第52話 その手は、救いを求めていた
重い空気が、その場に沈んでいた。
誰も、すぐには動かなかった。
鼻の奥に残る、あの匂い。
言葉にしなくても分かる。
――すでに、遅れている。
エルフィナは、わずかに視線を伏せた。
「危険だとは……思うけれど……」
言葉が、かすかに揺れる。
それでも、顔を上げる。
他に、頼れる者がいないと知っているからこそ。
逃げない意志だけは、はっきりとそこにあった。
「行こう」
クラウスが、静かに言った。
ティアラが、小さく頷く。
リリスが一歩前に出る。
「……お母様、心配しないで」
柔らかな声。
けれど、その奥には確かな強さがあった。
エルフィナの瞳が、わずかに揺れる。
リアンは、ゆっくりと息を吐いた。
鼻の奥に残る、あの匂い。
――広がる。
放置すれば、いずれ手がつけられなくなる。
このままでは、被害は王城全体に及ぶ。
――その前に、止める。
そう分かっていた。
ルカは一度だけ目を伏せ――何も言わず、歩き出す。
全員の足が、自然と揃う。
クラウスを先頭に、採掘場へ向かって進み出した。
◆
王城を離れ、丘を下る。
空は、すでに夜に沈み始めていた。
風が、低く流れる。
その中に――
微かに混じる、異質な気配。
リアンは、わずかに眉をひそめる。
――近い。
進むほどに、それは濃くなる。
やがて――前方に揺らぐものが見えた。
金色の霧。
淡く光を帯びながら、ゆらゆらと漂っている。
だが――どこか、歪んでいる。
光なのに、濁っている。
ルカが足を止めた。
一瞬、風を読むように視線を細める。
「――風よ、我に従え。道を拓け」
低く、短く。
次の瞬間――
背後から風が流れた。
前方へと押し出すような、強い追い風。
霧が弾かれ、道が開く。
「さすがだな」
クラウスが、軽く口角を上げる。
ルカは視線を前に向けたまま、短く言う。
「……流れを作っただけだ」
そのまま、歩き出した。
◆
採掘場の入口に辿り着く頃には、辺りは完全に夜に沈んでいた。
洞窟の奥から、かすかに光が漏れている。
たいまつの火だ。
だが――
その奥に、霧がある。
金色の靄が、ゆっくりと揺れている。
中へ、足を踏み入れる。
空気が重い。
吸い込むだけで、喉の奥に違和感が残る。
数歩進んだ、その時――
作業員の一人が、壁に手をついたまま動かない。
呼吸が浅い。
視線が定まらない。
足元が、揺れる。
――初期症状か。
さらに奥。
倒れている者の数が、目に見えて増えていた。
身体が震えている。
呼吸は荒く、時折びくりと痙攣する。
その中には――
ゆっくりと、こちらへ手を伸ばす者もいた。
焦点の合わない瞳。
何かを訴えるように、口が動く。
だが、声にはならない。
――症状が進行している。
リアンの視線が、奥へ向く。
霧が、濃くなる。
空気が、重くなる。
――このまま進めば、同じ状態になる。
確信があった。
その時。
ティアラの足が、わずかに止まった。
呼吸が、乱れる。
胸を押さえるように、小さく息を吸う。
リアンは一歩寄り、無言のまま肩を差し出した。
ティアラの体が、静かに寄りかかる。
かすかな重みが、肩に乗った。
そのまま、支える。
視線が合う。
苦しげな呼吸の中で――
ティアラが、かすかに笑った。
大丈夫だと、言うように。
その直後。
クラウスが足を止めた。
「これ以上は、このままじゃ危ないな」
静かな声。
クラウスは、わずかに目を閉じた。
指先で、素早く印を結ぶ。
「――閉域。外界断絶」
その瞬間――
目が開く。
同時に、空気が震えた。
淡い光が円を描き、一人ずつ包み込む。
透明な球体が、静かに閉じた。
外気が、遮断される。
音が、遠のく。
「結界だ。完全には防げない。だが、これ以上の毒の濃度は遮断できる」
クラウスが淡々と言う。
この先の濃度を思えば、まだましだ。
閉じ込めた空気。
この中にも、毒は含まれている。
そして――外へは逃げない。
呼吸を重ねるほどに、酸素だけが削られていく。
隣で、ティアラの肩から力が抜けた。
リアンの腕に預けられていた重みが、わずかに軽くなる。
ティアラが、小さく息を整える。
そして――
そっと、自分の足で立ち直った。
支えていた手が、自然と離れる。
閉じた空気。
いずれ、酸素が尽きる。
わずかに、息が浅くなる。
リアンはそれを感じ取る。
それでも――進む。
歩幅が、自然と広がる。
足音が、わずかに速くなる。
止まれば、終わる。
ティアラも、遅れまいと一歩を速めた。
閉じた空気が、少しずつ減っていく。
◆
さらに奥へ――急ぐ。
洞窟の奥へ進むほど、空気は重く濁っていた。
――違う。
それは、ただの空気ではない。
かつて“人だったもの”の残滓が、満ちている。
壁際に、いくつも影があった。
人の形をしている。
だが、その輪郭は崩れ、境界が溶けたように曖昧だった。
――一体ではない。
複数。
それぞれが、わずかに蠢いている。
皮膚は灰のように濁り、顔だったはずの部分は沈み、どこまでが肉でどこからが空気なのか判別できない。
それでも――
そこに、“誰かだった面影”が残っていた。
