第11話『静寂の回廊林』
ククルシア共和国東門。
朝の光が石壁を淡く照らし、門の外へと続く街道に長い影を落としていた。
城壁に守られた都市の賑わいは、門を一歩出れば少しずつ遠ざかっていく。
代わりに広がるのは、風に揺れる草原と、その先にうっすらと見える湿地帯のきらめき。
そしてさらに奥――樹々が密に重なり合うところに、『静寂の回廊林』がある。
その東門付近に、八人の姿があった。
一般編入科。略して編入組のティプスタン、ミミリル、ガミ。
引率役を兼ねるルベッカ。
特別選抜科。略して特選組の三人。
そして、今回の実戦演習の指揮監督を務める教授一人。
出発前の最終確認が、静かに進められていた。
ティプスタンは小盾の縁を指先でなぞりながら、前方に立つ男を見つめていた。
マー教授。
ヒューマンで、やや長めの金髪を肩口で揺らし、度の強い丸眼鏡をかけている。
厚いレンズの奥では、緑色の瞳がわずかに歪んで見えた。
くすんだ緑のシャツに革のベスト、肩当て、使い込まれたマント。
中級冒険者めいた実用的な装備に身を包み、大きな布袋を背負っている。
その姿を見ながら、ティプスタンは胸の奥に小さな引っかかりを覚えていた。
(このひと……どこかで見たような)
けれど、思い出せない。
「装備、問題なさそうだね」
フィオという特選組の少女が、イッサに語りかける。
ヒューマンの褐色の少女。
短めの青みがかった髪。
その右側には黒銀のカラスの羽飾り。
森に馴染みそうな軽装の装備に、背には矢筒、手には霊樹の弓。
幼さを残しながらも、立ち姿は凛としていた。
装備をチェックしていたイッサは、「ああ」と、愛想のない返事を返した。
黒髪。
切れ長の暗い瞳。
和風と冒険者装備を折衷したような紺の上衣に、鋼の小盾と短刀。
静かに立っているだけなのに、気配が研ぎ澄まされている。
彼は、ティプスタンにとって短剣盾術の師範補佐であり、特選組の中でも際立って実戦向きの生徒だった。
そんな二人の少し後ろで、ほんのりとした笑みを浮かべている小さな少女がいる。
同じく特選組のドワーフの少女――リリネア。
淡い桃色の髪を左右に三つ編みにし、白い頭巾と緑のケープを羽織っている。
前髪で目はほとんど隠れているが、どこか安心感のある空気をまとっていた。
手には、先端に試験管めいた器具を備えた短杖が握られている。
特選組の三人は、皆それぞれの特性に合った装備を身につけていた。
編入組の三人も、以前とは違っていた。
ティプスタンは鉄の小盾と短剣。
短剣は、初めてククルシアを訪れた時にルベッカに買ってもらったものだ。
どちらも魔導具ではない。
ミミリルは鉄の槍と、魔導具の銀の腕輪。
ガミは両手に鉄の拳甲、両足に魔導具の鉄の脚甲を装備している。
ポット・ポークンとの訓練の際、「パワーが足りねぇ」と、両手両足に合わせて4個の魔導具を装備したガミ。
身体全体に大量の魔力オーラが流れるも、その場でガミは倒れた。
貧血のような症状だった。
ポット・ポークンいわく、「魔石に自分の魔力を流しすぎて、一時的な魔力欠乏症状に陥ったんだな」
ということらしい。
どうやら、魔石魔導具とは、無闇やたらと装備できるものではないそうだ。
自身の魔力量が平均未満なら2つ。
平均で3つ。
平均超過で4つ。
これが目安である。
それを超えるとガミのように戦闘前に戦闘不能になってしまう。
ガミは悩んだ末に、機動力を生かした脚に魔導具を集中することにしたらしい。
ガミも自分なりに戦いやすいスタイルを掴み始めている。
マー教授が一歩前へ出た。
「では、今回の依頼内容を改めて確認します」
落ち着いた声だった。
その視線が、街道の先――草原と湿地帯、そのさらに向こうの森を指し示す。
「討伐対象は、静寂の回廊林に生息するサイレントベア。数は6体です」
ティプスタンは喉を鳴らした。
6体。
実物を見たことがないティプスタンだったが、2メートルほどもある熊型モンスターと聞いていた。
それが6体も。
想像するとゾッとする。
「ここから草原を抜け、湿地帯を横断し、あの森を目指します。サイレントベアは動き自体は比較的遅い。しかし――」
マー教授はそこで言葉を切り、丸眼鏡の奥から生徒たちを見回した。
「気づいた時には、すぐ後ろにいる。そう思って警戒してください」
風が草を撫でる音だけが、一瞬耳に残る。
