第71話 舞い降りた光
静かだった。
さっきまで塔を揺らしていた咆哮が、嘘みたいに消えている。
崩れた石片だけが、遥か下へ落ち続けていた。
熱を帯びていた空気も、少しずつ冷えていく。
その静寂の中で。
白銀のドラゴンが、ゆっくりリアンを見る。
六つの瞳が、静かに揺れた。
『……その気配』
低い声だった。
次の瞬間。
リアンの胸の奥が、微かに熱を持つ。
不意に、静かな水音が聞こえた気がした。
蒼。
深く澄んだ湖底みたいな気配。
『……まだ、世界を見ていたのか』
青い瞳が、わずかに細められる。
『ネヴァリスの湖底に眠る、水の龍……』
『……消えてはいなかったか』
短い沈黙。
『……変わらぬな』
それは、リアンへ向けられた言葉じゃなかった。
もっと奥。
リアンの瞳を通して、こちらを見ている“何か”へ向けた声。
『我が同胞を…… 救ってくれたのだな』
声が、頭の奥へ直接響いた。
リアンが、僅かに目を見開く。
『なぜ、人の身で…… あの湖の気配を宿している?』
「……契約した」
リアンが、静かに答える。
「ティアラを、生かすために」
ドラゴンが、静かに目を伏せた。
『……そうか』
「……リアン?」
ティアラが、心配そうにリアンを見る。
リアンは答えなかった。
胸の奥に残る、静かな水の気配。
それはすぐに、深い湖の底へ沈むみたいに消えていった。
代わりに。
ドラゴンが、ゆっくりティアラを見る。
裂けた喉から、苦しげな呼吸が漏れた。
『……ありがとう』
掠れた声だった。
『長い苦しみから…… 私を解放してくれて』
白銀の巨体が、静かに震える。
もう。そこに殺意はなかった。
ティアラは、そっと息を吐いた。
「……ちゃんと届いたよ」
澄んだ紫の瞳が、やわらかく細まる。
「本当によかった……」
張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。
その中で。
仲間たちが、ゆっくりティアラとリアンの側へ集まってきた。
リリスは、まだ僅かに震えていた。
白銀の尾を小さく揺らしながら、リアンの少し後ろへ寄る。
そして、覗き込むみたいに、そっとドラゴンを見る。
ユラは、まだ短剣を下ろしていなかった。
銀青の瞳が、静かにドラゴンを見据えている。
その横を、レイヴンが無言で通り過ぎた。
表情は変わらない。
何も言わないまま、ただ静かにティアラの隣へ立つ。
青い瞳だけが、一瞬だけドラゴンを見る。
それから、わずかに視線を伏せた。
そのとき。
「……おい、見ろ」
クラウスが周囲を見渡しながら吐き捨てる。
塔の壁には、ところどころ巨大な穴が空いていた。 崩れた外壁の向こうから、白い光が差し込んでいる。
螺旋階段も無事じゃない。
青白い炎で焼き裂かれ、途中から完全に崩れ落ちていた。
「螺旋階段は使えそうもないな」
ユラも周囲へ視線を巡らせる。
「……天井が見えません」
この塔は高すぎる。
どこまで続いているのか、見上げてもわからなかった。
ルカが、困ったみたいに肩を竦める。
「僕の風で上がるにも、限界があるし……」
沈黙が落ちる。
その空気を破ったのは、低く響く声だった。
『――ならば』
三つの頭が、静かにリアンたちを見る。
『私が、お前たちを上へ連れて行こう』
一瞬、空気が止まった。
「……は?」
クラウスが、露骨に目を見開く。
リリスも、ぴくりと狐耳を揺らした。
まだ焦げ跡の残る尾を抱くみたいにしながら、不安そうにドラゴンを見る。
リアンも、僅かに目を見開いていた。
ユラだけは、警戒を解かなかった。
銀青の瞳が細くなる。
――本気で言っているのか。
そんな視線だった。
一方。
「いいねぇ」
ルカが目を輝かせる。
「なんか、冒険って感じする」
その横で。
伏せられていたレイヴンの視線が、 静かに上がる。
表情は、変わらない。
だが、 どこか思考だけが深く沈んでいるみたいだった。
ティアラは、小さく笑った。
「ありがとう」
やわらかな声だった。
「助かるわ」
『……上へ行くのだろう?』
ドラゴンが、ゆっくり身体を伏せた。
白銀の巨体が、低く地面へ沈む。
ティアラは迷わなかった。
そのまま、ドラゴンの側へ駆け寄っていく。
「ティアラ」
リアンが僅かに眉を寄せる。
だが、ティアラは振り返らない。
怖くなかった。
もう、このドラゴンが自分たちを傷つけないと、わかっていたから。
次の瞬間。
白銀の尾が、ゆっくり動く。
長い尾が、ティアラの前へ回り込み、腹部へ沿うように持ち上がった。
まるで、 背へ登るための階段を作るみたいに。
ティアラが目を丸くする。
「わぁ……」
そっと、尾の上へ両足を乗せた。
すると、ドラゴンはゆっくりと尾を持ち上げる。
白銀の鱗が、光を反射した。
ティアラの身体が、ドラゴンの背へ運ばれていく。
背中へ降ろしたあと、ドラゴンは再び尾を下ろした。
長い尾が、 白銀の腹部へ沿うように曲がる。
ティアラが、白銀のドラゴンの長い首の横から、ひょこっと顔を覗かせた。
「みんなも、早くおいでよ!」
「いいねぇ。ドラゴンに乗るなんて、ちょっと憧れてたんだよね」
ルカが楽しそうに笑った。
