第12話『深淵の者』
「まずいって! イッサ!」
フィオは木々のあいだを駆け抜けながら、前を走る幼馴染の名を叫んだ。
だが、イッサは振り返らない。
彼の腰に下がった魔響鈴が、不穏な音を断続的に鳴らしている。
その音が示す方向へ、イッサは脇目も振らず突き進んでいた。
完全な独断行動だった。
普段のイッサなら、こんな真似はしない。
状況を見て、仲間との距離を測り、最適な行動を選ぶ。
そういう男だ。
だからこそ、フィオには分かっていた。
今のイッサは、冷静じゃない。
(やっぱり、さっきからおかしい……!)
サイレントベアとグリーンウルフの死体を見つけた時点で、フィオは異常を察知した。
すぐに共鳴笛を鳴らして後方へ知らせた。
そこまでは良かった。
だが、その先で見つけたのは――ストーンベアの大型種の死体だった。
静寂の回廊林にいるはずのないモンスター。
しかも、その頭部は見るも無惨に潰されていた。
あれを見た瞬間から、イッサの空気が変わった。
張り詰めた、というよりも、何かに突き動かされているような危うさ。
魔響鈴が鳴った今、その危うさはさらに濃くなっている。
「待ってってば! イッサ!」
フィオは枝を跳ね上げ、湿った地面を蹴る。
軽装の身体は森を駆けるのに向いている。けれど、それでも今のイッサは速かった。
まるで、焦りそのものが足を動かしているように。
フィオは小さく舌打ちした。
(後ろのみんな、気づいてるよね……?)
さきほど自分は確かに共鳴笛を鳴らした。
だが、その後、ティプスタンたち四人の側から返答はなかった。
マー教授たち後方組からの反応も、まだ確認できていなかった。
嫌な予感が胸をざわつかせる。
前方には高魔力反応。
森の中には不自然な死体。
そのうえ、イッサの様子までおかしい。
全部が、最悪の方向へ噛み合っている気がした。
「イッサ!」
もう一度叫ぶ。
イッサの背中越しに、木々の密度が急に薄くなった。
静寂の回廊林の終わり。
湿った土と根の広がる森の地面が途切れ、その先に岩肌の露出したひらけた空間が広がっていた。
谷の大穴へ続くダンジョン入口付近の外縁部――。
そこに、一人の男が立っていた。
銀髪。
長い髪は腰近くまで伸び、ゆるく揺れている。
尖った耳。
赤い瞳。
赤銅色の肌。
落ち着き払った、妙に静かな立ち姿。
その足元には、三人の冒険者らしき人影がうずくまっていた。
誰ひとり立ち上がる気配がない。
武器や防具が周囲に散乱し、戦闘の痕跡だけが生々しく残っていた。
男の腰には、赤黒い剣と共に、ランタンのようなものがぶら下がっている。
灯りは点いているが、普通の照明器具とは思えない不気味さが漂っていた。
フィオが足を止めるより早く、イッサが前へ出る。
「何をしている!?」
鋭い声が、開けた岩場に響く。
男はゆっくりと振り返った。
その視線には、警戒も驚きもない。
ただ、興味の薄い落ち着きだけがあった。
「ん?」
男は、まるで散歩の途中で呼び止められたかのような声音で答えた。
「襲ってきたから、相手をしてやったまでだが?」
男の雰囲気に、なぜかフィオの背筋が冷えた。
イッサの声が、さらに低くなる。
「殺したのか?」
「ん? まだだな」
イッサは男を真っ直ぐ見据えたまま問う。
「お前は……アルギオンだな?」
男はあっさり応えた。
「そう呼ばれているな」
その一言で、イッサの瞳孔が広がる。
フィオは無意識に弓を握り直す。
アルギオン。
現存種の中でも最強格とされる種族。
そして、イッサにとっては――。
フィオはちらりとイッサの横顔を見る。
表情はいつもと変わらない。
けれど、その瞳の奥にあるものを、フィオは知っていた。
昔から一度も消えていない、黒い火種のような感情。
「お前に聞きたいことがある」
「なんだ?」
男は相変わらず落ち着いていた。
イッサの喉が、小さく鳴ったようにフィオには見えた。
「額に傷のあるアルギオンを知らないか?」
その瞬間、男の目がわずかに細くなる。
「額に傷?」
少しだけ考える素振りを見せてから、男はふっと口元を歪めた。