口と思しき裂け目が、わずかに動く。
手が、ゆっくりと持ち上がる。
こちらへ。
まるで――
縋るように。
そのうちの一つが、ゆっくりと顔を上げた。
「……た、す……け……」
掠れた声。
その瞬間。
沈んでいた“目”が、わずかに開いた。
濁りきったその奥に――
一瞬だけ、正気が灯る。
助けを求める、人の目。
だが次の瞬間。
それは、内側から弾けるように濁りに呑まれた。
裂けた口が、大きく開く。
内側に、濁った金の光が満ちる。
そして――放たれる。
一直線に、ティアラへ。
「――ッ!」
リアンがティアラの前へ踏み出す。
守るための、一歩。
だが――
その刹那。
リアンの指先に、氷の魔力が集まる。
反射的に。
成れの果てを――撃ち抜こうとしていた。
だが。
脳裏に、さきほどの目がよぎる。
助けを求める、人の目。
――まだ、人だ。
――切り捨てていいものじゃない。
だが――
このままでは、守るべきものすら失う。
指が、止まる。
一瞬の、躊躇。
指先に集まった魔力が、行き場を失ったまま震える。
そのわずかな遅れを埋めるように――
「リアンお兄様――!」
白銀の影が割り込む。
リリスが、リアンを庇うように前へ出る。
さらに――
「させない」
風が唸った。
ルカの魔力が弾け、空間の流れが歪む。
光の軌道が、わずかに逸れた。
直撃は外れる。
それでも、余波が迫る。
――次の瞬間。
リアンの指先が、静かに空を切った。
「――静寂よ、地を凍てに。動きを断て」
冷気が走る。
床が白く染まり――
成れの果ての足元を、氷が絡め取った。
動きが止まる。
凍結は、破壊ではない。
拘束。
かつて人だったものを、これ以上壊さないための選択。
光は壁を抉り、洞窟に鈍い反響を残した。
――静寂。
だが。
それは、終わりではなかった。
凍りついた成れの果ての周囲で、空気が揺れる。
壁際にいた成れの果てたちが――
ゆっくりと、動き出した。
這うように。
引きずるように。
音もなく、距離を詰めてくる。
その動きに、意志は感じられない。
ただ――
“引き寄せられている”。
やがて、一体が――
凍りついた成れの果てに触れた。
止まったはずの口が、なおも動く。
「……たす、け……」
境界が、崩れていく。
それは、もはや“成れの果て”ですらなかった。
個ですらない。
触れた部分から、氷ごと溶けるように――
飲み込まれていく。
「……ッ」
リアンの視線が鋭くなる。
止めるべきだと、理解している。
だが――
遅い。
別の成れの果てが、重なる。
さらに、もう一体。
凍りついた成れの果てを中心に、次々と絡みつく。
溶ける。
混ざる。
区別が、消えていく。
やがて――
ひとつの塊へと収束していく。
それは膨れ上がり、歪みながら――
巨大な塊となる。
球体に近い。
だが、完全ではない。
表面は脈打ち、波打ち、絶えず形を変え続けている。
見ているはずの形が、定まらない。
次の瞬間には、
さっきまで見えていた輪郭が、消えている。
そして――
顔は、ない。
その代わりに。
無数の“口”が、全身に散らばっていた。
どれもが、同時に息を吸い――
次の瞬間。
「……たすけて……」
声は、揃っていた。
一つ残らず、同じ音で。
その声は――
先ほどまで、そこにいた者たちのものだった。
そして。
同時に、白く濁った光を――孕む。
――理解できるはずがなかった。
それが、何なのかすら分からない。
その異形を前に。
肺が、軋む。
吸っているはずなのに、満ちない。
呼吸のたびに、確実に削られていく。
視界が、わずかに揺れた。
結界の中の空気は、もう限界に近い。
誰も、声を出さない。
――出せない。
呼吸のたびに、肺が焼ける。
リリスの呼吸が、わずかに乱れていた。
小さく肩が上下している。
ティアラの足元が、ほんの僅かに揺れる。
踏みしめる力が、弱い。
ルカは無言のまま進んでいるが――
その呼吸は、明らかに浅い。
クラウスの結界が、微かに軋む。
維持に割かれる集中が、空気を削っている。
誰も、言葉にはしない。
だが――
全員が、限界に近づいていた。
意識が、かすかに霞む。
呼吸が、追いつかない。
そのはずなのに――
空間は、それ以上の“圧”で満たされていた。
限界まで、膨れ上がっている。
無数の口が、同時に開ききる。
裂けるほどに。
内側に溜め込まれた、白く濁った光が脈打つ。
ひとつではない。
すべての口が、同じ瞬間に。
濁りきった光を、抱えきれずに膨張していく。
収まらない。
押し留めきれない。
空間が、軋んだ。
結界ごと、押し潰されるような圧。
――限界だ。
クラウスの結界が、微かに軋む。
だが――次の瞬間、歪みは押し返される。
見えない圧を、正面から受け止めている。
呼吸は、もう残っていない。
それでも。
目を逸らすことだけは、できなかった。
なぜなら――
そのすべてが。
同時に。
こちらへ向けられていたからだ。
そして。
次の瞬間――
白く濁った光が、世界を侵食した。
音も、形も、境界すらも――すべてを呑み込みながら。