「加えて、この一帯にはグリーンウルフも出ます。俊敏で、群れで動くこともある。討伐対象ではありませんが、十分に脅威です。索敵を怠らないこと」
生徒が各々、短く返事をした。
小盾の持ち手を握り直しながら息を整えるティプスタン。
そこで、今度はルベッカが前に出た。
濃紺のマントの裾を揺らしながら、銀縁眼鏡の奥の青い瞳を静かに細めた。
「こちらを配布します」
彼女の手には二種類の小さな魔導具があった。
魔石は無い。
術式魔導具である。
一つは小型の金属製ホイッスル。
表面に細い術式紋が刻まれ、首紐付きの軽量な作りをしている。
もう一つは、小ぶりな鈴だった。
それにも術式紋が刻まれ、短い紐が付いている。
しかし、音を鳴らすための玉がない。
「共鳴笛と、魔響鈴です」
ルベッカは順に渡していく。
「共鳴笛は、離れた仲間との連絡手段などに用いられる魔導具です。所持者同士にしか、その音は聞こえません。効果範囲はおよそ200メートル。障害物にもある程度対応します」
ティプスタンは受け取った共鳴笛を見つめた。
小さく、胸元に収まるサイズ。
仲間との繋がりを象徴するような、不思議と心強い道具だった。
「もう一つの魔響鈴は、高魔力探知用です」
ルベッカは鈴を軽く持ち上げる。
「高い魔力反応を感知した場合、その方向に応じて鳴ります。かなり危険なモンスターである可能性が高いため、反応が出た場合は戦闘を避け、即座に反対方向へ離脱してください」
「ぶっ飛ばしたらダメなのか?」
ガミが口を尖らせる。
「ダメです。絶対に相手にしないでください」
ルベッカは即答した。
「あなた方は、まだそこまでのレベルではありません」
その言葉は淡々としていたが、否定ではなく事実だった。
そして、ルベッカはもう一度、生徒たちを見回す。
「……これは、ある意味ではアルギオン対策でもあります」
その一言で、空気が張り詰めた。
ティプスタンの胸の奥がひやりと冷える。
ミミリルのウサギ耳型の魔導具が、ぴくりと不安げに揺れた。
ガミも口を閉ざす。
イッサは無言のまま、わずかに眉をひそめた。
フィオはその様子を心配そうに見つめる。
言葉はない。
だが、“アルギオン”という単語が、この場の誰にとっても軽くないことだけは明白だった。
「行きましょう」
マー教授が告げた。
八人は、東門を後にした。
☆
草原を抜け、湿地帯を越え、静寂の回廊林へ入る。
森へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
風の音が薄い。
鳥の声も、虫の羽音も、どこか遠い。
樹々は高く伸び、枝葉が絡み合って頭上に薄い天蓋を作っている。
陽光はまだらに地面へ落ち、湿った土の匂いが鼻を打った。
先頭はイッサとフィオ。
その少し後ろにティプスタン、ミミリル、ガミ。
さらに後方にルベッカとリリネア。
最後尾ではマー教授が周囲の警戒にあたっている。
特選組が先行し、討伐対象を誘導して編入組へ実戦を経験させる――それが今回の演習の基本方針だった。
森を進んでしばらくした時だった。
「そっち。2体、行ったよ!」
フィオの鋭い声が森に走る。
次の瞬間、前方の木々の間からサイレントベアが2体、姿を現した。
大きい。
2メートルをゆうに超える。
分厚い体躯。
深緑色の毛並み。
鈍重そうに見える巨体。
だがその足取りには妙な不気味さがあった。
遅いはずなのに、気づけば近い。
距離感が狂わされるような、嫌な圧迫感がある。
「来るゾ!」
ミミリルが槍を構えた。
ガミはニヤリと口角を上げる。
「へっ、まかせろ!」
脚甲に紫色の光が走った。
先頭の一体をガミが引きつける。
地を蹴り、横へ流れるように走り込むと、サイレントベアの視線がそちらへ向いた。
残る一体は、ティプスタンとミミリルの方へ向かって来る。
ティプスタンは息を呑んだ。
目の前に迫るサイレントベア。
訓練所で見る標的とは違う。
ダミー人形でも、模擬戦でもない。
本物の殺意を持った獣だ。
(怖い……けど)
背後にはミミリルがいる。
引くわけにはいかない。
小盾を上げる。
短剣を低く構える。
(やるしかない)
サイレントベアが唸り、右前足を大きく振りかぶった。
来る。
大振りだ。
空気を裂くような勢いで、爪がティプスタンへ迫る。
その瞬間――身体が先に動いていた。
真正面から受けるのではない。
斜めに滑らせ、力の流れを逸らす。
皇流短剣盾術――《盾刃流し》
ガリィッ――!