「ああ……ゼブラのことかな」
その名が出た途端、イッサの空気が変わった。
ぴしり、と見えない何かが張り詰める。
「そいつは今どこにいる!」
声に熱が混じる。
普段のイッサにはない、剥き出しの感情。
フィオは息を呑んだ。
男はそんなイッサの変化を面白がるように、わずかに笑った。
「知りたいか?」
「……答えろ」
怒気が強くなる。
フィオは反射的に一歩前へ出た。
「イッサ、落ち着いて!」
だが、イッサは聞いていなかった。
いや、聞こえていても届いていない。
視界のすべてが、目の前の男だけに絞られている。
男はそんな様子を眺めながら、いたずらっぽく肩をすくめた。
「そうだなぁ……」
そして、赤い瞳を細める。
「私に勝てたら、教えてやらんこともないぞ」
挑発。
それも、あからさまな。
フィオの顔が引きつる。
「相手にしないでっ! イッサ!」
だが、イッサはフィオの制止を振り切るように一歩前へ出た。
「上等だっ!」
吐き捨てるように言い、短刀と小盾を構える。
その背中を見た瞬間、フィオの胸に嫌なものが走った。
まずい。
本当にまずい。
今のイッサは、戦おうとしているんじゃない。
“掴みに行こうとしている”。
仇に繋がる情報を。
そのためなら無茶をする、そんな目をしていた。
「イッサ!」
止める声もむなしく、イッサは叫ぶ。
「開門せよ! 鬼影門!」
詠唱と同時に、全身の魔導具が起動した。
短刀。小盾。両足のブーツ。
それらに埋め込まれた魔石が一斉に紫色の光を放ち、イッサの装備全体へ魔力の輝きが走る。
岩場の空気がぴんと張りつめた。
銀髪のアルギオンは、わずかに口元を吊り上げる。
その笑みは愉快そうでいて、どこまでも冷たい。
フィオは弓を握る手に力を込めた。
止めなきゃいけない。
けれど、下手に割り込めば、かえってイッサの邪魔になる。
助けたい。
けれど、一歩踏み違えれば全部が壊れる。
そんな危うい均衡が、目の前にあった。
そして、その均衡は今にも崩れようとしている。
☆
イッサとフィオが、サイレントベアとグリーンウルフの死体を発見した頃――
後方にいたティプスタンたち四人のもとに、フィオの共鳴笛の音が届いていた。
「今の……」
ティプスタンが顔を上げる。
ルベッカは即座に反応した。
「異常事態です」
銀縁眼鏡の奥の青い瞳が、すでに周囲の状況を冷静に見極めている。
ルベッカが後方のマー教授のもとへ共鳴笛で知らせようとした、その時――
ピィィィッ――!
その後方から、マー教授とリリネアの側からも共鳴笛が響いてきた。
森の静けさが、一気に不穏へと塗り替わる。
「ほえっ、前も後ろも!?」
ミミリルのウサギ耳型魔導具が、ばたばたと慌ただしく揺れた。
ガミも前後を見回す。
「なにがどうしたんだよ?」
その時だった。
ズシン、と重い地響きが地面を震わせた。
木々の間から現れたのは、灰褐色の巨体。
全身が岩のような硬質感を帯びた熊型モンスターだった。
「な、なにあれ……!?」
ティプスタンが目を見開く。
ルベッカが答える。
「ストーンベア……。いるはずがありません」
「いるはずがない?」
「本来なら、この森のさらに奥――谷の大穴にあるダンジョンに生息するモンスターです」
説明しながらも、ルベッカはすでに手鏡型魔導具へ指を添えていた。
その時、ストーンベアが低く唸り、地を蹴った。
岩塊のような巨体が、信じられない速度で突進してくる。
「来るっ!」
ルベッカの制止より早く、ガミが前へ飛び出した。
「ぶっ飛ばす!」
両足の脚甲に紫色の光が走る。
獣人らしい爆発的な脚力で一気に間合いへ踏み込んだガミは、ストーンベアの眉間へ拳をふるう。
獅子神流――《荒獅突》
ドガッ、と鈍い音が鳴る。
だが、ストーンベアはわずかに頭を揺らしただけだった。
「っだぁ!? 硬ってぇ!!」
ガミは後方へ飛び退き、拳をぶんぶん振る。
ルベッカが鋭く言った。
「ストーンベアは頭部が最も硬いモンスターです! 正面からの打撃は非効率です!」
「先に言えよ!」
「言う前に殴ったのは、あなたです」
