第77話 黒き翼
「……私のせいだったの?」
ティアラの問いに、誰も答えなかった。
重い沈黙だけが落ちる。
キャロラインは唇を噛み締めた。
否定することはできた。
けれど。
その言葉を口にすることはできなかった。
ティアラは小さく首を振った。
「違う……」
震える声。
「違う……違う……」
信じたくなかった。
何度も。
何度も首を振る。
耳を塞ぐように両手を上げる。
聞きたくなかった。
認めたくなかった。
ティアラは唇を噛む。
苦しい。
胸が痛い。
今すぐ泣きたかった。
その時。
「ティアラ」
両肩に手が置かれる。
顔を上げる。
アルトだった。
「ノエルは後悔していない」
ティアラの瞳が揺れる。
「絶対だ」
迷いのない声だった。
「お前を逃がしたことを後悔するような人じゃない」
母の笑顔が浮かぶ。
十六歳の誕生日。
封印の鎖が砕けた日。
歪んだ光の向こうへ、ノエルはティアラの背を押した。
泣きそうなほど優しい顔で。
「ティアラ」
「あなたが生まれてきたことは、罪ではないわ」
震える手が頬に触れる。
「誰が何を言おうと」
「あなたは生きていいの」
そして。
最後に微笑んだ。
「自由に生きなさい」
優しかった声。
温かかった手。
最後の瞬間まで。
母は自分を守ろうとしていた。
涙が滲む。
それでも。
母が命を懸けて繋いでくれた未来だ。
立ち止まるわけにはいかなかった。
ティアラはぎゅっと拳を握った。
泣くのは後だ。
今は違う。
お母さんが眠っている。
魔物達は、その場所へ向かっている。
守らなければならない。
「……行かなきゃ」
その時だった。
穴の奥から、禍々しい気配が噴き上がる。
空気が震えた。
地面が軋む。
まるで。
穴そのものが悲鳴を上げたみたいに。
リアンの背筋が凍る。
今まで感じたことのない圧力だった。
「……っ!」
レイヴンが目を細める。
クラウスの表情からも余裕が消えた。
全員の視線が穴へ向く。
そして――。
穴の底から、人影が浮かび上がる。
人の形をしていた。
だが、人ではない。
背には漆黒の翼。
頭には、ねじれるように伸びた二本の角。
漆黒の髪が風に揺れる。
深紅の瞳が空を見上げた。
男は眩しそうに目を細める。
「これが……太陽か」
白銀の光。
青い空。
風。
森。
その全てを見渡し――
ゆっくりと微笑んだ。
「美しい」
恍惚とした声だった。
「これほど美しい世界が存在したとは」
長い指先を空へ伸ばす。
まるで愛しいものへ触れるように。
「欲しいな」
「全部」
「この美しさを」
「ぐちゃぐちゃに壊してしまいたくなる」
誰も動けなかった。
圧倒されていた。
そこにいるだけなのに。
空気そのものが支配されていく。
「……なんだ、あれは」
クラウスが低く呟く。
リアンの目が大きく見開かれた。
本能が警鐘を鳴らしていた。
危険だ。
あれは。
ここにいていい存在ではない。
リリスの尻尾が膨らむ。
本能が危険を告げていた。
ユラは無言で剣の柄へ手を添える。
ルカの額を汗が伝った。
誰もが理解していた。
あれは魔物ではない。
もっと別の何かだと。
男はゆっくりと周囲を見渡した。
その視線が三つ首の白銀のドラゴンへ向く。
本来なら。
誰もが目を奪われる存在だった。
だが。
男は一瞥しただけだった。
「……違う」
興味を失ったように呟く。
そして。
その赤い瞳が、遥か彼方を捉えた。
その瞬間。
ティアラの背筋を冷たいものが走った。
理由は分からない。
だが。
あの男を放ってはいけない気がした。
「見つけた」
男の口角が僅かに上がる。
「随分と眩しいな」
黒い翼が広がる。
次の瞬間。
男は聖域のある方角へ飛び立った。
あまりにも速い。
その姿は一瞬で空の彼方へ消えていく。
残されたのは。
今も穴から溢れ続ける魔物達だけだった。
「っ……!」
ティアラが息を呑む。