爪が小盾の表面を擦り、衝撃が腕に走る。
重い。
だが、止め切る必要はない。
逸らす。
逃がす。
衝撃の向きをずらし、そのまま半歩――いや、一歩深く懐へ潜り込む。
目前にサイレントベアの腹部が迫る。
マー教授に教わった急所。
前足の付け根寄り。
腹部。
そして、頭に蘇るのは、ソウイチロウの声だった。
『モンスターを知らずして、急所は狙えない』
『お主にとって最も威力のある攻撃は――短剣による突きじゃ』
ティプスタンは歯を食いしばる。
皇流短剣盾術――《返し牙突》
懐へ潜り込んだ勢いのまま、短剣を鋭く突き上げる。
ぶつり、と嫌な手応えがあった。
「ガアアァッ!」
サイレントベアが苦痛の咆哮を上げる。
刺さった。
だが――浅い。
短剣では、巨体を貫き切れない。
致命傷には届いていない。
ティプスタンが次の動きへ移ろうとした、その時だった。
ぐらっ、と足元が崩れた。
「えっ」
湿った地面から浮いた木の根。
そこに足先が引っかかり、体勢が崩れる。
訓練所の平らな地面とは違う。
現場では、地形そのものが牙を剥く。
それを、一瞬忘れていた。
ティプスタンはよろめき、そのまま尻餅をついた。
「しまっ――」
傷を負ってなお、サイレントベアは猛然と迫ってきた。
爪が振り下ろされる。
間に合わない。
そう思った瞬間――
「とおりゃあっ!」
ミミリルの声が響いた。
ミミリルの槍が、ティプスタンの刺した傷口へ深々と突き込まれる。
ぶしゅっ、と血が吹いた。
サイレントベアの動きが止まる。
「ガフッ……」
血を吐き、巨体が揺れ、そしてそのまま横倒しに崩れ落ちた。
地面が重く震える。
ティプスタンは呆然と見上げていた。
「大丈夫か? ティプスタン!」
ミミリルが息を弾ませながら振り返る。
ウサギ耳が、バタバタと揺れていた。
「た、助かったよ……ミミリル」
「うんっ!」
ミミリルは満足そうな笑みを見せた。
耳がぴこんと跳ねる。
ティプスタンは慌てて立ち上がった。
「ガミの援護に――」
そう言いかけた、その時だった。
ドスンッ、と別の巨体が地面に倒れる音が森に響いた。
ティプスタンは振り向く。
もう一体のサイレントベアが、背中から地面へ沈んでいくところだった。
その向こうに立っていたのは、肩で息をしながらも勝ち誇った顔をしたガミだ。
「へっ。たいしたことねーな」
どうやら、ひとりで仕留めたらしい。
ティプスタンは目を見張った。
ガミの脚甲には土が跳ね、拳甲には爪痕のような擦れもある。
だが本人には、まだ余裕が残っているように見えた。
そこへ、後方からマー教授が歩み寄ってきた。
「まずは、討伐確認をしておきましょう」
そう言って、教授は布袋から掌ほどの円盤を取り出した。
コースターほどの大きさの、平たい術式魔導具だ。
表面には細かな魔法陣と刻印紋様が刻まれており、淡く鈍い光を宿している。
マー教授はそれを、ティプスタンとミミリルが倒したサイレントベアの胴体にそっと乗せた。
ティプスタンは思わず、その手元を見つめる。
「それは……?」
不思議そうに問うと、マー教授は円盤に手を添えたまま静かに答えた。
「灰録円盤。通称、アッシュシールです。冒険者ギルドで使われる、討伐証明用の魔導具ですよ」
「討伐証明……」
ティプスタンが呟く。
マー教授は頷いた。
「死んだモンスターに触れた状態で起動すると、その個体の死亡情報を記録できます。対象種別、討伐時刻、討伐地点、そして所持者の情報などですね。ギルドへ提出すれば、正式な討伐証明になります」
