第42話 月の下の決意
やわらかな朝の光が、廊下の石床を淡く照らしていた。
リアンはティアラの部屋の前で足を止め、静かに扉を開ける。
寝台が、空だった。
息が止まりかける。
だが――
窓辺に、ティアラは立っていた。
差し込む朝日に、淡い髪が透ける。
昨日の弱さは、もう見えなかった。
物音に気づき、振り向く。
「おはよう、リアン」
声は澄んでいる。
リアンはわずかに息を吐いた。
「……起きて大丈夫なのか?」
「ええ」
穏やかに答える。
「もう大丈夫みたい」
リアンは、ようやく息を吐く。
数歩、ティアラへ近づいた。
「昨日、迷いの森から戻った者がいると聞いた」
ティアラの瞳がわずかに動く。
「戻った……?」
「ああ。元近衛だ。北棟にいるらしい。話を聞きに行く」
沈黙が落ちる。
ティアラが静かに言う。
「私も行く」
その声は、止まらなかった。
リアンは彼女を見る。
一瞬、言葉を探す。
だが――その目は逸れない。
「……一緒に行こう」
ティアラが、小さく微笑んだ。
二人は並んで、北棟へ向かった。
◆
扉の向こうから、低い声が聞こえていた。
「……戻った者は、戻れたとは言わぬ」
リアンは扉を叩く。
「入れ」
中へ入る。
ラドールは椅子に腰掛け、剣を磨いていた。
曇りひとつない刃を、それでも磨き続けている。
クラウスが振り向く。
「リアン」
視線がティアラへ移る。
わずかに、その肩の力が抜けた。
リリスも、安堵したように息をつく。
ラドールの手が止まる。
ゆっくりと顔を上げる。
二人を一瞥し、静かに言う。
「用件は同じか?」
クラウスが答える。
「ああ。」
短い沈黙。
リアンが一歩進む。
「迷いの森について、教えてほしい」
そのとき。
ティアラが静かに口を開く。
「森で、元精霊王に会いましたか?」
部屋の空気がわずかに変わる。
ラドールの視線が、初めてティアラに定まる。
剣を持つ手が、わずかに止まる。
そして――
「姿は見ていない」
ラドールはゆっくりと言う。
「あの森は、偶然に生まれたものではない」
布を置き、剣を膝に乗せたまま続ける。
「誰かが、意図して作り上げた場所だ」
「その“誰か”が元精霊王かどうかは、わからぬ」
低く、確かに。
「だが、あれほどのものを作れる存在は――限られている」
言葉が、静かに落ちる。
ティアラは何も言わない。
ただ、まっすぐ見つめている。
リアンはその横顔を見る。
ラドールは小さく息を吐く。
「行くのだな」
ティアラは、静かに頷く。
ラドールは立ち上がらない。
代わりに、剣を布で覆いながら言う。
「目に映るものを、すべて真実と思うな」
ラドールの目が、遠い森を見るように細まる。
「森は……優しい」
その言葉だけが、静かに残った。
◆
エルフィナの私室は、柔らかな光に満ちていた。
重い扉が閉まると、城のざわめきは遠くなる。
通されたのは、リアン、ティアラ、リリス、クラウスの四人。
エルフィナは立ち上がり、静かに彼らを迎えた。
「どうしたの、リリス」
穏やかな声。
リリスが一歩前に出る。
「お母様。迷いの森について、何か知っていることがあれば教えてほしい」
まっすぐな声だった。
エルフィナの指先が、わずかに止まる。
「……迷いの森?」
視線が四人を順に見渡す。
「そこへ行くの?」
問いは静かだ。
リリスが頷く。
クラウスも、リアンも否定しない。
ティアラもまた、視線を逸らさない。
エルフィナは小さく息を吐いた。
それ以上は問わない。
「昔、森の近くを通ったことがあるの」
椅子に腰を下ろし、ゆっくりと語り始める。
「夕暮れだったわ」
視線は遠く。
「森の奥に、光があったの」
誰も動かない。
「人のように見えた」
声は淡い。
「でも、地に立っているようには見えなかった」
断定はしない。
「その光は、森の奥へ吸い込まれるように消えたの」
