第64話 回廊の先は、すでに包囲されていた
リアンの手が、ティアラの腕を引いた。
次の瞬間。
体が、引き寄せられる。
支えられるように―― ティアラの上半身が、斜めに倒れ込んだ。
そのまま、リアンの膝の上へ。
リアンが外套を引き寄せ、
迷いなくティアラに被せた。
呼吸ごと、閉じ込めるように。
リアンは動かない。
姿勢ひとつ、崩さない。
その膝の上に―― “何もないかのように”。
ティアラだけが、隠されている。
近すぎる距離。
逃げ場のない体温。
ティアラは息を潜める。
それしか、できない。
指先が、わずかに震えた。
声は出さない。
気配を、殺す。
完全に。
レイヴンは、見ていた。
何も言わず。
ただ、静かに。
外套の下。
もう、見えない。
それでも――
レイヴンの視線は、そこから外れなかった。
見えていなくても、そこにいると知っているように。
「中を確認する。扉を開けろ」
返事はない。
空気が、張り詰める。
「開けろ。応じないなら――」
足音が、一歩、近づく。
扉へ伸びた手が――触れる、その直前。
レイヴンが、窓に手をかけた。
ガタン、と開く。
外気が流れ込む。
視線が、ぶつかる。
兵の動きが、その場で止まった。
一瞬で、空気が変わる。
兵の肩が、わずかに揺れた。
「……レイヴン、殿下……」
声が、かすれる。
レイヴンは、何も言わない。
ただ、見ている。
兵は、動けない。
ルカが、口を開く。
「無礼だな」
低い声。
兵の喉が、わずかに鳴る。
「こ、これは……失礼いたしました。ルカ殿下も――」
視線が動く。
馬車の中へ。
リアンへ。
そして――
それ以上、奥へ踏み込めない。
踏み込むことは、許されない。
兵は、目を伏せた。
「……問題ありません。お通りください」
短く。
それだけだった。
窓が閉じられる。
外の気配が、遠ざかる。
――ようやく。
馬車が、動き出した。
しばらく、誰も動かなかった。
外套の下の呼吸だけが、かすかに続いていた。
◆
馬車は、わずかに進む。
やがて――
前方に、もう一台の馬車が見えた。
止まっている。
クラウスとリリスが、すでに外へ出ていた。
その後ろに、ユラも立っている。
リアンは、窓を開けた。
外の空気が、流れ込む。
「……無事か」
クラウスの声は低い。
リアンは、短く頷く。
外套が、わずかに動いた。
内側から、ティアラが顔を出す。
ほんの一瞬、リリスと視線が交わる。
リリスの肩から、力が抜けた。
胸元で握っていた手が、ゆるむ。
ユラもまた、かすかに息を吐いた。
クラウスが、前を見据える。
「……行くぞ」
二台の馬車が、再び動き出す。
◆
馬車は、やがて止まった。
霧の回廊の入口だった。
扉が開く。
ひとり、またひとりと降りていく。
冷たい空気が、肌を撫でた。
背後で、声が落ちる。
「……気をつけて」
エルフィナだった。
クラウスが、短く応じる。
「ああ」
他の者も、言葉はない。
ただ、小さく頷いた。
レイヴンだけは、何も返さない。
視線は、すでに前へ向いていた。
やがて、馬車が静かに動き出す。
遠ざかっていく音。
振り返る者はいない。
誰も、すぐには動かなかった。
そして――
全員の視線が、同時に向く。
霧の奥へ。
白く、深く。
何も見えない――その先へ。
◆
――霧の回廊、外縁。
霧が、揺れる。
止まらない。
風ではない。
境界そのものが、歪んでいる。
「対象、霧の回廊付近に接近中」
「……こちらへ来るつもりか」
空気が、わずかに軋む。
「精霊国へ――」
誰も、否定しない。
対象はすでに、理に触れている。
声は、返らない。
空間が、わずかに歪む。
逃げ場のない“圧”が、満ちる。
それは――精霊王の意思。
次の瞬間。
同じ“答え”が、全員の内に落ちた。
「――回収」
「対象回収準備に移行」
覆ることはない。
すでに――対象は、霧の入口に立っている。
◆
――霧の回廊。
リアンたちは、足を踏み入れた。
最初は、まだ見えていた。
前を行く背中も、足元も。
だが――
一歩ごとに、白が濃くなる。
輪郭が、滲む。
前の背だけが、かろうじて残る。
足元は、もう見えない。
ルカの足が、無意識に止まる。
わずかに、視線が揺れた。
「……これ、どこまでが地面?」
その瞬間。
足元の霧が、にじんだ。
白の中に、黒が滲む。
じわりと、広がる。
――それが、動いた。
触手だった。
地面から這い出るように、ルカの足首へ伸びる。
絡みつく。
――引きずり込まれる。
「――っ」
その腕が、強く掴まれた。
引き寄せられる。
クラウスだった。
必要以上に強い力で――引き寄せる。
そのまま、前へ引く。
足を止めさせない。
触手が、空を掴む。
掴み損ねたまま、霧の中へ沈んでいく。
「止まるな」
低く、叩きつける声。
「立ち止まれば、引きずり込まれる」
ルカが、息を呑む。
一瞬だけ目を細め――すぐに前を見る。
「……なるほど」
引かれるまま、歩みを合わせる。
「これは、確かに止まれないね」
軽く笑う。
その瞬間。
クラウスの手が、離れた。
流れは、止まらない。
ティアラが、迷いなく前へ進む。
霧の奥へ。
レイヴンが、その隣に並ぶ。
リアンも歩を速める。
その腕に――リリスの手が、絡みついた。
「……リアンお兄様」
かすかに震える声。
リアンは歩みを止めない。
ただ、リリスへ視線を落とす。
「離れるな」
リリスの指先が、さらに強くリアンの腕を掴んだ。
後方。
クラウスとルカが続く。
ユラは、一歩遅れていた。
視線は、前――クラウスの背中。
一瞬、足が止まりかける。
その瞬間。
足元の霧が、また揺れた。
黒が、滲む。
ユラは息を詰め――
迷いを断ち切るように踏み出す。
距離を詰めた。
クラウスの隣へ。
並ぶ。
呼吸が、わずかに整う。
やがて、霧の濃さが、わずかに変わる。
白が、ゆっくりと薄れていく。
輪郭が、戻る。
足元の感触が、確かなものへと変わった。
それでも、歩みは止めない。
霧が、ほどける。
視界が開ける。
その先に広がるのは――白銀の森。
淡く光を受けた木々が、静かに立ち並んでいる。
音が、ない。
風は吹いているはずなのに、枝は鳴らない。
葉擦れも、気配も、何ひとつ届かない。
白銀の光だけが、降りている。
雪のように、静かに。
美しい。
だが――
どこか、歪んでいる。
“迎えられていない”。
その違和感が、空気を重くする。
次の瞬間。
光が、灯る。
ひとつ。
またひとつ。
空中に、浮かぶ。
増える。
無数に。
それが――形へと変わる。
骨組みが組み上がる。
装甲が重なる。
羽が、開く。
人の輪郭が、形を成す。
前列。
剣。槍。
構えたまま、静止している。
その背後――上空。
弓を引いた影が、浮かんでいた。
矢の先が、わずかに光る。
――すでに、包囲されていた。