円盤の紋様が、うっすらと明るさを増した。
ティプスタンは目を瞬く。
「じゃあ、部位を持ち帰らなくてもいいんですか?」
「基本的には、これで足ります」
マー教授は穏やかに答えた。
「もちろん依頼によっては、部位提出も求められますが、普段の討伐では運搬の負担を減らすためにも重宝されています。証拠の改ざんが極めて困難なのも利点ですね」
ティプスタンは、淡く光る円盤を見つめた。
こんな小さな魔導具が、討伐の証になる。
冒険者の世界には、まだ知らない道具や仕組みがいくらでもあるのだと、改めて思わされる。
「さらに――」
マー教授は一度言葉を切り、円盤へ視線を落とした。
「『シール』なら記録のみ。『アッシュシール』と詠唱すれば、記録と同時に遺骸を灰化できます。衛生管理や資源回収のためですね」
「灰にするのか?」
ガミが興味深そうに口を挟む。
「ええ。運が良ければ、魔鉱石や特殊素材が残ることもありますよ」
「へぇ……便利だな」
ガミが感心したように鼻を鳴らした。
マー教授は小さく頷き、低く唱える。
「――アッシュシール」
次の瞬間、灰録円盤の紋様が淡く発光した。
円盤の表面に刻まれた魔法陣が静かに浮かび上がり、淡い光が脈打つように広がる。
サイレントベアの身体を、薄い光の輪がゆっくりと一度だけなぞった。
直後――巨体が崩れるように静かにほどけ、音もなく灰へと変わっていく。
風もないのに、その灰はふわりと浮かび、やがてその場に落ちていった。
すべては一瞬の出来事だった。
だが、その場には確かに“処理された”という、奇妙な静けさが残る。
「これで記録と処理は完了です」
マー教授は灰録円盤を手に取り、もう一体のサイレントベアへ向かった。
その時だった。
「ティプスタン! ケガしてるゾ!」
ミミリルが、はっとしたようにティプスタンの左腕を指差した。
「え?」
見れば、袖が裂け、浅い爪痕が走っている。
じわじわと血が流れていた。
いつやられたのか、一瞬わからなかった。
恐らく、最初の《盾刃流し》の時に掠ったのだろう。
「気づいてなかったのか!?」
ミミリルのウサギ耳が慌ただしく揺れる。
「だ、大丈夫。たぶん浅いから――」
「大丈夫じゃないゾ!」
ミミリルが声を上げた、その直後。
ぱたぱたと小さな足音が近づいてきた。
「あいあい。じっとしとってな」
リリネアだった。
そう言って杖をかざす。
落ち着いた木製の柄に、先端だけ控えめに金で補強された杖。
杖の先端の小さな器のような部分には、小ぶりな試験管が半ば沈むように収められている。
試験管の口には、お香の器を思わせる細工の蓋。
頂には紫の小さな魔石が埋め込まれていた。
リリネアはティプスタンの傷口近くへ、杖の先端を向けた。
「――ミル・ヒール」
やわらかな声。
試験管の中の緑色のポーションが淡く光り、杖先から緑の霧がふわりと溢れた。
霧は生き物のようにティプスタンの腕へまとわりつく。
ひんやりとした感触が、熱を帯びた傷口をやさしく包み込む。
傷口がじわじわと閉じていく。
血が止まり、鋭かった痛みがすうっと引いた。
(これが……回復魔法)
ティプスタンは目を瞬いた。
その緑の光を見つめていると、脳裏に別の光景がよみがえった。
顎髭のアルギオン。
ミミリルの致命傷。
そして――自分が彼女を助けたのだと、ルベッカから聞かされたこと。
あの時は考える暇がなかった。
だが今、はっきりと疑問が浮かぶ。
(本当に……僕が?)
