第43話 月の下の決意
やわらかな朝の光が、廊下の石床を淡く照らしていた。
リアンはティアラの部屋の前で足を止め、静かに扉を開ける。
寝台が、空だった。
胸が一瞬、強く鳴る。
だが――
窓辺に、ティアラは立っていた。
差し込む光を浴び、淡い髪が透けるように揺れている。
背筋はまっすぐに伸び、その姿に昨日までの弱さはない。
物音に気づき、振り向く。
「おはよう、リアン」
声は澄んでいる。
リアンはわずかに息を吐いた。
「……起きて大丈夫なのか?」
「ええ」
穏やかに答える。
「もう大丈夫みたい」
その声に、胸の奥の緊張がゆるむ。
リアンは数歩近づく。
「昨日、迷いの森から戻った者がいると聞いた」
ティアラの瞳がわずかに動く。
「戻った……?」
「ああ。元近衛だ。北棟にいるらしい。話を聞きに行く」
沈黙が落ちる。
ティアラが静かに言う。
「私も行く」
声は静かだが、揺れていない。
リアンは彼女を見る。
一瞬、言葉を探す。
だが――その目は逸れない。
「……一緒に行こう」
ティアラが、小さく微笑んだ。
二人は並んで、北棟へ向かった。
◆
扉の向こうから、低い声が聞こえていた。
「……戻った者は、戻れたとは言わぬ」
リアンは扉を叩く。
「入れ」
中へ入る。
ラドールは椅子に腰掛け、剣を磨いていた。
刃はすでに曇りひとつない。
それでも、布を動かし続けている。
必要以上に、丁寧に。
クラウスが振り向く。
「リアン」
視線がティアラへ移る。
わずかに、その肩の力が抜けた。
リリスも、安堵したように息をつく。
ラドールの手が止まる。
ゆっくりと顔を上げる。
二人を一瞥し、静かに言う。
「用件は同じか?」
クラウスが答える。
「ああ。」
短い沈黙。
リアンが一歩進む。
「迷いの森について、教えてほしい」
そのとき。
ティアラが静かに口を開く。
「森で、元精霊王に会いましたか?」
部屋の空気がわずかに変わる。
ラドールの視線が、初めてティアラに定まる。
剣を持つ手が、わずかに止まる。
そして――
「姿は見ていない」
ラドールはゆっくりと言う。
「あの森は、偶然に生まれたものではない」
布を置き、剣を膝に乗せたまま続ける。
「誰かが、意図して作り上げた場所だ」
視線は逸らさない。
「その“誰か”が元精霊王かどうかは、わからぬ」
低く、確かに。
「だが、あれほどのものを作れる存在は――限られている」
言葉が、静かに落ちる。
ティアラは何も言わない。
ただ、まっすぐ見つめている。
リアンはその横顔を見る。
ラドールは小さく息を吐く。
「行くのだな」
ティアラは、静かに頷く。
ラドールは立ち上がらない。
代わりに、剣を布で覆いながら言う。
「目に映るものを、すべて真実と思うな」
ラドールの目が、遠い森を見るように細まる。
「森は……優しい」
その言葉だけが、静かに残った。
◆
エルフィナの私室は、柔らかな光に満ちていた。
重い扉が閉まると、城のざわめきは遠くなる。
通されたのは、リアン、ティアラ、リリス、クラウスの四人。
エルフィナは立ち上がり、静かに彼らを迎えた。
「どうしたの、リリス」
穏やかな声。
リリスが一歩前に出る。
「お母様。迷いの森について、何か知っていることがあれば教えてほしい」
まっすぐな声だった。
エルフィナの指先が、わずかに止まる。
「……迷いの森?」
視線が四人を順に見渡す。
「そこへ行くの?」
問いは静かだ。
リリスが頷く。
クラウスも、リアンも否定しない。
ティアラもまた、視線を逸らさない。
エルフィナは小さく息を吐いた。
それ以上は問わない。
「昔、森の近くを通ったことがあるの」
椅子に腰を下ろし、ゆっくりと語り始める。
「夕暮れだったわ」
視線は遠く。
「森の奥に、光があったの」
誰も動かない。
「人のように見えた」
声は淡い。
「でも、地に立っているようには見えなかった」
