第39話 母の国へ
馬車が、真横に並んだ。
激しく蹄を打ち鳴らしながら、もう一台が隣を走る。
距離は、もはや逃げ場と呼べるほどもない。
窓越しに、御者台の影がはっきりと見える。
木枠が軋み、風を裂く音が重なった。
その瞬間――
リリスの身体が強く跳ねた。
伏せていた耳が一気に立ち上がり、淡い紫の瞳が見開かれる。
視線は、隣の馬車へ。
◆
揺れる車内。
護衛に囲まれて座る、一人の女性。
白銀の尾が、朝靄を撫でた。
狐耳。
氷紫の瞳。
その姿を見た瞬間、 リリスの呼吸が止まる。
「……っ」
喉が震え、言葉にならない音が漏れる。
「お母様――!!」
叫びが、夜明け前の空気を裂いた。
リリスは座席から身を乗り出していた。
窓枠を掴む指が、白くなる。
淡い紫の瞳が、震えていた。
リアンは視線を隣の馬車へ向ける。
窓越しに、目が合った。
その瞬間。
女の瞳が、揺れた。
――エルフィナ。
リリスの母。
御者台から、鋭く息を呑む気配が伝わった。
車体の紋章を見て、 クラウスの目が細くなる。
「――アルシェ家の馬車だ」
クラウスの低い声が緊張を帯びる。
「止まれ!!
エルフィナ、馬車を止めろ!!」
手綱が強く引かれ、馬が嘶く。
並走していた二台の馬車が、ゆるやかに速度を落とす。
追っ手じゃない。
――敵じゃ、ない。
リアンは、ようやく息を吐いた。
やがて、二台の馬車はゆるやかに速度を落とした。
土煙が静まり、張り詰めていた空気がわずかにほどける。
クラウスが御者台から降りる。
同時に、隣の馬車の扉が静かに開いた。
先に護衛が地に降り立ち、周囲を確認する。
その後ろから、ゆっくりと一人の女性が姿を現した。
白銀の髪が、朝の光を受けて揺れる。
氷紫の瞳が、こちらを見た。
エルフィナは静かに地へ降り立つ。
すぐ前に停まる馬車。
その扉の奥に、リアンの姿がある。
氷紫の瞳が、静かに揺れた。
リアンは、ティアラへ一瞬視線を落とす。
「少し待っていてくれ」
小さく告げると、ティアラは不安そうに頷いた。
リアンは馬車を降りる。
続いてリリス、ユラも地面へ。
リリスは、躊躇いなくエルフィナへ駆け寄った。
「お母様……どうしてここに?」
その声には、再会の喜びと戸惑いが混じっている。
エルフィナは、小さく息を吐いた。
次に顔を上げたときには、 もう表情は崩れていなかった。
「王命を受け、ミストフォルンへ向かっている途中なの」
「あなたたちは……なぜここに?」
クラウスが一歩前に出る。
「ミストフォルンへ向かう途中だった」
短く、余計なことは言わない。
エルフィナの視線が、静かに移る。
馬車の窓の奥。
薄く身を横たえるティアラの姿。
その気配の弱さに、わずかに眉が寄った。
リリスが言う。
「お母様、ティアラの体調が良くないの」
エルフィナは、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
何かを察したように。
「……そう。ならば、しばらくミストフォルンの王城で休むといいわ」
柔らかな声音だった。
けれど、瞳だけは笑っていない。
そして、ゆっくりと視線を横へ。
ルカへ向けられる。
「そちらの方は……?」
静かな問い。
ルカは、にこりと笑った。
「僕はリアンたちの友達だよ」
一瞬。
リアンとクラウスが、同時にルカを見る。
ルカは笑みを崩さなかった。
――名乗る気はないらしい。
エルフィナの瞳が、わずかに細められる。
その一瞬だけ、空気が冷えた。
だが追及はしない。
「……そう」
風が、静かに草を揺らす。
そしてエルフィナは、改めてリアンを見る。
「話は、城で聞きましょう」
穏やかな声音。
だが、逃げ場はない。
リアンは小さく頷いた。
「……わかりました」
エルフィナは、わずかに微笑んだ。
「行きましょう。ミストフォルンは、すぐそこです」
再び馬車へ。
二台は並び、霧の向こうの国境へと進み出す。
◆
国境を越えた瞬間、 空気が変わった。
湿った森の匂い。
獣耳の子どもが駆け抜け、 尾を揺らした少女が笑う。
人と獣人が、 当たり前みたいに並んで歩いていた。
リリスの視線が、落ち着かなく揺れる。
行き交う耳や尾を、何度も目で追っていた。
母の母国。
なのに、見るもの全部が初めてだった。
リリスは、唇をきゅっと結ぶ。
ルカは窓の外を興味深そうに見つめている。
森と町が溶け合う景色に、隠しきれない好奇心が滲む。
クラウスだけは、景色を見ていなかった。
兵の配置。 城壁。 逃げ道。
無意識みたいに、目が動いている。
リアンは、ほとんど景色を見ていなかった。
視線は、馬車の奥。
──もう少しだ。
リアンは、何度もティアラの呼吸を確かめた。
指先が震えるたびに。
やがて馬車は、なだらかな丘を登りはじめる。
霧の向こうに、灰緑の城壁が浮かび上がる。
白いアストラル王宮とは違う。
森と土の色をまとった城だった。
――ミストフォルン王城。
巨大な門が目前に迫る。
石と木で造られた重厚な扉。
軋みを上げながら、 ゆっくりと開いていく。
霧が、流れ込む。
ミストフォルンの門が、開いた。