だが、やり取りを続ける余裕はない。
木々の陰から、さらに一体。
背後の岩場の向こうから、二体。
気づけば、四人は四体のストーンベアに挟まれていた。
前方に二体。
後方に二体。
逃げ道はない。
ティプスタンの背筋を冷たいものが走る。
ミミリルの耳も、不安げにぴたりと固まっていた。
「……落ち着いてください」
ルベッカだけが冷静さを保っていた。
その声はいつも通り平坦で、だからこそ強い。
「私が合図したら、目を閉じてください」
「は?」
「二度目の合図で、あの小高い岩山へ走ります」
ルベッカが指差した先には、少し盛り上がった岩山があった。
ストーンベア四体が、一斉に身を沈める。
突進の予備動作だ。
「今です! 目を閉じて!」
皆一斉に目を閉じた。
「リフレクト・アクティベート!」
ルベッカの声と同時に、空に掲げられた手鏡型魔導具から、全方位へ眩い閃光が放たれる。
閉じた瞼越しでもわかるほどの白い光。
「グアァッ……! グルゥ……ッ……!」
ストーンベアたちの唸り声が乱れた。
「走ってください!」
四人は一斉に駆け出した。
ガミが先頭で岩山の陰へ飛び込み、続いてミミリル、ルベッカ、ティプスタンも滑り込む。
ストーンベアたちは眩惑され、混乱している。
だが、それも一時しのぎに過ぎない。
岩山の陰で息を潜めながら、ティプスタンは短剣を握りしめた。
「どうするの……?」
声が乾いている。
ガミが唸る。
「全部まとめてぶっ飛ばすしかねーだろ」
「お静かに。今は声をひそめて、やり過ごすしかありません」
ルベッカは淡々と返した。
しかし、混乱が落ち着きはじめたストーンベアたちは、匂いを頼りに徐々にティプスタンたちのいる岩山へ迫る。
ガミがしびれを切らして飛び出そうとした。
その時だった。
ぶわっ――と、空気に音の波紋が広がった。
耳で聞くというより、空間そのものが震えるような感覚。
続いて、森の奥から聞き覚えのあるギター音が鳴り響いた。
チャカッ――ン!
ジャァァン!!
その音を浴びた瞬間、四体のストーンベアの動きがぴたりと鈍る。
身体を震わせながら、まるで見えない枷でもはめられたかのように足を止めた。
そして――
「マッ♪ マッ♪ マッ♪ マッ♪ マッ♪ マイコー!」
妙にノリのいい掛け声とともに、一人の男が森を割って現れた。
リーゼント頭。
レの字のもみあげ。
丸眼鏡は外しているものの、その服装、その体格には見覚えがあった。
「雷鳴のアクスブレイカー! マー・マイコー――見参!」
「ええええっ!?」
ティプスタンが思わず叫ぶ。
「マ、マー教授!?」
「正確には、アーティストモードのマー教授です」
ルベッカが無表情のまま説明する。
「ギターを鳴らすと性格が変わります」
「なんで!?」
「詳しくは知りません」
まるで説明になっていない。
だが、そんな困惑を置き去りにするように、マー教授――いや、マイコーは斧型ギターを高く掲げた。
弦を掻き鳴らすたび、音の波紋が広がり、ストーンベアの動きを拘束していく。
「さぁて、静寂をブチ壊す時間だぜベイベー!」
マイコーの後方から、水の塊が飛んだ。
水魔法――《ウォーター・バインド》
リリネアだ。
小さな体を樹の陰から覗かせ、短杖を構えている。
やわらかな声とともに、丸い水塊が一体のストーンベアの頭部へ吸い付いた。
水はそこで弾けず、ぬるりと粘着質な球となって顔面を覆い尽くす。
ストーンベアが苦しげにもがく。
だが、音波の拘束のせいで十分に暴れられない。
数秒後、その巨体は白目をむいて、膝から崩れ落ちた。
「すご……」
ティプスタンが呟く間にも、二体目、三体目へと水塊が飛ぶ。
しかし、四体目だけはマー教授から最も離れていたせいか、拘束が浅かった。
身体を強引に捻り、水塊をかわす。
そのまま、ティプスタンたちの隠れる岩山へ突進してくる。
「来たゾ!!」
ミミリルが叫ぶ。
次の瞬間、上空に雷のような光が走った。
マイコーが跳んでいた。
振りかぶった斧型ギターが、ストーンベアの首元へ叩き落とされる。
ズガァァン!!