胸騒ぎが消えない。
「まずい……!」
キャロラインの顔から血の気が引く。
「聖域が狙われてる!」
「追うぞ」
リアンが言った。
その声に迷いはない。
だが。
「待て」
クラウスが鋭く制した。
全員の視線が向く。
クラウスは穴を見下ろした。
今もなお。
魔物達は尽きることなく湧き出している。
放っておけば、その数はさらに増えるだろう。
「全員では行けない」
低い声だった。
「この穴を放置すれば、魔物は際限なく増える」
誰も反論できなかった。
それは事実だったからだ。
クラウスは短く息を吐く。
そして素早く視線を巡らせた。
「アルトさん、ティアラ、リアン、リリス、キャロライン」
一瞬だけ言葉を切る。
「聖域を頼む」
「俺とレイヴン、ユラ、ルカでここを抑える」
そう言い切った。
その瞬間。
白銀のドラゴンが大きく旋回する。
巨大な身体が地上すれすれまで降下した。
「急げ!」
クラウスが叫ぶ。
最初に飛び降りたのはクラウスだった。
ユラは一瞬も迷わなかった。
クラウスの背を追うように飛び降りる。
続いてルカも地面へ着地した。
だが。
一人だけ動かない。
レイヴンだった。
クラウスが眉をひそめる。
「おい!」
淡い金色の髪が風に揺れる。
「早くしろ!」
それでも。
レイヴンは動かなかった。
ただ。
ティアラを見つめていた。
聖域へ向かった存在。
間違いなく脅威になる。
ティアラはその先へ向かおうとしている。
自分の知らない場所で。
自分の届かない場所で。
ティアラが傷つくかもしれない。
そう考えた瞬間。
胸の奥が微かに軋んだ。
レイヴンは眉をひそめる。
分からない。
こんな感覚は知らなかった。
不安。
焦り。
そして。
失いたくない。
光を使うたび。
感情は薄れていった。
喜びも。
怒りも。
悲しみも。
今では曖昧だ。
なのに。
ティアラのことだけは違った。
「……レイヴン?」
ティアラの戸惑う声が響く。
レイヴンは静かに答えた。
「俺はティアラと行く」
その言葉に。
場の空気が止まった。
「はぁ!?」
クラウスが叫ぶ。
「お前、今なんて――」
「俺はティアラと行く」
レイヴンは繰り返した。
それだけだった。
だが。
その声に迷いはない。
誰にも曲げられない意思があった。
クラウスが頭を抱える。
「お前なぁ……」
アルトはレイヴンを見る。
数秒。
青い瞳を見つめた。
その瞳に迷いはなかった。
アルトは静かに頷く。
「……わかった」
そして。
遠くの空を見上げた。
聖域。
そこにはノエルがいる。
本当なら。
今すぐ聖域へ向かいたかった。
ノエルの無事を、自分の目で確かめたかった。
だが。
黒い翼の男は聖域へ向かった。
もしノエルに何かあれば――。
胸の奥がざわつく。
それでも。
ここを放棄するわけにはいかなかった。
「ティアラを頼む」
レイヴンは何も言わなかった。
ただ。
小さく頷く。
それだけで十分だった。
そして。
アルトは巨大な白銀のドラゴンから飛び降りた。
地面へ着地する。
「アルト!」
キャロラインが慌てて飛び立つ。
「勝手に話を終わらせないで!」
小さな羽をばたつかせながら、その後を追った。
アルトは苦笑する。
「悪いな」
「ったく……」
クラウスは肩を竦めた。
「行け」
リアン達へ視線を向ける。
「聖域は任せた」
ルカの視線がリアンへ向いた。
危険なのは皆同じはずだった。
それなのに。
なぜかリアンのことだけが気になった。
「……気をつけて」
気付けば口にしていた。
ルカは小さく唇を結ぶ。
遠くの空。
黒い翼の男は、すでに空の彼方へ消えかけていた。
時間はない。
リアンは拳を強く握り締めた。
一秒でも早く聖域へ辿り着きたかった。
「行こう」
ティアラが頷く。
白銀のドラゴンが翼を広げた。
目指す先は――聖域。
母が眠る場所だった。




