第72話 閉ざされた扉
ドラゴンが、空中でぴたりと動きを止めた。
巨大な翼が、ゆっくり空を打つ。
その真正面。
淡い光を纏った小さな精霊が、静かに宙へ浮かんでいた。
手のひらほどの大きさ。
けれど、ドラゴンは飛ばなかった。
三つの頭が、ぴたりと止まる。
まるで、 目の前の小さな存在を、本能で警戒しているみたいに。
空気が、張り詰める。
「……止まった?」
ルカが目を丸くする。
精霊は、腰へ手を当てながら、ふわふわ宙に浮いていた。
「ここから先は、通行止めよ!」
小さな足をつんっと前へ突き出しながら、精霊が右手の指を突きつけた。
「たとえドラゴンでも、簡単には通せないわ!」
元気な声だった。
けれど。
ドラゴンは、警戒するみたいに三つの頭を僅かに下げている。
その姿に、リアンの瞳が細まった。
――強い。
呼吸が、浅くなる。
小さな精霊を見ているだけなのに。
背筋だけが、じわりと冷えていく。
そのときだった。
「……あれ?」
精霊の視線が、ティアラで止まる。
澄んだ紫の瞳。
銀色の髪。
その顔を見た瞬間。
小さな瞳が、わずかに見開かれた。
「え……」
声が止まる。
「もしかして……」
空気が、変わった。
「アルトの、娘……?」
ティアラが、息を呑む。
「……お父さんを知ってるの?」
精霊は答えない。
ただ。
信じられないものを見るみたいに、ティアラを見つめていた。
ティアラは、ぎゅっと胸元を握る。
「私は――」
揺れる声。
「お父さんを、助けに来たの」
精霊は、小さな羽を揺らしながら、くるりと空中で振り返った。
「……やっぱり、アルトの娘なのね」
エメラルドグリーンの瞳が、ティアラを真っ直ぐ見つめる。
「いいわ。ついてきて」
そう言うと、小さな身体が光を引きながら、さらに塔の上層へ飛んでいく。
『……』
ドラゴンは、黙ったまま上昇していく。
崩れた階層を越え。
折れた柱を越え。
塔の上層へ近づくたび、空気が、少しずつ重くなっていった。
息苦しい。
胸の奥へ、冷たいものが沈んでくる。
ティアラは、無意識に胸元を押さえた。
もうすぐ会える。
ずっと会いたかった父に。
なのに。
近づくほど、胸騒ぎだけが強くなっていく。
やがて、空気が変わった。
「……っ」
リアンが、僅かに目を細める。
冷たい。
いや、違う。
重い。
まるで、この先だけ世界そのものが閉ざされているみたいだった。
そして、塔の最上層。
そこに、一つの巨大な黒鉄の扉があった。
人間では押し開けることすら出来なさそうな、重厚な扉。
「……」
ティアラが、息を呑んだ。
胸が、うるさい。
この先にいる。
ずっと会いたかった人が。
助けたかった父が。
あと少しで――。
キャロラインが、静かに扉を見上げる。
「この先に、アルトはいるわ」
だが、小さな精霊の表情が、僅かに曇った。
「でも、この扉には強い結界が張られている」
エメラルドグリーンの瞳が、ティアラたちを見る。
「あなたたちに、開けられるかしら?」
ドラゴンが、ゆっくり高度を下げる。
巨大な翼が風を巻き起こしながら、最上層の床へ降り立った。
全員が、順番にその背から降りる。
三つの頭が、静かにティアラたちを見下ろしている。
ティアラは、ゆっくり扉へ近づいた。
黒鉄の扉。
近づくだけで、空気が重い。
「……っ」
喉が、乾く。
胸がうるさい。
ティアラは、小さく唾を飲み込んだ。
そして、震える指先を、そっと扉へ伸ばす。
触れた――その瞬間。
――バチィッ!!
「きゃっ――!?」
凄まじい衝撃が走った。
ティアラの身体が、大きく後ろへ弾き飛ばされる。
「ティアラ!」
リアンが、とっさにその身体を受け止めた。
細い身体が、腕の中へ落ちてくる。
「っ……ぁ……」
ティアラが苦しげに顔を歪めた。
指先が、じんじん痺れている。
「……弾かれた?」
信じられないみたいに、澄んだ紫の瞳が揺れる。
クラウスが、扉を睨みながら低く吐き捨てた。
「相当強力な結界が張られてるみたいだな」
そのとき、レイヴンの足元から、金色の光が溢れた。
空間転移。
一瞬で扉の向こうへ移動しようとする。
だが、扉の目前で。
――ビキィンッ!!
金色の光が、見えない壁へ激突した。
まるで、硬質な膜へ叩きつけられたみたいに。
レイヴンの身体が、大きく後ろへ弾かれる。
「……っ」
着地と同時に、金色の光が霧散した。
青い瞳が、細くなる。
「転移まで、防がれるの……?」
ルカが、息を呑むみたいに呟いた。
ティアラが、ぎゅっと胸元を掴んだ。
「そんな……」
「お父さんが、目の前にいるのにっ……!」
震える声が、最上層へ小さく響いた。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
その空気を破るみたいに、クラウスが低く言った。
「……おい、精霊」
鋭い視線が、精霊へ向く。
「何か方法はないのか?」
「し、失礼ねッ!」
精霊が、腰へ両手を当てる。
小さな足を突き出すみたいに空中で踏ん張りながら、ぐいっと顔を近づけた。
「私の名前は精霊じゃないわッ! キャロライン!」
「次、精霊って呼んだら、ただじゃおかないんだからッ!」
小さな羽をばたばた揺らしながら、頬をぷくっと膨らませる。
「わからないわよ、そんなの……!」
続いた声は、少しだけ弱かった。
キャロラインの表情が、僅かに曇る。
「……この結界、アルトの力じゃないもの」
その言葉に、空気が、止まった。
小さな手が、ぎゅっと握られた。
「開け方なんて、わかってたら……」
その声が、少しだけ震える。
「……とっくに、開けてるわ」
空気が、重く沈んだ。
キャロラインだって。
ずっと、この扉の向こうへ行きたかったのだと、わかってしまう。
そのときだった。
『離れろ』
低い声だった。
次の瞬間。
ドラゴンの喉奥で、青白い光が膨れ上がる。
「……っ!」
ユラが反射的に剣へ手を掛けた。
銀青の瞳が鋭く細められる。
リアンが、とっさにティアラを引き寄せた。
リリスも、びくりと肩を震わせる。
そのまま、怯えるみたいにリアンの背へ隠れた。
直後。
――ゴォォォォォッ!!
青白い炎が、巨大な奔流となって扉へ叩きつけられた。
轟音。
熱風が最上層を揺らす。
ルカの髪が激しく乱れ、クラウスが顔をしかめる。
壁が軋み。
床が震える。
だが、扉は、壊れなかった。
黒鉄の表面は、焼けるどころか、傷一つ付いていない。
「そんな……」
ティアラの肩が、小さく落ちる。
ドラゴンの炎ですら、通じない。
重い沈黙が落ちた。
そのとき。
「……いや」
リアンが、僅かに目を細める。
「……動いてる」
扉の表面が、わずかに青白く脈打っていた。
――生きている。