そのまま軽やかに尾へ飛び乗る。
ドラゴンは静かに尾を持ち上げ、ルカを背へ運んでいく。
「おぉ……高っ」
呑気な声が、上から落ちてきた。
リアンとクラウスも続く。
「落ちたら洒落にならないな、これ」
クラウスが苦笑しながら、ドラゴンの尾を踏む。
その後ろで、ユラは、まだ動かなかった。
銀青の瞳が、ドラゴンを静かに見上げている。
警戒は、消えていない。
もし暴れれば、この距離では、逃げ切れない。
だが。
先に登っていくクラウスの背を見て、ユラの睫毛がわずかに揺れた。
数秒だけ迷い。
やがて、その背を追うように、静かに尾へ足を乗せる。
いつでも動けるよう、腰の短剣へ触れたまま。
リリスだけは違った。
「ぅ……っ」
焦げた尾を小さく揺らしながら、恐る恐るドラゴンへ近づく。
怖い。
ついさっきまで、殺されかけていた相手だ。
それでも、ティアラが小さく笑いながら言う。
「大丈夫だよ」
ティアラが、小さく笑う。
その笑顔が眩しくて。リリスは、ぎゅっと唇を噛んだ。
それでも、おそるおそる、尾へ足を乗せる。
最後に、レイヴンが静かに目を閉じた。
次の瞬間。
金色の光が揺らぐ。
レイヴンの姿が、 一瞬でドラゴンの背へ移動した。
「便利だねぇ、それ」
ルカの声が落ちる。
レイヴンは答えなかった。
『掴まっていろ』
白銀のドラゴンが、静かに翼を広げる。
巨大な翼膜が、塔の空気を大きく揺らした。
次の瞬間。
――ゴォォッ!!
重い風が吹き荒れる。
ドラゴンが翼を打った。
ふわりと。巨大な身体が、宙へ浮かび上がる。
同時に。
――ミシィッ。
嫌な音が、塔の床へ走った。
「……っ?」
リアンが目を見開く。
次の瞬間。
バキバキバキバキッ――!!
石床が、広範囲で一気に崩れ落ちた。
轟音。
砕けた石床が、遥か下へ呑み込まれていく。
その下にあったのは、底の見えない闇だった。
光すら届かない。
どこまで続いているのか、わからない。
まるで、世界そのものへ穴が空いているみたいだった。
冷たい風が、下から吹き上がってくる。
ぞわりと、肌が粟立った。
「ぅ……」
リリスの肩が、小さく震える。
次の瞬間。
焦げた尾を小さく揺らしながら、リリスが後ろからそっとリアンの腰へ腕を回す。
「リリス……?」
細い指先へ、力が入った。
「……こわい、です」
掠れた声だった。
底の見えない闇。
落ちれば、どうなるのかもわからない。
それなのに。
リアンの背へ触れた瞬間、胸の奥が少しだけ落ち着いた。
ティアラが、リアンのすぐ前にいる。
白銀のドラゴンの首元で、風に髪を揺らしている。
その姿を見ているだけで、胸の奥が、苦しくなる。
取られてしまいそうだった。
手を伸ばしても、届かない場所へ。
だから。ちゃんと、ここにいると確かめたかった。
そのとき。
リアンの片手が、そっと、腰へ回されたリリスの手へ重なった。
「……大丈夫」
振り返らないまま、リアンが、そう言った。
ただ、それだけだった。
ただ、怯える妹を安心させるみたいな、それだけの触れ方だった。
それでも。
触れられた場所から、熱が広がっていく。
指先が、震えた。
まだ。
まだ、隣にいてもいいのかなって。
そんな期待が、胸の奥へ滲んでしまう。
そのときだった。
「おぉ……!」
重苦しい空気を吹き飛ばすみたいに、ルカが子供みたいに目を輝かせる。
「すごいね、これ!」
風を受け、淡い水色の髪が楽しそうに揺れていた。
クラウスの喉が、わずかに詰まる。
こんなふうに笑うルカを、いつぶりに見ただろう。
――よかった。
心の奥で、そんな声が落ちた。
こんなふうに、無邪気に笑うルカを見るのは、久しぶりだった。
その姿に、胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
どうしようもなく、目を離せなかった。
胸の奥が、ぎゅっと軋む。
「……ガキかよ、お前」
誤魔化すみたいに、クラウスが小さく笑う。
崩れた螺旋階段を越え、ドラゴンはゆっくり上昇していく。
ティアラの胸は、ずっと落ち着かなかった。
もうすぐ。
もうすぐ父に会える。
そう思うだけで、鼓動が速くなる。
銀色の髪が、上昇気流に揺れた。
リアンは、静かに上を見上げる。
塔は、まだ終わらない。
見上げても、天井は遥か遠かった。
どこまで続いているのか、わからない。
そのときだった。
――キィン。
澄んだ音が響く。
暗い塔の上層から。
一筋の光が、ゆっくり降りてくる。
「……?」
青い瞳が見開かれる。
「あの光は……?」
その声に、皆も視線を上げた。
暗い塔の上層から。
一筋の光が、ゆっくり降りてくる。
雪でもない。 炎でもない。
淡く。 やわらかい光。
ふわりと、 光の粒が宙を舞った。
ドラゴンが、わずかに翼を止める。
『……精霊?』
次の瞬間。
光の中から、 小さな影が現れた。
透明な蝶の羽。
虹色に滲む燐光。
明るい金髪。
手のひらほどの、 小さな少女だった。
「――ちょっと待ったぁぁぁ!!」
元気な声が、塔の中へ響いた。
その瞬間。
白銀のドラゴンの瞳が、わずかに見開かれる。




