた。
「……ルクス、イグニス、ヴェント、テラ、アクア」
かすかに呟く。
光精霊ルクスの呪怨――《真理の曝露》。
火精霊イグニスの呪怨――《灰燼の刻印》。
風精霊ヴェントの呪怨――《風葬の孤界》。
地精霊テラの呪怨――《圧根の縛》。
水精霊アクアの呪怨――《沈静の淵》。
いずれも末期症状は絶望的だ。
しかも、呪解の方法は分かっていない。
資料の量は膨大なのに、核心だけが抜け落ちている。
「……意図的に発生させられる以上、災厄ではなく、技術体系の一種とみなすべきか……」
独り言は、誰に向けたものでもない。
ルベッカは紙へ書き込みを加えた。
だが、机の端には、別のものが置かれていた。
ネクロクレイマンについての資料。
そして――ティプスタンの深紅のマント。
精霊言語の解読が最優先となったことで、ネクロクレイマン関連の調査は一旦保留になっている。
ゆえに、机を広く使うためには、これらは別の場所へ移すべきだった。
「……後回しですね」
そう小さく言って、ルベッカはネクロクレイマンの資料へ手を伸ばす。
次に、深紅のマントを持ち上げようとして――ふと、動きが止まった。
脳裏に浮かんだのは、ガンハートとの戦闘で見た光景だった。
ティプスタンのマントから立ちのぼっていた、赤いオーラ。
静かに、しかし明らかに異質な輝き。
あれは何だったのか。
単なる視覚的錯覚?
少なくとも、ルベッカにはそうは思えなかった。
「……確認する必要がありますね」
机の引き出しから、手鏡型魔導具を取り出す。
銀の縁取りが施された、ルベッカ愛用の魔導具。
そこには鏡ではなく、透明なガラスがはめ込まれている。
「リフレクト・アクティベート」
短い起動呪文。
ガラス面が淡く光る。
ルベッカはマントの内側を開き、自らが以前、術式刻印を施した箇所へガラス面を向けた。
そこには単純な術式があるはずだった。
ティプスタンの声と特定の呪文に反応し、マントがふわりとなびく。
それだけの、ごく軽微な術式魔導具。
試作として与えた、いわば初歩的なもの。
しかし、ティプスタン本人は、大喜びしていた。
落ち込んでいたティプスタンの気持ちを引き上げるには、これ以上ないほどの効果を発揮した。
おもちゃのようなもの。
――の、はずだった。
「……っ?」
ルベッカの瞳が、大きく見開かれる。
ガラスに映った術式刻印は、たしかに彼女自身の筆跡だった。
線の運び。
構文の癖。
刻印配置の癖。
どれも自分のものだと分かる。
だが――
「これは……」
そこにあったのは、もはや別物だった。
もともとの単純な術式の上に、あるいは内部に、さらに複雑極まりない構造が再編成されている。
何重にも折り重なったような文字列。
通常の術式文法では成立しない接続。
既知の魔導理論では解釈できない機構。
それでいて、崩壊せず、むしろひとつの完成形として成立しているように見える。
「……ありえない」
ルベッカは小さく呟いた。
術式刻印は自然変異などしない。
少なくとも、彼女の知る理論の範囲では。
外部から改変された?
