第5話 王命来襲──精霊奪還命令
亀裂は、止まらない。
外の気配が、ひびの隙間から食い込んでくる。
結界そのものが、限界を迎えつつあった。
クラウスが、素早く印を結んだ。
「――持たせる」
淡い光が走り、結界の亀裂を押し返す。
だが――完全には塞がらない。
そのとき。
外から、声が響いた。
「精霊を引き渡せ。これは王命だ」
その言葉に、リアンの瞳がわずかに細められる。
胸の奥で、確信が形を持つ。
――夜織。
森で遭遇した黒装束の部隊が、脳裏をよぎる。
王命を帯びて動く者たち。
ならば――ここにいるのも、同じ連中のはずだ。
低く、よく通る声。
威圧と確信に満ちていた。
「アルシェ公爵といえど、例外ではない」
「抵抗するなら――力ずくで奪う」
空気が、さらに重く沈む。
アルバートが、静かに口を開いた。
「ユラ」
「……はい」
「使用人を全員、地下の避難区画へ」
「速やかに移動させろ」
迷いのない指示。
「承知いたしました」
ユラは深く一礼すると、音もなく部屋を後にした。
クラウスの結界が、かろうじて亀裂を抑えている。
だが――長くは持たない。
リアンは、何も言わなかった。
わずかな間を置いて、窓へと歩み寄る。
手をかける。
迷いはない。
窓を、開いた。
夜の気配が流れ込む。
その先――
結界の向こう側を、黒装束の者たちが埋め尽くしていた。
無数の視線が、屋敷へと向けられている。
リアンの視線が、静かに細まる。
――やはり、夜織。
「……ティアラは渡さない」
声は低く、静かだった。
だが――はっきりと届く。
ティアラの瞳が、かすかに見開かれる。
震えるように、息を呑んだ。
その言葉の意味が、すぐには胸に落ちてこない。
それでも――
胸の奥に、確かな何かが落ちた。
わずかな沈黙。
クラウスが、肩をすくめる。
「……そう来るよな」
――次の瞬間。
結界が、砕けた。
音ではない。
空間そのものが裂けるような感覚。
ひびが一気に広がり、光が弾ける。
外の気配が、なだれ込んだ。
すでに庭へ踏み込んでいた黒装束の影が、一斉に動く。
一瞬で距離を詰めてくる。
「……っ」
窓が、砕けた。
破片が散る。
そのまま――影が雪崩れ込んだ。
音もなく。
だが、確実に。
黒装束の影が、次々と室内へ侵入する。
一人ではない。
二人でもない。
――十を超える気配。
次の瞬間、全員が動いたと理解した。
合図はない。
だが、誰一人として迷わなかった。
リアンが、寝台の正面へ出る。
その背で、ティアラを庇う。
ティアラの視線は、まっすぐリアンへ向けられていた。
その反対側。
アルバートが静かに位置を取り、背後を守るように構える。
リリスが、足元側へ滑り込む。
その指先が、わずかに震えていた。
尾もまた、小さく揺れている。
それでも、一歩も退かない。
クラウスは側面へ回り込み、低く構えた。
瞬く間に、間合いを奪われる。
円を描くように。
リアンたちを、取り囲む。
逃げ場は、ない。
空気が、張り詰める。
包囲の中から、ひとりの影がゆっくりと前へ出た。
「……最終通告だ」
低い声に、感情はない。
「精霊を引き渡せ」
わずかな間を置き告げる。
「従わぬ場合――ここで排除する」
リアンは動かない。ただ、正面を見据えたまま。
「……くどい」
短く吐き捨てる。
「その選択肢はない」
ティアラは背中越しに、その言葉を受け取る。
指が、寝台の上の布を強く握りしめた。
震えは消えない。
それでも、その視線はリアンから逸れなかった。
張り詰めた空気の中で、影の気配がわずかに沈む。
「……そうか」
感情のない声。
「ならば――排除する」
その言葉が落ち切るより早く、リアンは踏み込んでいた。
「――氷鎖」
足元に広がった水が、瞬時に凍りつく。
氷鎖が走り、複数の影の足を絡め取った。
動きが、止まる。
――ほんの一瞬。
その隙を、クラウスは見逃さなかった。
姿が、掻き消える。
「……ここからは俺の領域だ」
何も見えない。
だが次の瞬間、拘束された影の一体が、真っ直ぐに両断され――
音もなく崩れ落ちた。
しかし――
残りの影は止まらない。
氷を砕き、あるいは踏み外し、わずかな遅れすら許さない動きで拘束を抜ける。
最初から見えていたかのように。
――いや、見えている。
あの動きは――
リアンの奥歯が、わずかに軋んだ。
次の瞬間、ひとつの影が消えた。
視界から消えたと認識するよりも先に、
クラウスの体が弾かれる。
壁へ叩きつけられる軌道――その途中で、
影が割り込んだ。
ユラだった。
考えるよりも先に、体が動いていた。
クラウスの身体を受け止める。
腕に重みが食い込む。
その瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。
理由は、分からない。
ただ――視線がクラウスへ向かう。
息はある。
意識も――飛んではいない。
それを確かめた途端、張り詰めていた何かがわずかにほどけた。
ほんの一瞬だけ。
クラウスに触れた指先に、熱が宿る。
その感覚だけが、指先に残った。
クラウスが、わずかに視線だけを後ろへ向ける。
その先にいるのは、ユラ。
一瞬、視線が合う。
何も言葉はない。
だが――それで十分だった。
次の瞬間、二人とも何もなかったかのように前を向いた。
ユラは、そのまま静かに顔を上げた。
空気が、そのまま凍りつく。
誰も動かない。
次の一手が来ると分かっているのに、踏み込めない。
取り囲む影の中から、ひとつの声が落ちた。
「……その程度か」
感情のない、冷えた響き。
ただ事実を告げるだけの声。
リアンの視線が、鋭く細められる。
――速い。
消えたのではない。
見失った。
気づいたときには、間合いを詰められていた。
クラウスの位置が、崩れている。
守りの一角が、抜かれた。
狙いは、そこか。
配置を見ている。
――連携を、崩しに来ている。
息を整える。
次に動くべきは、どこだ。
守るべきは、ひとつ。
迷いはない。
リアンは一歩、前へ出た。
その背で、ティアラを庇う。
氷の気配が、静かに満ちていく。
室内を囲む影たちが、わずかに間合いを詰めた。
音もなく。
逃げ場を、さらに削るように。
だが――
リアンは、一歩も退かなかった。




