第55話 終わっていなかった
「……たすけて」
それは、“一人の声”ではない。
誰のものでもなく、すべてが重なった、同じ音。
ずれない。
乱れない。
呼吸すら、揃っている。
「……たすけて」
繰り返す。
同じ間で。
同じ高さで。
まるで――
ひとつの存在が、喋っている。
そのまま。
“それら”が、動いた。
ゆっくりと、起き上がる。
関節が、わずかに軋む。
不自然な動きで。
ひとつ、またひとつと。
全員が、同じ速度で立ち上がる。
足を揃え。
向きを揃え――
前へ。
踏み出した。
“揃って”。
その瞬間。
リアンの指が、止まる。
魔力は、ある。
放てば、止められる。
だが――
脳裏に、さきほどの顔が焼きついている。
戻っていた。
確かに。
“人だった”。
――まだ、救えるかもしれない。
その迷いが、指先を鈍らせる。
踏み出す影が、迫る。
距離が――消える。
その時。
背後で、小さく息を呑む音がした。
リリスだった。
唇を強く噛みしめ、
震える手で、胸元を押さえている。
踏み出せない。
あれが、もう戻らないものだと分かっていても。
手が、わずかに前へ出て――止まる。
それでも――
目を逸らせなかった。
すがるように、
リアンの背中を見つめている。
「……リアン、お兄様……」
消え入りそうな声。
止めることも、背中を押すこともできないまま。
ただ、そこにある。
揺れる想いだけが。
その隣で。
ティアラは、動かなかった。
白金の光が、わずかに揺れている。
手を伸ばしかけて――止まる。
光だけが、行き場を失ったように揺れていた。
背に浮かんでいた光の羽が、
ひとつ、またひとつと、ほどけるように消えていく。
指先が、わずかに震える。
踏み出せないまま、時間だけが過ぎていく。
距離が、詰まる。
もう――届かない。
それが、はっきりと分かる。
――間に合わない。
「……割り切れ、リアン」
クラウスの低い声が、落ちた。
迷えば、救えないものが増える。
それを、クラウスは知っている。
小さく、息を吐く。
次の瞬間。
クラウスの声が、わずかに落ちる。
「――無刃・虚軌断」
何も、起きなかった。
――はずだった。
次の瞬間。
最前列の一体が、ずれた。
横に。
わずかに。
遅れて――
その上半身が、滑り落ちる。
音もない。
光もない。
ただ、断たれていた。
崩れる。
だが――
血は、流れない。
切断面から滲み出るのは、
濁った光だけだった。
「……っ」
リアンの視界が、揺れる。
クラウスの声が、背後から落ちた。
「救えない命もある」
振り返らない。
ただ、前を見据えたまま。
次の標的へと、踏み込む。
その横を――
風が、走った。
ルカの唇が、わずかに動く。
「――風断・颶裂」
鋭く圧縮された風刃が、空間を裂く。
首元を、正確に断ち切る。
一体。
また一体と。
倒れていく。
濁った光が、霧のように散る。
それでも――
止まらない。
後列の“それら”が、
同じ歩調で、距離を詰めてくる。
「……たすけて」
声だけが、残る。
揃ったまま。
変わらずに。
リアンの喉が、わずかに震えた。
手が、動かない。
分かっている。
もう――戻らない。
それでも。
あの一瞬が、離れない。
助けられたはずの可能性が、
指の間から、零れ落ちていく。
その感触だけが、残る。
胸の奥に、
鈍く、沈んでいく。
――遅い。
クラウスの声が、重なる。
次の瞬間。
風と光が、交差した。
残っていた“それら”を、
一気に、薙ぎ払う。
動きが、止まる。
崩れる。
声が――消える。
静寂が落ちる。
何も、残らない。
ただ。
リアンたちは、踏み出せなかった。
それぞれの迷いを、抱えたまま。




