第47話 夢の中でしか言えない言葉
ちり。
澄んだ音が、静かにほどける。
柔らかな光が、窓から差し込んでいた。
小さな木の家。
白いテーブルクロスのかかった食卓。
温かな湯気が立つ料理の匂いが、部屋いっぱいに広がっている。
リアンと、小さな子供が椅子に座っていた。
淡い白金色の髪の少年。
まだ幼いが、どこかリアンに似た面影がある。
リリスは、少し離れた場所に立っていた。
どうして自分がここにいるのか、分からない。
けれど、この光景を見ているだけで、胸が静かに温かくなる。
リアンが皿を取り分けながら言った。
「リリス、早く来て。一緒に食べよう」
その声は、いつもの冷静な響きのままなのに、どこか柔らかかった。
少年が振り向く。
「お母さん、早く!」
――お母さん。
胸の奥で、何かが弾けた。
少年は当たり前のように続ける。
「お父さんも待ってるよ!」
視線が、リアンへ向く。
リアンは何も言わず、ただ静かにリリスを見ていた。
その視線だけで、すべてが伝わる気がした。
胸が、強く鳴る。
ここは――。
私と、リアンお兄様が。
夫婦で。
この子は――。
リリスの頬が、ふっと緩む。
胸の奥から、信じられないほどの喜びが湧き上がる。
こんな未来が、もし本当にあるなら。
こんな日々が、続くなら。
それだけでいい。
椅子に座ると、少年が嬉しそうに笑った。
「いただきます!」
三人で、食卓を囲む。
それだけのことなのに、胸が満たされていく。
少年が無邪気に言う。
「お母さんのごはん、おいしいね!」
リリスは小さく笑った。
「……ありがとう」
リアンが、ふっと視線を上げる。
その瞳が、まっすぐリリスを見つめた。
そして、静かに言う。
「リリス」
名前を呼ばれただけで、胸が跳ねる。
リアンは、少しだけ目を細めた。
ほんの一瞬。
優しく微笑んだ。
「愛してる」
世界が、止まった気がした。
――愛してる。
その言葉を、リアンの口から聞く日が来るなんて。
胸がいっぱいになり、視界が滲む。
こんな幸せがあるなら。
このまま、この時間が続けば――。
そのとき。
胸の奥で、冷たい違和感が生まれた。
リアンお兄様は。
私のことを、妹としてしか見ていない。
なのに。
どうして。
こんな言葉を――。
リリスの視界が、わずかに揺らぐ。
足元に。
一輪の白い花が咲いた。
それは、静かに増えていく。
二輪。
三輪。
気づいたときには、床一面に広がっていた。
白い花は、静かに咲き続ける。
テーブルの脚に絡み。
椅子を覆い。
やがて、リアンの足元へ。
花が、彼を包み始めた。
リリスは、震える声で呟く。
「……ここは」
リアンの姿が、白い花に埋もれていく。
その表情が、もう見えない。
胸が痛いほど分かっていた。
これは。
夢だ。
こんな未来は、存在しない。
リリスの瞳に、涙が溜まる。
それでも、言葉は止まらなかった。
「……リアンお兄様」
震える声で、呟く。
「好きです」
それは。
ずっと胸にしまっていた気持ち。
きっと、この声は届かない。
一瞬、子供がリリスを見上げた。
小さな声で言う。
「お母さん」
一瞬だけ。
この時間が、永遠に続けばいいのにと思った。
胸が、苦しいほど締めつけられる。
その言葉は、きっと――
夢の中でしか、許されない。
足元から、白い花が溢れ出す。
それは瞬く間に、世界を覆い尽くしていく。
壁が崩れ。
空が砕け。
光が、粉のように散っていく。
子供が、最後にリリスを見上げた。
小さな声で言う。
「泣かないで」
最後の言葉が、静かに届いた。
「また会えるよ」
その瞬間。
世界が、白く崩れた。
ちり、と。
澄んだ音が、響く。
リリスは目を開けた。
白が砕け、光が落ちる。
視界に広がるのは――白。
地面を埋め尽くす、無数の花。
リリスはまだ、横たわったまま。
ゆっくりと顔だけを横に向ける。
すぐ近くで。
リアンがしゃがみ込んでいた。
腕の中には、ティアラ。
胸の奥で、夢の余韻と痛みが交錯する。
それでも。
目の前の現実は、確かだった。
さっきまでの温かな食卓は、どこにもない。
そのとき。
「……リリス?」
クラウスの声だった。
その声に、リアンとルカも顔を上げる。
リリスは、リアンの腕に抱かれたティアラから視線を離した。
頬を、何かが伝う。
指で触れて――それが涙だと気づく。
そっと、ぬぐった。
そのとき。
袖口から、白い花弁がひとつ落ちた。
はらり、と揺れて。
地面に触れる前に、淡い光となって砕ける。
リリスは、少しだけ目を見開いた。
腕に絡みついていた白い花が、静かにほどけていく。
花弁は、ひとつ、またひとつと崩れ、
淡い光となって空気に溶けていった。
夢の残り香のように、
白はやがて、何も残さず消えた。
それから、ゆっくりと体を起こす。
そして、クラウスを見る。
「……クラウスお兄様」
かすれた声だった。
リアンが、ほっとしたように息を吐く。
「……起きてよかった」
ルカも安堵したように言う。
「よかった……本当に」
そのとき。
リアンの腕の中。
ティアラの指先が、わずかに動いた。
音が、聞こえない。
あの澄んだ音が、どこにも。
――ちり。
ようやく響いた音は、かすかに歪んでいた。
夢が壊れ始める前のような、不吉な響き。
そして――
もう一度、ちり、と音が重なった。