自分には魔力がない。
それは、もう分かっている。
なのに、どうして。
ティプスタンは、思わず後方のルベッカへ視線を向けた。
ルベッカは少し離れた位置から戦況全体を見ていたが、その青い瞳は一瞬だけティプスタンの方を捉えた。
その目は相変わらず静かだった。
☆
あと4体も倒さなければならない。
そう思うと正直、気が重かった。
だが――それは杞憂だったと、ティプスタンはすぐに思い知ることになる。
特選組の実戦は、編入組とは次元が違った。
最初に動いたのはフィオだった。
木々の隙間を駆け抜けるサイレントベアへ、彼女はほとんど足を止めずに矢をつがえる。
「この一矢、外れはしない――アエル・ピアスティア」
詠唱と同時に、紫の光が霊樹の弓に走る。
放たれた矢は一直線。
迷いがない。
風も木々も計算に入れたような軌道で飛び、サイレントベアの急所へ、貫くように突き刺さる。
一撃。
たったそれだけで、巨体が崩れ落ちた。
「……すごい」
ティプスタンは思わず呟いていた。
フィオは肩で弓を回し、何でもないことのように次を探す。
「ま。こんなもんでしょ」
口ではそう言うが、その横顔はどこか誇らしげだった。
対してイッサは、さらに異質だった。
二体同時。
それも、ティプスタンなら一体でも息が詰まる相手に対して。
彼は全く恐れを見せない。
「――開門せよ。鬼衛門」
イッサの装備に紫の光が走った。
と、同時に踏み込み――いや、消える。
地面を蹴った軌跡すら残さず、イッサは一体目の懐へ滑り込む。
刹那。
短刀が走る。
首元へ一直線。
止まらない。
そのまま反転、二体目へ。
二体目が振り向く。
だが、視界に捉えた時には――もう間合いの内側。
斜めに潜り、顎の下へ滑り込む。
逆手の一撃が喉元を断つ。
振り抜きざま、後方へ跳んだ。
一拍の静止。
一体目の首が裂け、血が噴く。
同時に、二体目の喉が崩れる。
巨体が、順に沈む。
ドンッ! ドンッ!
重なる地響き。
イッサは動かない。
短刀をわずかに傾け、血を払う。
――終わりだ。
まるで訓練用の標的でも相手にしているかのように、イッサは処理していった。
ティプスタンは、しばらく言葉を失った。
一人で二体。
それを、あまりにも短く終わらせた。
ティプスタンの視線は自然と、彼の足元へ落ちた。
――ハヤブサのブーツ
フィオも同じものを装備している。
だが、イッサはそれだけではない。
短刀、小盾、両足のブーツ。
四つの魔石魔導具を平然と使っている。
それが意味するものを、ティプスタンはもう理解していた。
自身の魔力量は訓練などで上げられるものではない。
天与の才である。
循環系なら、自分の魔力を纏って身体能力を底上げできる。
制御系なら、装備へ魔力を宿して、装備そのものの性能を引き上げられる。
イッサは制御系。
どちらにせよ、魔力があるかないかで差は大きい。
いや――大きいなんてものでは済まない。
雲泥の差。
それを、ティプスタンは嫌というほど実感した。
自分は盾で流し、懐に潜り込み、やっと一撃を入れた。
その後の詰めは、ミミリルの槍がなければ成り立たなかった。
それに比べて、彼らは一人で完結している。
(やっぱり、すごいな……)
悔しさと、憧れと、焦りが胸に混ざる。
だが同時に――見て学べることもある。
ティプスタンはそう思って、彼らの動きを目に焼きつけた。
☆
昼休憩は、静寂の回廊林の中でも少し開けた場所にある旧遺跡で取ることになった。
森を抜けた先、そこだけがぽっかりと空いたような不自然な広場。
地面には円形に敷かれた石畳。
中央には、複雑な紋様を刻んだ古代の円陣が、風化しながらも輪郭を残している。
崩れた柱。
半ば埋もれた石壁。
ここがかつて“何かの施設”であったことは、一目で分かった。
「ほわぁ……」
