第76話 迫り来る魔の軍勢
重い沈黙が落ちた。
「……冗談だろ」
ルカの声が掠れる。
穴の奥からは、今もなお魔物達が溢れ続けていた。
オーガが這い上がる。
スケルトンが群がる。
レッドアイが空を埋める。
「……あれ全部、魔界の魔物なんですか?」
ユラの目が細くなる。
「……数が多すぎるな」
アルトが低く呟いた。
視線は、穴から溢れ続ける魔物達へ向いている。
その表情は険しかった。
レイヴンは何も言わない。
ただ。
溢れ出す魔物達の群れを、無表情のまま見つめていた。
リリスの指先が、小さく震えていた。
無意識に。
リアンの服を掴む。
穴から溢れ続ける魔物達から、目が離せない。
「リアンお兄様……」
掠れた声が漏れる。
怖い。
見ているだけなのに。
胸の奥が、ぞわりと粟立つ。
「そんなはずない……」
キャロラインは、小さく首を横に振った。
羽が、かすかに震える。
「封印はまだ……」
言いかけて。
キャロラインは、はっと息を呑む。
視線が、白銀のドラゴンへ向いた。
そして。
崩壊した塔の下に口を開ける巨大な穴へ。
その顔から、血の気が引いていく。
「まさか……」
掠れた声が漏れる。
「白銀のドラゴンが……」
震える唇から、言葉が零れた。
「封印そのものだったの……?」
キャロラインの瞳が揺れた。
白銀のドラゴンは、塔を守るために封じられていたんじゃない。
魔界への入口を閉ざすために。
あの場所へ繋ぎ止められていた。
気の遠くなるような時を。
誰にも知られず。
ただ一人で。
ドラゴンは何も答えない。
ただ。
三つの頭の一つが、ゆっくりと目を閉じた。
否定はしなかった。
その沈黙が。
何より残酷だった。
キャロラインの顔がさらに青ざめる。
その時だった。
皆が魔物達へ目を奪われる中。
クラウスだけは、その進行方向を見ていた。
「……待て」
鋭い声が響く。
クラウスは魔物達から目を離さない。
眉をひそめる。
「おかしい」
低く呟いた。
オーガが迷いなく前へ進む。
スケルトン達が列を成して続く。
空ではレッドアイの群れが同じ方向へ飛んでいた。
だが。
そのどれもが、こちらへ向かってこない。
まるで。
最初から決められた目的地があるみたいに。
「……同じ方向へ向かっているようだな」
クラウスが眉をひそめる。
その言葉に。
全員が魔物達の進む先へ目を向けた。
そして。
ティアラの顔から、血の気が引く。
「……そんな……」
視線の先。
遠くの森。
そのさらに奥。
母が眠る場所だった。
「だめ……」
掠れた声が漏れる。
「あっちには……母が……」
アルトが息を呑む。
瞳が、大きく揺れた。
今まで保っていた冷静さが、一瞬だけ崩れる。
もう二度と会えないと思っていた人の名前だった。
「……ノエル?」
その名を聞いた瞬間。
キャロラインの表情が強張った。
「まずいわ!」
小さな身体が震える。
「ノエルは今、聖域で眠っているのよ!」
「聖域……?」
アルトの瞳が揺れる。
ノエルが生きている。
その事実が、今さらのように胸を揺さぶった。
キャロラインは唇を噛んだ。
「ティアラを逃がすために、自分の力を使い過ぎたの!」
「っ……」
ティアラの瞳が揺れる。
「力を……使い過ぎた……?」
「そうよ」
キャロラインは目を伏せた。
「あなたの封印を解いて、精霊国の外へ逃がしたの」
「だから今も、眠り続けているのよ」
ティアラの呼吸が止まる。
頭の中が真っ白になった。
ずっと会いたかった母。
ずっと助けたかった母。
その母が――。
自分を逃がすために、倒れた。
自分が自由を得た日。
母は眠りについた。
自分が手に入れた自由は。
母が失った時間の上にあった。
「じゃあ……」
声が震える。
「母が、ああなったのは……」
唇を噛む。
胸の奥が痛い。
苦しい。
けれど。
聞かずにはいられなかった。
「……私のせいだったの?」
◆
――聖域。
泉の水面に、小さな波紋が広がった。
白銀の木々がざわめく。
風はない。
それでも。
聖域そのものが、微かに震えていた。
光が集まる。
泉の上空へ。
白銀の木々の間へ。
零れた光が収束していく。
人の輪郭を形作るように。
ゆっくりと。
静かに。
精霊王――セラフィオンが、そこに立っていた。
その瞬間。
聖域全体へ静寂が落ちる。
白銀の木々が動きを止めた。
枝先から零れ落ちていた光粒も。
地面へ届くことなく。
空中で静止する。
まるで。
世界そのものが息を止めたみたいに。
そして。
同じ認識が、全精霊へ流れ込んだ。
「白銀のドラゴンの封印が破られた」
「精霊兵を出せ」
「対象の確保は後回し、魔界側侵入個体の排除を優先」
「聖域への接近を許すな」
その瞬間だった。
空中に留まっていた無数の光粒が、一斉に輝く。
まるで。
命を与えられたみたいに。
光は空へ舞い上がった。
白銀の森の上空を駆け抜ける。
無数の流星のように。
聖域の外へ。
精霊国全土へ。
それは。
精霊王の意思。
その瞬間。
すべての精霊へ、一斉に命令が届いた。
七色の光が、ゆらりと揺れる。
セラフィオンの翼が微かに波打った。
それは。
理が動いた証。
そして。
初めて。
セラフィオンの声に、僅かな揺らぎが混じった。
「――聖域は、私が守る」
その時だった。
ノエルの髪の先から、白金の光がひと粒零れ落ちる。
雪の結晶みたいに。
ゆっくりと宙を漂い。
そして。
風もないのに。
光は静かに流れた。
まるで。 引き寄せられるように。
セラフィオンの傍へ。
白金の光は、そっと彼の掌へ触れる。
次の瞬間。
光は音もなく溶けるように消えた。
セラフィオンは何も言わない。
ただ。
眠り続けるノエルを見つめていた。
聖域へ。
魔の軍勢が迫っていることを知りながら。
それでも。
その視線が、ノエルから離れることはなかった。
まるで。 失うことを許されないものを見るように。