雷鳴のような轟音とともに、巨体が地面へ叩き潰された。
「……すごい」
ティプスタンは思わず見入る。
自然とその視線は、マー教授の武器へと引き寄せられていた。
紫色の光を宿していない。
魔石がない。
それなのに、明らかに魔導具として機能していた。
「魔石が……ない?」
ティプスタンの呟きに、ルベッカが答えた。
「術式魔導具の武器です」
「術式……」
魔石を使わずに、空間から魔力を集めて起動する術式。
使用者の魔力を必要としない魔導具。
ティプスタンの深紅のマントと同じ術式魔導具。
「武器も……あるんだ……」
「あります。一般的ではありませんが」
ルベッカの声は冷静だった。
しかし、その直後――
ズズンッ、と奇妙な揺れが足元を襲った。
「っ!?」
ティプスタンは思わず岩肌に手をつく。
だが、おかしい。
周囲の地面ではなく、自分たちのいる岩山だけが揺れている。
「な、なんだこれ!?」
ガミが叫ぶ。
岩山が持ち上がる。
違う。
岩山ではなかった。
それは巨大な、巨大すぎる猪型モンスターの背だった。
「ガンガチョ……!」
ルベッカの声に、ティプスタンは目を見開く。
十メートルはあろうかという巨体。
岩のような背中を持つ猪型モンスター――ガンガチョ。
四人は今までその背に避難していたのだ。
ガンガチョが甲高い咆哮をあげる。
次の瞬間、彼らを背に乗せたまま、凄まじい勢いで走り出した。
「うわああああっ!?」
ティプスタンが悲鳴を上げる。
「振り落とされんなよ!」
ガミが吠え、ミミリルの耳が大混乱でばたばたと暴れた。
「ほわぁぁぁっ!? ヤバいヤツだゾこれぇ!!」
ルベッカはとっさにティプスタンの襟を掴み、体勢を低くする。
巨体は森の木々を薙ぎ倒しながら、一直線に突き進んでいった。
☆
その頃――
静寂の回廊林を抜けた先、ダンジョン入口付近の開けた岩場では、別の戦いが始まっていた。
いや、戦いと呼ぶにはあまりに一方的だった。
「その程度か?」
低く、冷ややかな声。
イッサは胸ぐらを掴まれ、宙へ持ち上げられていた。
左手一本。
それだけで、まるで赤子のように。
銀の長髪を腰まで垂らしたアルギオンの男。
その髪が風に揺れ、赤い瞳がイッサを見つめる。
黒い軽装鎧の隙間から覗く肌には、炎を思わせる黒い入れ墨紋様が広がっていた。
腰にはランタンのような魔導具。
そして右手には、赤黒い片手剣。
その全てが、異質な雰囲気を醸し出している。
イッサの全身の魔導具はまだ光を宿していた。
しかし、持てるすべてを注ぎ込んでなお、届かない。
フィオが歯を食いしばり、弓へ魔力を込める。
「――アエル・ピアスティア!」
放たれた矢は一直線に男の横顔を狙った。
だが男は、イッサを放り捨てるように手を離し、空いた左手で軽々と矢を掴んだ。
「……興が削がれる」
不快そうな声だった。
正々堂々の一対一を邪魔された。
そう感じたのだろう。
次の瞬間。
左手に掴んだ矢を握り潰し、その手に高密度の魔力を収束させた。
キィィィィン……
槍のように尖った圧。
「邪魔をするな」
男の左手がフィオに向けて突き出される。
「フィオ!」
イッサが叫ぶ。
ほとんど反射だった。
イッサは盾を構え、フィオの前へ飛び込む。
直後、男の放った拳圧とイッサの盾が激突した。
バギィィッ!