ミミリルが目を輝かせる。
ウサギ耳も、わくわくしたように立ち上がっていた。
ルベッカの目は、珍しくわずかに鋭さを増していた。
やはり遺跡となると、研究者として気になるのだろう。
ティプスタンは少し離れた位置に立つ大きな石板へ目を向けた。
ところどころ砕けている。
だが、その中央に刻まれた意匠は今もはっきりと残っていた。
穴の開いた太陽のような紋――その周囲を囲むように、五体の生き物のようなシンボルが配置されている。
龍。
蝶。
蛇。
鳥。
獣。
見ていると、胸の奥を静かに掴まれるような感覚があった。
「気になりますか?」
声をかけてきたのはマー教授だった。
「はい……」
マー教授は石板へ歩み寄る。
「中央のこの意匠は、“緋幻紋”と呼ばれるものです」
「ひげんもん……」
マー教授の指が、穴の開いた太陽めいた紋をなぞる。
「存在の核、あるいは起源を象徴する印とされています」
さらにその周囲の五体を示し、続けた。
「これらは“五界使徒”――世界の理に関わる存在として語られるものです」
ティプスタンは石板へ目を凝らす。
龍の紋は、渦を巻くようにしなやかに身体を円へ沿わせていた。
蝶は、大きく羽を広げ、境界そのものを表すような曖昧さを伴っている。
蛇は自らの尾に喰らいつき、完全な円を成していた。
鳥は翼を大きく広げ、何かを抱くような構図で刻まれている。
そして最後の獣は、角を持ち、重厚に大地へ根を張るような安定感を放っていた。
マー教授は続ける。
蒼天龍――認識を司る存在。
白夜蝶――可能性と選択を生む存在。
玄冥陰蛇――時間と因果を巡らせる存在。
陽輪凰――解放と進化を促す存在。
翠界麒麟――調和と均衡を保つ存在。
静かな説明だったが、その一語一語には奇妙な重みがあった。
ティプスタンは思わず息を呑む。
「まるで……世界そのものを表しているみたいだ」
「ええ。その解釈で概ね正しいです」
マー教授が頷いた。
そこで、すっとルベッカがティプスタンの隣へ来る。
「補足します」
銀縁眼鏡の奥の青い瞳が石板を捉える。
「エルフやドワーフは、一般的には精霊信仰が主流です。ですので、この“五界使徒”の概念は、主に亜人、獣人、ヒューマン、ネクロクレイマンの間で信仰されるものですね」
「ネクロクレイマンも?」
ティプスタンは思わず聞き返した。
自分もまた、ミミリルのスプリによって生まれたネクロクレイマンのブランチだ。
だから、その種族名が出るたびに、胸の奥が少しだけ反応してしまう。
「ええ」
ルベッカは石板から目を離さずに答えた。
「ネクロクレイマンは、生命の循環や存在の継承といった概念と相性が良い種族です。五界使徒信仰の中でも、玄冥陰蛇の思想のルーツとされています」
「へぇ……」
ティプスタンは石板に刻まれた蛇の紋を見つめた。
尾を喰らい、円を成す蛇。
これが、自分の種族のルーツ。
そう思うと、不思議な感覚があった。
自分は、何も知らずに生まれた。
けれど、自分という存在にも、どこか遠い昔から続く意味があるのかもしれない。
その時、マー教授がわずかに言葉を切った。
「……ただ」
丸眼鏡の奥の目が、少し伏せられる。
「ネクロクレイマンに対する認識は、時代や地域によってかなり違います」
言葉を選ぶような、短い間。
マー教授は、ティプスタンを傷つけない言い方を探しているようだった。
「受け入れられていた場所ばかりでは、ありませんでした」
その声は、いつもの穏やかさを保っていた。
けれど、どこか苦いものを含んでいた。
「スプリによって新たな個体を生む性質は、昔から異端の目で見られることがありました。不思議なものは、理解されなければ、畏れや偏見に変わります」
「偏見……」
