第44話 軽すぎる手
ちり、と。
澄んだ音が、別の夢を揺らす。
「――クラウス」
低く、よく通る声だった。
目の前に立つのは、父上。
正装に身を包み、その背後にはアルシェ家の紋章を掲げた大旗が垂れている。
背後には広間。
高い天井。
並ぶ家臣たち。
静まり返った空間の中心に、自分がいる。
父上の低い声が、静まり返った広間を震わせる。
「本日をもって、お前をアルシェ家当主とする」
重い宣言だった。
それでも、胸は不思議なほど静かだった。
覚悟はとうに決めている。
父上が一歩、近づく。
「アルシェ家を頼んだぞ」
その一言が、胸の奥に落ちた。
ずっと欲しかった言葉だった。
喉が、わずかに熱を帯びる。
「……はい」
短く、強く頷く。
背後に視線を向ける。
父上の少し後ろ。
リアンがいる。
リリスがいる。
エルフィナもいる。
三人とも、静かに微笑んでいた。
祝福の場だ。
争いも、不安もない。
ただ、未来だけがある。
父上の手が、肩に置かれる。
温かい。
力強い――
……いや。
軽い。
軽すぎる。
父上の手は、もっと重い。
幼い頃、剣を握らされた日の感触。
肩を掴まれ、叱責された日の重み。
認められた夜、無言で置かれた掌の重さ。
あれは、こんなものではない。
「……」
静かな広間。
家臣は動かない。
風がない。
空気が揺れない。
それでも、このまま目を閉じれば。
何も疑わずに済む。
当主として、祝福され。
父上に認められ。
何も失わずに済む。
――楽だ。
だが。
軽い。
「……安いな」
ぽつりと、呟く。
期待した俺が馬鹿みたいだ。
……そんな顔で、今さら認めるなよ。
父上の表情が、わずかに歪んだ。
その指先に、白い花が咲く。
小さな花弁。
音もなく。
侵食は、腕へ這い上がっていく。
ただ静かに、命だけを奪うみたいに。
父上は動かない。
胸元を白が覆い、やがて喉元へと広がる。
背後で。
微動だにしなかった大旗に、白が滲んだ。
アルシェ家の紋章を縁取る線が、ゆっくりと花弁に侵されていく。
金糸がほどける。
紋章が、白に沈む。
垂れ下がっていた布は重みを失い、形だけを残して、やがて輪郭を曖昧にした。
白い花が、父上の顔へと届く。
瞳だけが、最後まで残った。
こちらを見ている。
だが、そこに重みはない。
叱責も。
誇りも。
覚悟も。
知っている目ではない。
ただの、形だ。
白が、静かに広がる。
瞳を覆う。
それでもクラウスは、瞬きひとつせず、目を逸らさない。
やがて――
父上は白い花そのものとなった。
風が吹く。
だが、散ったのは花ではなかった。
世界のほうだ。
父上の姿が、音もなくほどける。
花弁は舞わない。
世界だけが、静かに崩れていく。
家臣も。
家族も。
全部、触れれば壊れそうなほど軽かった。
やがて。
静寂だけが残った。
ちり、と。
澄んだ、小さな音。
クラウスは、ゆっくりと息を吐いた。
――欲しい未来なら、自分で選び取る。
◆
花弁が、クラウスの肩から滑り落ちる。
指先に触れた瞬間、淡い光となって崩れ、森の空気に溶けた。
それきり、白は残らない。
現実だ。
息を整え、視線を上げる。
最初に見えたのは、ティアラだった。
倒れた彼女の傍らで、リアンが顔を上げる。
視線が合った。
「……起きていたか」
短い確認。
クラウスはそれだけ告げ、視線を外す。
ゆっくりと身を起こし、周囲を見渡した。
ルカが倒れている。
その先に、リリス。
三人の身体に、白い花が咲いていた。
指先から。
頬の際から。
胸元から。
根を張るように、静かに広がる。
――止まっていない。
ティアラの鎖骨の下で、閉じていた蕾が、ひとつ開いた。
ちり、と。
小さな音。
止まらない。
ルカの喉元で、またひとつ。
リリスの手首にも。
侵食は、確実に進んでいる。
ふと。
上から視線を感じた。
クラウスは目を上げない。
花畑の奥。
不自然な起伏。
白の隙間から覗く骨。
朽ちた剣。
ここで目覚めることのなかった者たち。
「……趣味が悪いな」
低く吐き捨てる。
再び、眠る三人へ視線を戻す。
白は、止まらない。
「悪くない夢だった」
だが。
「逃げる理由にはならない」
ちり、と。
またひとつ、蕾が開いた。
時間が鳴る。
そのとき。
ルカの指先が、わずかに動いた。
夢の続きを求めるように。
ゆっくりと、唇がほどける。
その頬に。
白が、滲む。
小さな蕾が、皮膚を押し上げる。
ためらいもなく。
花弁が、開いた。
ちり。
冷たすぎる音だった。
ルカは、目を覚まさない。
白が咲いても。
ただ、幸せそうに笑っていた。