盾が軋む。
腕が悲鳴を上げる。
みしみしと、骨の折れる音が響いた。
「がっ……!」
イッサとフィオは拳圧に吹き飛ばされ、そのまま背後の岩壁へ激突した。
衝撃でフィオの意識が飛ぶ。
イッサの視界もぐらりと揺れた。
血の味が口に広がる。
それでも、その目だけは、なおも男を捉えようとしていた。
その時――
巨大な何かが、岩場へ躍り出た。
ティプスタン、ミミリル、ガミ、ルベッカを背に乗せたガンガチョだった。
地面をえぐり、巨体が一直線に銀髪の男へ向かう。
「今度はなんだ?」
男は、心底呆れたように言った。
その声音には、恐れも焦りもない。
ただ、面倒そうな響きだけがあった。
ガンガチョが咆哮しながら突進する。
直後、男の剣へ高密度の魔力が宿った。
赤黒い刀身が不気味に唸る。
そして、一振り。
ピュイィン――
奇妙な高音。
次の瞬間、ガンガチョの巨体が正面から斜めに真っ二つになった。
「……え?」
ティプスタンは何が起こったのか分からない。
しかし、ガンガチョの振動がピタリと一瞬止まったように感じた。
切断された上半身が削げ落ち、下半身は勢いのまま方向を変えて岩壁へ激突する。
四人は崩れ落ちる肉塊の中から、必死に抜け出した。
地面を転がり、砂と土にまみれる。
「げほっ……!」
ティプスタンが咳き込む。
ガミはミミリルを抱えて、うまく着地した。
ルベッカもすぐに体勢を立て直す。
だが、前方のアルギオンの男を捉えると、全員の表情は引きつった。
男はこちらを見ていなかった。
「もう終わりか?」
その視線は、ふらつきながら立ち上がるイッサへ向けられていた。
折れた右腕はだらりと垂れ、全身は血と土にまみれている。
それでも、イッサの目には憎悪が燃えていた。
額に傷のあるアルギオン。
ゼブラ。
イッサの探し求める仇かもしれない存在。
その手掛かりを知る男。
憎しみと焦りが、冷静さを焼き切っていた。
その時。
ティプスタンが、男の前に立ちはだかった。
恐怖で膝が震えている。
手のひらは汗で濡れていた。
それでも、ティプスタンは気づけば、イッサと男の間に立っていた。
「……なんだ? お前は」
男は冷ややかな視線をティプスタンに向けた。
その直後、イッサが舌打ちする。
「どけっ!」
「開門せよ! 鬼影門!」
イッサの短刀に紫色の光が走る。
その瞬間、イッサはティプスタンを肩で突き飛ばし、そのまま男へ飛びかかった。
皇流短剣盾術――『奥義』《皇極・天断一閃》
渾身の一撃。
その刃は、男の剣と真正面からぶつかった。
ガキィィィン!!
火花が散る。
「おっ」
感心したように声を漏らしながらも、男は剣を振り抜いた。
短刀にひびが走り、イッサは吹き飛び、地面へ叩きつけられる。
それでもなお、震える身体で顔を上げ、男を睨む。
「今のは悪くなかったぞ、小僧」
男がそう言った時。
再び、ティプスタンが男の前に立った。
イッサは薄れゆく意識の中で、視界に飛び込んできたティプスタンに舌打ちをする。
コイツは何をしている。
お前が出てきて何になる。
死にたいのか。
頭ではそう思う。
だが、その震える背中が一瞬、イッサの大切な人と重なった。
あの日、自分を庇った大切な人。
守るために、前へ出た背中。
「……なんなんだ、貴様」
男がティプスタンへ問いかける。
倒れている少年と同じような装備。
コイツもそれなりの使い手なのか。
だが、明らかに怯えている。
恐れているくせに、なぜ前に出る?