だが、それなら誰が、いつ、どうやって。
しかも、自分の筆跡を土台にして、ここまで精密に。
ルベッカは手鏡を握る手に力を込めた。
理解しようとする。
線を追う。
構造を分解する。
だが、読めない。
あまりに複雑すぎる。
既存の術式言語と、未知の構文が混ざり合っているようにすら見えた。
それでも、かろうじて判読できる単語がひとつだけあった。
「……ヴァ……」
ルベッカの声が掠れる。
もう一度、凝視する。
「ミリオン……?」
いや――違う。
「ヴァーミリオン……?」
その単語を口にした瞬間、研究室の静寂が妙に深くなった気がした。
深紅。
朱。
鮮烈な赤。
ガンハートとの戦いで見た、あのオーラの色と重なる。
ルベッカはゆっくりと手鏡を下ろした。
視線はなお、マントへ釘付けのままだった。
「術式が、自律的に再構成された……? いえ、そんなことは――」
否定しかけて、止まる。
ティプスタンは、ネクロクレイマン。
ネクロクレイマン特有能力のスプリという分裂で生まれた少年。
ミミリルは、スプリが可能になった時、「頭の中で声が聞こえるんだゾ」と言っていた。
神の啓示のようなものなのか。
ミミリルが顎髭のアルギオンの男から致命傷をうけた際、ティプスタンの身体からミミリルを包み込むような、淡い光が生まれた。
その光は一瞬で収束するように消えて、ミミリルの腹部を何事も無かったように、元に戻した。
ネクロクレイマン特有のもう1つの能力なのか。
それについては、どんなに資料を漁っても、それらしきものは見つからなかった。
さらに、ティプスタンの、あの異常な戦闘能力。
線と線は未だ結びきらない。
それでも、確実にひとつの場所へと引き寄せられていくような、不気味さを感じる。
ルベッカは、深紅のマントを静かに見つめた。
その目には、研究者としての知性と、未知へ踏み込む時のわずかな緊張が宿っている。
「ティプスタン……」
ぽつり、と名を呼ぶ。
それは問いかけに近かった。
「あなたは……いったい……」
その言葉は、薄暗い研究室の奥へ、音もなく沈んでいった。
☆14話に続く☆
★作中登場の用語について★
【五精霊の呪い・五精霊の呪印】
■由来
古の勇者が魔王を打ち倒した際、その戦いの果てに生まれた災厄の呪いと伝えられている。
人の身には過ぎた力への報い、あるいは精霊たちの嘆きが形となったものだとも語られる。
■五種類の呪い
光精霊ルクスの呪怨
《真理の曝露》
火精霊イグニスの呪怨
《灰燼の刻印》
風精霊ヴェントの呪怨
《風葬の孤界》
地精霊テラの呪怨
《圧根の縛》
水精霊アクアの呪怨
《沈静の淵》
■診断(全呪い共通)
呪われた者の身体のどこかに、直径2センチほどの呪印が浮かび上がる。
現れる場所には個人差があるが、胸部周辺に刻まれる例が最も多い。
呪印の形状によって、五精霊のうちいずれの呪いであるかを判別できる。
■呪印の外見(全呪い共通)
呪印の中央には、共通して渦を思わせる紋様が刻まれている。
その周囲を囲む意匠が異なり、それぞれの精霊の呪いを示す。
色は焼印のように黒く焦げた色合いをしているが、熱や痛みは伴わない。
ただし、刻まれる瞬間には、何か異物が身体へ入り込むような不快な違和感を覚えるという。
■症状
症状は呪いの種類ごとに異なる。
ある者は肉体を蝕まれ、ある者は精神を侵される。
共通して、いずれの呪いも進行すれば生命を奪う致命的な災厄であり、重症化した者を救う術はない。
■対処法
現在判明している有効な延命手段は、魔力を使用しないことのみである。
魔力の行使を避けることで、呪いの進行速度をある程度抑えられるとされる。
一方で、重症化した場合は、
回復魔法、薬草治療、医療行為全般
そのすべてが効果を失う。
また、重症化以前であっても、魔力を用いた回復魔法は呪いを刺激し、かえって症状を悪化させる危険がある。
■その他
この呪いは「冒険者殺し」の異名で恐れられている。
呪いを受けた冒険者は、戦いを捨てて引退するか、死を覚悟して前線に立ち続けるかの選択を迫られる。
そのため、冒険者たちにとって最も忌避される災厄のひとつである。
本来、この呪いに伝染性は存在しない。
しかし、呪いはうつると信じる者も多く、パーティー内に発症者が現れるだけで疑心暗鬼を生み、仲間割れや追放の原因となる。
古くは魔女狩りにも似た迫害が横行し、
呪われた者を焼き殺し
「呪いの伝染を断つ」
生贄として捧げ
「精霊の怒りを鎮める」
といった非道な行いが、各地でまことしやかに行われていた歴史も残されている。




