第57話 届かない手と、救う光
洞窟を抜けた瞬間、冷たい空気が肺に流れ込んだ。
それでも――吸い込んだ霧の影響は、まだ体に残っている。
夜は、終わりかけていた。
空が、わずかに白み始めている。
クラウスとルカが、すでに外に出ていた。
息を整える間もなく、
リアンとティアラも外へと踏み出す。
遅れて――リリスが飛び出してくる。
外の空気は、冷たかった。
肺の奥の重さは、消えなかった。
金色の霧は、洞窟の外まで薄く滲み出していた。
クラウスが、短く息を吐く。
振り返り、全員を一瞥する。
誰も、無事とは思えない顔をしていた。
ティアラの呼吸は浅く、足元がわずかに揺れる。
それでも――リアンの手は、離れていなかった。
リリスは、少し遅れて足を止める。
何も言わず、ただ全員の姿を確かめるように視線を走らせた。
白銀の耳が、ぴくりと揺れる。
「……エルフィナが心配してるな」
クラウスが低く言う。
「戻るぞ。ミストフォルン王城へ」
迷いはなかった。
ここに留まる理由が、もうない。
◆
城内へ踏み込んだ、その瞬間。
気配が、止まった。
奥にいたエルフィナの視線が、こちらへ向く。
ほんの一瞬――
全員の姿を、確かめるように見渡した。
クラウス。
ルカ。
リリス。
そして――リアンと、ティアラ。
その視線が、わずかに緩む。
息を詰めていたものが、
静かにほどけるように。
次の瞬間には、もう消えていた。
「……遅かったのね」
落ち着いた声だった。
責める色はない。
けれど――
待っていた時間の長さだけが、そこに滲んでいる。
リアンは、短く答える。
「……間に合わなかった」
わずかな沈黙。
「だが、発生源は封じた」
エルフィナの視線が、わずかに変わる。
「……そうなのね」
「……ありがとう」
その一言だけが、静かに落ちた。
そして――
エルフィナは、ゆっくりと視線を外す。
もう一度だけ、
全員の無事を確かめるように見渡し――
小さく頷いた。
「……少し、外すわ」
踵を返す。
白銀の髪が、わずかに揺れた。
そのまま、
静かな足取りで、その場を離れていく。
残されたのは、
まだ収まりきらない現実だった。
城内は、すでに限界に近かった。
運ばれていく人影。
崩れ落ちる身体。
荒い呼吸。
焦点の合わない瞳。
白く濁った息が、かすかに漏れる。
――洞窟で見た症状と、同じだ。
数が違う。
あまりにも、多すぎた。
ティアラは、一人の作業員の傍へと駆け寄った。
膝をつく。
震える身体。
浅い呼吸。
焦点の合わない瞳。
ティアラは、わずかに息を吸った。
その手が、胸元へと伸びる。
「……還りなさい」
白金の光が、静かに溢れた。
――浄化魔法。
やわらかな光が身体を包み込む。
次の瞬間。
荒れていた呼吸が、ゆっくりと落ち着いていく。
震えが止まる。
濁っていた瞳に、わずかに光が戻った。
張り詰めていた空気が、ほんのわずかに緩む。
「……まだ、間に合う人がいる」
その一言で、
全員の視線が、自然とティアラへ向いた。
ティアラは、静かに目を閉じた。
胸の奥で、なにかがほどける。
「……まだ、救える命がある」
一歩、前へ出る。
その瞬間。
白金の光が、溢れた。
静かに。
けれど、抗えないほどにやわらかく――空間を満たしていく。
空気が、変わる。
重く淀んでいた気配が、
ゆっくりとほどけていくのが分かった。
同時に。
ティアラから溢れ出していた光が、さらに広がる。
砕けるでも、燃え上がるでもなく。
やわらかく空間へと溶け込みながら――
輪郭を持たないまま揺らぎ。
やがて。
幾重にも重なる光が、形を結ぶ。
翼。
そう呼ぶしかない光が、背に広がっていた。
一本一本を主張するのではなく、
層となって重なり合う。
ただそこに在ると分かる、静かな存在。
それは――
触れたものを、ただ静める光だった。
誰かが、息を呑む。
ティアラは、ゆっくりと瞳を開いた。
「……還りなさい。穢れを祓い、あるべき姿へ――」
声は、小さい。
それでも――
その場にいる全てへ、確かに届く。
「浄化魔法」
次の瞬間。
光が、降りた。
降り注ぐ、というより――
包み込むように。
白金の光が、空間そのものを満たしていく。
その光は、倒れている者たちだけでなく、
その場にいるすべてへと触れていた。
肺の奥に残っていた重さが、
ゆっくりとほどけていく。
まとわりついていた違和感が、
静かに消えていった。
――その変化に、
リアンは、すぐには気づかなかった。
クラウスは、わずかに目を細めた。
ルカは、息を呑んだまま動かない。
リリスの耳が、小さく震えた。
それでも、
リアンは、目を逸らさなかった。
視線の先で――
自分には、できなかったことが、
目の前で起きていた。
胸の奥が、わずかに軋む。
それでも。
視線だけは、外さなかった。
リアンの視線が、わずかに揺れる。
その横で――
リリスの耳が、小さく震えた。
何も言わない。
ただ、
そっと、リアンの腕に触れる。
触れていることを、確かめるように。
離れないように、
わずかに、指先に力がこもる。
けれど――
リアンの視線は、前を向いたままだった。
そのことに、ほんのわずかに指先が緩む。
やがて――
何もなかったかのように、そっと手を離した。
光は、なおも広がり続けていた。
それでも――
リアンの視線は、前から動かなかった。
視線の先で――
苦しんでいた者たちの身体から、
力が抜けていく。
歪んでいた気配が、
ゆっくりと解けていった。
荒れていた呼吸が整い、
震えが止まり、
濁っていた瞳に、ゆっくりと光が戻る。
倒れていた者が、わずかに指を動かした。
やがて。
「……あ……」
かすかな声。
それは、生きている者のものだった。
周囲が、息を呑む。
「……息が……」
「動ける……」
重なっていく、安堵の声。
その空間から、
あの異質な気配は――もう消えていた。
静寂が、落ちる。
だがそれは、先ほどまでの死んだ静けさではない。
生きている者たちの、静けさだった。
その中で。
一人が、ゆっくりと顔を上げる。
視線の先にいるのは――ティアラ。
白金の光に包まれ、
背に翼を宿した、その姿。
震える声が、こぼれる。
「……天使、様……」
その言葉に、空気が揺れる。
「ありがとう……」
「助けてくださって……」
感謝の声が、次々と重なっていく。
ティアラは、何も言わない。
ただ、そこに立っていた。
その視線は――
まだ、すべてを救いきれたわけではない現実を見据えている。
やがて。
光が、静かに薄れていく。
背に広がっていた翼が、
ゆっくりと形を崩していく。
ほどけるように。
粒となって、
淡く、やさしく――空気へと溶けていく。
最後の光が消えたとき。
そこに残っていたのは、
ただ一人の少女だった。
リアンは、その光景を見ていた。
脳裏に、あのときの光景がよぎる。
あのとき、救えなかった。
そして今も――
自分の力では、届かない。
それでも、
目の前で、確かに命が救われている。
その姿から、目を離せなかった。