男の中に、疑問が生まれる。
ティプスタンが短剣を構えた。
息は荒い。
怖い。
怖くて仕方ない。
それでも、前へ踏み込む。
皇流短剣盾術――《壱の突》
短剣が男の胸元へ突き出される。
だが、届かない。
いや、刺さっているはずなのに、刃が通らない。
まるで岩を突いたような感触。
「なんのつもりだ?」
男は片手で短剣の刃を掴み、そのままバキンッとへし折った。
魔力の宿っていない身体と武器では、アルギオンの男には傷ひとつつけられない。
「ティプスタン!」
ミミリルの叫びとともに、槍が飛んだ。
男は二本の指で、その穂先をぴたりと止める。
「ミミリル! 来ちゃダメだ!」
ティプスタンが叫ぶ。
だが、もう遅い。
何度も邪魔が入ることに、男の苛立ちは限界へ達していた。
「羽虫どもが」
男は槍をくるりと回し、そのままミミリルへ投げ返した。
殺意と魔力のこもった槍。
槍が風を裂き、一直線にミミリルの顔面へ迫る。
その瞬間――
ティプスタンの脳裏に、別の光景がよぎった。
顎髭のアルギオン。
血に濡れ、ぐったりと倒れたミミリル。
動かない。
失う。
もう二度と。
もう二度と、あんな思いはしたくない。
させたくない。
助けたい。
守りたい。
強く、強くそう願った、その時。
ティプスタンの意識が、ぷつりと切れた。
☆
――暗転。
音が消える。
光が消える。
身体の感覚も、重さも、痛みも、すべてが深い闇の底へ沈んでいく。
落ちていく。
どこまでも。
どこまでも。
自分が立っているのか、倒れているのか、それすら分からない。
ただ、意識だけがかすかに残っていた。
そして――明転した。
「……ここ、は……?」
果てしない白の空間。
影もなく、壁もない。
空も地面も曖昧で、どこまでも同じ白が続いている。
見覚えがあった。
この場所を、ティプスタンは知っている。
「……あ」
胸の奥が、ずきりと疼く。
思い出す。
ミミリルが倒れた。
血が流れていた。
動かなくなっていた。
自分は何もできなくて、それでも、助けたくて――
「僕……ミミリルを……」
そこまで言いかけて、ティプスタンは顔を上げ、辺りを見回す。
青い光の球体。
頭の中へ直接響く無機質な声。
自分を“ユーザー”と呼んだ存在。
今、この空間にはそれがいなかった。
ただ、白だけがどこまでも広がっている。
静かすぎて、自分の呼吸音すら曖昧だった。
その時。
――ピッ。
乾いた電子音が、静寂を切り裂いた。
「っ!?」
何もなかった空間に、半透明の光板がふっと浮かび上がる。
文字列が次々と流れ、やがてそれは“声”になった。
――システム起動。
――ユーザー識別、確認済み。
――個体名称:ティプスタン。
「これ……」
――未確認エネルギー解析開始。
――内部循環経路、スキャン中。
――未確認コード検出。
――外部干渉文字列を確認。
――解析対象に既知コードを含有。
――照合完了。
――適合処理を実行します。
表示は止まらない。
ティプスタンは言葉もなく、それを見つめるしかなかった。
――エネルギー反応、既存パターンと不一致。
――新規構造を検出。
――再構成シーケンスを開始します。
「……なんなんだよ、これ……」
――疑似エネルギー生成プロセス、起動。
――擬似循環器官、仮設構築。
――適合調整、開始。
ドクンッ。
ティプスタンの胸が鳴る。
――エネルギー流入、開始。
――内部圧力、上昇。
――負荷:許容範囲内。
「っ……!」
熱い。
胸の奥に、何かが流し込まれてくるような嫌な感覚。
――出力経路、再設定中。
――制御系統、再リンク。
――適合率、上昇中……72%……81%……93%……
ディスプレイが激しく明滅する。
白い空間そのものが脈打つようだった。
――モード移行シークエンス、開始。
――制限解除条件を照合。
――一時適合を確認。
そして。
中央に、ゆっくりと文字が浮かび上がる。
――モード名:ヴァーミリオン
「ヴァーミリオン……?」
――該当モード、未登録領域。
――ユーザー固有スキルとして認識。
――仮設起動準備を実行。
ドクンッ。
先ほどよりも強く、胸が脈打った。
全身の奥に、赤い熱が走る。
――エネルギー出力、急上昇。
――制御介入。
――安全制御、優先。
――覚醒段階:未到達。
――本格起動:制限中。
――現在状態:スタンバイ移行。
ディスプレイの光が収束していく。
――全プロセス、同期完了。
――ユーザーを転送します。
「――っ!」
最後に、赤い文字がわずかに点滅した。
――Vermilion standby
☆
ミミリルの顔へ迫っていた槍が、ぴたりと止まる。
あと数センチ。
その位置で、空中に縫い止められたように静止していた。
ミミリルの目が見開かれる。
「……ティプスタン?」
いつの間にか、ティプスタンがミミリルの前に立っていた。
片手で槍を掴んだまま。
「なにっ!?」
男が驚きの声をあげた。
さっきまで目の前にいたはずの少年が、一瞬で移動している。
ティプスタンの髪は逆立ち、瞳はどこか虚ろだった。
意識があるのかないのか判別できない。
胸元のマントの留め金具、五つの花弁を模した赤い石が、ひときわ強く輝いている。
そこから流れる赤いオーラが、深紅のマントを静かに揺らめかせていた。
異質な気配。
ティプスタンは無言のまま槍をくるりと回し、矛先を男へ向けて投げ返す。
赤いオーラを纏った槍が一直線に飛ぶ。
男はとっさに剣で受けた。
ガギィィィン!!