リリスが小さく息を呑む。
エルフィナは首を振った。
「夢だったのかもしれないわ」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
ふと、エルフィナの視線がティアラへ向く。
――あの光だ。
夕暮れの森が、脳裏を過る。
だが、何も言わなかった。
エルフィナは静かに目を細めた。
「それでも、行くのね」
ティアラは静かに頷く。
エルフィナはゆっくりと立ち上がった。
「必ず帰りなさい」
ティアラが静かに頭を下げる。
リリスは母をまっすぐ見つめ、ひとつ頷いた。
クラウスは軽く礼をする。
リアンは何も言わず、視線を落とした。
重い扉が閉まる。
廊下に出ても、誰もすぐには口を開かなかった。
◆
ルカの部屋を訪ねると、返事はすぐにあった。
扉を開ける。
ルカは窓辺に立っていた。
夕暮れの光が、淡い横顔を照らしている。
けれど、その目は、どこか遠かった。
リアンが口を開く。
「明日、迷いの森へ行く」
言葉が静かに落ちる。
ティアラが頷く。
「行こう」
迷いのない声。
リリスも続いた。
「私も行きます」
ルカは何も言わない。
ただ、 指先だけが、わずかに強張っていた。
――最後まで残ったやつだけだ。
昨夜、自分で口にした言葉が、まだ離れない。
沈黙を破るように、クラウスが一歩前へ出た。
「ルカも行くぞ」
ルカの肩が小さく揺れる。
クラウスは続ける。
「今のお前、一人にしとけない」
慰めるのではない。
ただ、置いていくつもりのない声だった。
クラウスはそっと、ルカの頭に手を置く。
「きっと、ここにいるよりいい」
ルカは俯いたまま動かない。
しばらくして。
ゆっくりと、クラウスを見上げた。
一瞬だけ、視線が合う。
逃がすつもりのない目だった。
ルカは、小さく頷いた。
クラウスは手を離す。
リアンは黙ってその様子を見ていた。
ルカが目を逸らさなかったことに、わずかに安堵する。
◆
昼の喧騒が嘘のように、城は静まり返っていた。
風の抜ける露台に、二つの影が並んでいる。
月明かりが石床を淡く照らし、夜気が静かに頬を撫でた。
ティアラは手すりに指をかけ、空を見上げる。
「いよいよ明日だね。元精霊王に会えるかもしれない」
その声は明るい。
けれど、わずかに硬い。
リアンは隣に立ったまま、同じ夜空を見上げる。
「お母さんがもとに戻る方法、見つかるといいな」
ティアラは強く頷いた。
「うん」
その答えは、迷いがない。
けれど、ティアラの指先は、手すりを少しだけ強く掴んでいた。
「……怖くないって言ったら、嘘になる」
ティアラは笑わなかった。
それでも、目は逸れない。
「わかってる」
それだけを返す。
リアンは、すぐには何も言わなかった。
しばらく、風の音だけが続いた。
遠くで夜鳥が鳴く。
ティアラが、少しだけ笑う。
「リアンがいてくれて、よかった」
胸の奥が、静かに熱を帯びる。
あの日を思い出す。
ティアラの“光の器”に、自分が選ばれた瞬間。
命を奪われるかもしれない繋がり。
普通なら、恐れるはずだった。
なのに。
リアンは、少しだけ嬉しいと思ってしまった。
――自分でよかった、と。
そう思った瞬間。
自分はもう、壊れているのかもしれなかった。
「俺は、ずっと側にいる」
離れるつもりが、最初からなかった。
ティアラの呼吸が止まる。
ほんの一瞬。
月明かりの中で、瞳が揺れた。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
そして、柔らかく微笑んだ。
「うん」
風が吹く。
肩が触れそうになって、けれど、どちらも離れなかった。
リアンは夜空を見上げる。
たとえ、それが呪いでも。
リアンは、彼女の手を離さない。
明日は来る。
それでも、二人とも目を逸らさなかった。