断定はしない。
「その光は、森の奥へ吸い込まれるように消えたの」
リリスが小さく息を呑む。
エルフィナは首を振った。
「夢だったのかもしれないわ」
誰もすぐには言葉を継がない。
そのとき。
エルフィナの視線が、ティアラに止まる。
かすかな光の揺らぎ。
強くはない。
だが、確かにある。
あの夕暮れに見た光と、どこか似ている。
初めてティアラに会ったとき、胸にわずかに残った違和感。
あれは、この揺らぎだったのだ。
その確信を、胸の奥にしまう。
エルフィナは何も言わない。
ただ、柔らかく微笑んだ。
「それでも、行くのね」
ティアラは静かに頷く。
エルフィナはゆっくりと立ち上がった。
「必ず帰りなさい」
ティアラが静かに頭を下げる。
リリスは母をまっすぐ見つめ、ひとつ頷いた。
クラウスは軽く礼をする。
リアンは何も言わず、視線を落とした。
重い扉が閉まる。
廊下に出ても、誰もすぐには口を開かなかった。
◆
ルカの部屋を訪ねると、返事はすぐにあった。
扉を開けると、ルカは窓辺に立っていた。
外を見ている。
夕暮れの光が、その横顔を淡く照らしていた。
足音に気づき、ゆっくりと振り返る。
リアンが言う。
「明日、迷いの森へ行く」
言葉が部屋に落ちる。
ティアラが強く頷いた。
「行こう」
迷いのない声。
リリスも続く。
「私も」
ルカの視線が、わずかに揺れる。
そのとき。
クラウスが一歩前に出た。
「きっと、ここにいるよりいい」
低い声。
「ルカも一緒に行くぞ」
そう言って、ルカの頭にそっと手を置く。
ルカの肩がわずかに揺れる。
そのまま、ゆっくりとクラウスを見上げた。
一瞬だけ、視線が合う。
言葉はない。
だが、そこにあるのは強制ではないと分かる。
ルカは小さく、ほんのわずかに頷いた。
クラウスは手を離す。
リアンは黙ってその様子を見ていた。
ルカが目を逸らさなかったことに、わずかに安堵する。
◆
昼の喧騒が嘘のように、城は静まり返っていた。
風の抜ける露台に、二つの影が並んでいる。
月明かりが石床を淡く照らし、夜気が静かに頬を撫でた。
ティアラは手すりに指をかけ、空を見上げる。
「いよいよ明日だね。元精霊王に会えるかもしれない」
その声は明るい。
けれど、わずかに硬い。
リアンは隣に立ったまま、同じ夜空を見上げる。
「お母さんがもとに戻る方法、見つかるといいな」
奇跡とは言わない。
方法。
それしかないと分かっている。
ティアラは強く頷いた。
「うん」
答えは迷いがない。
だが、そのまま月を見つめたまま、小さく息を吐く。
「……怖くないって言ったら、嘘になる」
夜風が髪を揺らす。
リアンは横目でその横顔を見る。
震えてはいない。
それでも、強がっているわけでもない。
ただ、正直なだけだ。
「わかってる」
それだけを返す。
励ましも、否定もしない。
受け止める。
しばらく、風の音だけが続いた。
遠くで夜鳥が鳴く。
ティアラが、少しだけ笑う。
「リアンがいてくれて、よかった」
胸の奥が、静かに熱を帯びる。
視線を逸らさないまま、息を整える。
「俺は」
言葉を飾らない。
「ずっと側にいる」
約束のように言わない。
誓いとも違う。
ただ、そう在ると告げる。
ティアラの呼吸が止まる。
ほんの一瞬。
月明かりの中で、瞳が揺れた。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
そして、柔らかく微笑んだ。
「うん」
触れそうで、触れない距離。
それでも、昨日より近い。
リアンは夜空を見上げる。
(月は、変わらない)
迷いの森が何を隠していようと。
彼女が望むなら、隣に立つ。
それだけは揺るがない。
隣で、ティアラも月を見上げた。
明日は来る。
そして――
二人は、目を逸らさなかった。
明日へ向けて。