凄まじい衝撃。
男の身体がずるずると押し込まれていく。
「くっ……!」
男が歯を噛む。
やがて槍の穂先が剣にぶつかったまま砕け散り、威力が失われた。
だが、その一撃がただの投擲ではないことは明らかだった。
男の口元が、歓喜に歪む。
「面白い!」
全身に高密度の魔力を纏い、一気にティプスタンへ踏み込む。
対するティプスタンは、足元に転がっていた片手剣を足で跳ね上げ、片手でそれを掴んだ。
倒れていた冒険者三人のうちの武器だった。
男が迫る。
ティプスタンが剣を構える。
そして、放つ。
皇流短剣盾術――『奥義』《閃皇・迅連断》
超高速で繰り出される、重い突きの連続攻撃。
ズドドドドドォォォンッ!!!
「ぬぉぉぉおおおッ……!! ぐっ……!!」
さばききれずに、男の身体が弾丸のように吹き飛ぶ。
背後の岩壁へ激突し、岩が砕けた。
同時に、ティプスタンの握る片手剣の刀身が、バキンッと粉々に砕け散る。
武器が耐えられなかったのだ。
その光景を、もうろうとした意識の中で、イッサが見つめていた。
あれは……ティプスタンなのか?
祖父の奥義《閃皇・迅連断》。
それを片手剣で。
しかも、魔力を身体に纏えないティプスタンが、生身で?
ありえない――
イッサの意識は闇へ沈んだ。
☆
「ふははははは!!」
男が笑う。
岩壁の崩れた場所から、何事もなかったかのように立ち上がる。
「いい。いいぞ、貴様」
赤い瞳が、まっすぐティプスタンを捉えた。
「久々に楽しめそうだ」
だが、その時だった。
男の身体が、わずかに薄くなる。
「チッ……時間か」
男は腰に下げたランタンへ視線を落とした。
その灯りが、今にも消えそうに明滅している。
ティプスタンはなお、焦点の定まらない目で男を見ていた。
男はそれを見返し、ふっと笑う。
「まあ、いい。依頼を優先しよう」
そう言って、片方の手を胸元へ上げる男。
その手には、細工が施された卵のようなものが握られている。
パリンッ!
次の瞬間、その卵のようなものを握り潰した。
中から淡い煙が湧き出る。
煙は男の手のまわりで五つの塊を形づくり、やがて色を成した。
赤。
緑。
青。
灰。
白。
その手を天へかざした瞬間、五色の煙が散った。
白色の塊が、ミミリルの胸元へ。
灰色の塊が、ガミの胸元へ。
青色の塊が、ルベッカの胸元へ。
緑色の塊が、イッサの胸元へ。
赤色の塊は――ティプスタンの背後へ、静寂の回廊林の林の中へと消えた。
それぞれの塊が、吸い込まれるように四人の身体に宿る。
「っ……!?」
ルベッカが胸元を押さえた。
ミミリルの耳がびくりと跳ね、ガミが顔を歪める。
男の身体は、さらに薄れていく。
消える直前。
その赤い瞳が、ティプスタンへ向いた。
「ティプスタンと言ったな」
静かに、名を呼ぶ。
「名乗っておこう」
男の口元が、愉しげに吊り上がる。
「私の名はガンハート」
そして、誇るように告げた。
「深淵の魔王――ガンハートだ」
その名が、岩場の空気そのものへ刻み込まれる。
ミミリルが息を呑み、ガミが牙を剥き、ルベッカの青い瞳が鋭く揺れた。
ティプスタンは、虚ろな瞳でその名を聞いていた。
「次に会うのを楽しみにしている」
最後にそう言い残し――
ガンハートの身体は、闇へ溶けるように消えた。
静寂が戻る。
直後、ティプスタンの膝から力が抜けた。
どさり、と前のめりに倒れ込む。
「ティプスタン!!」
ミミリルの叫びが、遅れて岩場に響いた。
☆13話に続く☆




