第38話 致命的に遠い「あと少し」
夜気は冷たく、王宮の白壁はすでに闇に沈みかけていた。
遠くで灯りが揺れている。
リアンは足を止めなかった。
腕の中の重みだけが、世界の中心だった。
――まだ、遠くへ。
そう思う。
考えるより先に、足が前へ出ていた。
ティアラの呼吸は浅い。
腕に伝わる重みは変わらず、力が戻ったとは言えなかった。
──この速度じゃ、いずれ追いつかれる
視線を上げると、少し前を行くクラウスの背中があった。
「徒歩じゃ、いずれ追いつかれる」
クラウスが、前を向いたまま言う。
リアンは一瞬だけ頷く。
「追っ手が来る前に、少しでも距離を稼ぎたいね」
ルカの声は、わずかに早かった。
リリスは何も言わず、耳を伏せたまま周囲の闇を見ていた。
──時間は、そんなにない
リアンは胸の奥でそう繰り返す。
王宮に残ったユラとレイヴンの顔が、一瞬だけ浮かんだ。
――無駄にはできない。
「国境を越えよう」
その言葉は、思ったより静かに、だが迷いなく口をついて出た。
全員の視線が、リアンに集まる。
「アストラル王国の中にいる限り、追跡の手は伸びてくる。だが、国境を越えれば話は別だ」
ルカが眉をひそめる。
「獣人国か?」
リアンは頷いた。
「向こうに入れば、すぐには追ってこられない。
少なくとも、今夜のうちに捕まることはなくなる」
──迷いの森。
王家封蔵庫で見た名が、脳裏を掠める。
元精霊王。
――まだ、言えない。
「ティアラを、休ませたい」
リアンの一言で、場の空気が変わった。
リリスが、リアンの腕の中を一度だけ見る。
伏せていた耳が、わずかに揺れた。
「……異論はない」
答えたのは、ルカだった。
「じゃあ決まりだな」
クラウスが前を向いたまま言う。
「まずはここを離れる」
その直後、クラウスが顎で前方を示した。
「……馬車がある」
暗がりの中、外縁路に一台、静かに待機している影が見えた。
人の気配はない。
──助かった
胸の奥で、短くそう思う。
だが、立ち止まる理由にはならない。
腕の中で、ティアラが微かに身じろぎした。
その重みを、リアンは無意識に抱き直す。
――必ず、連れて行く。
どこへ向かうことになるとしても。
クラウスが手綱を取り、音を立てずに馬を動かす。
闇の中で、馬車は静かに進み始めた。
王宮の灯りが、ゆっくりと遠ざかっていく。
リアンは振り返らなかった。
◆
夜が明けるまで、クラウスは馬車を走らせ続けた。
速度を落とすことなく、ただ前へ。
馬車の奥、リアンは座席に背を預けていた。
その肩に、ティアラが寄りかかるようにして眠っている。
呼吸は浅い。
それでも、眠れていた。
──少しは、休めている
リアンは身じろぎしないよう、身体を支えたまま窓の外を見る。
夜の色は薄れ、空の端が白み始めていた。
向かいの座席には、ルカとリリスが並んで座っている。
ルカは肘を膝に乗せ、組んだ指に視線を落としていた。
目を閉じることはなく、静かに呼吸を整えている。
落ち着いているように見えて、その肩口にはわずかな強張りがあった。
……なのに。
気づけば、視線はリアンへ向いてしまう。
ティアラを抱いたまま、窓の外を睨む横顔。
気づけば、また目で追っていた。
ルカは、そこで小さく眉を寄せる。
リリスは、一度も眠っていなかった。
耳を伏せたまま、時折、微かに動かしている。
視線が、何度もリアンの腕の中へと向かう。
ティアラが、リアンに寄りかかって眠っている姿。
リリスはそれを見て、何度も目を逸らした。
そのとき――
馬車が、急に加速した。
車輪が地面を噛み、荷台が大きく跳ねた。
身体が浮く。
次の瞬間、背中を座席に叩きつけられた。
ルカが顔を上げ、リリスの耳がぴくりと立った。
リアンは、即座に窓の外を見る。
後方。
一本道の先から、馬車が迫ってきていた。
速い。
異様なほどに。
──追ってきている?
距離が、目に見えて縮まってくる。
一息ごとに、逃げ場が削られていく。
逃げても、
逃げても、
距離が縮まる。
御者台から、クラウスの気配が張り詰めたのが伝わった。
手綱が強く引かれ、馬がさらに脚を伸ばす。
それでも、追ってくる馬車は減速しない。
腕の中で、ティアラが微かに動いた。
半分だけ目を開き、状況を確かめるように外へ視線を向ける。
リアンの腕に、力が入った。
窓の外では、朝の光が地平線を染め始めている。
霧の向こうに、国境線が見え始めていた。
──あと少し。
たった、それだけなのに。
遠い。
息を詰めても、距離は縮まらなかった。
後方から迫る馬車の影が、もはや見失いようのない距離まで来ていた。
クラウスの低い声が、風に混じって届いた。
「……追いつかれる」
次の瞬間、馬車の影が、はっきりと視界に入った。