「ええ。ネクロクレイマンを“不死に近い存在”だと誤解する者もいました。勝手に増えていく危険な種族だと決めつける者もいた。中には、死や呪いに近い存在だとして、忌避した地域もあります」
ティプスタンは、言葉を失った。
ミミリルのウサギ耳型魔導具が、ぴくりと小さく揺れる。
「ネクロクレイマンって……そんなに嫌われている種族なんですか?」
ティプスタンが小さく尋ねると、マー教授は静かに首を横に振った。
「今のククルシアでは違います。少なくとも、学術的には一つの種族として認められています」
そこで、マー教授は一度言葉を切った。
「ですが、そんな時代もありました」
その声には、普段の穏やかさとは違う重みがあった。
マー教授は石板へ視線を戻した。
ティプスタンは、自分の手を見下ろした。
そして、石板に刻まれた五つの紋をもう一度見た。
世界の理。
存在の起源。
生命の循環。
それらを表すはずの紋様が、急に少しだけ重く見えた。
「ほへぇ……」
少し沈んだ空気を変えるように、ミミリルがわざと明るい声を出した。
「でも、こういうのってワクワクするゾ!」
ミミリルが石板を見上げる。
「世界とか、起源とか、遺跡っぽいゾ!」
「“遺跡っぽい”のではなく、遺跡です」
ルベッカが冷静に訂正する。
「細かいことはいいんだゾ」
「よくありません」
そんなやり取りに、少しだけ緊張が和らいだ。
☆
休憩を終え、討伐を再開した。
これまでで5体。
残るサイレントベアは一頭だけのはずだった。
だが、その最後の一頭がなかなか見つからない。
森は静かだった。
静かすぎるほどに。
「索敵範囲を広げましょう」
マー教授が指示を出す。
「互いの位置を意識して、離れすぎないように」
隊列の間隔が広がる。
イッサが最前列を進み、そのやや後ろにフィオ。
編入組と引率陣は左右と後方を警戒しながら動く。
湿った地面。
重なる根。
樹々の間の薄暗がり。
ティプスタンは小盾を構えながら、耳を澄ませた。
☆
その頃――前方でイッサが足を止めた。
瞬間、フィオも気づき、すぐ隣へ駆け寄る。
「……なによ、これ」
フィオの声が低くなる。
そこで見たものに、思わず息が詰まった。
サイレントベアとグリーンウルフの死体が、複数体。
地面に転がっていた。
それも、ただ倒れているのではない。
肉が裂け、腹が抉られ、明らかに食い荒らされた痕がある。
「これ……獣同士の争いじゃないよね」
フィオが眉をひそめる。
「共倒れには見えないな……」
イッサの声にも、わずかな硬さが混じっていた。
「この森に、サイレントベアより上位のモンスターはいないはずだが……」
イッサが呟く。
彼の目は死体だけではなく、その先――森の奥へ向いていた。
フィオがすかさず、共鳴笛を鳴らす。
イッサは警戒を強めたまま、さらに進む。
景色は一変した。
樹々の密度が少し薄くなり、地面の質が変わる。岩が増え、空気が冷たくなる。
そこに――
大きな獣の死体があった。
だが、それはサイレントベアではない。
全身が岩のように硬質化した、別種の熊型モンスター。
「ストーンベア……?」
フィオが言う。
「しかも大型種だ」
イッサが応える。
4メートルほどはある。
静寂の回廊林ではなく、そのさらに奥にあるダンジョンに生息するはずのモンスター。
本来なら、この場所にいるはずがない。
その巨体が、無惨に転がっていた。
しかも――頭部が潰れている。
最も硬いはずの頭部が。
サイレントベアたちの死体とは違う。
食い荒らされた跡ではない。
まるで、巨大な何かで――潰されたような。
フィオの背筋が冷えた。
こんなことができる存在がいるのか。
その時だった。
チリンッ――
イッサの腰に付けた魔響鈴が鳴った。
同時に、フィオの魔響鈴も反応する。
どこか緊張を帯びた、不吉な高まり。
二人は顔を合わせた。
☆12話に続く☆




